二十一話 運命の鎖を解き放て
剣崎巽。白峰乾を救うために廃墟へと乗り込んだ彼は、イシスを苦戦しつつも撃破するが、本性を露わにした乾の父を前に降伏を強いられる。しかし、巽はまだ残されている切り札を信じて待ち続けていた。
「さあ、審判の神よ。彼らに祝福を与えるんだ!」
男は天に手を掲げ、朗々と叫んだ。魔法陣に、誓言の刻まれたロープに、結晶体に創造力が流れ込んでいく。金色の影がはっきりと人間の形を描き、結晶は根元から天辺から罅割れていく。教会の鐘の荘厳な音色がホールに跳ね返り、祝福と審判の始まりを告げる。結晶の奥から現れた金色の影はハッキリとその姿を見せる。金属の骨格と歯車の肉を纏い、張り巡らされたチューブには赤黒い液体が流れる。顔無き仮面を被り、十字架の嵌めこまれた白い鎧を纏って処刑人の剣を腰に収める。炎の意匠が刻まれた両手を伸ばし、絶対にして無謬なる神は二人の括られたロープを握りしめる。刻み込まれた誓言が一文字一文字燃えていき、正義の炎が巽と乾へ近づいていく。男は満面の笑みを浮かべ、隣に立ち尽くす琴音を見つめる。
「さあ琴音、祝福しよう。二人が結ばれる瞬間を!」
琴音はぼんやりと他所を見つめていた。無言のまま、夫の言葉に応えようともしない。その目に微かな光を宿し、彼女は陰から不意に現れた黒装束の影を捉える。刹那、琴音は目を剥いて隣に立つ夫を足払いで床に捻り倒す。
「そんなこと、させない!」
叫んだ瞬間、影はホルスターから拳銃を抜き放ち引き金を引く。銀の光を残し、その銃弾は神の胸を貫いた。部屋を満たしていた鐘の音が乱れ、神の身体は見る間に崩れていく。
「二人を審判の神の子などにしない……この子は、私の宝だ」
拳銃を握りしめた黒装束の影は、ふわりとホールの中へと舞い降りる。瞬間、唖然と影を見上げる男から離れ、二人を縛るロープを断ち切り琴音は影の方へと駆け出す。そのまま彼女は銀の拳銃をコートの内ポケットから引き抜き、ばらばらと崩れていく神の前に立ち尽くす夫に向かって突きつけた。
「そして、貴方の手も、もう二度と汚させない!」
「ふむ……二人を解き放とうと君が策を練っているのは気付いていたが、やれやれまさか。そんな手段に手を染めるとはね」
男が起き上がりながら肩を竦めた瞬間、彼女に並び立つ影は不意に霧散して、彼女の身体に纏わりつく。後には、銀色の拳銃を構え、黒装束と仮面で素肌を全て覆い隠した琴音が静かな気迫を漲らせて立っていた。それを目の当たりにしたヴァルーは、思わず呟く。
「……ドッペルゲンガー」
「もう一人の自分。乾を愛するという思い……本心を、自らの影に託したという事か。それが外道だと知りながら」
能面のような無表情になり、男はぽつりと呟く。自らの愛を全て呼び戻した琴音は、男に銃を向け直し、静かに悲しみを燃やす。
「そうよ。審判の神にこの世をやり直させる。貴方の絶望の深さは痛いくらいにわかるけど、貴方は今、自分で自分が最も憎んでいることをしようとしている。私は、そんな事はさせない」
「何を言っているんだい、琴音。『リ・クリエーション』の完遂により、世界には完全な正義が実現されるんだ。もう、翔一や君の兄さんのような悲しい犠牲の生まれない世界が出来るんだ。私は自分を誇りこそすれ、後悔などするものか」
男は宙から呼び出した真っさらな本を手に取る。琴音は銃を構えたまま、一瞬悲しげに顔を男から背ける。しかしそれもつかの間、きっと顔を上げた彼女は、うらぶれた笑みを浮かべる男を真っ直ぐに見据えた。
「そう? だったら一緒に後悔しましょうよ。あなた」
仮面の奥に覗く鋭い白の眼光に、男は不敵に笑って本を開く。瞬間、金色の影から光を受け取った彼の身体は白いローブに包まれ、審判の神と同じ顔無き仮面を被る。
「やれやれ。君からのデートの誘いは何時ぶりだったろうかねえ?」
自嘲気味に呟き、男は光弾を琴音に向かって飛ばす。銀の銃弾で弾き返すと、そのまま弾筋を曲げてヴァルーを縛りつける檻を撃ち壊す。再び拳銃を男へと向けると、琴音は呆気に取られている乾達を見上げた。
「早く逃げなさい! 退路はもう確保してあるわ!」
「母さん……!」
乾は涙を浮かべる。仮面の奥に輝く瞳は、紛れもなくずっと彼女に注ぎ続けてくれた、厳しくも明るく優しい眼差しだった。ヴァルーは歯を食いしばると、呻きながら飛び出し巽の中へと入り込む。変身した二人は、乾を抱きかかえ、翼を広げて飛び出した。男は髪を掻き上げて捨て鉢に笑い、狂気の露わになった瞳で琴音を睨む。
「泣かせるねえ。今更良妻賢母ヅラするとは」
「好きに言いなさいよ。私だって、もっと早くに貴方を止めてあげるべきだったってことくらいわかってた。でもね、止められなかった……」
瞳が震え、涙が仮面を伝って流れる。その脳裏に、今まで過ごした日々が浮かび上がっては消えていく。いつか終わってしまうと分かっていても、このまま平穏無事に、乾の背中を見守りながら時は過ぎ行くと信じたかった。男は首を傾げると、琴音はうつむき、しゃくりあげながら悔悟とともに声を絞り出す。
「幸せだったから……。喩え仮初だって分かっていても、貴方と乾と一緒に暮らしてきた十五年は幸せだったから! 私は……私は棄てられなかった。取り返しの付かないところまで行くと、分かっていても……!」
男は鼻で笑う。そこには、永く共に歩み続けてきたかつての優しい彼の姿はどこにもない。
「やれやれ。肝心な所での甘さは相変わらずだねぇ。まあ、その甘さに私は助けられて来たんだがね」
「黙れ! 今日こそ私は、貴方を許し続けた甘さを棄てる!」
琴音は叫ぶと、男に向かって次々に銃弾を撃ち込む。魔力が掻き消えた儀式の間は再び暗闇に落ち、細い光が儚く跡を描いた。その銀色の弾丸は確かに男を貫いたが、その身には傷一つ付かない。
「無駄だよ。神に逆らうことは出来ない。神の前には、神を傷つけようとするどんな事象も無意味だ」
「やってみなきゃ、わからないでしょ!」
銀の弾丸を次々に撃ち込みながら、彼女はコートを翻して男に回し蹴りを放つ。しかしその一撃は空を切り、勢いに任せて強引にもう一度蹴りに行けば、強い斥力の前に受け止められてしまう。
「君の強い心は認めるが、時には認めなければいけない諦めもあるんだよ。琴音」
手にした処刑人の剣で男は薙ぎ払う。素早く身を伏せて躱すと、後ろ宙返りで間合いを取り直し、陰から一振りの槍を取り出す。
「……翔一はあの時も諦めなかった。巽くんは今も諦めなかった。私も、二人の為に諦めない!」
槍を高く掲げると、男に向かって鋭く振り下ろす。一歩男が退いたところを、琴音は刃を地面に叩きつけた反動で穂先を跳ね上げ、男の喉笛向けて切っ先を突き出す。唸りを上げる一閃を紙一重で避け、男は首筋で輝く槍の柄を、鼻を鳴らしながら撫でる。
「やれやれ。ロンギヌスの槍をも創り出してしまうか。君の創造力にはずっと助けられてきたな」
「紛い物だけどね。でもあなただって紛い物でしょ」
「威勢いいな。翔一を叱りまくってた頃の君を思い出すよ!」
風を切って飛び掛かった琴音に向かって男は鋭く光の刃を飛ばす。宙で胸を刃に貫かれた琴音は、影の中に溶け込み消え去る。剣を握りしめて立ち尽くす男の背後に、白い双眸が強い光跡を残して襲い掛かる。男は溜め息をつくと、身を翻し鋼鉄よりも固いその本の表紙で穂先を受け止める。
「悲しいよ。この世の外れをここで見た君が、進んでその力に手を伸ばすなんて」
「巽くんと乾を守る為だったら、何だってしてみせる」
男の嘆くような言葉も聞かず、彼女はにべも無く言い放つ。しかし男に、彼女の奥底に潜む悲壮な決意を隠すことは出来なかった。溜め息をつくと、彼女の幻影に向かって一閃を振り下ろす。
「……悲しいよ。よりにもよって選んだのがドッペルゲンガーとは。琴音だって、その代償は解っているだろうに」
「一人は二人になって終わる時に出逢う。出逢う時に終わる。それでも構わない。どうせ私達は、この世界で生きるには罪を重ね過ぎてる。あなただって、解っているんでしょ!」
「未来に罪なき世界を譲り渡すためには必要な事だよ。このままの世界が続けば、そう遠くない未来に人間は崩壊した正義の元に滅び去る。巽くんや乾も例外ではない」
男は踏み込んで次々に斬りかかった。それぞれの刃がすれ違い、仮面や衣を掠める。
「そうなる前に、この神の下で一つの正義が達成された世界に造り替えるんだ。この正義の下で生きられる人間だけを残す。それ以外に、人間を、巽くんや乾を生かす道は無い!」
本を開いて光の弾を自らの周囲に浮かべる。琴音は弾にぶつかる紙一重で足を止め、飛び退いて槍を構え直す。男はぬらりと振り向き、固く握りしめた拳を目の前に掲げて琴音を見据えた。
「ヒーローが死なないで済む世界を作るためなら、僕はどんな罪だって犯せる。……君だって、わかるだろう」
「そんなこと、翔一や美雪が望むと思うの? みんなで生きてきたこの街を守るのが私達の望みだったじゃない!」
「二人の望みに従っても、最早彼らを守ることは出来ない!」
激昂して男は叫ぶ。周囲に浮かべた光の弾を四方八方へ飛ばし、そのまま琴音に真っ直ぐ突っ込んでいく。光が暗闇を掻き消し、薄ぼんやりとした明るみに満たす。琴音は苦い顔をして、切り上げに袈裟切りを槍でどうにか捌いていく。男は一気に琴音の面前に迫り、全ての感情を覆い隠す仮面の奥からさえも伝わる絶望を叫んだ。
「琴音、私は……君ほどに強くないんだ!」
息を呑むと、琴音は再び足下の陰に解け込み、右手から放たれた光の束を躱す。そのまま背後から飛び出した彼女は、男が振り返るよりも速く、身体ごと躍り槍を薙ぎ払う。
「……っ」
苦悶にその顔を歪ませ、琴音は槍を握りしめる。首筋に触れた槍は、男の襟を僅かに切り裂いただけで、ぴたりと止まっていた。何の斥力が働いているわけでも無かった。琴音は捨て鉢に叫んで男に槍の柄で当て身を入れて突き飛ばす。へらへらと笑いながら、男は剣を握りしめて琴音を見つめる。
「結局捨てられないんだね。その甘さを」
「うるさいっ!」
琴音は涙声で叫ぶと、槍を滅茶苦茶に振り回し、男を力任せに叩きのめそうとする。そんな戦い方で男を打ち据えられる訳も無く、本の角で顔を殴られ、力無くよろめき倒れる。仮面に付けられた傷を押さえ、彼女はその場に沈む。男は肩を落とすと、剣を地面に突き立て、掌を天へと向けた。
「君が苦しむ姿はもう見ていられない……そろそろ終わりにしよう」
光がホールの天井に向かって放たれ、全てが明るみに晒される。影となった琴音に最早逃げ場はない。縫い付けられたように固まった彼女に向かって、男は容赦なく光の弾を撃ち込んだ。
火花が迸り、声も無く彼女は吹き飛んで壁に叩きつけられる。光は消え、再び儀式の間は暗闇へと落ちていく。満身創痍、骨を砕かれ臓腑を潰された彼女は、それでも起き上がる。どこにも焦点の合わない虚ろになった目を、ただかつて愛し、今でも愛している男へと向ける。男は俯き、そんな彼女から目を背けた。
「それが母の愛か。既に身体は死んでいるというのに。まだ立っていられるとは……」
「私は、まだ消えられない。私が愛したものを、救うために」
男は拳を握りしめると変身を解き、寂しそうな笑みを浮かべて彼女を見つめた。
「……琴音ちゃんと出会えてよかった。強くて、優しくて、それでもちょっと甘いところのある琴音ちゃんのことが、僕はずっと好きだった……」
透の言葉に、琴音は茫然と目を見開く。ちぐはぐで噛み合わない記憶の断片が、その時ぴったりと繋がる。仮面の奥の目を歪め、顔を背ける。
「バカだった……私は、本当にバカだ……」
「早く行くがいいさ。消える時くらい、娘の側に居させてあげるよ」
笑みを吹き消した男は冷酷に呟く。琴音はじろりと男を睨み付け、足の先から影に溶けて消え去った。
黙してその姿を見送った男は、踵を返して砕けた結晶の塊を見つめる。金色の靄が、結晶の上にぼんやりと滞留しているのみ、現世降臨の瀬戸際を狙われた審判者は再び不安定な姿を僅か留めるのみとなってしまった。その姿では、巽と乾に神の力を与えることもままならない。
「やれやれ。琴音も厄介な事をしてくれたな。回復に時間がかかってしまうな……」
――その必要はない――
金属が擦れあい、歯車が噛み合うような声がホール全体から響く。靄が再び人のような形を取ったかと思うと、地面に刺さっていた剣を自分の手元へと引き寄せ、男に向かって鋭く投げつけた。
「……そんな、馬鹿な」
細い呻き声と共に、男は胸に深々と突き刺さった処刑人の剣を見つめる。金色の靄は切れたロープを伝い、ゆらゆらと男に迫っていく。
――お前の計画は瓦解した。だがこの世に具現できたのはお前のお陰だ。その功績に免じ、お前を赦そう――
金色の靄が、のろのろと剣の柄に触れる。その瞬間に靄は剣へと吸い込まれ、刃もろとも男の中へと呑み込まれていった。喉が震えるだけで声にもならない断末魔。男は金色の靄を全て受け入れると、全身を震わせて変身を始める。
青銅の骨格の上に黄金の歯車を纏った器械仕掛けの無謬なる審判の神は、十字架を鎧の胸に輝かせ、聖火の紋様を籠手に刻む。目も鼻も口も耳も肌も、心を惑わす感覚は全て捨て去った無の仮面を被り、神は杖を握りしめる。
――今こそ神の国は実現される。正義の騒嵐に、神の凪を――
振るった杖で結晶を跡形も無く砕くと、神は杖で床を叩き、永久の闇の中へと飛び込んでいった。
『政府決定により、神凪市民全員の避難が開始されました。現在、神凪市全域にて交通規制が行われ、襲撃が集中している市街地を中心に市外への避難が進められています……』
携帯テレビの中には、淡々としたキャスターの顔が映っていた。自衛隊や警察が周囲を駆け回る中、カミナギアリーナの中では不安げな顔をして市外への避難を控えた人々が座っていた。顔を見合わせる会社の同僚、泣き出す子どもを宥める親、泰然自若としている老人、携帯で気を紛らわせる若者。彼らは様々に不穏な一夜を過ごしていた。
「君もここに来ていたのか」
テレビを握りしめてぼんやりとニュースを見つめていた彼女の肩をそっと大きな手が叩く。振り返ると、御垣が相変わらずの固い顔で彼女をじっと見つめていた。神木は慌てて立ち上がると、御垣に向かって深々と頭を下げる。
「こ、この前はありがとうございました。まさか、元署長の人があんなにギター上手いなんて知りませんでしたよ」
「若気の至りだ。君の曲は弾き易かったから何とかなった」
眉一本も動かさず、しかしちらりと顔を彼女から背けて呟く。神木は熱意の籠った視線を向けると、小さくガッツポーズを作って彼の横顔を見上げる。
「いえいえ。本当に格好良かったです。これからも機会があったら弾いてほしいくらいですよ」
「こんなオッサンに頼むことでも無いと思うがな」
「そんなこと無いですよ。御垣さんは、私以上にドラグセイバーへ思い入れ有るんですから。まさに私が求めるパートナーです」
言葉を選ばず褒めちぎろうとする彼女。一瞬満更でもなさそうな顔をしたが、すぐに渋面作って彼女のガッツポーズを手で下ろさせる。
「熱意は分かったから、物の言い方をちょっと選んでくれ」
「……ごめんなさい。でも本当に、私達が出来る事なんか応援くらいだと思うんです。今にもどんな敵が襲ってくるかしれないけど、きっとドラグセイバーが守ってくれるって、私も御垣さんも信じてるじゃないですか」
「まあ、な」
御垣の歯切れが悪い返事を聞きながら、神木はアリーナを見渡す。観客席も、フィールドも人で埋め尽くされている。その真っ只中に立っていると、嫌でもいつかぶつけられた罵詈雑言の嵐が蘇る。彼女は苦々しげに唇を噛んだが、ふと首を振ってライト輝く天井を見上げる。
「ですよね。本当はここには来たくなかったけど、でもここに来ることにして良かったなって思うんです」
御垣は首を傾げる。神木は微笑むと、腰に手を当てて息を吸い込む。
「もしまたイマジナリーが襲い掛かってきても、ここなら思い切り応援できるじゃないですか。みんなも巻き込んで」
「問題はその声が届くかだがな」
肩を竦めると、御垣はふと呟く。
「気持ちの問題ですよ、そんなの。だからもしそういう事になったら、ギターよろしくお願いします」
にっこり笑うと、神木は側に置いてあったギターをカバンごと御垣に差し出す。思い切り苦い顔をした彼だったが、彼女の真っ直ぐな眼差しに負け、静かに受け取った。
「仕方ない。本当に来たらな」
白峰古書店に戻った巽とヴァルーは、変身を解いて床に倒れ込む。無理を通し続けた身体は限界だった。乾も既に涙は枯れ果て、全く心の整理をつけられないまま放心して本棚にもたれかかっていた。異変を聞きつけた壮二郎は、慌てて二階からやってくる。
「乾! 巽くん!」
慌てて駆け寄ると、頬や腕に痣の残る乾の姿、真っ白な顔の巽を見て壮二郎は息を詰まらせる。僅かに身動ぎした乾の虚ろな顔を覗き込み、壮二郎はおもむろに尋ねる。
「どうしたんだ。何があった」
乾は壮二郎の顔を見つめると、そっと彼に向かって倒れかかった。祖父を抱きしめ、のろのろとした口調で彼女は呟く。
「お父さんがこの世界を壊そうとしてるの。それでお母さんも手伝ってたんだけど、それは見せかけで、私達を助けようとして、今もお父さんと戦い続けてて……」
話しているうちに彼女の呼吸は早まっていき、パニックへ陥りそうになる。壮二郎は彼女の背中を何度か叩くと、頭を撫でてそっと落ち着かせる。死んだ魚のような眼の乾を見つめ、壮二郎は静かに微笑んで見せる。
「もういい。とりあえず落ち着くことに集中しなさい」
「……うん」
乾は小さく頷くと、膝を抱えて黙り込み苦しげに目を閉じる。それから壮二郎は倒れっぱなしの巽を起こして二階へ連れていこうとする。彼の手を借りてどうにか身を起こした巽は、曇る壮二郎の横顔を見つめて尋ねる。
「お爺さん、避難はしなくていいんですか。どこも、避難の話でもちきりですけど」
「君や乾はどうせ避難するつもりも無いだろう。透も琴音もいない今、君達の面倒を見ることが出来るのはおじいちゃんしかおらんじゃないか」
「……確かに」
今まで見たことも無いような壮二郎の引き締まった頬に、巽は何も言えず黙り込む。すると彼はふわりと微笑み、励ますような口調でさらに続ける。
「だから、老いぼれの心配はいらない。その目を見るに、自分の進みたい道が見えたんだろう? ……昔の翔一達と、同じ目をしているよ」
「ええ。僕は、乾ちゃんのお父さんを、止めなくてはならない」
「ならその道だけを見据えていなさい」
巽が頷くと、壮二郎は温かく頷いた。その後ろで鱗がボロボロのヴァルーが這っていることには、声を掛けられるまで気が付かなかったが。
「おい、俺の方が重傷なんだ。助けてくれ」
「ああ、すまん。忘れとった」
ヴァルーをその腕に留まらせると、巽の肩を支え、ちらちらと乾を心配そうに窺いながら壮二郎は歩き出した。
「くそっ。存在が保てなくなってきてやがる。傷が深すぎたか」
傷の手当は受けたヴァルーだったが、その顔は晴れなかった。巽もその姿を見て息を呑む。ヴァルーの翼の先は、乾の部屋の中に溶け込みかけていた。
「あの時か……」
十字架がヴァルーに突き刺さる瞬間を脳裏に思い出し、巽は顔をしかめる。変身する時に、互いの存在は文字通り融け合う。今のヴァルーが、そう何度もその融合に耐えられるとは思えなかった。巽は顔をしかめ、感情を押し殺した声で尋ねる。
「まだ戦えるかい?」
「ああ。あの野郎をぶちのめすくらいなら出来るぜ。その後は知らねえ」
へらへらと、いつものように強がってヴァルーは答える。抜け殻のようになってぼんやり二人を見つめていた乾だったが、ヴァルーの言葉を反芻しているうちにやがて気を取り戻した。血相を変えて、彼女は欠伸をしているヴァルーに詰め寄っていく。
「待ちなさいよ。それって、消えちゃうってことじゃないの?」
「ああそうさ? どうしたんだよ」
事も無げに、小馬鹿にしたような顔でヴァルーは尋ね返す。乾は唇が白くなるほど噛みしめると、乱暴にヴァルーを掴み上げてその顔を睨みつけた。
「何当たり前みたいな顔してるの。消えるんだよ? ヴァルーはこの世から。何あっさり受け入れてるのよ!」
「だからどうしたんだよ。びびって消えたくねえ戦いたくねえって喚きゃいいのか!」
「何よその言い方! あんたみたいな奴でも消えられたくないのよ! ……これ以上、私の前から誰も離れて欲しくない……」
乾の言葉が揺れ、ヴァルーを掴む手が弱くなる。既に泣き腫らした目に一杯涙を溜めて、彼女は弱々しく崩れ落ちた。スカートの裾を握り締めて堪える彼女の肩に、巽はそっと手を重ねる。ヴァルーの仏頂面と乾の横顔を交互に見つめ、巽は呟く。
「ヴァルーはきっと、そんな優しさは望まない。辛いかもしれないけど……ここで逃げるのは彼にとっては有り得ない選択だ」
「そうだぜ乾。……やらせてくれ。俺だってせっかくの命は大切にしてえさ。でもな。俺は奴のやったことを否定してやらないといけないんだ。俺達は絶対に、そんな正義を受け入れられない理由がある。それを教えてやりたいんだよ。だから、頼む」
ヴァルーは乾を真っ直ぐに見つめると、翼を地面に着けて深々と頭を下げる。乾は目を閉じると、俯いたまま答えない。彼女にとっては、それが最大限の譲歩だった。巽は乾の肩を撫でて立ち上がると、ヴァルーをそっと肩に載せる。
「僕達は最初から共に戦うように仕組まれていたんだ。なら、最後も華々しく戦おう。僕は迷わないぞ。ヴァルー」
「ああ。俺も同じだ」
「……良く言って、くれた。……私は、とても、嬉しい……」
その時、巽の影から傷だらけの琴音が這い出してくる。肺が潰れて息も絶え絶えな彼女の姿に掠れた悲鳴を上げ、乾は慌てて彼女を抱き上げる。仮面の奥には、光を失い虚ろな白い瞳がぼんやりとあるだけだ。乾は彼女を掻き抱き、必死に叫ぶ。
「お母さん、お母さん!」
「……ちょっと、しくじったわ。ヴァルー、巽くん。こっちに来て……今、全てを教えるから……」
琴音は力なく笑うと、震える手を二人に向かって静かに差し出した。
その時、ヴァルーはまだ気づいていなかった。気づく由も無かった。琴音が自分に仕組んだ最後の切り札に。