二十話 僕は正義の味方じゃない
剣崎巽。彼は白峰乾を救うため、かつて神凪市を危機に陥れた事件が引き起こされた跡へと向かう。そこで白峰乾は帰りを信じて待っていた両親に裏切られて絶叫する。傷だらけで気を失った乾を前に、巽は怒りを抑えきれなかった。
「覚悟しろ。乾ちゃんを傷つけて、ただで消えられると思うな」
肩を怒らせ、二人は虹色の光沢を放つ長剣を構える。銀鱗が刺々しく輝き、廊下に光を反射させた。イシスは乾をガラクタの脇に放り出すと、再び鳶の頭と翼をもつ女神へと変身する。
「この娘の聞き分けが悪いから、少しお灸を据えただけよ」
「黙れ! 僕はお前を許さない!」
二人は目にも留まらぬ速さで駆け出し、立ち尽くすイシスに向かって当身をかます。しかしその瞬間に羽毛が飛び散り、イシスの姿は掻き消える。振り返るとイシスは宙に舞い、右手を羽毛に包まれた巽に向かって翳す。瞬間に羽根は水と変わり、彼を巨大な水の玉に呑み込む。二人はすかさず剣で水を弾き飛ばす。
僅かな隙。イシスは上空から次々と羽根を飛ばし、松明へと変え二人を襲わせる。盾を生み出して次々と松明を叩き落とし、翼を広げて彼も上空へと舞い上がる。イシスは引き寄せたガラクタを星光の宿る杖と変え、振り下ろされた剣を受け止める。羽根を飛ばして疾風のように襲い掛かる乱撃を受け止め、右手を二人に叩きつけた。刹那、二人は苦しみ呻き、その身体から激しい光を放つアンクが引き抜かれる。二人は力なく吹き飛ばされ、鋼鉄の床に投げ出された。起き上がる力さえも萎え、二人は昂然と宙に立つイシスを見上げる。
「てめえ……何しやがった!」
「我はイシス。生死を司る神。心配する必要はないわ。あなたの生気を頂いただけ。あんまりやんちゃされても困るのよ」
そう呟くと、イシスはアンクを脇に転がる巨大なスクラップに向かって投げつける。アンクがスクラップの中に溶け込んだ瞬間、スクラップはドロドロに溶けてドラグセイバーの形を取る。全身から煙を立てながら、その戦士は無言のまま二人に襲い掛かる。力を奪い取られ、ろくに剣も振るえない二人が自分に敵うわけもない。剣を奪い取られ、容赦なく斬りつけられる。銀鱗の鎧も今や張りぼて、鋭い傷跡を刻まれ止めに蹴りを受けて吹き飛ばされた。気を失った乾の傍まで転がされ、それでも闘志は絶えず、どうにか起き上がろうともがく。イシスはそんな二人の目の前に降り立ち、嘲り笑う。
「殺すことも出来るけど……それは同志の本意じゃないから止めておいてあげるわ」
「何だと……? どういう意味だ。乾の親父どもは何しようとしてんだよ! 答えろ!」
二人は叫ぶが、イシスは鼻で笑って二人を憂さ晴らしのように何度も踏み付ける。二人は抵抗もままならず、ただ苦痛に耐えて喘ぐばかりだ。
「こんな状況でも口だけは減らないか。見上げた根性だな」
「……私達と、審判の神のイマジナリーを一体化させて、生まれるクリエーションを用いて世界を造り替えるんだって」
何とか気を取り戻した乾が、薄目を開いてぽつりと呟く。愕然として、巽は乾の方に振り返る。馬鹿な。その言葉は喉元で引っかかり止まる。乾の悲しみに濡れた顔を見れば、嘘か本当かなど尋ねるまでも無かった。振り返ると、イシスは冷め切った目で二人を見下している。
「これが器だと? 何てみすぼらしい魂だ。娘は親に裏切られれば正義を見失い、男は自分の怒りに任せて他を捻じ伏せようとするだけ。その感情は同情するが……これが本当に、絶対の正義に相応しい創造力を持つ器だとでも言うつもりか?」
乾と二人が未だ心折れずに険しい顔、険しい目をしていても、イシスは構わず独り言ちる。生死を操る絶対の神の一柱として、権力と支配の象徴であり続けた彼女にとって、二人はあまりにも青く、身勝手で未熟だった。
しかし二人は首を振る。汝に正義無しなどという罵りは、とうに二人には通用しない。強気に舌打ちすると、光喪わぬ眼で眉間に皺寄せるイシスを見据えた。
「……はん。何だかよく知らねえが……お前が俺達を舐めてるってことだけは解ったぜ!」
手を床に叩きつけて無理矢理立ち上がると、二人は自分の姿を形作るガラクタに向かって突っ込み、拳を胸に叩きつけた。火花が舞い、紛い物は鉄の引きちぎれるような耳障りな音を立ててもがき、ばらばらのスクラップに戻って床に散らばる。息を荒げる二人の右手には、銀色のアンクが握りしめられていた。イシスは自らの命を取り戻した二人に、思わず目を細くする。
「馬鹿な。自分で力を取り戻しただと?」
「これくらい朝飯前だ。俺達ドラグセイバーだぜ? やってやれねえことなんかねぇんだよ」
にやりと笑ってみせると、二人はアンクを自分の胸に突き立てた。途端に鎧の傷は埋まり、輝きを取り戻す。瞬間、二人はイシスの懐に飛び込み回し蹴りを見舞う。虚を突かれたイシスは、防ぎきれずに廊下を転がった。
「でたらめを言うな。イマジナリーの力を無に帰せるのは、同等以上のイマジナリーだけだ。ろくなルーツも持たないイレギュラーであるお前が、我の力を無に出来るわけがない!」
杖を突いて起き上がり、イシスはいよいよ冷静さを欠いて叫ぶ。大剣を取り出した二人は、荒々しく振り回して切っ先をイシスに向ける。
「なら今ここに転がる現実はどう説明するつもりだ。神様」
「……ふん。既に賽は投げられたか。今更どんな疑義を差し挟むことにも意味は無い。私はただ、貴様を叩き潰して、審判の神に貴様らを正してもらうだけだ!」
「なら、やってみろよ!」
イシスは杖を構え、羽根を鋭い刃と変えて飛ばす。巽は乾を庇うようにしてすべての羽根を叩き落とすと、気合と共に跳び上がり、天井を蹴って一直線にイシスへ襲い掛かる。しかし再びその身体はただの羽毛の塊となって消える。
「同じ手を二度も食うか!」
二人は叫ぶと、竜巻のように激しく身体を振り回して羽毛を振り払い、三本のナイフを取って投げつける。一本、二本と空を切るが、最後に投げられた一本がイシスの翼に突き立てられた。細く鳴き、イシスはその場に墜落する。
「この程度っ!」
イシスは翼のはばたき一つでナイフを飛ばし、その傷口は見る間に塞がる。袈裟切りに斬りつけてきた二人の一閃を転がり躱し、杖で二人の足を払って転ばせ、イシスは右手を二人の心臓辺りに叩きつける。目を血走らせ、本物の心臓も握り潰さんとばかりに鋭い爪を立てる。
「私の苦しみを思い知れ! 神として救わねばならない命に、手が届くことのなかった私の苦しみを!」
右手が白熱し、二人を死へと追いやるほどの勢いで命を奪っていく。その目は、隠しようも無い絶望と哀しみに黒く塗りつぶされていた。
「……うるせえよ」
二人は怯まず、その右手を抑えつけた。その膂力に腕を握り潰されかけ、イシスは甲高く叫んで二人の胸から手を放す。二人はイシスの脇腹を蹴って突き離し、大剣から刀を抜き放って中段に構える。
「お前の苦しみなんか知ったことかよ。お前らのやることがこの街を苦しめる限り、俺は絶対にお前らを認めねえ!」
「貴様……我が正義を否定するつもりか!」
「当たり前だろう。守りたいものを守る為に戦っているんだ。今、君は乾ちゃんを傷つけた。それだけで、僕がお前を否定するには十分な理由になる!」
イシスと殺陣を演じ続けながら、二人はじろりと彼女を睨む。獣のように荒々しく唸り、イシスは渾身の力で杖を二人に叩きつけた。
「そんなもの正義ではない! それを何と言うか知ってるか」
「エゴイズムだよ。そんなもの君に言われるまでも無く、身に染みてわからせられたさ。……だが一つ教えてくれたまえ。エゴイズムで人を救う事は、いけないことなのか?」
澄み切った目に見据えられ、イシスは一瞬言葉を失いその場に固まる。懐に沈み込んだ二人は、天高く跳び上がって切り上げを見舞った。傷口が白熱し、光が迸る。苦しみ胸元を押さえたイシスはなおも仁王立ちして、天井から襲い掛かる二人を光の壁で弾き返す。
「愚問だ。わからないとは言わせない。正義を騙るエゴイズムが、我らが鎮守してきた地を蹂躙してきた歴史を。今も救われなければならぬ無辜の民を殺し続けていることを!」
鬼気迫る轟くような気合と共に、杖の先には炎に包まれた小さな星が生まれ輝く。星を掲げた杖を真っ直ぐに二人へ向けて、彼女は心に吹き溜まり続けた絶望を払うように叫ぶ。
「何千年と待った。人類が自ら刮目することを。……しかし無駄だったのよ。今や実現されねばならない。神の手にある超越的な正義が! 神の手で!」
「その正義を実現するために、お前達はずっとこの街を苦しめ続けたんだ。どんな大義名分を掲げても、僕はそれを許さない」
「……俺達は、だろうが!」
二人は竜の身体を模した擲弾筒を虚空から取り出すと、真っ直ぐにイシスの心臓を狙う。炎を口蓋に銜える竜が、目を赤々と燃やす。黙したまま向かい合うと、イシスは杖を振るって燃える星を投げつけ、二人は引き金を引いて一匹の炎纏う竜を撃ち出す。
ガラクタに身を潜めていた乾は、燦々と放たれる赤光に目が眩んで顔を背ける。
(巽くん、ヴァルー!)
翼を広げて星へと突っ込む竜。全ての炎を吸い込み、咆哮した竜は口蓋を押し開いてイシスの傷口に突っ込んだ。
「何故――」
絶望に羽根を震わせた瞬間、イシスは爆炎に巻き込まれ吹き飛ばされる。折れた翼、焼け焦げた体で炎爆ぜる音響く廊下に転がり、イシスはそれでもなお目を見開き、右手を立ち尽くす二人に向かって突き出した。
「審判の神は……貴様の正義を否定し、押し潰し、必ずや真なる正義が如何ばかりのものか、知らしめるだろう。それでも、同じことが言えるなら、言ってみろ……」
灰と化したイシスはその場に崩れる。擲弾筒を投げ棄て、二人はガラクタの側で縮こまっている乾の側に駆け寄る。彼女が何事も無く生きているのを確かめると、そっと抱きしめた。
「すまない……助けに行くのが遅れてしまった」
「ううん、大丈夫。これくらいならどってことないし……それよりも、早く逃げなきゃ。私達ここにいたら大変な事に……」
首を振った乾は、再び暗闇へと落ちた廊下の彼方を見つめて焦燥気味に呟く。悔しさに塗れくしゃくしゃになる彼女の横顔を見つめ、それから廊下の彼方を見遣る。押し寄せる波のように、全てを蹂躙する慈悲が席巻した。全身の鱗を逆立て、二人は乾を抱き寄せ廊下の彼方を睨む。ぱらぱらと乾いた拍手が、こつりこつりと足音が響く。
「素晴らしい力を見せてくれたねえ。私は嬉しいよ」
「巽くん! 早く!」
狂気を最早隠そうともしない父に、恐怖した乾は錯乱気味に叫ぶ。廊下に反射する星屑のような光に照らされ、彼は満面の笑みを浮かべていた。二人は乾を抱いたまま一も二もなくその神速で出口に向かって駆け抜けようとするが、父が指を鳴らすと同時に張られた光の壁に阻まれ、衝突間際でどうにか足を止める。身を翻すと、乾の父は既に目の前に立っていた。咄嗟に乾は脇に逃がすが、父は二人の喉元を容赦なく押さえつける。
「既に儀式の準備は整った。今更逃がしはしないよ。来たまえ」
父はそのまま巽の変身を解こうとするが、どれだけ念を込めても竜人の姿は解けない。笑みを浮かべたまま首を傾げる彼に、二人はその右手を掴んで不敵な口調で吐き捨てる。
「無駄だ。この状態にある限り、僕達は存在そのものが『ドラグセイバー』として合一されている。僕達の意思に基づかない限り、この存在が剣崎巽とヴァルーに分かれることは無い」
「そうかい。残念だねえ……」
溜め息をつくと、父は床で震えている乾を睨み付ける。瞬間彼女の身体は硬直し、父に投げ渡された短剣を、おもむろに首へ押し当てる。怯えた目が二人を見上げる。息を呑み、二人は茫然と彼女の父を見つめる。
「ならば君自身に解いてもらおうか。解かなければ、乾は死んでしまうが。どうする?」
「てめえ。それが親のやることかよ!」
「それにだ。貴方は乾ちゃんを殺せない。乾ちゃんは、計画に欠かせないピースの筈だ」
二人は苦し紛れに男を責めたてるが、押し殺したように嗤う彼の心は一ミリも揺さぶれない。短剣が乾の薄皮を切り裂き、うっすらと血を滲ませる。信じられないという目でゆらゆらと首を振る彼に、父は歯を剥き出して迫った。
「残念だが、別に欠かせないなどと言うことは無い。乾を計画のピースに選んだのは、娘という手近さ故に理想体に教育できた事と、娘に華を持たせたいという親心故だ。その親心を受け取れないというなら、別にもう生きている必要も無い」
「何だと……?」
「私が求めているのはね、神の正義を掲げるに相応しい、他の命の為に、真心で身を捨てられる愛を持った人間だ。白峰乾がそうであるだけで、白峰乾を求めているわけではない」
既に悲しみへ落ちるところまで落ちた乾の心は、さらに奈落へと突き落される。最早怒りを覚える気力さえも失われ、次第に食い込んでいく短剣の刃にも抗うことはせず、ひたすら涙を零す。
「そんな。ひどいよ」
様々な感情に責められ、二人は言葉にならない濁った嘆きを絞り出す。脱力して右手をだらりとぶら下げ、その変身を解く。苦悶に顔をゆがませる巽の顔を覗き込み、男は満足げに頷き、乾を解き放った。力無く彼女は短剣を取り落とし、力なく頽れすすり泣く。
「ああ。君ならそうして従ってくれると思っていたよ。私もむやみに娘を殺すような真似はしたくないからねえ」
男は巽の身体からヴァルーを引き抜く。そのままヴァルーを宙に放り上げた男は、十字架を取り出して一直線に投げつける。十字架はその身体へ溶け込んでいき、ヴァルーは絶叫してのたうち回る。床に落ち、それでもヴァルーは逆立った鱗を何枚も何枚も剥がしながら転げ回る。苦しむ相棒の姿に巽は叫んで駆け寄ろうとするが、男はそんな巽の腰を押さえつけてしまう。
「ヴァルー! ヴァルー!」
白目を剥き、口蓋を外れんばかりに開いて絶叫したヴァルーはその場に倒れる。最早息すらしているか定かではないその姿に向かって、男は困ったような笑みを向ける。
「全くしぶといね。琴音は一体何を構成に使ったんだ? 伊邪那岐か? オーディンか? ゼウスか?」
「何を言ってるんだ」
「ふふ。おかしいと考えたことは無いのかい。全く所在不明のイマジナリーが突然自分のところに舞い込んできて、自分と融合して戦いを始めるという事に?」
「……おかしいと感じる間も無かったですよ」
男は勝ち誇ったように笑みを浮かべると、ヴァルーを光の檻に閉じ込めて宙に浮かべ、巽と乾を歩かせながら囁く。
「全く、都合のいい話じゃないか。君の目の前で人が襲われた時、ちょうど君には都合よく力が転がっているなんて。少し考えれば、わかることじゃないか?」
「全て仕組んでいたのか」
巽と乾は愕然とする。誕生日サプライズを決めでもしたかのように、気楽にからからと笑って男は二人の顔を覗き込んだ。
「その通り。このヴァルーと言う存在はお母さんの策だ。イマジナリーに襲われて恐怖に陥った人々が、縋れるヒーローを用意するために作り出した、疑似的なイマジナリーさ」
「僕達はただの神輿だったってことか」
「その通り。元はと言えば、審判の神も含め、イマジナリー達は、科学にかまけ始原の恐怖を見失い、世界の再構築を行うだけのクリエーションすら用意できないこの世界状況を打破するために、徹底して人類に恐怖を与え、その恐怖から救い出す神を求めさせ、クリエーションを搾り取ろうとしていた。それを用いて、イデア界の維持と、現実世界における正義の達成を目指していたわけだ」
男の脳裏に、二十一年前の出逢いが蘇る。相棒の死に打ちひしがれていた彼の前に、罪と欺瞞に塗れた世界の浄化を求める審判の神が現れた。その威光に当てられた瞬間の喩えようもない喜びは、今も心に焼き付き、ただそれだけを追い求めて彼は生き続けていた。そのためには、相棒の遺児すら利用することも厭わなかったのだ。
「だがそれでは、あまりにも非効率だ。だから、現実世界との接続を求めて私に接近してきた審判の神に言ったのさ。現実世界に、正義の味方を作り、求めるべき救いを具体化してやる方が、確実にクリエーションを集めることが出来るとね」
巽はうらぶれた顔、放心した目で自分の腕を掴む男を見つめる。自分の歩みが、全て掌の上で転がされていただけと気づき、全ての気力を失ってしまったかのように見えた。
「……他のイマジナリーはその事実を知らなかったようだが」
「敵を騙すには味方からさ。どこから事実が洩れたものか、わかったものでは無いからねえ」
巽の脳裏に、彼へ縋る大巳貴の姿が蘇る。今となって思えば、最早道化のように哀れだった。心の奥で同情を寄せながら、彼は呟く。
「あなたは……どうしてそれほどまでに歪んでしまったんだ。僕の父さんの、最高の相棒ではなかったのか」
「私の相棒を奪い去って平気な顔をしているこの世界を、私が許せると思うのかい。それでいて審判の神が全部造り直すって言うんだ。私は喜んで手を貸すさ。復讐のためにね」
「そんなもの――」
おもむろに言い返そうとした巽の鳩尾に一撃を入れて黙らせ、男は消えることのない怨嗟が宿る目を巽に見せつけた。その日全ての希望を絶たれた男の、地獄に堕ちることさえ辞さない哀しみを。
「ああ正義じゃないさ。僕は正義の味方じゃない。翔一が居なかったら、正義の味方になれない。自分でわかってるんだよ。だから、君達を使うんだ」
二人の長い沈黙。打ちのめされた乾のすすり泣きが廊下に沁みこんでいく。息も絶え絶えに、巽はちらりと檻の中のヴァルーを見遣る。ボロボロながらも気を取り戻し、ヴァルーは小さく頷いた。巽は瞬きで答えると、絶望の仮面を剥がし、今も失わない戦意を男に見せつける。
「その苦しみはよくわかった。だが覚悟するんだ。僕はあなたの言う正義の味方には決してならない。なるつもりもない。……審判の神も、僕は討ち倒してみせる」
「好きに言わせてあげようじゃないか。どうせ後十分も無いうちに、君の精神は正義に染まる」
男は笑みの奥に宿る冷たい眼差しを巽に突き刺し、儀式の間へ続く扉を押し開けた。
――それなりに手入れされた応接場所に、雑然と資料の積み重なる机。コーヒー飲んで一服する翔一に見遣りつつ、シルエット緩めの白いワンピースを着た琴音がとっ散らかった本棚の資料を揃え直しながら口を尖らせる。
「あんたの事務所でしょうに。私や透くんにばっか任せてないで手伝いなさいよ」
「わかってらぁ。このコーヒー飲んだら手伝うって」
どこか気のない返事をすると、翔一はベストの襟をいじりながらくるりと椅子を回して窓の外を見つめてしまう。しゃきっとしない彼の姿に溜め息を洩らすと、床にモップをかける透の方を目で窺う。
「ねえ、透くんからも何か言って。このサボり魔に」
「多少はいいじゃないか。ただの掃除なんだし。……落ち着かないんでしょ。美雪ちゃんが入院しちゃって」
少し曲がったネクタイの結び目をしきりに気にしている巽に、透は穏やかな笑みを向ける。翔一はみるみる顔を曇らせると、カップを机に載せて小さく頷く。
「単に夏バテから来た栄養失調だから、点滴打って様子見りゃどうとでもなるって医者も美雪も言ってたけどよ。あいつあんまり身体強くねえし……」
翔一はくよくよとして呟く。透は肩を竦めると、そっとそばに歩み寄ってその肩に手を載せる。
「君まで元気無くしても仕方ないじゃないか。しっかりそばで支えてあげるのが、美雪ちゃんにとって何より助けになるんじゃない?」
「そうか? そうだよな」
透の言葉に翔一はふと相好を崩し、おもむろに立ち上がる。コーヒーを飲み干すと、張り切って机の上の書類をまとめ始めた。結婚しても子どもが出来ても、相棒の言葉の重みは変わらなかった。翔一は白い歯を見せ、琴音の方を指差す。
「お前も気をつけろよ。お腹大きくなったくせにせかせか動き回ってるみてーだが、体壊したら透は泣くぞ」
「そ、そこまで情けなくは無いけどね……」
勝手に決めつけられた透は、苦笑しながら首を振る。琴音は澄ました顔で男どもを一瞥すると、再び本棚に目を戻して淡々と呟く。
「大丈夫よ。多少は身体を動かして体力つけてんの。私がぶっ倒れたら、あんたらてんてこ舞いでしょ? 生活能力大して無いくせに」
「へんっ。あいつは逞しいな。結婚して子ども出来たつって、少しは気優しくなるかと思ったらお口の減らないファイアーガールのまんまだぜ。むしろおっかなくなってら」
「なによ」
琴音は本棚に飾られていたコインを手に取ると、翔一に向かって鋭く投げつける。避ける間もなく額にクリーンヒットし、翔一は思わず呻く。
「いってぇっ! ほらこのザマだ」
「いいんだよ。琴音ちゃんはこうでいてくれないと。強くて優しくて、ちょっと甘いところがいいんだから」
透はいかにも愛おしそうに笑みを浮かべて、そっぽを向いた琴音を見つめる。耳まで真っ赤になった彼女は、翔一のからかう言葉も無視して、じっと本棚を見つめていた――
ロープに縛り付けられ、巽と乾は魔法陣の中に空けられた穴にそれぞれ立たされる。抵抗もせず、巽はその目の光だけは失わず、二人を見渡す乾の父母を睨みつけていた。父は低く笑い、二人の洒落た格好を見渡し呟く。
「今夜はデートのつもりだったかい? ならいいだろう。僕たちは乾と巽くんの恋路を祝福するよ。……審判の神も、きっと祝福してくれるさ。新たな世界のアダムとイブとしてね」
その横で、琴音は言葉も無く虚ろな目を二人に向け続けている。全ての感情が抜け落ちてしまったかのような有様だ。巽が何かを訴えるような目で見ても、彼女は全く気づかない。二人に巻きつけられた、誓言の書きつけられたロープの締り具合を確かめるだけだ。巽は神妙な顔をすると、何も言わずに目を閉じて俯く。
「……ねえ、巽くん」
泣き疲れた乾は、掠れた声で巽に呼びかける。信じていた両親に裏切られ、今や巽だけが彼女にとっての全てだった。巽は小さく頷くと、目の前にそびえる結晶体を真っ直ぐに見上げる。
「大丈夫だ。信じて待つんだ」
巽は結晶体を睨みつける。金色の影が、彼に語りかけてくる。正義の実現された世界の喜びを。誰も脅かされることのなく、幸せに暮らすことのできる世界の喜びを。その為に、罪を犯し利己を正義と嘯く愚かな現人類を滅ぼし去ることの意義を。しかし彼の心が揺すぶられる事はなかった。天井から吊るされた傷だらけのヴァルーを見上げ、巽は呟く。
(僕たちは正義の味方じゃない。もっと大事なものの味方だ)
その時、巽は既に気づいていた。自分が守りたいものの為に、自分は戦いたいのだということを。




