十九話 僕はこの力をこう使う
剣崎巽。彼の想い人、白峰乾は彼女の両親によって連れ去られてしまった。神凪市に残された脅威の爪跡を追って飛び出した彼らは、神凪市を檻と変えた神、少彦名と大巳貴と交戦、謎の影の援護によって勝利をおさめるのだった。
――喫茶店『ナナカマド』。そこは一癖も二癖もある人間達の溜まり場だった。探偵の真似事で小金を稼いでいる学生、剣崎翔一もまた、この喫茶店の常連だった。喫茶店に通える男は何だか渋い気がするから。それだけの理由だったが。
「どうしたの翔一。いきなり呼びつけたりして」
Tシャツにジーパンという出で立ち、釣り目がちで勝気そうな顔立ちの女――櫻井琴音が、つかつかと歩み寄ってきてブラックコーヒーを飲む翔一の前に腰掛けた。マスターに紅茶を頼みつつ、じっと自分を見つめる幼馴染を訝しげに見つめ返す。
「ねえ、どうしたのよ。ろくでもない話じゃないでしょうね」
「別に大した話じゃねえよ。聞きたいことがあったんだ」
言われた途端に琴音は身構える。ここ最近、翔一に『大した話じゃない』と言われて大した話じゃなかった例がなかった。出された紅茶を啜りつつ、琴音は恐る恐る迫る。
「何よ。さっさと言えばいいじゃん」
翔一はこくりと頷くと、整った顔立ちをにやりと崩してむっつりとした琴音の顔色を窺う。
「透との話はどうなった?」
思わず琴音は飲みかけていた紅茶を噴き出してしまう。むせ返りながら、顔をしかめて琴音は翔一の子どもじみた笑みを睨みつけ、おしぼりを投げつける。
「何よこのお節介馬鹿! あんたのせいで無茶苦茶だっつの」
「あん? ビビリかよお前ら。さっさと付き合えってずっと言ってるじゃねえか。見てっとイライラするんだよ」
顔を真っ赤にして拳を握りしめている琴音に、一気に不機嫌になった翔一は口を尖らせ首を傾げる。琴音は頬をひくつかせ、拳を膝に乗せてうつむく。
「う、うるさいなあ。今まで私達ただの幼馴染でやって来たのよ? 今っ更。今更、透くんと、透くんと付き合うとかなったって。どう付き合えばいいのか、わかるわけないでしょ!」
恥ずかしさに任せて鋭く噛み付く乾。翔一が唇を突き出していかにも小馬鹿にした顔をしていると、革のジャケットを着こなす渋面作った青年――柳葉達家が大股に二人のところへ近づいてくる。
「店で騒ぐな。コーヒーが不味くなる」
「に、兄さん……」
琴音は兄の冷めた視線に当てられて小さくなると、ちょこちょこ手遊びしてぼそぼそと呟く。
「だって。翔一が透くんと付き合えって……しつこいから。兄さんも何とか言ってやってよ、このお節介に」
受け皿片手にコーヒーを啜り、柳葉は翔一にじっと目を向ける。いちいち動作が決まっている彼に半ば嫉妬のような感情を抱いている翔一は、腕組みしたままじっと彼のことを見上げる。しばらく見つめ合っていた二人だったが、やがて柳葉は琴音に目を戻して淡々と応える。
「琴音。慕情を蔑ろにし続けるのは健康的と言えないな」
「ちょっと。兄さんまで?」
「ほら来た。妹の恋路はお前だって応援したいよなあ?」
味方を得て得意げな翔一に、柳葉は仏頂面のまま静かに頷く。取り付く島もなく、ひたすら頬を赤らめてもぞもぞしている彼女をよそに、翔一は出入口の方を見遣る。そろそろと扉を開けて、白峰透が顔を覗かせたところだった――
父に連れられた乾は、エレベーターに乗せられ地下へ地下へと下り続けていた。乾の肩を抱く父の腕は、かつて持っていたぬくもりを失っている。乾は父の手にその白い手を重ね、か細い声で尋ねる。
「お父さん。どこに向かってるの?」
「正義の実現された世界さ。今全てを説明するよ」
かつてと変わらない、柔らかい声色が余計に脅迫的な響きを帯びる。乾は唇を噛んで、隣の母を見つめる。彼女は彼女で、昔と同じ優しい笑みを浮かべていた。その目が死んだ魚のように濁っていることを除けば。変わり果てた二人、そばにはイマジナリー。彼女は背筋が凍りついていくのを感じ、抵抗もできず、トンネルのように広く、暗い廊下へと押し出された。
「乾。この世界は今、正義が崩壊してしまった。正義に対立するは正義と嘯いて、自らの中の悪を正義として正当化することに罪悪感を覚えなくなった。他人の正義を悪として断罪することに、何の痛痒も覚えなくなった……乾なら、わかるだろう」
ふと発せられる冷酷な語気を前に、わからないと言う事など出来ない。彼女は怯えた顔で頷くしかなかった。鉄屑の転がる長い長い廊下を歩き続けながら、父はさらに続ける。
「そんな世の中では、本当の正義を持った人間から先に死んでいき、報われることは無い。そして、罪ある人間は、のうのうと生きていくんだよ」
父の言葉に憎悪が浮かび上がる。彼女の肩を抱く手に力が籠る。痛みさえ覚えて顔をしかめながら、乾は恐る恐る、お面のように笑みを張り付けている父の横顔を見つめた。
「それってもしかして、巽くんのお父さんの事……?」
頷く。父は口端に笑みを浮かべたまま、地の底から這い出したような禍々しい怒りを込めて語り始める。
「私達は、二人で一人だった。絶対に欠けちゃいけない相棒だった。ずっと、私達は、二人で、神凪市を荒らす嵐を止める存在であり続ける。そのつもりだった。なのに、彼は、死んでしまったんだよ。どこのどいつともわからない盆暗の手でね」
「翔一!」
――真っ青になった透は、薄暗い一室へ乱暴に足を踏み入れた。部屋の中央に置かれた一台のベッド。一人の青年が永遠の沈黙を貫き横たわっていた。側には、彼がお気に入りで被っていた黒いソフト帽が置かれている。亡骸に取り縋って泣く美雪、その肩に手を寄せる琴音、静かに拳を固める柳葉。誰も彼も、透にとっての唯一無二の相棒がこの世から消えてしまった事実を知らしめていた。
「何でだよ翔一。何で」
よろよろと翔一の側にしがみつき、透は涙をひたすら溢れさせる。しかし、どれだけ泣いたところで、神凪のヒーローは帰ってこない。普段のように冗談めかして、男の流儀を語ってくれない。何度肩を叩いても、彼は永遠の居眠りを止めてくれなかった。
「……嘘だ。嘘だ!」
認めることなど出来なかった。透は力なく立ち上がると、霊安室を飛び出し、一心不乱に走って病院を飛び出し、行くあてもなく走り続ける。何度車に撥ねられそうになっても、構わず彼は、相棒を奪い去ったこの世界から逃げ去りたくて、走り続けた。喉から血を吐き、脚が縺れて転ぶまで。
「何でだよ! 何で! 何で死んだんだよ! 翔一、君は僕の相棒だったじゃないか!」
雨降る天を睨みつけても、何の返事も帰ってこない。彼は拳を地面に叩きつけ、腹に溜まった絶望を振り絞るように吐き出す。
「あああぁぁっ!」
怒りと悲しみがない交ぜになって、透の心を締め上げる。その痛みに耐えきれない透は、泣き呻き濡れた地面に身を押し付ける。道行く人々は彼の身に起きた悲劇も知らずに奇異の視線を向け、あるいは嘲笑して通り過ぎるだけだった――
「だが、崩壊した正義は罪を裁くことさえ出来なかった。翔一が命と引き換えに取り押さえた犯人は、心神喪失と見做され無罪となった。弁護士の語る白々しい正義を前に、翔一の正義は無に帰されたんだ」
「……ひどい」
ひたすらに語り続けられた過去に、乾は言葉を失う。昔の話をせがんでも、彼は嫌がりほとんどを語らなかった。そのうち、乾も自然と聞こうとしなくなった。いつも乾に対して甘かった彼が、その時だけは悲しみの果てに潜む狂気を覗かせたからだ。ちょうど今、隣を歩く彼のように。
「そうだろう。それどころか、人々は世間の目の届かないところで、翔一の犠牲を無駄死にと嘲笑った。ヒーロー気取り(・・・)と馬鹿にした。彼が居なければ……神凪市どころか、この世さえも今存在しているかもわからないというのに」
乾はいよいよ怖くなる。父の声色には激しい感情が渦巻いているのに、その表情だけは笑顔のまま全く揺るがない。廊下の先に突き当たると、力強く手すりに手を掛ける。
「でも。僕は気にならなかった。その時にはもう、僕には絶対の希望が与えられていたからね」
父は扉を押し開ける。瞬間に広がる昼間のように照らされた地下のドーム。中心には眩いばかりに光を放つ結晶体がそびえ、その中には金色の人影がちらついている。結晶体には幾本も張り巡らされた白いロープが伸び、ドームの壁と結びつけられている。地面には金色の魔法陣が隙間無く刻まれ、結晶体の面前に空白の円が並べて二つ空けられているだけだ。その威容に、思わず乾は心を奪われそうになった。金色の人影から放たれる光を浴びた途端、喜びに心が満ち満ちるのだ。拳を握りしめて掌に爪立て、彼女はどうにか平常心を保つ。頬を固くする彼女の肩を優しく叩き、父は微笑む。
「感じるだろう。彼がこの世を有るべき形に作り替える絶対の神、審判者だよ」
二人の神が打ち倒された駅前広場は、何台ものパトカーは救急車が停められ、被害の確認が行われていた。未だ恐怖に足が萎え、人々はその場から立ち上がることも出来ないでいた。
「待てよ」
ビルの陰から消えようとした女に神速で追いすがり、ドラグセイバーは立ち塞がった。俯きがちにして、上目遣いの探るような視線を向けている。女は肩を竦めると、拳銃をベルトのホルスターに差し込んで腕を組む。
「私に探りを入れているくらいなら、さっさとあの子のところに向かうべきではないの?」
二人は肩を竦める。静かに変身を解いて巽とヴァルーに分かれると、真っ直ぐに仮面の奥に光る白い瞳を見つめた。
「そうかもしれない。だが、あなたの正体は確かめなければならない。ドラグセイバーとしてはね」
「どういう意味かしら?」
しらばっくれて、彼女は首を傾げてみせる。微動だにせず発せられたその白々しいその口ぶりに、眉をひそめた巽はちらりとヴァルーに目配せし、彼女を顎でしゃくる。ヴァルーはふわりと女の前に飛び、真っ直ぐにその瞳を見つめる。
「お前、昔俺に会ったことあるだろ。イデア界の中でな」
ヴァルーの中に渦巻く剣崎翔一としての記憶を縫うように広がる、どれだけ辿ろうとしても広がり続ける闇。ヴァルーは確信めいた口調で迫った。
「へえ……思い出したのね。どこまで?」
「どこまで? どこまでもくそもねえよ。お前の目つきしか思い出せねえ。……どうせ、そう仕向けたんだろ」
「察しがいいわね。その通りよ。本当は私の事すら思い出せないようにしたつもりだったけど。融合が進行した影響かしら」
鼻で笑うと、大股で進み出てヴァルーの顔を横から覗き込む。貫くような視線の強さに、思わずヴァルーは黙り込み、目だけ動かして彼女の動きを辿った。影の纏う妖しい雰囲気に、巽も一歩出てヴァルーを挟むように彼女と向かい合う。
「それならあなたは知っているんだろう? ヴァルーの正体が、一体何なのか」
白い瞳に、巽の引き締まった表情が映り込む。僅かに慈しむような色をそこに帯びて、女の影は僅かに身を引いた。
「残念だけど。まだあなたたちがそれを知ることは許されない。知るべき時は、完全に選ばれなければならないから」
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ。あれを打ち倒すためには、針の孔ほども無い一点の隙を突かなければならない……どんな手順も、間違えられない」
「気に入らねえな。全部お前の掌の上ってわけかよ?」
ヴァルーは巽の肩の上に乗り、眉間に皺寄せ女を睨む。腕組みしたまま彼女は肩を竦め、するりと拳銃を抜き放って二人の顔を交互に見つめる。
「別に私のやり方に乗りたくないって言うならいいけど。力づくで私に聞き出してみるかしら?」
「あん? てめえあのなあ――」
挑発する彼女に、鱗を逆立てヴァルーは噛みつこうとする。巽はその口元を押さえこみ、肩を竦め彼女を真っ直ぐに見つめた。
「……そう捻くれた言い方をしないでくれ。貴方だって乾ちゃんを助けたい思いは同じのはずだ。……そのための筋書きなんでしょう? それなら、僕は乗る」
彼女は小さく笑い声を洩らすと、拳銃を下ろし、漆黒の手袋が嵌められた手を伸ばしてそっと巽の頬を撫でる。
「信じてくれるのね。お母さん嬉しいわ」
巽は彼女の手を下ろし、小さく首を振った。
「しらばっくれないでくれ。母さんは死んだ。貴方は――」
彼女の人差し指が、巽の口を押さえ込む。
「その名を言ってはいけない。まだ終わりを迎えるわけにはいかないから……」
巽は神妙な顔をすると、踵を返す彼女を言葉も無く見守る。迷いなく歩き出したかに見えた彼女だったが、ふと影の終わりで足を止め、ちらりと振り向く。
「そこまで気付いたのなら、母さんと認めてくれてもいいのにと思うのは、私の我が儘かしらね」
呟き、彼女はサーチライトの中へと溶けて消える。巽は憐みにも似た目で彼女を見送ると、肩に張り付いているヴァルーをちらりと見る。
「ヴァルー、僕達も行こう」
「お父さん、それ本気で言ってるの?」
その頃、乾は泣き出しそうに顔をしかめて父親を睨んでいた。胸が痛む。かつて父が見せてくれた優しい微笑みが、彼女の心を掻き回す。その笑みが全て偽りだったなどと、信じたくなかった。しかし彼は、乾の方へとゆらり振り向き、その穏やかな笑みを見せつけ、静かに頷いた。
「こんな手の込んだ冗談があると思うのかい、乾。私は本気だ。正義が意味を失ったこの腐った世界を、本当の正義が実現された世界に、この審判の神と共に造り替えるんだよ」
黄金の光に魅入られ爛々と輝くその瞳は、いいアイディアが浮かんだと、愉しげにパソコンと向かい合っていた頃の瞳と全く同じだ。乾は無意識のうちに首を振り続ける。
「そして乾。君はその新しい世界のイブになるんだ。巽くんと一緒に。審判の神に祝福を受ける。この世を滅ぼし、新たな世界の正義の守護者として、君臨する」
「私は……お父さんの道具として育てられたってこと?」
信じたくない。乾は絞り出すように尋ねる。しかし父の答えは冷酷で淡々としていた。
「ああそうさ。巽くんも君も、正義の守護者となるに相応しい器となるよう促してきた。乾という名前だって、巽と対になるから付けたんだ」
父は乾の手を取る。彼の手は、乾を絶望に焼き尽くすほどの熱に満ちていた。そんな手で父はそっと彼女の頬を撫で、父を愛し続けた乾にとってはあまりにも残酷な言葉を囁いた。
「……まあ、君が失敗作だったなら、妹の一人や二人作ったかもしれないけどねえ」
目が一気に見開かれる。掠れた息が洩れ、声にすらならない。機械人形のように、ぎこちなく彼女は隣に立つ母を見つめる。彼女は感情を喪った瞳を閉じて、小さく乾から目を背ける。
「ごめんね。お父さんを、許してあげて」
乾は小さく悲鳴を上げた。唇を噛み、爪の深く食い込んだ掌からはたらたらと血が流れる。涙を呑んで、必死に父を睨み続ける乾に向かって、父は全身を歓喜に震わせながら笑い続ける。乾の涙を拭ってやる優しさなど、彼には無かった。
「何を悲しむことがあるんだ。別に死ねと言っているわけじゃない。鼻持ちならない金持ちに嫁げって言ってるわけじゃない。巽くんのことは好きなんだろう? なら、もう少し喜んでくれたってもいいんじゃないか?」
虚ろな笑みで、父は乾の顔を覗き込む。打ちのめされた乾は、抵抗もままならずただ固まる。その心の奥に、正義に身を捧げる喜びが這い寄ってくる。誰もが苦しむことの知らない世界への渇望が迫ってくる。凶悪な事件の繰り返される日々。誰かの正義にそぐわぬ人間が叩きのめされる日々。誰かが苦しんでいても、放り捨てられる日々。神は彼女に世の憂いを見せつける。乾の頭は真っ白になっていく。怒りが増幅されていく。罪を犯す人間が許せない。エゴイズムを正義と履き違える人間が許せない。目の前にすら手を差し伸べられない人間が許せない。息を荒げた彼女は、目を剥いて血塗れの拳を固めた。
「……バカぁっ!」
絹を裂くような叫び。振り抜かれた拳は、父の頬を打ち抜いていた。よろめく父の顔から笑みが消え、能面のような無表情が晒される。しかし、怒りに燃える乾は怯まない。世界がどう腐っていようが、今の乾には知ったことではなかった。大切に抱え込んできた思い出ごと裏切られた乾にとっては、目の前の男が一番許せない。正義なんてものもくそくらえだった。
「冗談じゃない。ぶっ潰してやるわよそんな計画! 今から子どもでも何でも作れば?」
「……二十一にもなって反抗期か。手間のかかる娘だねえ」
乾の激情を鼻で笑い、冷酷な本性を乾に向ける。乾も最早怯まず、目を見開いて叫んだ。
「黙れ! もう私は、あんたを親だと認めない!」
乾は脱兎のごとく駆けだす。父は相変わらず能面のような顔で、母は哀惜に塗れた顔でその背中を見送る。溜め息をついた父は、ホールの隅でルービックキューブを回していたイシスを見上げる。
「イシス。乾を連れ戻してくれ。私達は最終調整に入る」
「……わかったわよ」
イシスはルービックキューブを側に放り出し、鳶へと変わって飛び出す。乾を追って廊下へと消えた彼女を見送り、琴音は乾いた声で笑い続ける夫を横目に見る。
「本当にやるのね。あなた」
「当然だ。全ての汚れた正義を排して、今ここに一つの正義を実現する。……翔一のような犠牲を二度と出さない世界にするんだ」
男は振り向き、結晶体の中に蠢く金色の影を見つめる。至高の喜びに身を浸し、彼はただ溜め息をつくのだった。
「だから来給え。新たな神凪のヒーローよ。君をこの世のヒーローにしてあげよう」
乾は廊下をひた走る。巽とヴァルーをここに連れて来てはいけない。その一心で暗い廊下を走り続けた。しかし、そんな彼女の努力を嘲笑うかのように空を切り、目の前に翼を広げた女神、イシスが舞い降りる。白いローブに身を包み、鳶の頭を持つ女神は、魔力の宿る右手を掲げ、後退りする彼女にじりじりと迫る。
「逃がしはしないわ。気の毒だとは思うけど、私が見てきた気の毒な子達に比べれば、何てことは無い」
「知らないわよ。あんたらのいう正しい人類、正しい世界に全部造り替えれば、それで人類は救われたことになるの? 今の人類を皆殺しにするようなもんじゃないの? 私は認めないわ。認めたくもない!」
乾は首を振り、拳から血を垂らしたまま叫ぶ。イシスは蔑むように彼女を見つめて舌打ちすると、その右手を脇に転がるスクラップへ向ける。魔力を浴びたスクラップがかたかたと震え、刃のように鋭い鉄屑が彼女の手元へと飛んだ。
「個人的なちっぽけな憎悪で全ての計画を不意にしてもらっちゃ困るわね。……少し思い知ってもらおうかしら」
「うるさい。あんたらの、あんたらの計画は絶対認めない!」
(この娘御には、私が指一本触れさせん!)
乾が叫んだ瞬間、脳裏に敢然とした叫びが響く。まさか。彼女は慌てて周囲を見渡すが、既に消えた彼がいるわけも無い。しかし、その記憶だけは、確かに彼女の心の中に刻み付けられていた。乾の仕打ちに一喜一憂を繰り返す彼の姿が蘇る。どんな時でも、彼女への愛だけは決して褪せることのなかった彼の姿が。
(こんな事になるなら、もっと優しくしてあげればよかった)
乾は自嘲気味に笑うと、血塗れの右手を額にあてがい、鋭く念じる。彼と戦ってきた記憶が、静かに組み上がりおぼろげな一つの像を結んだ。
「ごめんねエルンスト。もう一度だけ、力を貸して!」
乾が叫んだ瞬間、その身体は光に包まれ姿を変えた。兜と仮面が、鎧とドレスがごちゃ混ぜになった装いを身に纏っている。左の革手袋と右のブーツは肉が剥き出しになったように脈打ち、右の籠手と左の鉄靴には骨の意匠が刻み込まれている。馬頭の兜から覗く金色の目は充血し、赤黒い光を放った。たてがみ代わりに垂れた白いベールは、イシスの羽ばたきに合わせて揺れている。その姿は、イシスが思わずたじろぐほどに奇怪だった。
「ふん! 私よりもずっと化け物らしいわよ。その姿は。正義の味方なんかには程遠いわねえ……」
「構わない。これで、まだ戦える!」
乾は駆け出し、イシスが振り下ろしてきた鉄屑を受け止める。もぎ取って長剣へと変え、全身を翻して斬りかかる。するりと飛んでかわしたイシスは転がるスクラップを念力で浮かべ、継ぎ合わせて一つの機械人形へと組み直す。
「全く。手間のかかる子ね」
イシスが手を振りかざすと、機械人形は飛び出し右手に握り締めた何かのガラクタを振り下ろす。乾は全身を波打たせて荒々しく飛び退くと、壁に向かって飛び出し、蹴り飛んで機械人形の首筋に向かって襲い掛かる。
「こいつめ!」
機械人形の肩に飛び乗ると、困惑したそれは唸りを上げてガラクタを振り回し暴れる。乾は舌打ちし、首に掴みかかって捻り上げる。火花が飛び散り、呆気無くもぎ取られた。ふらふらと当ても無く暴れる機械にしがみつき、乾は上から飛び込んできたイシスに向かってガラクタを投げつける。イシスはガラクタを右手で撥ね飛ばすと、再び駆けようとした乾の背後に襲い掛かる。乾は振り向きざまにイシスと刃を交錯させる。
「いい加減にしなさい。子は親に孝行するものよ」
「ふざけないで! ずっと、ずっと待ってたのよ! きっと帰ってくるって。それで。帰って来てくれたって思ったのに。私がただの道具だって言われて受け入れられる訳ないだろ!」
イシスの剣を自分の剣ごと払い飛ばし、乾は右の拳を振り抜く。イシスはふらりと躱すと、懐に潜り込んで彼女の鳩尾に向かって肘鉄を入れる。よろめき後退りしたところを、イシスは無数の羽根を乾へ向かって舞い上げる。指を鳴らした瞬間に羽根は金色の光を帯びて、一直線に乾に向かって襲い掛かる。白い壁を張って耐えるが、所詮は付け焼刃に過ぎない。羽根に壁を貫かれ、ボロボロの身に突き刺さる。低く呻き、彼女はその場に崩れ落ちる。
「この地に満ちる審判者のクリエーションを使って無理矢理変身したことは褒めてあげるけど、所詮人間一人で出来る事なんてそんなものね」
「……うる、さい」
乾は目の前で自分を見下すイシスの腕に掴みかかる。あっさりと振り払い、乾の鳩尾にイシスは蹴りを入れる。潰れた蛙のような声が洩れる。崩れた彼女の首根っこを掴み、イシスは痛みに瞳が揺らぐ乾を覗き込んで嘴を大きく開く。
「あんたが拒んだってねえ、遅かれ早かれ審判の日は訪れるのよ。人間自身の手でね。全ての人間が罪人になって、全ての人間が苦しみの中にいなくなる日が来るのよ。そうなる前に、あんたの父親は解決の手を打ったの。少しぐらい誇りに思ってあげたら?」
「……幾らあんた達が正義を語っても……巽くんは、認めないわ。絶対に……」
舌打ちすると、イシスは再び乾の腹に蹴りを叩き込む。意識が飛び、変身の解けた彼女はぐらりと崩れる。青痣だらけで気を失っている乾を見下ろし、人間の姿へと戻ったイシスは声を絞り出す。
「あんたに何がわかるのよ。私が治めてきた地の人々が、血の流し続けている絶望がわかるっていうの……?」
気を失った彼女が応えられる訳も無い。イシスは唇を結ぶと、彼女を乱暴に引きずり始める。
「協力してもらうわよ。白峰乾」
「止めろ」
廊下に甲高く足音が響き渡る。廊下を白く照らす光が眩しく、イシスは顔をしかめる。銀の鎧に身を包んだ二人が、剣を構え立っていた。煌々と光を放つ銀色の瞳は、満ちた怒りでイシスを捉えていた。
その時、巽はまだ気づいていなかった。自分がヒーローとして歩んできたことの持つ絶望的な意味を。




