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一話 世界を超えて、竜登場

 喫茶店の角に陣取った一人の青年が、イヤホンから流れる音に片足で拍子を取りつつ本のページをじっくりめくっていた。柔和で落ち着いた雰囲気の顔立ちに、白いシャツに黒いズボンの少し地味だが小洒落た服装がそこそこ似合っている。彼はカフェオレのカップをそっと傾けると、満足げに微笑んで溜め息をついた。面白い本に出会えたらしい。


 ふと彼は窓の外を見遣る。ぽつぽつと小雨が道を濡らす中、傘を差した人々が通りを行き交っていた。顔を曇らせると、時計をじっと見つめる。彼は既に三時間雨宿りしていた。本はもう読んでしまっていたし、これ以上時間を潰す気にはならなかった。


 行こう。彼は濡れないように本を鞄の奥に押し込むと、おもむろに立ち上がる。一冊本を読み終えた後、彼には必ず向かうところがあった。顔馴染のマスターに小銭を渡すと、彼は傘を開いてふらりと雨降る街へと繰り出す。


 雨の日には、しっとりした曲を聴いて、霧掛かる中世の街並みに想いを巡らすのが彼の楽しみの一つだった。雨に紛れて繰り広げられる政治闘争、友情活劇に恋愛模様、そこに暮らす人々の様相を想像すると、彼は楽しかった。全て、彼の頭の中でのみ繰り広げられる出来事に過ぎないのだが。


 平たく言えば、彼は変わり者だった。一人でいると、空想癖が収まらなくなる。現実への注意がほんの少し疎かになってしまうくらいには。時間と音楽さえあればどこまでも想像の中に揺蕩える、世間一般には『おめでたい』と言われる類の人間だった。


 そんな奴だから、剣崎(けんざき)(たつみ)はまだ気づいていなかった。普段と変わらないように見えるこの雨の日に、彼の運命を全て変えてしまう出会いが待っていたことを。




 住宅街の外れに建つ、古びた洋館風の建物。入り口には『白峰古書』の看板が掲げられている。真新しい一軒家が並ぶ景観の中ではこの古書店だけが明らかに浮いている。手入れの行き届いた小さな庭が人の存在を強く感じさせ、かえって怪しい。しかし巽は気にしない。イヤホンを耳から外してポケットに突っ込むと、躊躇うことなく重い扉を大きく開いた。


 ぼんやりした香りの漂う店の中。まず目に飛び込むのは何列も並んだ高い本棚。ハードカバーがボロボロになって布目が見えるものからまだ真新しくカバー紙が付いているものまで、様々な古書がびっしりと詰め込まれている。それを見ただけで、巽は満足した気分になれた。本当に幸せな男だ。


「ようこそ白峰古書に……って、巽くんかぁ」


 棚の間、梯子に登った一人の若い女性が本を棚に収めながら巽を見下ろしていた。微かに揺れる黒髪ショートに、大きな目の大きな瞳が彼女に若干のあどけなさを与えている。一方で、緩いシルエットの白いセーターに深緑のロングスカートがたおやかで大人らしい雰囲気だ。彼女は巽の幼馴染、名前は白峰(しらみね)(いぬい)と言った。


「乾ちゃんこそ。今日はどんな本が入ったんだい?」


 巽は細い目をさらに細めて乾を見上げる。彼女は梯子をとことこ降りてくると、鞄の中を広げて見せつける。


「これって強調するようなものは無いかな。遺品の整理だって言って、かーなりボロボロの本を売りに来た人はいたけど、元々うちにもっと状態良いの置いてるやつばっかだったし」

「へえ」


 じっと巽は鞄の中を覗き込む。確かに、うっすら黴の臭いがするボロボロの本ばかりが収まっていた。取って見れば、どれもこれも、既に読んだ有名な作品だ。口をとがらすと、本を戻して本棚を見渡す。


「他には何か面白そうな本は?」

「そうだねぇ。巽くんが好きそうな本だったら……」


 乾は古びた背表紙を撫でながら見渡し、やがて一冊の日焼けした本を取って巽に手渡した。


「ほら、これなんかどう?」


 『顔を隠した唯一神』。ぱらぱらめくると、巽は小さく頷いた。本に特にこだわりはない。読んだことがなければ良かった。


「確かにこれはまだ読んでないな。今日はこれを買うよ」

「毎度あり。二百円ね」

「乾、ちょっとお遣い頼まれてくれないかね」


 カウンターから声がする。見れば、白髪の眼鏡をかけた好々爺――白峰壮二郎がのれんをくぐって裏から現れたところだった。乾はエプロンを外して畳むと、小銭入れを差し出す老人の方へすたすたと歩いていく。


「いいけど、何を……って、そうか。シティタワーで文芸フリマやってるんだっけ」

「そういうわけだ。何かめぼしいものがあったら手に入れてくれ」

「はぁい。巽くん、一緒に行かない?」


 小銭入れを懐に収めると、乾は薦められた本を抱えて突っ立っている巽の方へ振り返る。幼馴染にじっと見つめて誘われたら断る手は無い。一も二も無く巽は頷いた。


「もちろん。……ああでも、その前に会計頼むよ」

「わかってるってば。……これでよし、と」


 小銭を受け取った乾は、領収書に金額を書き留めて巽に手渡した。そのままのれんの奥へと引っ込んだ彼女を見送り、壮二郎はカウンターの椅子によっこらせと腰掛け、にこにこと優しげな笑顔で巽を見上げる。


「巽くん、最近調子はどうかね」

「そうですね。面白い本読めましたし、悪くない気分です」

「そうか。それは良かった。最近はいい本を見つけるのも難儀な事になってしまったからな。取ってつけたようなテーマの描き方をする作品が多くなってしまった」


 頷く巽をよそに、壮二郎は落ち込んだような口調でカウンターの下から本を取り出す。壮二郎は古本屋を営む傍ら、古今東西の奇書を蒐集する作業に明け暮れていた。本の表紙を愛でるように撫でて埃を取り除く彼を見つめ、巽は静かに肩をすくめる。


「確かに、お爺さんのお眼鏡にかなう作品は少なくなったのかもしれない……」

「そう。今回のボロ市で面白い本が出てくればいいんだがね」

「お待たせ。じゃあ行こっか」


 ポシェットを肩から掛けた乾が裏から出てくる。少女のように屈託の無い笑顔が彼女第一の魅力だ。巽は思わず顔を綻ばせると、足取り軽く店を出る彼女の背中を追いかけていった。




 一時間後、巽と乾は神凪駅のビル街に建つカミナギシティタワーを訪れていた。二階以上はデパートになっているが、一階はイベント用のブースになっている。週末ともなると、毎度のように何かのイベントが開かれ、人々が集まり一階は大盛り上がりとなるのだ。今日も、中古の本から個人出版の本まで、何でも売りに出される文芸フリーマーケットが開催されていた。


「あまり人がいないねえ……」


 巽は静かにため息をつく。ライブや握手会が開かれている日と比べると、明らかに人が少なかった。同じ大学の文芸部と思しき面子もいるが、大抵は一線から退いていそうな老人ばかり、若者の姿はそうそう見当たらない。


「今更本なんて流行らないもんね」


 乾は小声でぼやきながらそばのテーブルに並べられた本を一冊手に取る。本屋の看板娘として、彼女はとにかく本を読みまくってきた。彼女はとにかく本が好きだった。手に取ってタイトルを見ただけで、どんなストーリーだったか思い出せる。たとえ読書が廃れ気味になっても、彼女にとって本は宝物だった。目をきらきらさせている彼女を見遣り、人のよさそうなおばさんが尋ねる。


「気に入りました?」

「発売日におじいちゃんに買ってもらって読んだんです。探偵さんが格好良くて、本当にこんな人いたらなあって思っちゃいましたね!」


 小説のことになると、彼女の熱意の右に出る人はいないだろう。おばさんを圧倒する勢いでべらべらとあれやこれや話し続けている。そんな姿を見ているだけで巽は楽しい気分になれた。そうして微笑み浮かべて彼女の姿を見つめていた巽だったが、ブースの隅に、赤く小さな何かが飛び消えていくのが目に留まる。不意の事に、彼の目はそちらへと奪われた。しかし、目を擦ってじっと見ても、既にそれはいない。訝しげに首を傾げる巽。乾は目を瞬かせて彼を見つめた。


「どうしたの?」

「いや。今、何かが飛んでいったような」

「何か? 何かって……」


 乾も巽に倣って振り返る。しかしガラスの壁から外の景色が見えるばかりで、何も見つからなかった。


「何もいないけど」

「……すまない。気のせいだったようだ」


 巽は愛想良く笑いながらごまかすと、そばの本棚を見渡す。すると目に留まる一冊の本。巽は神妙な顔をすると、おもむろにその本を抜き取った。


「これは……」

「ああそれ? 良かったわよねえ。行方不明になってなかったら、続き読めたかもしれないのに」


 天国へと続く白く神々しい門と、地獄へ続く黒く禍々しい門が並べられた表紙。『未来の黙示録』と銘打たれたその本は、巽も乾も複雑な表情にしてしまう。


「お父さん」


 巽から本を受け取った乾は、著者名を見つめてぽつりと呟く。白瀬峰彦、本名は白峰透。彼は乾の父親だった。彼女の小さな呟きを聞き洩らさなかったおばさんは、狐につままれたような表情になって乾の顔を覗き込む。


「あら、娘さんだったの? おかわいそうに。もう五年になるわよね」

「はい。何も言わずに、父も母もいきなりいなくなってしまったんです。未だに何の手がかりも無くて。きっと生きてるって信じたいですけど」


 乾は本を強く抱きしめる。パソコンに向かう父に寄っていって、続きを読ませてとせがんだ記憶が今でも彼女ははっきりと思い出せる。その度に、彼女の父は幼い乾の頭を撫でながら、その膝に乗せて原稿を見せてくれたのだった。


「どうしていなくなっちゃったんだろ……」


 すっかりしゅんとしてしまった彼女の横顔を見遣り、巽は小さいその肩に手を載せる。


「大丈夫だよ、乾ちゃん」

「うん。わかってる」


 乾は頷く。どの道信じる以外に道は無いのだ。彼女は気を取り直すと、本を棚に戻して新たな作品を探り始めた。


「さ、おじいちゃんのために何か見つくろわないと……」


 しかしその時、悲鳴を上げながら大勢の人々がビルへとなだれ込んで来た。恐怖にひきつったその顔はとてもふざけているようには見えない。目を見張った巽は、乾の手を引いてテーブルやパネルを突き倒していく人の群れをすり抜け、ビルの外に飛び出す。狭い所に押し込められて身動きが取れなくなるのは御免だった。


 広場を見つめた巽は言葉を失う。そこで人々を恐怖に陥れていたのは、見るもおぞましい、腐った体を引きずり、人々に襲いかかるゾンビ達だった。何かのパフォーマンスかとも巽は思ったが、腐臭がその可能性を否定しにかかる。鼻を刺すその臭いにむせながら、痛む目頭を押さえて巽は目を凝らす。


「何なんだ? 一体あれは……」

「ただのストリートパフォーマンス? それにしてはやり過ぎだよね……?」


 ゾンビは腐った身なりの割に身軽だった。逃げ損なった老人に素早く駆け寄ると、飛び付いてその喉元に齧りつく。道路を汚す鮮血が溢れ出した。


「っ!」


 祈るような思いで化け物を見つめていた乾は、真っ青になって息を呑む。一通り老人を喰らいつくしたゾンビ達は、次のターゲットを側でへたり込んで泣きじゃくる子どもに定める。巽は顔をしかめると、くるりと乾の方に振り返る。


「乾ちゃん、君は早く逃げて、どこかに身を隠してくれ」

「え、巽くん? ちょっと!」


 いつもと雰囲気の違う巽に、彼女は慌てて叫ぶ。しかし、巽は彼女を軽く突き離すようにして一気に子どもへと駆け寄る。子どもに向かって微笑むと、ずるずると足を引きずりながら近寄るゾンビを睨み付ける。


「大丈夫だよ。行こう」


 巽は素早く身体を抱え上げ、再び全力で駆け出す。ゾンビが前のめりになってべたべたと走り、背後にひたひたと近づいてくる。いくら子供でも、抱えれば足が遅れる。気づけば、乾も道の真ん中に立ち尽くしたままだ。巽は顔をしかめると、乾に向かって叫ぶ。


「何やってるんだ乾ちゃん! 早く逃げてくれ!」

「そ、そんな事言われても、巽くんの事を放っておいたままいけないって!」


 巽に並走しながら乾は答える。巽はやれやれと首を振ると、抱きかかえる子どもをちらりと指差す。


「君は優しいね……わかったよ。だったら乾ちゃん、君はこの子を連れて逃げてくれ! 僕が囮になって時間稼ぎするから」

「え、それもあんまり意味が変わって……」

「いいから、早く!」


 巽は子どもを乾に押し付けると、その場で足を止めて振り返る。乾もここに至っては逃げるしかない。巽はそばに落ちていた空き缶を拾うと、ゾンビの一体に向かって投げつける。頭に食らったゾンビは、一気に注目を巽に集め、姿を通りから眩ませた彼女たちには目もくれず巽の方目差し駆け寄ってくる。


「よし……こっちに来たまえ」


 脇目も振らず、新鮮な肉を求めて怪物は襲いかかろうとする。巽は振り切らないようにしながら駆ける。しかし、怒ったゾンビは執拗に巽を追いかけ、息を切らした巽を路地へと追い込む。


「肉だ、肉……」

「く、来るなら、来い」


 巽はそばに落ちていた鉄パイプを持って中段に構える。恐怖にビビって縮こまるのは簡単だが、坐して待っても死ぬには違いない。戦うしかなかった。


 腐り落ちた肉体を引きずる化け物達は、涎を滴らせながら手を突き出して巽に迫る。彼は舌打ちすると、パイプを振り上げ化け物の腕を打ち据えた。半分溶けてぐずぐずになったその見た目に似合わず、その体はコンクリート壁のように硬かった。パイプを打った痛みが手の平に跳ね返ってくる。余りの痛みに、思わず彼は鉄パイプを地面に取り落してしまう。


「何なんだ、こいつらは、一体……」


 やせ細った屍が、腐った腕を巽に突きたてようとする。慌てて彼は飛び退く。しかしすぐに彼の体は壁にぶつかり、それ以上逃げられなくなってしまう。化け物達が間近へと迫る。眼下から零れ落ちそうな目が、じろりと巽を見定めている。もう逃げられない。次に待つ痛みを想像し、巽は思わず目を伏せた。


「くっ――」




「おい」


 何かに呼ばれて気が付くと、巽は闇の中に築かれた大きな泉の前に座り込んでいた。はっとして立ち上がると、彼は慌てて周囲を見渡す。しかし、どれだけ目を凝らしても、泉以外に見えるものはない。ぼうっと巽が立ち尽くしていると、背後から再び低く野太い声がした。


「おい、こっちだ剣崎巽」


 身を翻す。瞬間、巽は息を呑んだ。紅く刺々しい鱗に全身を包んだ巨大な飛竜(ワイバーン)が、闇を脚の鋭い爪で擦りながら、煌々と輝く瞳で巽を睨んでいた。訳も分からず、巽はその場にへなへなと腰を抜かす。


「どうなったんだ、僕は一体」

「説明してる暇はねえ。お前の身体、借りるぞ」


 口の奥から炎をちらつかせつつ、飛竜は翼を大きく広げる。翼から舞い散る火の粉に当てられ、彼は思わず顔を腕で覆い隠した――




「成功。……最高にいい気分だ」

(な、何が起きた!)


 巽が気付いた時には、その身体は真紅の鱗を鎧にした戦士へと変わっていた。身体を乗っ取った飛竜は首の関節を鳴らして低く笑うと、指を曲げ伸ばし、自由を噛み締めながらずかずかと鎧を鳴らして歩き出す。街で野放図に蠢くゾンビ達は、腐った血を滴らせ低く呻きながら、竜人と化した飛竜、もとい巽をぐらぐらと見つめる。竜人はその姿を赤光放つ眼でジロリと見渡し、静かに舌打ちする。


「骨の無さそうな奴らだ。まぁ、暇つぶしくらいにはなってくれよ」


 瞬間、飛竜は全身を震わせ鋭く咆哮する。びりびりと空気が戦慄し、路地裏のひび割れた窓ガラスが次々に吹き飛ぶ。そばにいたゾンビは、たまらず粉々に砕け散った。


 飛竜は路地から飛び出し、手甲の指先に伸びる鋭い爪をふらつく屍の崩れた顔に突き立て握り潰す。崩れ落ちたところを踏みつけにし、新たに迫った敵の土手っ腹に鉄靴の鋭い蹴りで大穴を開ける。背後の敵は肩口の棘で貫き、そのまま首を引きちぎって地面に叩きつけた。飛び散る腐った頭蓋と脳漿を前に、ただそれを見つめ感じるしかない巽は震え上がる事しか出来ない。


(どうなっている、こんな……)

「うるせぇな、お前は黙って俺に身体を貸しときゃいいんだ」


 ぶくぶくの腐肉を垂れ下がらせた巨漢を睨みつると、飛竜は声を荒げて飛びかかった。突き出された丸太のように太い腕を踏み越えると、そのまま前宙、鉄靴の踵に生えた鋭い刃を叩きつけて真っ二つに掻っ捌いてしまった。ずるずると地面に広がる臓物。巽はひたすら吐き気を催すが、生憎身体は降って湧いた飛竜に乗っ取られている。拒絶反応を示すことさえ許されなかった。


(全く、最悪だ……)

「あぁ? しみったれたこと言うな。粋がってる奴らを叩きのめすことの何が悪い? 助けてやったんだから感謝しろ」

(わかった。だが、もうちょっと目に優しい戦い方は無いのか)


 巽は呻く。どちらにせよ、今身体を取り戻したところでどうにもならないのだ。この怪物に身を委ねるほかは無かった。


「悪いが、俺は手加減できねえ」

(だろうねえ……)


 目の前に広がる惨状を誇らしげに見つめる飛竜に嫌気差しながら、巽はぼそりと呟いた。余りにも現実からかけ離れた景色を見ているうちに、なにやらどうでもいいという捨て鉢な気分が張り出してきていた。


「何をしているのだ貴様!」


 そんなうち、いきなり道の彼方から声が響く。金糸で飾られた豪奢な黒鎧に身を包んだ男が、真っ直ぐにヴァルー達を睨みつけていた。ローブも着込んで巨大な鎌を負うその姿は、いかにも死神という風体だ。ヴァルーは舌打ちすると、腕組みして死神を睨む。


「何だ? 誰かと思えば紛い物のタナトスか。偉そうにピーピー騒ぎやがって」

「貴様、イデア如きが私を愚弄するか!」

「てめーこそただのカルチャーだろうが。思い上がんな」


 イデア。カルチャー。何やら意味ありげな言葉を飛ばし始めた二人に、巽はじっと注目を始める。とにかく、何でもいいからこの状況を受け止める足がかりが欲しかった。そんな事など知らず、目の前の死神は一息に飛び襲いかかってくる。


「ふざけるな! 思い知れ唯のドラゴンめ!」


 大振りに振るわれた巨大な鎌が飛竜の首筋を狙う。身構えもせず、飛竜は首を差し出し鎌の柄で打たれるままにする。タナトスはニヤリと笑うと一気に飛びすさって鎌を引いた。


「死ねぇっ!」

「……へっ」


 だが次の瞬間、鎌はタナトスの手の内からすっぽ抜けていた。鈍い音を立てて落ちる、豪壮に飾られた鎌。そのなまくらは、ヴァルーの首の皮一枚すら切れなかった。無傷の飛竜は呆然と立ち尽くすタナトスを鼻で笑う。


「どうだ。ちょっとは満足したか?」

「馬鹿な。こんな、こんなことありえない!」

「まぁだ調子に乗ってんのか。カルチャーがオリジナルに敵うと思うなよ」

「ぬぅっ……覚えていろ!」


 涙を飲んだタナトスは、ローブを翻してスタコラ逃げようとする。それをヴァルーが見逃すわけもなかった。一気に高く跳び上がると、タナトスの脳天に向かって、アスファルトが割れる勢いで蹴りを叩き込む。芋虫のようにもがき、力無く呻くタナトスをぎらぎらと見下ろし、ヴァルーはタナトスが持っていた鎌を握りしめる。


「雑魚は雑魚らしく、図に乗らねえことだな。思い知らせてやるよ」

「や、やめろ!」


 鎌が炎に包まれたかと思うと、竜の翼を模した武骨な蛮刀へと変わる。大きく振りかぶって背中に負うと、ヴァルーは咆哮とともに燃え盛る蛮刀をタナトスの顔面に向かって叩きつけた。


 噴き上がる爆音と豪炎が断末魔を消し飛ばす。道路を抉るほどの一撃は、タナトスの身体を跡形も無く灼き尽くしていた。


「ふんっ。思い知ったか」

(何なんだ……一体何がどうなっているんだ。説明してくれないか!)


 タナトスの死とともに、広場を道をウロウロしていたゾンビ達は跡形もなく崩れ落ちる。しかし人々は建物に立てこもったまま出てこない。一瞬にして怪物たちを薙ぎ倒した新たな怪物に、恐怖と奇異の視線を向けていた。飛竜はその幾百の視線と内側からの叫びに辟易して溜め息をつく。


「うるせえなあ。こんなところでジロジロ見続けられるのもあれだ。ちょっと場所変えるぞ」

(え? あ、ちょっと待つんだ、乾ちゃんを置いては……)


 飛竜は巽の言うことなどちらとも聞かず、脱兎の如く駆け出した。固唾を呑んで人々は彼を見送る。突如現れた怪物は敵だったのか味方だったのか。彼らの関心事はそれ一つだった。


「巽くん、巽くん! 大丈夫?」


 乾は通りに駆け戻ってくるなり叫ぶ。そんな彼女の前を、さっと竜人が通り過ぎて行く。しかし彼女の目には、竜人に覆い被さるように、ちらりと巽の姿が映っていた。


「巽、くん……?」


 最早夢か現かもわからない。呆然とした乾は、ただただ巽の背中を見送ることしか出来なかった。




 駅のそば、人目の少ない路地に踏み込んだ飛竜は、いきなり身体を巽に突っ返す。その瞬間、彼の身体はいつも通り、人間そのものに戻っていた。ぴたぴたと頬を何度も叩き、今自分は夢など見ていないことを確かめる。


「……夢じゃない。何が起きている?」

「ったく、ここまで来ても冷静でいられるとは、大した創造力(クリエーション)だな。いい宿主を見つけたぜ」

「へっ?」


 腰辺りから甲高い声がして、思わず巽は視線を落とす。その途端に巽は我が目を疑った。幻の中に現れた巨大な飛竜とは比べ物にならない、どう見積もっても子供の飛竜がバサバサと翼を羽ばたかせて宙に浮き、巽を真っ直ぐに見上げていた。


「な、何だよお前」

「気安くお前とか呼ぶんじゃねえ。俺にはヴァルーって名前がちゃんとあるんだ」

「ヴァルー? 君達は一体何なんだい? イデアとかカルチャーとか……」


 ともかく、目の前にドラゴンが飛んでいる事はひとまず気にしないことにして、巽は気にかかっていた事を尋ねる。するとヴァルーは巽を囲うようにくるくると飛び回り、彼の体を隅々まで見渡しながら答える。


「仕方ねえ、ギブアンドテイクだ。俺達はお前らが想像することで生まれた存在、想像存在(イマジナリー)だ。普遍像(イデア)とか戯像(カルチャー)ってのは、その種族分類の事だ」

「僕達の想像で生まれた存在?」


 質問をするほど解らないことが湧いて出る。巽はひたすら首を傾げるしかなかった。ヴァルーは頷くと、顔の真ん前に飛んできて巽の丸い目をじっと見つめる。その黒い眼には、小さなドラゴンの姿がくっきりと映っていた。


「ああ、そうだ。お前ら人類は自分達が生きている世界を理解するために想像した。犬や猫はどんな存在なのかってところから、どんな神がどんなふうに世界を治めてるのかってとこまでな」

「じゃあ君は、子供のドラゴンのイマジナリーって事かい?」


 三度巽が尋ねると、溜め息をついて、ヴァルーは顔をしかめて目を背けた。澄んだ瞳に映る自分の姿を、彼は見ていられなかった。


「そんなわけねえ。俺はちゃんと成体として想像されたんだ。お前の中で、俺のちゃんとした姿を見たろ」


 泉に立つ巨大なドラゴンの姿が巽の脳裏に甦る。巽は納得した顔して何度も頷いた。


「ああ、そういえば」

「……だが、俺はこっちに来るときに何か事故っちまったらしい。力が完全に現実に移せなくて、現実に顔出そうとしたらこの様だ。現実世界でデカイ顔しようとしてる奴等を叩きのめそうと思ったのに、とても出来やしない」

「はあ……」

「で、だ」


 にやりと小さな牙を剥き出しにしたかと思うと、ひょいとヴァルーは飛び上がり、巽の身体へと突っ込んだ。避ける間もなく、ヴァルーの身体は一瞬で巽に溶け込んでしまった。


「うわっ! まさか、宿主って」

(そうだ。クリエーションに満ちたお前の身体を使えば、俺も十分暴れられるってわけだ。カルチャーどもを追っかけてきてガキになっちまった時はどうしたもんかと思ったが、いい収穫だったぜ)


 彼の意識の隅でぬくぬくと丸まるヴァルーを感じ、巽は顔をしかめて頭を押さえる。


「勘弁してくれ。僕を利用するのか」

(いいだろ別に。どうせカルチャーどもはデカイ顔してろくな事なんかしねえ。俺は思う存分暴れたい。お前は自分の身を守れる。それで十分手を組む理由になんだろ)

「何を言っているんだ……」


 自分勝手なヴァルーにうんざり、巽はがくりと肩を落とす。しかし彼もお人よしだった。彼がいなければ助からなかったのは事実。それを思うと、ヴァルーを無下に拒絶する事も出来なかった。


「いいさ。あんなのがこれからも来ると言うなら、おちおちのんびりもしていられない。一応君の誘いに乗ってあげよう」

(そうこなくっちゃなあ。よろしく頼むぜ)


 尻尾を一薙ぎ、ヴァルーは欠伸一つして満足げに目を閉じた。傍若無人な彼に呆れ、巽は小さく苦笑いした。


「はいはい」

「巽くん! 巽くん! どこ行っちゃったの!」

「あっ。乾ちゃん、すまない!」


 乾の声が路地の向こうから聞こえてくる。巽は乾を置いてけぼりにしていたことを思い出し、顔色を変えて通りへと駆けていった。




 その時、まだ巽は気付いていなかった。どんなにも軽い気持ちで、運命の岐路に立っていたかという事を。



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