十五話 無限を司る
剣崎巽。神凪市を恐怖に陥れた怪物に誇りを傷つけられた彼であったが、自分の中にある折れない心金に気づき、『自分』を手に入れたヴァルーと共に怪物を打ち倒した。また、衆人環視の中限界を迎えた巽はその場に倒れ伏し、とうとう自らの正体を明かす事になったのである。
――よく晴れた日、喫茶店『ナナカマド』の中で四人の男女がボックス席を囲んでいた。彼らはいかにも幸せそうに笑っている。
「まさか、君が結婚する日が来るとはね」
「あん?」
銀縁の眼鏡を掛けた、穏やかそうな雰囲気の青年――白峰透がブラックコーヒーを飲むぼさぼさ髪の青年――剣崎翔一を見つめる。翔一は目を剥いて透のしたり顔を睨み付けると、左手薬指に光る指輪を彼に見せつける。
「ふざけんなよ? 俺だってなあ結婚ぐらいするっつーの」
「わかったわかった。わかったから」
「ったく。あいつ俺を何だと思ってんだろうな。なあ、美雪」
隣で二人の遣り取りを見つめていた大人しそうな白いワンピースの女性――剣崎美雪はちらりと振り返った翔一を見てくすりと笑う。
「そういう態度取るから三枚目になっちゃうんだよ?」
「……はい」
ぐうの音も出て来ず、翔一はうなだれぼそっと答える。クレバーな二枚目でいる事を至上とする彼にとって、その指摘はどんな言葉よりも痛い。肩を竦めて萎れている彼を見つめ、黒髪をポニーテールに纏めた勝気そうな女性――白峰琴音はにやにやと笑いながら美雪に向かって頷く。
「ちゃんと理解してるじゃん。翔一操作法」
「尻に敷くくらいの気合で行けって、琴音に言われたからね」
「美雪に変な事吹き込むなよ、お前」
にっこり笑う美雪の横で、うんざり顔の翔一は恨めしそうに琴音を睨む。琴音はそんな視線など構わず、鼻で笑って翔一の額をつつく。
「いいじゃん。そんな事より、子どもはどうするのよ?」
口角をくいと持ち上げ、いかにも興味津々という顔だ。美雪は真っ赤になり、翔一は歯を剥き出して威嚇する。
「エロガキみてーな聞き方すんな! んなもんお前らの知ったこっちゃねーだろ」
「さんざんエロガキみてーな事私達にしてくれたくせによく言うわね。ほれ。一人くらいは欲しいでしょ?」
歯をぎりぎり言わせている翔一は放ったらかし、琴音は耳まで赤くしている美雪の方に詰め寄った。世話になった先輩には逆らえず、美雪は小さく小さく頷く。
「まあ。そのうち……」
「子どもか。想像好きの君の事だ。付けたい名前とかはとっくに考えているんだろう?」
気を落ち着けようと思ってコーヒーを啜っていた翔一だったが、透の質問に思わず頬を赤らめ、彼は小さく頷いた。
「ま、まあな。子どもが出来たら『巽』って付けようと思ってる」
「巽? ただの方位じゃないか、それ」
「字面を見ろ字面を。己と己がぶつかり合っても共に有るんだぜ。こんないいことがあるかよ」
「己と己が、か……いかにも君らしい発想だ」
透が感心したように頷くと、翔一は得意げに頷いた――
薬品の匂い漂う病室で、乾は泥のように眠り続ける巽をじっと見つめ続けていた。時間を見つけては彼の側にいた乾だったが、一向に巽が目を覚ます様子はない。
「只今戻りました。状態から言ってももうすぐ目を覚ますはずですが……これ以上は彼次第ですから何とも言えませんな」
巽の中からエルンストがひょっこりと飛び出してくる。医学的なアプローチでは昏睡状態としか診断できない今の彼を正確に分析できるのは、イマジナリーのエルンストだけだった。
「ありがと。ほら、早く目を覚ましなさいよぉ」
乾は巽の頬を何度もつつく。しかし反応らしい反応は無く、乾は溜め息をついて肩を落とすしかなかった。
「全く。肝心な時に限って……」
「乾様。何故乾様はそれ程までにこの男へ思慕を寄せられるのですか? 私は胸が張り裂けそうでございますよ」
エルンストの悲しげな眼をちらりと見遣り、乾は口を尖らせ頬を染める。今さら意固地になるのも面倒になり、乾は巽の髪を撫でながらそっと口を開く。
「巽くんはね、いつも私の事を助けてくれたの。小さい頃に迷子になっちゃった時とか、泥だらけになって探してくれたりしてね」
「幼い頃の憧憬みたいなものでございますか?」
エルンストが尋ねると、乾は首を振る。
「違うの。まあそれまでも格好いいなって思ってたけど。私のお父さんとお母さんが居なくなっちゃった時、ショックでショックで、引きこもりになりかけたんだ」
巽の髪の毛をくるくると遊びつつ、乾はそっと目を閉じる。毎日のように鳴り続けるインターホン。窓を覗けばカメラが向けられる。乾は、怒涛のように襲い掛かる感情を整理する間もなく、ただ溺れそうになっていた。
「二人揃って有名人なもんだから、毎日のように記者が来たの。そいつら有ること無いこと聞いてきて、もう誰にも会いたくないってなっちゃったんだ。でも、巽くんは、どんなに酷いこと言っちゃっても、ずっと側にいてくれたの。本当は誰かに側にいてほしかったの、わかってくれてたんだ」
「それで惚れてしまったと。そういう事でありますか」
エルンストは残念至極とばかりにうなだれる。単刀直入な言い方に真っ赤になってしまった乾は、口元を震わせエルンストの首元にデコピンをくらわす。
「な、何でそう、短絡的に物事を繋げるのかな。よ、良くないよ。そういうの」
「ですが……乾様の日に日に募る思いは、最早私にも感じられぬ日は無いほどに――」
「うーるーさーいーっ。やーめーろーっ」
「……やめてくれ、乾ちゃん。本人の横でそういう話するの」
乾がエルンストの顎を押さえつけていると、顔半分を布団で隠した巽がいかにもバツ悪そうに乾を見上げていた。はっと息を呑んだ乾は、エルンストを放り投げて声を上ずらせる。
「な、何でこんな時に限って起きちゃうのよ」
「僕に聞かないでくれ。そ、それよりも……乾ちゃん、僕が寝ていた間、何があったんだい?」
顔を背けがちにして巽は尋ねる。話を逸らしてもらってどうにか息を整えた乾は、たどたどしい口調で話し始めた。
「え、えっとねぇ……色々あったよ」
「剣崎巽さんの容体は今どのような状態なんですか!」
「今昏睡状態だという情報がありますが!」
濡れ衣が解け、再びヒーローに返り咲いた剣崎巽の事を知るべく、多くの記者が目下交際中と見られる白峰乾へと迫る。しかし、マスコミアレルギーの乾は血相を変えて威嚇した。
「うるさい! あなた達に話すような事なんか無いっつの!」
寒空の下を一目散に逃げていく乾に、記者達はマイクやカメラを向けて必死に追いかけていく。
「待ってください! あなたと剣崎さんは交際中だとの噂がありますが?」
「どさくさに紛れて何て事聞いてんのよ! プライバシーの侵害で訴えてやろうか!」
最早埒が明かない。乾は物陰に隠れると、変身して姿を眩ませたのだった。
『……えー、今後とも、前署長である御垣康弘の意向を引き継ぎ、神凪署は敵対イマジナリーの排除とドラグセイバー、引いては剣崎巽の支援を全力で行っていく方針です』
細面のほんの少し頼りない男が、記者会見の場に立って訥々と述べていく。巽の正体が割れたことで、結果として内乱罪に問われたりはせずに済んだものの、自衛隊の治安行動を阻害した責任を取って神凪署の署長は依願退職をしたのだ。
スーツを着込んで出来る男の雰囲気を漂わせていた署長の姿を思い浮かべ、スクリーンを街角から見上げていた乾はため息をつくのだった。
「成敗!」
「ウボァー!」
避難の済んだ街の中、変身した乾は現れた怪物を鋭い一閃で切り裂く。並のイデアが乾の力に敵うわけもなく、情けない声を上げながら爆散した。相変わらず意識から隔絶されたエルンストは、彼女に気に入られようと恭しく褒め称える。
「乾様、見事な剣捌きにてございます」
「ふふん……でしょ」
その手には乗るかと、乾は剣を軽く払いながら上辺だけ得意になってみせるのだった。
かくかくしかじかを聞かされた巽は、話し終わってすっかりご機嫌斜めの乾を見て苦笑する。腕組みをしてむくれる彼女は、どこか愛嬌があった。
「そうか。乾ちゃんには迷惑をかけたね」
「ったく。いつもいつも掌返しがお上手なのよね。奴さん方は。疑いをかけてたのはどこのどいつらだっつーの」
乾はぶつくさ不満を零し、缶ココアを一気飲みする。その背後の扉が開いてそろそろと壮二郎が近づき、彼女の肩をそっと叩く。
「まぁ、それくらい図太くなかったらやっていけないということさ。受け入れようじゃないの」
「じいちゃん! それに……前の署長さん?」
びくりと跳ねて振り向いた彼女は、その隣に立つ、黒いスーツをぴしりと着こなした神凪署の前署長に気づいてキョトンと目を丸める。口の端に僅かな笑みを浮かべ、彼は静かに頭を下げた。
「御垣康弘だ。君達には、改めて礼を言いたいと思っていた。ありがとう」
ヒーローになったと舞い上がっていた頃ならいざ知らず、今となっては畏れ多い。巽はベッドから慌てて起き上がると、両手を振った。
「あ、いや、そんな。僕達は好きに戦っていただけですから」
「それでも君達は神凪のヒーローであるに違いない。無念の死を遂げた君の父の事を思えば、これは運命なのかもしれないな」
しみじみと呟く御垣を巽は見上げる。憧れの父と並べられて、巽は素直に嬉しかった。そんな彼をぼんやりと見ていた乾だったが、ふと気が付いて祖父の方に振り返った。
「というか。どういう取り合わせなの? じいちゃんと署長さんが一緒って……」
「君達が変身し、イマジナリーと戦っていたことは、白峰壮二郎氏から連絡を受けて知っていたのだよ。最初から」
「えっ? 本当なのそれ?」
御垣は壮二郎の肩に手を載せる。事もなげに本人は言うが、乾にとっては衝撃だった。目を丸くして思わず叫びそうになった乾は、照れくさそうに頭を掻く祖父をまじまじと見つめる。
「ああ。じいちゃん喋っちゃったんだよ」
「それなら最初から公表しとけばいいじゃないですか。それなら巽くんが変な疑いかけられて砲撃されることもなかったのに……」
脱力して椅子に崩れ落ちる乾に、御垣は静かに首を振った。
「最初から公表すれば、君達は奇異の目を向け続けられる事になっただろう。それに、君達の行動から類推するに、正体を君達は隠したがっていた。だから私は、君達の正体を神凪署の中でも一部の人間だけが知る情報としたんだ」
「なるほど……署長がずっとドラグセイバーをヒーローとして支援し続けてくれたのは、そういう事があったからなんですね」
巽は御垣の言動の数々を思い出す。思えば、巽達は彼の努力によってヒーローとしてやってこれたようなものだった。
「まあ、概ねそういうことになるな。それに、私はかつて剣崎翔一に救われた身だ。君を救うことで、少しでもその恩に報いたかったんだ。少々代償は大きかったかもしれないが」
しかし、そう呟く彼の横顔は晴れやかだった。再び巽に目を戻すと、力強く手を差し出す。
「これからもヒーローを全うしてくれ。私は応援している」
「はい」
小さく頷くと、巽はそっとその手を取った。
そんな病室を、向かいのビルの屋上から見つめる一人の影があった。細い肢体を覆う黒いブーツに黒いコート。僅かに覗くその手も黒革の手袋で覆われている。その影は何も言わずに踵を返すと、風に帽子の羽飾りを流しつつ、無言で歩き去っていった。
(……随分寝ちまったな)
遅れる事数時間、ヴァルーは巽の中で静かに目を覚ました。喫茶店の中、ハットにマスクの出で立ちで本に集中していた巽は、コーヒーを啜りながら微笑む。
(おはよう。君が僕の呼びかけにも応じず眠り込むとは、珍しいこともあったものだね)
(そうだな。……夢見てたんだよ)
起き上がったヴァルーは、欠伸をしながら翼を曲げ伸ばしする。カップを置いた巽は、小さく首を傾げた。
(夢? それもまた珍しいね)
(そうだな。俺も初めてだ)
(どんな夢だい?)
尋ねられたヴァルーは思わず躊躇してしまう。どうということのないささやかな日常、しかしあまりにも不思議な夢。ヴァルーは身を縮め。顔をしかめたまま小さく首を振った。
(……言えねえ。何て説明したらいいのかわかんねえんだ)
(ふむ……まあ、君がそう言うなら詮索はしない)
やっぱり嘘をつくのが下手だ。見抜いた巽はこそりと笑みを浮かべた。でも、とりあえずそっとしておいてあげよう。そんな事とは知らず、ヴァルーは小さく唸って虚空を仰ぐ。夢の中の自分は人間の青年となって、巽の話をしていた。妻と親友に囲まれて、幸せな気分で過ごしていた。
(あれは巽の、親父の記憶か……? 何で、俺が夢に見るんだ)
――巽くんのお父さんって、もしかしたらヴァルーみたいな人だったのかもね。
思案していたヴァルーの脳裏に、乾の言葉がちらつく。鼓動がわずかに早まる。泉に目を向けてみれば、相変わらず彼はドラゴンの姿をしている。夢に出てきた青年の面影などどこにもない。嘆息すると、ヴァルーは手持無沙汰にささくれた鱗を食み取り始める。
(まさかな。さすがにそれはねえよ)
神凪市に強く風が吹いている。シティタワーの屋上から街並みを見下ろした壮年の男は、後ろに立つシルクハットの青年に呼びかける。
「さあ、刻は来たよ。君達の手で、『リ・クリエーション』計画を成就に導いてくれ」
「同志よ。君が散々持て囃してきたヒーローは必ずや我等に立ちはだかると思うが、どうするつもりか」
読み終えたマンガを投げ棄てた青年は、真紅の瞳で男を見据えた。振り返った男は、革靴を鳴らして歩み寄り、青年の顔をじっくりと見つめた。
「君の裁量に任せる。計画に支障を来すような事でもしない限りはね」
「お任せください。必ずや吉報をもたらしましょう」
「頼んだよ。無限なる者」
頭を下げた青年にそっと囁き、男は自信に満ち溢れた笑みを浮かべてその場を歩き去った。
「くそっ! 面倒くせえな!」
四方八方から氷球をぶつけられ、真紅の鎧を纏ったヴァルーは苛々と叫ぶ。大量の雪ダルマが巽達を取り囲み、氷球を次から次へと投げつけていた。見てくれは可愛らしい雪ダルマでも、中身は立派なイデア、氷球の勢いは馬鹿にならない。ぽこぽこぶつけられる度に、つんのめりあるいは仰け反り、手に負えずにいた。
「喰らえ! 喰らえこの!」
「うるせえぞ! コソコソしてんじゃねえ!」
ヴァルーは吼え、怒りに任せて剣を目の前の雪ダルマに叩きつける。鈍い音がして砕け散るが、すぐに元へ戻ってしまう。そのまま顔面に雪玉をぶつけられ、思わず地面に倒れてしまった。
「くっそ、冷てえだろうが!」
跳ね起きたヴァルーは彼を押し潰すべく寄ってきた雪ダルマ集団を蹴り飛ばした。そのまま囲いを突き破りながら、ヴァルーは荒れた息を整えつつ呟く。
「……この調子じゃ、乾の方もきつそうだな」
(乾ちゃんは上手くやるさ。ともかく、さっさとジャックフロストの正体を見極めなければ。いくら体力を節約しても足りなくなってしまう)
「わかってらそんな事――アイテッ」
巽の言葉を適当に突っぱねようとしたが、油断したヴァルーは背面に一撃をもらって吹っ飛ぶ。悔しさの余り道路に拳を叩きつけ、声を荒らげる。
「クソがっ。こいつら、全部燃やしてやろうか!」
(燃やす、か。……少し代わってくれ。ちょっと試してみよう)
巽はヴァルーの愚痴に合わせ、顎をさすりながら呟く。瞳の光が消え、乗り替わった巽はベルトのポーチに手を差し入れた。そんな彼を取り囲み、両手に氷球を握りしめた雪ダルマ達は一斉に襲い掛かる。
「何企んでんのか知らないけど! そのまま雪まみれになって、凍り付いて、死んじまえ!」
「それはちょっと困るな」
巽はポケットからエアガンを引っ張り出すと、竜の身体を模した短銃へと変化させる。銃口を振り向けると、次々に雪ダルマに向かって火の玉を撃ち出した。次々に氷球を溶かしていく炎の弾に、中で見ていたヴァルーは目を見開く。
(おお。こいつぁいいな)
「いつまでも取っ組み合いばかりで戦っている場合じゃ無いと思ってね。少し試してみたのさ」
どんなに集まろうと所詮は雪氷の塊、炎に当てられてはその体を保っていることが出来なかった。
「やめろ! 融ける! 融けちゃうだろ!」
「悪いね。この街を雪で埋められては堪らないんだ」
「んもう! 熱いんだよ!」
湯気がもくもくと立ち上る中、融けた雪ダルマの中からさらに小さな雪ダルマが一体飛び出してきた。お尻のあたりに火がついて、彼は熱い熱いと叫びながらバタバタと走り回り、雪に尻を突っ込んで何とか火を消し止める。ひょっこりと跳ねたジャックフロストは、目を文字通り三角にしてミトンを嵌めた手を突きつける。
「やいやいやい! 雪ダルマに火を向けるおバカさんがいるかよ! 融けちゃうだろうが!」
「悪いが、こっちはさっさと融けてご退場願いたいんだよね。北海道と違ってね、この街は雪まみれになると色々大変な事になるんだよ」
「うるせー! そんな事僕の知ったことじゃねえやい!」
「……ちょっとお仕置きが必要なようだ」
駄々をこねる子どものように喚くジャックフロストに、巽は肩を落として銃を収め、拳を固めて掴みかかる。逃げようと跳ね回るが、正体が割れてはもう敵わない。背後からマントを思い切り掴まれてしまった。バタバタしても、街を雪まみれにした悪戯をドラグセイバーは見逃さなかった。
「やれやれ。出直して来たまえ」
「うるせー! 今年のクリスマス、絶対最悪な日になるからな。覚えとけよ!」
肩を竦めた巽は、ジャックフロストへ光に包まれたデコピンを喰らわす。クリエーションを流し込まれたお化けは、ぐずりながら彼の手の中で消えていった。
「はあ。やっと終わったか」
(やってらんねえな。悪戯気分でこんなことされっと)
ヴァルーの呟きに合わせ、巽は振り返って空を見つめる。鼠色の雲が空に積み重なり、しんしんと雪を降らせ続けていた。
しばらく空を見上げていた巽だったが、空に浮かぶ一つの影を見つけて目を凝らす。
「空飛ぶ、人間?」
ヴァルーもじっと影を見つめていたが、不意に押し寄せる強大な波に、思わずヴァルーは息を詰まらせかけた。鱗がぴりぴりとするような気迫に押され、ヴァルーは身構える。
(イマジナリーだ! 見てくれは人間に見せているが……)
「やあ、楽しそうだね。ヒーロー君」
フロックコートに身を包んだ一人の青年が、静かに空の彼方から舞い降りる。その全身から発せられる氷のような殺意に、思わず巽の身体は固まってしまった。震える手では、太刀を握りしめるのがやっとだ。切れ長の眼でじっと二人を見据える、恐ろしくなるほど色白な青年は、ふわりと跳んで巽達の目の前に降り立つ。その赤緑の瞳に、ヴァルーはとうとう思い至った。
「お前……ユニークだったのか!」
「ようやく解ったのか。だがしかしもう遅い。何でもない者よ。貴様はここで終わりだ」
片手を翳すと、激しい吹雪が舞い、巽達は堪え切れずに地面に投げ出された。身体の芯まで一瞬にして凍り付きそうになる。歯の根も合わず、意識の泉さえ薄氷が張った。ヴァルーは呻くと、渾身の力で全身を蒼炎に包み込む。
「何者かなんて関係ねえ! 俺は、俺はドラグセイバーだ!」
激しい炎が吹雪を溶かしていく。濛々と立ち込める蒸気の中、太刀を鞘に納めたヴァルーは凍った地面を蹴り出した。
「喰らえ!」
高く跳び上がり、勢いに載せて居合斬りを放つ。神速の鮮やかな一撃は、しかし青年に片手で受け止められてしまった。青年は無言のまま彼らを突風で吹き飛ばす。叩きつけられた足場が壊れ、彼らの頭上に無数の鉄骨が降り注ぐ。傷だらけになりながら這い出てくる二人を見下ろし、青年は淡々と呟く。
「そうだな。お前達が何者かなど、もう関係は無い」
光に包まれたその体は、瞬く間に黄金の鱗を持った巨大な蛇となる。とぐろを巻いて静かに尾を伸ばすと、ルビーとエメラルドの如く輝く瞳で二人を見据えた。
「我はウロボロス、無限なる者。我らの計画の為ならば、どんな者をも無限の獄へと突き落す!」
口蓋に白い輝きが宿る。周囲の空気が一瞬にして凍り付き、周囲はダイヤモンドダストに包まれていく。一目でわかるその破滅的な力に、巽は息を呑んだ。
「まずい。あれを喰らったらただでは済まない!」
「くそっ! つっても……!」
血塗れの右足。無数の鉄骨に押し潰されたせいで、脛当てが砕けてしまっていた。最早歩くのがやっとだ。もうこれまでか。巽は首を振ると、素早く額に手をあてがう。
「……仕方ない。ドラグセイバーは、君に任せたよ」
「おい、何言って――」
刹那、絶対零度の氷弾が巽の身体に突き刺さる。人形のように呆気無く、無力に吹き飛ばされて巽はビルの壁に激突した。断末魔の声も無く、目を見開いたまま、巽はその場にだらりと崩れ落ちる。突如現れた怪物を前に、神凪のヒーローは、手も足も出ぬままに負けたのだ。
「巽くん? 巽くん!」
やっと駆けつけられた乾に突きつけられる残酷な現実。倒れた巽を抱き、乾はただ慟哭するしかなかった。
その時、乾はまだ気づいていなかった。逆転の切り札は、未だ残されていたということに。