十三話 どす黒いドラグセイバー
剣崎巽。この街を脅かす殺人鬼を前にばてて動けなくなってしまったり、あまりいいところを見せられなかった彼は、半ば捨て身の戦法を取ってどうにか一矢を報いることに成功する。しかし、その時、殺人鬼に復讐という新たな火種を与えてしまったのである。
――その時、彼は普通の、どこにでもいるような青年だった。普通に大学に通い、普通に仕事に励んで、普通に彼女を作って、その普通さを喜んで享受する人間だった。
そんな青年は、運命の瞬間も、結婚式を控えた彼女と共に街中を歩いていた。高校の同級生。えくぼが愛らしい、優しい女性だった。明日に控えた結婚式を思い、二人は都会の喧騒の中、手を繋ぎながら歩く。これからもずっと、青年は彼女と共に何事も無く平凡に暮らしていくのだと思っていた。
しかし、世界は残酷だった。鈍い音が交差点の入り口に響き、彼女は悲鳴のような叫びと共に青年を突き飛ばす。フロントを血に染めたトラックが、交差点の真ん中に立ち尽くす彼女に襲い掛かった。彼女の下半身をバンパーで砕き、断末魔を挙げる間も無く乗り上げたタイヤが彼女を押し潰す。トラックは道路に彼女を引きずり、擂り潰しながらようやく止まった。彼女の肢体が赤々とした肉の塊になり、頭は柘榴のように割れた。華奢な身体が数トンの鉄塊にずるずるとのめり込まれていくその有様は、あまりに惨たらしい。
一瞬にして何もかもを砕かれた青年は絶叫する。心臓が握り潰されたように痛む。自分を救って死んだ彼女の亡骸は、あまりにも無残で、美しかった。
そんな彼の前でトラックのドアが乱暴に開かれ、一人の男がダガーナイフを抜きながら飛び降りる。彼は何事か喚きながら足を怪我し動くことの出来ない人々へ襲い掛かると、滅多刺しにして人々を殺めていく。肉体からナイフが引き抜かれる度に噴き出す鮮血。逃げ出したいのに、青年は目の前の光景に縛られてしまったかのように動けない。五人を轢き殺し、七人を刺殺した男は、狂気に魅入られた瞳を青年へと向けた。
自分も殺される。電撃のように駆け巡る思いは、自然に受け入れられた。何だ、結婚式の会場が、天国になっただけか。彼女を失ったショックが青年の思考さえも狂わせ始めていた。襲い掛かる男の姿はひどくのろまに見える。早く来い、早く僕を殺すんだ。青年は心の奥で叫ぶ。しかし、その刃は永遠に届かなかった。
男が青年に向かって刃を振り上げた瞬間、背後から手が差し込まれ、青年は脇へと放られる。力なく地面に倒れ込んだ瞬間、低い呻き声が響く。見れば、脇腹から血を脈々をあふれさせた黒いハットを目深に被った青年が、血塗られたナイフを握りしめる男の腕に縋り付こうとしているところだった。力が籠らず、とても敵わない青年は横薙ぎに振られたナイフに首元を切り裂かれ、飛んだ血は横に倒れている恋人を失った青年にまで降りかかる。白いシャツが血に染まり、顔にも斑点のようにまとわりつく。
頬を拭った青年は、手の甲に付いた血を、何者かに促されたかのように、舌で舐め取る。瞬間、『普通』を砕かれた青年の奥底に、抑えがたい欲求が屹立した。舌舐めずりして、青年は自らを助けた青年が、血塗れのボロ雑巾になりながらも、たった一人で殺人鬼を取り押さえる姿をじっと見つめていた――
『異能生命体が神凪市に現れてから四か月が経とうとしています。内閣は激甚災害指定を行い、自衛隊の投入を決定しました。また、市外への避難を要求する場合は、最大限配慮するとの声明も発表しています……』
スクリーンに映るキャスターが、淡々とニュースを語り続ける。人々もまるで他人事のように、その言葉には耳を傾けず交差点を行き交っていた。何故なら、上の支援が有るか無いかなど、彼らにとってはどうでもいい話なのだ。
『……我々神凪警察署は、異能生命体対策課にて対異能生命体用九ミリ徹甲弾を開発しました。これより実戦にて威力は検証することになります。十分な威力の発揮が確認できれば、ようやく我々も異能生命体への汎用的な対抗手段を得たと言えるでしょう。自衛隊と協力し、原因の追究と解決を急ぎます』
神凪署の署長が熱の籠った口調で成果を報告する。提供の映像では、激しい反動を受けてよろめきながらも、一人の警察が発砲し厚さ一センチの鉄板を貫いていた。それを聞いていた記者達は、涼しい顔で彼に質問を繰り出す。
『これから異能生命体C号への対応はどうなりますか?』
『同じ異能生命体であるC号への不安視は続いていますが』
感情の無い取ってつけたような質問に、署長はあからさまに眉間に皺寄せ答えた。
『我々は彼を脅威とは考えておりません。これまでの期間、異能生命体BD号……ティアラベイルを新たに支援者として得ながら、彼はずっと戦い続けてきました。市外からいらしたあなた方には実感が無いでしょうが、彼はこの街において不可欠なヒーローなのです。今更、彼を敵性因子として認識する方針は考えておりません』
有無を言わさぬ回答に、苦虫を噛み潰したような顔で記者達は黙り込む。他の記者達も二、三質問するが、署長の気迫に押されて『ドラグセイバー』に意を唱えることの出来る者はいなかった。そして、やはり市井の人々の中に、そんな応酬へ興味を示すものは中々いなかった。『救世竜ドラグセイバー』は、既に神凪市の都市伝説として常識になりつつあったのだ。
スクリーンはやがて特集として神凪のヒーロー『ドラグセイバー』に迫ると称し、様々なカメラに収められてきた彼らの戦いをまとめて解説を加え始める。信号待ちで足を止めた人々は、ぼんやりと彼が戦う姿を見上げる。まさにドラグセイバー当人である剣崎巽とヴァルーも、そんな中の一人だった。
(こうやってハイライトされっと、何だかこっ恥ずかしいぜ)
ヴァルーは片目を閉じ、舌をちろちろさせながら呟く。巽はにやりと笑うと、一仕事終えたとばかりに荒々しく大剣を担いで走り去るスクリーンの中のヴァルーを見つめる。
(でももう、こういうのも悪くないと思ってるんだろう?)
(まーな。こっちに来た時は気に入らねえヤツを好き放題ぶちのめせればそれでいいって思ってたが……こう、何だ。誰かのためと思って戦うのも、悪かねえ)
軽く尻尾を振りながらヴァルーは答えた。警察の対応も手馴れ、最早賑やかし程度でしかないカルチャーを適当にいなすような時は、野次馬に来た街の人々に手を振られ、応援の声を掛けられるようになった。
ヴァルーは邪魔だから下がれと叫ぶのだが、結局はどこか技巧に凝って魅せつけるような戦い方をしてしまう。視聴者カメラが提供した映像からは、バク宙しながらの斬撃や旋風脚を哀れなカルチャーに浴びせるヴァルーの姿がばっちりと映されていた。調子に乗っている自身の姿を目の当たりにして、ヴァルーはどんよりした雰囲気でうなだれる。
(うえー。バッカみてえだな俺は……)
(格好いいじゃないか)
(うるせえこの。天下のドラゴンをからかうんじゃねえよ。ほら、青になったぞ。さっさと渡れよ)
(わかったわかった)
信号が青へと変わる。きょろきょろと目を泳がせて騒ぐヴァルーに苦笑しながら、巽は鞄を肩に掛け直し、『ドラグセイバー』の秘密を胸に秘め、揚々と歩き出した。
そのヒーローの称号が堅くも脆いものであることを、二人は間もなく知ることになる。
「あ、ドラグセイバーだ!」
ジャンバーを着込んで公園を跳ね回っていた少女が、不意に足を止めて振り返り、可愛らしく覚束ない走り方で駆け寄ってきた。見下ろすと、少女は握手をせがみ右手を差し出している。しばし無言を貫いていたが、右手を伸ばすと頭を掴み、あっという間に握り潰してしまった。
悲鳴が響き渡り、公園にいた親子は蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。しかしその魔の手からは逃れられない。一瞬で追いつくと、次々に人々を背後から襲い、斬り殺していく。子どもを守ろうと物陰にうずくまっていた母親を見つけると、短剣を取り出して親子をまとめて滅多刺しにする。絹を裂くような声を上げながらも、母親は子を守ろうと必死に抱きしめている。
「美しい。愛のために血塗れになる姿は、興奮するほど美しいよ。美の極致じゃないか。天国で安らかに暮らすといい……」
引きつるように笑い、動かなくなってしまった親子を見下ろし呟く。全身から鮮血を滴らせたその姿は、鎧がどす黒く染まったドラグセイバーそのものだった。
阿鼻叫喚の地獄を前に、新たな悲鳴が響く。短剣を投げ棄てた彼はくるりと身を翻すと、目の前で凍り付いている女には手を付けることも無く、闇へと向かって走り抜ける。
残された凄絶な光景。人々は、ただ茫然と見つめていることしか出来なかった。
巽達が異変を知ったのは、惨殺があって間もなくの事だった。授業を受けようと講堂に入ると、休講の情報が黒板に張り出され、学生達が騒がしくしながら携帯の画面を覗き込んでいた。ただならぬ雰囲気に、昼寝していたヴァルーもむくりと身を起して学生達の様子をじっと見つめる。
(おいおい。何だ、何があった?)
(わからない。何か事件でもあったんだろうか……)
巽は後ろの方の席で得意げに何かを話している知人に気付き、スロープを駆け上って隣に座る。
「ねえ、一体何があったんだい?」
「巽、来たか。これ見ろよ」
どこか喜色満面という雰囲気を漂わせ、その知人は巽に携帯を突き出す。何やら大喜びしているようにも見える。異様な態度を感じて首を傾げながら、巽は静かにその画面を覗き込んだ。その途端、巽の目は大きく見開かれてしまう。
「ドス黒い、ドラグセイバーの本性……」
ニュースを見せられて巽は愕然とした。公園で家族数組を惨殺し、その後も各地で殺戮を繰り返す現行犯として目撃されたと、墨で塗り上げられたように真っ黒なドラグセイバーの姿が様々な角度から修正の加えられた粗い写真に収められていた。思わず拳がを握りしめ、顔も固く強張らせる。携帯をポケットに収めた知人は、そんな彼の異変には気付かずへらへらと笑いながら続ける。
「いやあ、俺はいつかこうなるんじゃないかと思ってたんだ。ドラグセイバー? あれだってただの怪物じゃないか」
激しい音が講堂全体に響き、騒いでいた学生達は思わず固まり振り返る。机に手を叩きつけた巽が目を見開き、びびって仰け反った知人に向かって怒りの籠った眼光をぶつけていた。
「ドラグセイバーをバカにするな。あれはドラグセイバーなんかじゃない。ドラグセイバーを騙る偽物だ」
「はぁ? おい、剣崎、どこに行くんだよ!」
収まらない怒りの余りに傍の椅子を蹴りつけると、巽は鞄を荒々しく引っ掛け講堂を飛び出す。耳まで届く鼓動と共に、否応なくその足取りは早まっていく。ドラグセイバーの名を穢された怒りが、巽を突き動かしていた。茫然として口さえ利けずにいたヴァルーも、ようやく事態を呑み込みかぶりを振る。
(何で気付けなかった俺は。夜に一人だけ殺んならともかく、白昼堂々これだけの人数相手にしたら、俺は普通気付くぞ)
(ジャミングでもしてたんだろう。クリエーションの波が僕達まで届かないように押さえ込んでいたんだ)
苦々しげに呟くヴァルー。巽は鉛色の空を見上げ、マフラーを固く締め直して吐き捨てるように答えた。
(無茶苦茶だぜそんなの。そんなことして人間を殺せる程度の力を発揮するなんて、普通は出来ねえ)
(普通はね。普通じゃない奴がいるじゃないか)
言われた瞬間に蘇る、狂った殺人鬼の影。巽が深手を負わせた事で連続猟奇殺人事件は途絶し、人々は安息を取り戻しつつあった。いつかはまた戻ってくるとヴァルーも巽も覚悟していたものの、そんな二人さえ予想しきれない最悪の帰還の仕方で、この街で何十に達する勢いで人を殺した殺人鬼、幾つものイデアを併呑した怪物は還ってきたのである。
それどころか、怪物の所業はただの最悪な帰還では済まなかった。当てもなく寒々とした道を走る巽の中で、ヴァルーは不意に翼で頭を抱え呻きだす。
(くそっ……待て。あいつは一体何なんだ? ふざけるな。イデアは、一存在につき一体だ。俺達を貶めるためだとしても、こんな策が取れるわけがねえ)
(どうしたんだ、ヴァルー)
ヴァルーの不調に引きずられ、巽も思わず足が止まる。血走った目を見開いて、ヴァルーはその場に倒れ込む。引きずられた巽も思わず崩れて歩道に膝を着いてしまう。
(有り得ないんだ。ドラグセイバーは二体存在できるわけがない。ドラゴンのイデアが二体存在することになっちまう!)
血が上っていた巽の頭が、急に冷えていく。
(違う。結論を急ぎ過ぎだヴァルー。もっと他にあたる可能性があるだろう。姿を偽っているとか……)
(それだけは有り得ねえ! イマジナリーはな、姿も性格も、何もかも、全部が俺達のアイデンティティそのものなんだ! あのクソ野郎がごちゃごちゃに混ぜ合わせてっけど、ドラグセイバーになるにはドラゴンのイデア……俺がいなきゃダメだって決まってる! なのに。……なのに!)
(落ち着け、ヴァルー。落ち着くんだ!)
錯乱しかけたヴァルーが叫び、意識の中で火を吐きながら暴れる。運動神経に情報が上手く伝わらず、巽は立ち上がろうとしてもその場によろめき何度も転んでしまう。震える手で頭を押さえ、白目を剥きかけ涎を垂らして吼えるヴァルーに巽は必死に呼びかける。
「ヴァルー、ヴァルー!」
その背後に、不安げな顔をして走る乾がやってきた。只事でない二人の様子を見るなり、顔色を変えて巽に駆け寄る。
「巽くん、どうしたの。どうしたの!」
「乾ちゃん、大変なんだ。ヴァルーが、混乱して――」
『神凪市東区にて異能生命体が発生。直ちに屋内へ避難してください。繰り返します。異能生命体が発生。直ちに屋内へ……』
その時、構内の各地に設置されたメガホンが一斉に騒ぎ始める。乾の足元に小さくなったエルンストが現れ、真っ直ぐに彼女を見上げる。
「カミナギアリーナの方角ですな。乾様。向かいますか」
「勝手に名前で呼ぶな! ……巽くん、大丈夫?」
「僕は大丈夫だ。問題はない。しかしヴァルーが、アイデンティティの危機に際してしまっている。このままでは――」
「くそがぁっ! 俺は俺だ。俺がドラゴンのイデアなんだ! ドラゴンのイデアのヴァルーなんだ!」
不意に巽の目が紅く輝き、乾を撥ねつけながら飛び起きる。悲鳴のように叫び、喘ぐように肩で息を続ける彼に、エルンストは目を剥いて叫んだ。
「貴様、乾様に何をしている!」
(ヴァルー! 落ち着け、落ち着いてくれ!)
「黙れ。黙れ黙れ黙れ!」
ヴァルーは両手を広げて真紅のドラグセイバーに変身すると、必死の形相で駆け出した。何とか起き上がった乾の腕に、エルンストが素早く飛び乗り彼女の目を覗き込む。
「大丈夫ですか、乾様」
「名前で呼ばないで。とにかく、私達も二人の後を追おう」
「承知です。乾様の仰せのままに」
乾は立ち上がると、既に見えなくなってしまったヴァルーの後を追って駆け出した。
異能生命体出現の報は、もちろんカミナギアリーナにも届いていた。四か月前に中止となっていたエモーショナルジーンの振り替えライブのため、多くのファンが集まっていたその会場で、恐怖に駆られた人々は騒ぎこの場から我先にと逃げ出そうとしている。警備員達の声も届かない。ステージに立ち尽くす三人のアイドルは、そんな光景を呆然と見つめるしかない。
「みんな、みんなも早く避難を……!」
ステージ脇から飛び出してきたマネージャーが、三人に向かって慌てた様子で手招きする。赤と黄の衣装をまとった少女は彼に従って逃げようとしていたが、青の衣装を着込んだ少女――神木さやかは人々が混乱し逃げ惑う姿をその場に立ち尽くして眺め続けていた。入り口に人々が殺到し、今にも誰かが押し潰されてしまいそうになっている。しかし誰もそんなことに構いやしない。こんな時に本当に怪物が襲い掛かったらどうなるか。考えが及ぶよりも先に、神木の手はマイクを手にしていた。
「落ち着いてください!」
スピーカーがハウリングしかけた甲高い叫びに、思わず人々は立ち止まってステージを振り返る。神木は自分をじっと見下ろす人々を見渡すと、再び息を吸い込んで声を張り上げる。
「落ち着いてください。慌てて逃げても、むしろ危ないだけです。怖がることなんかないじゃないですか。私達には、この街のヒーローのドラグセイバーがいるんですから!」
ドラグセイバー。どんな醜聞が舞い込もうと、神木にとって彼は窮地を目の前で救ってくれたヒーローだった。しかし人々にとってそんなこと知ったことではない。くるりと振り返った男は、顔をくしゃくしゃに歪めて叫ぶ。
「ふざけるな! あの殺人鬼がヒーローなもんか!」
「そうだ。奴はヒーローぶって俺達を油断させてから襲い掛かった最低の怪物だ!」
アリーナに響くドラグセイバー憎しの大合唱。心臓が絞られ、今にも泣きそうな顔をして叫ぶ。
「待ってください! おかしいじゃないですか! みんな彼に何度助けられてきたんですか。あれは、絶対ドラグセイバーの偽者です。彼は偽者を倒して、きっと身の潔白を証明します! だから、だからドラグセイバーを信じて!」
必死の叫びも届かない。目を見開くファンだったはずの人々は、手に持っていたメガホンやらタオルを神木に向かって投げつけた。
「何言ってんだよ! あんな殺人鬼を信じられるなんて、お前は人間じゃねえ!」
「悪魔! 怪物の手先!」
「死んじまえ! お前なんかドラグセイバーに殺されろ!」
彼女の頬をはらはらと涙が伝う。掌をあっという間に返し、悪口雑言の限りを尽くす人々に、もう何も言い返すことが出来ず神木はふらふらと後退りする。
「そんな……どうして……」
罵声に耐え切れなかった彼女は、涙を拭うことも出来ず、しゃくりあげながら走り去るしか出来ない。アリーナには、彼女への憎悪がそれでもなお響き続けていた。
曇天を舞うヒッポグリフの、さらに空高くから斬りかかってヴァルーはその羽毛に包まれた脇腹を切り裂く。甲高く鳴き叫びながら地面に墜落したそれに、容赦無くヴァルーは刃を深々と突き立てる。いくらオリジナルといえど、二度も致命的な傷を与えられれば最早成す術も無い。白熱した傷口から爆発を起こし、跡形も無く消えてしまった。
「くそ。くそっ。くそっ!」
有り余る恐怖をヒッポグリフに叩きつけても、次から次へと湧き出してくる。自分の信じていたものが全て壊れてしまう。不安がひたひたと迫ってくる。怯え震えたヴァルーは、腕に力を宿らせたまま、錯乱のままに叫びながら剣を地面に叩きつけようとした。はっとした巽は意識を引き、真紅の姿に戻って不意に力を失ったヴァルーは、大剣を取り落してその場に倒れ込んだ。それでもなお狂ったように叫びもがくヴァルーに、巽は必死に呼びかけた。
「やめろ! 今暴れたら、本当に僕達はこの街に害を成す黒いドラグセイバーに成り下がってしまう!」
「そんなこと言ってもよ! そんなこと言われたって……怖いものは、怖いんだよ!」
ヴァルーが両手で頭を抱えて叫ぶ。巽のどんな言葉も、今のヴァルーには届かない。意識を内へ引き剥がそうとしても、恐怖に支配され凝り固まった彼の意識は強固に張りつめ触れることも叶わない。このまま暴れられるわけにもいかず、巽は再びヴァルーと身体に相乗する。その身を蒼く染めながら、巽はどうにか暴れようとするヴァルーを抑え込む。
そんな時、遠くからエンジンの轟音が響く。見れば、一台の戦車と二台の装甲車が並走してこちらへと向かってくるところだった。
「自衛隊……」
呆然と見つめていた二人だったが、その戦車の砲門が彼らを睨み付けた瞬間、目を剥いた巽は咄嗟に光を全身に巡らせ鎧を固める。
徹甲弾が彼の胸に炸裂した。勢いそのままに吹き飛ばされ、巽は停まったバスに叩きつけられて倒れ込む。貫通だけは免れたが、鎧は鱗が剥げ、大きな亀裂が入っている。側に拉げて転がる砲弾を見つめ、巽は愕然として叫ぶ。
「……本気で撃ってくるなんて!」
「畜生! 俺達は、俺達はこの街を守ろうって戦ってきただけだろうが! 何で裏切られなきゃならねえんだよ!」
牡丹雪が舞い落ちる。よろめきながら立ち上がり、拳を握りしめてヴァルーは叫んだ。しかしその砲門が彼から狙いを背けることは無い。矢も楯もたまらず逃れようとしたとき、側面から襲い掛かった何かに、二人は踏み倒されてしまった。
「それはお前達が欺瞞に満ち溢れた存在だからさ!」
「お、お前は……」
紛れも無く、それはイマジナリーの力を吸収して野放図に暴れ回ってきた殺人鬼だった。しかし、巽は自分の認識に自信を持ちきれない。全身を覆う鎧は赤黒く脈打つ繊維に覆われかつての姿を留めない。何の獣ともつかない髑髏を模していた兜は、あちこちに眼を思わせる球体が浮かび上がり、そのどれもから血涙を垂らしている。正真正銘の怪物と化した殺人鬼は、二人の首根っこを掴んで立ち上がる。
「驚いただろう? これは僕だ。僕そのものだ。この世界にある僕の全てだ! 愛が血にすり替わった哀れな僕の全てだ!」
「何を、言っているんだ!」
「イマジナリーを取り込み過ぎて自我がぶっ壊れてやがる! このままじゃ暴走すんぞ!」
装甲車から放たれる機銃の雨に撃たれながら、ヴァルーは自らを押さえ込もうとする腕に抗いながら呻いた。喚いていた殺人鬼は不意に低く笑い始めると、巽達を突き飛ばし愉悦の目で見下す。
「暴走? 何を言っている。君には言われたくないねえ。君のような、何でもない紛い物には!」
青に黄に赤に明滅を続ける目を見開き、殺人鬼は渾身の力でヴァルーの罅割れた鎧に蹴りを入れる。鈍痛に呻きながらも足に食らいつき、ヴァルーは虚ろな目で殺人鬼を見上げる。
「ふざけるな。お前に、何がわかる」
(わかるとも。貴様は偽者で、私が本物だということは)
殺人鬼が二人の額に手を当てた瞬間、どちらからとなく息を呑む。ヴァルーの数倍の巨躯を持つ漆黒のドラゴンが、意識の泉を前に現れたのである。
「我が名こそヴァルー。本当の、ドラゴンのイデアだ」
「違う! 俺が、俺が本物だ。本物なんだ!」
頭を押さえたヴァルーは、その場にうずくまって叫ぶ。過呼吸さえ起こしているヴァルーを蔑みの目で見つめ、漆黒の竜は淡々と詰め寄る。
「見苦しい存在だ。その見苦しさこそが自らが偽りの存在という証明だという事にも気づかぬか。お前はこの現実世界にまともな姿を取って現れることも出来んだろうが。イデアとして持つべき自らが刻み付けられてきた記憶すらないのだろうが? 貴様はそれでも、自分がドラゴンのイデアと言い張るか」
ヴァルーの中で何かが砕けた。その通りだった。ヴァルーのように、現実世界でろくな姿を取ることの出来ないイデアなど、今まで存在しなかった。自らが現実世界において遺されてきた記憶を持たないイマジナリーなど、彼をおいて他にいなかった。
意識がふと遠のく。蒼炎に染められた鎧は真紅へと戻り、怪物の怒涛のような攻撃を防ぎ続けていた巽は愕然として叫ぶ。
「待て! 気をしっかり持ってくれヴァルー! このままでは……!」
「ほら、ヒーローなんだろう。君達はこの街を救うヒーローなんだろう? 自分くらい、救ってみたまえよ!」
鳩尾に深い一撃をもらった巽は、最早立つこともままならない。ドラゴンの幻影は消え、ヴァルーは意識の泉に崩れて心神喪失したように呆然と目を開くだけだ。変身をようやく保つ巽を、怪物は首を掴んで突き上げる。
「僕は壊れちゃったんだよ。二十一年前に神凪市で起きた、トラックの通り魔事件で。僕を庇って、ぐちゃぐちゃになって死んだ婚約者が、この上も無く美しかったんだ。美しかった。肉体の中身さえ晒してあまりにも扇情的で!」
「何を……言ってるんだ」
支離滅裂な男の叫びに頭が追いつかず、息も絶え絶えに巽は呟く。頭全ての目をぎらつかせ、首を絞める手をさらに強めて男は叫んだ。
「こんな壊れた僕は死ぬはずだった。そのまま車を降りてきた通り魔に殺されてね! でも僕は死ななかった。神凪のヒーローとかいう不愉快な奴に庇われて!」
巽の身体が衝撃に固まる。二十一年前に生きた神凪のヒーロー。それは、神凪を襲った危機から人々を救った一人の若年探偵。剣崎翔一以外には有り得なかった。
「だからヒーローは嫌いなんだよ! あそこで僕が死んでいれば、僕がこの二十一年で何十何百も人を殺すことは無かった。ただの野郎のちっぽけな自己満足が、死すべき殺人鬼を世に解き放ったんだよ!」
地面に叩きつけるように巽を投げ棄てる。ゴム鞠のように跳ねて、鎧のあちこちが砕けた巽は呻く。
「最近思い出した。だから私は、ずっとお前が不愉快だった。最高の痛みを与えて、殺してあげよう!」
「……ふざけるな。ふざけるなぁっ!」
起き上がった巽は全身を震わせて絶叫する。呆けるヴァルーを差し置いて、父を貶された怒りに全身を燃え上がらせた彼はその炎を右手の一点に集めて殺人鬼に放出する。紅焔を殺人鬼はふらりと躱し、その奥には新たな砲弾を撃たんとしていた戦車があった。降り積もる雪を溶かして地面を焼き、業火が戦車へと迫る。
刹那、純白の美姫が戦車の前へと降り立った。はらはらと舞い落ちる雪の花びらをレイピアの一振りで掻き集め、ホワイトアウトを引き起こす。現れた自衛隊員の目も、狂った殺人鬼の目も激情に駆られた巽の目も奪い去り、レイピアを握りしめた乾は一人駆け出した。
その時、誰もがまだ気づいていなかった。ドラグセイバーがドラグセイバーであることの意味を。