十二話 正義の道を往く
剣崎巽。その身に宿す新しい力を試すべく、怪しい力を秘めた青年は虎のイデアを呼び出し、その実力を確かめるよう命じる。その実力差を前に不利を悟った虎は退却を決意するものの、突如現れた殺人鬼にその身を吸い取られてしまった。
「ふざけるな。そんなことは許されない!」
巽は拳を握りしめると、再び目にも留まらぬ速さで襲い掛かる。しかし相手の反応速度とは完全に互角、どんなに速い一撃も受け止められてしまった。差し出された籠手に二度蹴りを放って間合いを取り直し、ヴァルーは怪物と化した殺人鬼を見つめる。
「くそっ! 冗談じゃねえぞてめえ。キマイラ化して強くなったつもりかもしんねえが……ぜってえツケが回るぞ」
「脅しのつもりなら無駄だ。私の健康は至って良好だからねえ。早くこの力を試したい余りに、滾ってしまっている以外には」
ねじが外れたように笑いながら、怪物はじりじりと迫る。慎重に構えを取りながらヴァルーは怪物との間合いを測っていたが、不意に巽が呻いてその場によろめき膝をつく。荒く息を吐き、蒼い輝きが薄れて真紅の身体へと戻ってしまう。
「巽! おい、マジかよ」
(ダメだ。これ以上は……変身そのものが解けてしまう)
真っ青な顔で枯れかけた意識の泉へ倒れ込む巽を見ては、ヴァルーも無理強いは出来なかった。悔しげに頭を抱えるヴァルーを見下ろし、怪物は蔑みヴァルーの首根っこを掴む。
「やれやれ。口だけなのは相変わらずか」
ろくな抵抗も出来ず、ヴァルーは警備車に叩きつけられる。警察はその隙をつき、短剣を抜いた殺人鬼に向かって発砲を始める。全身から火花は飛び散るが、強化された肉体を前にしては鉄砲も豆鉄砲も大して変わらない。溜め息をつき、殺人鬼は身体の表面にこびりついた鉛弾を払い落としていく。
「いけないな。この程度の刺激では感じることも出来んねえ」
「ちっ……」
衝撃で気絶しかけている巽を保つのが精一杯で、ヴァルーは立ち上がることもままならない。しかしその時、弓形の輝く刃が飛んできて、あっさりと怪物を吹き飛ばしてしまった。
「おおう。これは中々刺激的だが……」
「ドラグセイバーに手出しはさせないわ」
一角のティアラを頭に輝かせる純白の戦姫がバスタードソードを構え、警備車の上から真っ直ぐに怪物を見下ろしていた。さらに彼女は剣を振るい、光刃を飛ばしていく。起き上がった怪物は紙一重で刃を躱しながら、舐めるような眼差しで乾の肢体を見回す。
「とんだじゃじゃ馬だなあ。このまま遊ばせてやるのが大人の嗜みというもの。だがやはり君のような女は私好みの悲鳴を上げるまで調教するに限る……!」
怪物は素早く殺到し、一気に斬りかかる。しかし乾は動じずに手の平を差し出す。すると目の前に光の壁が現れ、男を弾き返してしまった。
「そう簡単にやられないわよ」
「ほう。ガードは固いか。ならば――」
舌なめずりした怪物は、指をいやらしく曲げ伸ばししながら迫ろうとする。しかし身体が足元が縺れ、怪物はよろめき膝をつく。
「これは何だ。身体が言うことを聞かん……」
「あいつのクリエーションに当てられて、抑え込まれていた中のイデアが活性化したか」
ようやく起き上がりながら、ヴァルーは身体の動きがぎこちない怪物を睨む。引きつるようにがくがくと歩きながら、怪物は目を輝かせて乾を見上げる。
「ふむ。中々甲斐のある女だ。次に逢える時を楽しみにしているよ」
「私は一生会いたくないわね!」
乾は剣を振り回して光を飛ばす。地面を抉るほどの一撃だったが、もうもうと立ち上る煙の後には怪物はいなかった。
「……逃げたか」
悔しげに剣を一薙ぎすると、乾は足早にふらついているヴァルー達の元へと駆け寄った。変身を保つのもやっとか、ヴァルーはいつものように強がることさえ出来ずに乾へ向かって倒れ込んだ。
「大丈夫? 二人とも」
力なく頷くと、ヴァルーは乾の肩を借りてそろそろと歩き出す。巽は意識の奥底でぼんやりと目を開いたまま、何の反応も示さない。苦々しげにヴァルーは顔をしかめる。
「俺はいい。こいつは休ませねえと……」
――巽は天高くから燃え上がる街を見下ろしていた。人々が恐怖に顔を凍り付かせ、必死に逃げ回っている。しかし巽は何も考えられなかった。ぼんやりと、蟻でも見るかのように彼らを見渡し、巽は腕も尻尾も振り回して目の前のカミナギシティタワーを薙ぎ払う。崩れた瓦礫に混じる人々がただの肉塊へ帰していっても、何の痛痒も感じない。ひたすら、頭に向かって命じ続ける声に従って、巽は全身の熱を口蓋へと集める。
「壊すんだ。全て……」
七つ首の赤い竜へと変わり果てた巽は、神凪市へ向かって、地獄の業火を投げ放った――
「うあっ! ……夢、か」
ベッドから跳ね起きた巽は、冷や汗を垂らして周囲を見渡す。頭を押さえる彼に、立ち上がった乾は側に駆け寄り彼の青い顔を覗き込む。反射的に顔を背けた巽に不穏な空気を感じ、乾は顔を曇らせる。
「また悪い夢でも見た? 最近そればっかりだけど本当に大丈夫なの?」
「ああ。大丈夫だ。問題ないよ」
巽は乾と顔を合わせようともせずに答える。そんな返事で納得できる乾ではない。彼女は首を振り、巽の肩を掴んで無理やり自分の方を向かせる。
「問題ないって言うときは大体問題ありなの、巽くんは。ほら、何かあるんなら言って」
しかし巽は頑なだ。唇を噛み、静かに首を振り続ける。
「いや、僕は本当に大丈夫だから……」
乾は眉をひそめて巽を探り続けるが、折も悪く壮二郎が部屋に入ってきてしまった。ぱっと乾が巽を解放すると、壮二郎はとぼけたように周囲を見渡してから、服を整えている巽に目を向ける。
「乾、巽くんは……良かった、起きていたか。すまないんだが、ちょっとパソコンを見てくれないかね。どうにも上手く動かなくてね……」
「え。おじいちゃん、ちょっと今は……」
「わかりました。今行きますよ」
難色を示した乾を押し退け、巽は素早く立ち上がり、嬉しそうに微笑んだ壮二郎の後に従って部屋を出て行ってしまった。
「ちょっと巽くん。……あーあ。行っちゃった」
返事もなく、巽は背を丸めてさっさと言ってしまった。乾は息を荒らげ、肩まで伸びた髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜる。今の今までコーヒーカップに頭を突っ込んでいたヴァルーは、ぬっと顔を持ち上げどんよりした顔の乾を見つめる。
「放っとけ。あいつが頑固な時はマジで頑固だろ。お前の方がそれはよく分かってんだろうが」
「まあ、そうだけどさ……」
頬杖ついて口を尖らす乾。彼女はとにかく巽が心配で仕方ないと言った様子だ。コップの縁に寝そべり、ヴァルーは乾に上目づかいして説教じみた口調を続ける。
「やきもきしたってしゃあねえだろ。そう簡単にあいつがくたばったりもしねえさ。そんなに心配なら、ちゃんと彼女として側にいてやった方がいいんじゃないか?」
彼女、の単語を聞いた途端に乾は眉をひくつかせ、さっと身を起こしてじっとヴァルーを見下ろす。
「何でそんな話になるのよ。巽くんと私は幼馴染よ。これからもきっと、ずっと」
「お前なあ、もういい大人だぜ? いい加減男女の友情気取んのやめた方がいい。むしろ不健全だ」
舌をべっと出すヴァルーに苛立ち、乾は唇を噛んでその頭を片手で掴んで持ち上げる。乾の力には敵わず、ヴァルーはひたすら足をばたばたさせるばかりだった。
「ただのドラゴンのくせに何わかったような口利いてんのよ」
「てめえ、俺はお前のためを思って言ってんのに……」
ふと洩れる溜め息。乾は力なくヴァルーを離すと、だらりと腕を垂らしてうつむく。その目は寂しさに満ちていた。ふと、押し隠していた思いもぽろりと溢れる。
「そう出来たら、どんなに楽か」
ヴァルーは首を傾げる。巽の想いも乾の想いも知っている彼にしてみれば、二人のやりとりは滑稽でしかない。爪でカップをかちかち鳴らし、心底不思議そうに首を傾げる。
「よくわかんねえなぁ。お前ら。お前の親父どもだってもう少し柔軟だったぜ」
「まあねえ。言ってたっけお母さん。巽くんのお父さんに余計なお節介されて、結婚しちゃったって……うん? ヴァルー、なんで知ってんのよ。ってか、まるで自分がやったみたいな言い草だし」
最初こそうんうんと頷いていた乾だったが、ふと違和感に気がついた乾は真顔になってヴァルーをまじまじと見る。いつものように喧嘩腰になろうとしたヴァルーだったが、不意に目を瞬かせ、間抜けた声で頭を掻く。
「あ……何でだ? よくわかんねえ」
「じーっ……」
見つめられたところで堪らない。ヴァルーはふいと首を反らし、わざとらしく窓の外を見つめて騒いだ。
「あ、ああ! おい、雪だぞ、初雪だ」
「そうね。……初雪か」
馬鹿にしたような冷ややかな視線を送りつつヴァルーのごまかしを聞いていた乾だったが、卒然目を閉じると、頭を垂れて沈黙する。
「どうしたんだよ」
ヴァルーが尋ねると、乾は頷いてちらつく雪を見つめる。
「お父さんやお母さんが居なくなっちゃったの、初雪の日だったんだ。もう六年になるのか……早いなぁ」
「ああ。そうか。お前の親は行方不明なんだったな」
コーヒーを飲みつつ、ヴァルーは同情するかのような眼差しを乾へ向ける。静かに笑みを浮かべると、彼女はうんと伸びをする。父や母と過ごした日々は、既に遠い思い出だった。
「ヴァルーが他人の事を思いやれるなんてね」
「うるせえ。ただ……俺も昔から何だかつまらなかったような感覚しかなくてよ。何だかわかる気がすんだよ」
「そっか。イデアは一種類につき一体だっけ。ということは、肉親も何も居ないんだね」
ヴァルーは頷きながら顔をしかめる。乾の言うことももちろんその通りだが、それ以上に、自分でさえ底を見られない悲しみが肚の奥底に巣食っていた。どこか、恐れにも似ている。記憶を探ろうとしても、黒々とした闇に見つめ返されるばかりだった。
「よくわかんねえ。よくわかんねえんだよ」
呟くと、がぶりと顔をコーヒーへと突っ込んだ。乾は首を傾げると、コーヒーを自棄飲みしているヴァルーをしばし見守っていた。
「はあ。とりあえず終わったよ。そろそろパソコンを買い換えたほうがいいかもしれないね。ハードディスクがダメになりかけてる」
「本当に? またじいちゃんに操作教えるところから始めるのかあ」
感傷はどこへやら、乾はぺたんと倒れて呻く。そんな彼女から目を離し、巽はヴァルーを見つめる。翼の動きのせわしなさが、彼の目につく。
「どうしたんだい? ヴァルー」
「……いや。別に」
ヴァルーはカップから顔を上げると、こそこそと目を背ける。本当にこの竜は繕うのが下手だ。巽はやれやれと首を振ると、指を伸ばしてそっとその背を撫でる。ヴァルーは眉間に皺を寄せ、細い尻尾で払いのけた。子ども扱いされているようで、ヴァルーは気に食わない。
「何するんだ。バカにしてんのか」
「素直じゃないからさ」
「ああ? ……ああ、おいお前。そういやお前の親の名前って、何て言うんだよ」
ヴァルーは目を泳がせ、いきなり乾の方に振り返った。わざとらしいにも程がある。乾はテーブルに突っ伏したまま苦笑した。
「透と琴音だけど。それがどうしたのよ?」
「トオルとコトネ?」
急に、ヴァルーは目の色を変える。不意の反応に、ぼんやりしていた乾はちらりと顔を上げた。
「何、どうしたの」
「トオルとコトネの名は聞いたことがございますな。イデア界にて」
いきなりエルンストが乾のそばに現れる。飛び上がらんばかりに驚いた乾は、しかめっ面でエルンストの頭を引っ叩いた。
「い、いきなり出てこないでよ! びっくりするでしょ!」
「今の一撃良うございました。ありがとうございます」
「……ああ、うん。知ってるのかい? 乾ちゃんの、父さんと母さんについて」
平常運転はスルーすると、巽はおもむろに尋ねた。エルンストは静かに頷き、きっと目の色を変えて巽を見上げる。
「知ってると言っても、イデア界は現実世界のように街があってイマジナリーが生きているという世界ではない。集合的無意識下による想像の結果により自らのアイデンティティを絶えず確認し続けているのみで、たまに意識間の交流が行われているだけだ。そこにある時、強力なクリエーションによるノイズが発生した。結果現れたのが、トオル、コトネという意識だ」
「トオル、コトネという意識……」
乾はぽかんとして呟く。彼女もよもやこんな形で二人の消息を聞くことになるとは思っていなかった。急にエルンストは目を伏せると、くるりと乾に振り返り、申し訳なさそうに目を伏せる。
「申し訳ございません。私にわかるのはこの程度です。活発に動いているその存在は折に触れて認知していましたが、彼らが積極的に関わりを持っていたのはユニークの方ですから」
「ユニーク……神話に個として現れる存在か」
巽は呟く。ヴァルーは欠伸をすると、おちょくるような口調でエルンストの言葉を引き継いだ。
「ああ。俺達なんか遠く及ばねえお偉い様さ。特にその中心にある『審判者』は全てのオリジナルと連結してる、イデア界の核みてえなもんだ」
乾は静かに顎を撫でながら軽く唸る。いつも穏やかに暮らしていた二人の姿からは二人の思惑は想像もつかなかった。
「お父さんとお母さんは、そんな存在達に触れようとするなんて、一体何のつもりなんだろう……」
「まあ、お前の両親だって決まったわけでもねえがな。トオルはよくある名前だし、コトネも多い名前じゃねえが、やたら少ねえわけでもない」
「だが、可能性は高い」
ヴァルーは釘を刺したが、巽は即座に人差し指を立てる。
「乾ちゃんの両親は二人で小説家として活動していたんだ。その活動形態上あまり文壇に名を連ねることは無いけれど、作品そのものはどれも高い評価を受けていた。創造された世界観の緻密さは、ヨーロッパの本場ファンタジーにも引けを取らないとね」
「はあん。なるほどな。まあその生活は、一応クリエーションの高さを示す指標にはなるか。……そうだ。お前のクリエーションのバカ強さから言っても、わかるか」
不意に納得したヴァルー。自分から接触を受けたわけでも無かったのに、乾は一瞬にしてヴァルーの存在を認知し、巽から引っこ抜いて見せた。自分が変身した時は、余剰のクリエーションを直接飛ばして攻撃していた。常人離れしたクリエーションの成せる業とする他に無かった。
「お父さん。お母さん……」
当の乾はただ父母を呼んで、どんな表情をしていいのかもわからなくなっているようだった。巽も顔に手を当てながら俯くと、かける言葉も見つからず、乾をじっと見守っていることしかできなかった。自分の無力さを、そうして思い知るのだった。
光の鎧を纏った騎士団が神凪の街を席巻する。街を貫く幹線道路を一直線に駆け抜け、通る車通る車を踏み越えていく。パニックの余りコントロールを失った車は外壁に突っ込み、他の車に追突し、無残なガラクタになって道路に転がる。
「突撃! 突撃だ!」
十人の騎士達は寄り集まり、槍を掲げて叫ぶ。渋滞、あるいは必死にUターンしようとする車を睨み付け、再び騎士は槍を構えて車の列へと突っ込もうとする。だが神凪で暴れる存在をヒーローが許したりはしない。コンクリート壁を乗り越え現れたドラグセイバーは、大剣を振り回して騎士を弾き飛ばす。
「エインヘリアルか。たかがカルチャーなら気張る必要もねえな」
突き出された槍を難なく大剣で受け止める。羽飾りの付いた兜を被る騎士が槍をぶるんと振るい、仏頂面でヴァルー達を見下ろした。
「貴様がドラグセイバーか。相手にとって不足はない」
「俺達にとっちゃ不足なんだがな。おいお前、ちゃんとその辺の奴ら助けとけよ!」
突撃を片手でいなしながら、どうにかこうにか壁をよじ登ってきた変身態の乾に叫ぶ。壁の上にだらんとうつ伏せに垂れ下がり、乾はあからさまに不機嫌そうな声を出す。
「ったく。人遣いが荒いんだから」
騎士達を易々と圧倒している二人を尻目に、乾は恐ろしさのあまり事故車から出ることも出来ない人々を宥めて慎重に外へと導く。幸い緊急用の避難口は近場に存在していた。
壊れたドアを拝借して長方形のライオットシールドを作り、周囲に気を張りながら彼女は不安げに後ろを振り返ろうとする人々を手招きする。視界の向こうでは小さな爆発が次々に起き、甲斐もなく圧倒されたエインヘリアルが消し去られていた。手慣れた戦いぶりに、乾は階段を降りていく人々を見送りながら安堵し胸を撫で下ろす。
「やっぱり頼もしいなあ」
「果たして本当にそうなんですかねえ」
全身が総毛立つような猫撫で声。乾ははっと振り返ると、頬のこけた、白いタキシードの男が乾をじっと見つめて立ち尽くしていた。くすくすと洩れる笑い声に、只ならぬ悍ましさを感じた乾は慌てて盾を構える。
「あなた……まさか!」
「そのまさかですよ、お嬢さん!」
瞬間、白いタキシードの男はドロドロと溶けて件の怪物へと変貌する。髑髏を思わせる風貌の兜の奥にぎょろついた目を蠢かすと、不意を突いて乾の首を掴み、壁に叩きつけて捻り上げる。手を掴んでもがく乾を見上げ、怪物は含み笑いを続ける。
「まさか私がイマジナリーどもに襲われる日が来るとは思いませんでしたが……いやあ、幸運ですねえ。お陰で早くも君に会うことが出来たのだから」
「このくらい、何てこと無い!」
「私も君がこのくらいで悲鳴を上げてくれるとは思ってませんよ。色々手はあるが……まずはその余計な服を剥がなければねえ」
男の右腕が青白い光を放つ。首に意識を集中した乾は、首へ伝わろうとする電撃をクリエーションで阻む。しかしさしもの乾も体力を浪費してしまい、みるみるうちに弱っていく。戦いに参加出来ないエルンストは、ただ呆然と乾の抗いが弱まっていく様子を眺めて悲鳴を上げる。
(白峰様!)
「大丈夫よ……私のヒーローがそばにいるもの」
瞬間、強烈な一閃が男の腕に向かって振り下ろされる。男は堪らず飛び退き、太刀の一撃が道路にさえ穴を開けた。籠手を激しく輝かせ、巽は悪びれずに肩を竦める怪物を睨んだ。
「その汚い手で乾ちゃんに触れるな!」
「やれやれ。カマトトぶっていながら、君も随分欲求不満と見える。私に八つ当たりするのはやめてもらいたいねえ」
「黙れ! 前のようには行かない!」
一撃に耐え切れず折れた太刀を打刀に変えると、巽は中段に構えて殺人鬼をぎらりと見据える。パニックになりながらも人々は逃げ終えて、炎が爆ぜる音ともうもうと立ち込める黒い煙だけが正義と悪の間を満たす。
「全く。いっつもいつも君ときたら虚勢ばかりだ。何か私に対抗する術でもあるとでも?」
「ああ。あるとも!」
言うやいなや、腕を覆っていた光が消え、何もないただの蒼いドラグセイバーへと変わる。ただ中段に立ち尽くす巽に、怪物は首を傾げ、短剣を静かに抜き放つ。
「何がしたいのやらさっぱりわかりませんねえ……そんな棒立ちで!」
瞬間、怪物は神速で巽へ迫る。右に左に折れながら、その喉を掻き切らんと鋭く振り上げた。しかし巽は冷静だった。刀を構え続けた巽は、怪物が脇へと迫った瞬間、刀を鋭く突き出す。既に勢いが乗っていた怪物は、向きを転じようとしても間に合わない。突っ込んだ勢いのまま、怪物は深々と腹を貫かれてしまった。
鋭い呻き。噴き出すタールのようにドス黒い血を浴びても、巽は怒りに満ちた眼差しを男に向けるだけだ。
「痛いだろう? お前は一体どれだけの人間にこれだけの……いやこれ以上の痛みを与えてきた?」
「何故だ。何故お前は私の動きを読み切って……」
蚊が止まる程度の動きに深手を与えられた怪物は、普段の余裕を全て忘れて呆然となる。巽はそんな怪物を鼻で嘲り、腕に光を戻す。
「全ての感覚を極限に高めた。動きがどれだけ早かろうと、頭を押さえればどうってことはない。お前に見せつけられた戦い方だ」
呻きながら怪物は後退りして刃を引き抜く。腹から脈々と溢れ出る血を押さえながら、激昂に任せて叫ぶ。
「馬鹿な! そんなことをすれば、お前の軟弱な意識は一分と保たんぞ!」
巽は頷く。限界を超えた感覚は、当たる風さえ激しい痛みとなる。しかし、その目だけは勝利の確信に満ちて強く輝いていた。
「その通り。でもお前を一撃で仕留めるなら、一分もあれば問題ない!」
「無茶しやがんな、お前は……」
呆れ半分感心半分でヴァルーは呟く。血に濡れた刀を構えてじりじりと迫る巽に、憎悪に満ちた狂気の目を開いて殺人鬼は叫ぶ。激しい光が巽達の視界を遮る。目が眩みそうになりながら必死に駆け出す巽と乾だったが、ようやく辺りを見渡せるようになった頃には、殺人鬼は行方をくらませていた。血痕を辿って地面に飛び降りた巽だったが、手近のマンホールでその血痕は途切れてしまっていた。巽は殺人鬼をまたも逃した自分に怒りを隠せず、目の前の柱に拳をぶつける。
「相変わらず逃げ足が早い奴だ!」
「キレんなよ。大分深手だったぜ。……それよりもあいつめ、次から次へイデアを飲み込んでやがる。……このままだとマジで暴走するぞ」
ヴァルーは髑髏のようになってしまった兜を脳裏に蘇らせ、ぶるりと震えながら呟く。イマジナリーであるヴァルーにとっては、かの怪物は最早根源的な恐怖だった。巽も苦々しげに歯を食いしばり、刀を握り締めて呟く。自らの破壊衝動を隠そうともしない怪物が暴走を始めたらどうなるか。巽もそこまでは想像したくなかった。
「そうなる前には、何とか……」
深夜。森林の中で壮年の男女が魔法陣を挟んで向かい合っていた。穏やかな笑みを浮かべた男も、仮面のように無表情を貼り付けた女も揃って黒いスーツを身に着けている。その周囲にはシルクハットを被った青年、大男と少年のコンビ、鷹のような目つきの女性が立ち、じっと光り始めた魔法陣を注視していた。
「お二方揃って参陣ですか。ついに全ての計画が動き始めるのですね」
「ああ。これがその鏑矢だ」
シルクハットの青年が魔法陣を囲む二人を見つめて感慨深そうに頷く。二人は静かに頷くと、両手を天へと掲げる。魔法陣は瞬間森林を昼間のように照らし出し、一体の巨大なイデアを呼び出す。鋼の猿轡、目には金の目隠し、全身を銀の鎖に覆われたそのイデアに、周囲に立っていた四人は唖然と口を空け開き、目を見開いた。
「まさか。このイデアは……そんなことがあるわけないではないか」
少年が呟く。中心の女性は頷くと、そのイデアを包んでいた拘束具を一つ一つ解き放っていく。
「彼らは乗り越えなければならないの。この事実を突きつけられてなお、先に進めなければ、我々の計画には堪えられない」
「その為の試練か……あなた方も人が悪い」
「人が悪くなければこんな計画は思いつかないよ。ねえ、琴音」
男に同意を求められ、女は返事をすることもなく、ただそのイデアを見上げる。
「始めましょう。『リ・クリエーション』を」
その時、彼らはまだ気づいていなかった。遠くの草薮から、全ての箍が外れた殺人鬼が、真っ直ぐにそのイデアを見上げていたことを。




