十一話 理性の鎖を解き放ち
剣崎巽。の幼馴染の白峰乾は、ヒーローとして戦う巽達の助けにどうにかしてなれないかと考えていた時、折悪くデュラハンに襲われる。ピンチと思われたその時、彼女を前々から付け回していた一角獣のエルンストに救われ、そのまま新たな正義のヒロインへと変身を遂げたのである。
「ダメよ! 絶対ダメ!」
乾の嫌悪感たっぷりな叫びが部屋を満たす。彼女は部屋の隅に身を押し付け、ヴァルー並みのサイズとなってデスク上へ軽やかに跳ね回るエルンストから全力で距離を取っていた。そんな彼女の拒否感全開な顔を見つめ、エルンストは姫との叶わぬ恋を嘆く騎士のように、痛烈な哀しみを言葉に込める。
「何故です。これから共に戦う仲ではありませんか。迷惑などおかけしませんからお傍に置かせてください! 自分のイマジナリーを放出して他者の感覚に干渉し、周囲に認識されないことだって出来るのですよ。ほらどうです、ほら、ほら!」
さらりとストーキングの手口をばらしてくるエルンスト。乾は身震いして起き上がると、消えたり出たりを繰り返すエルンストの胴体を握りしめるようにして目の高さまで持ち上げ、歯をぎりぎり言わせながらエルンストを睨み付ける。
「ふざけないで。あなたは必要な時に来て私を変身させてくれればそれでいいの。四六時中私の側で喘がれたら堪らないわよ!」
そばに立っていた巽達が思わずその理不尽な物言いに(乾に同情しながら)閉口してしまう。さすがのエルンストも一瞬泣きそうな目をして黙り込んだが、すぐに気を取り直し、尻尾を振り回しながら頬を染めて悦に浸り始める。
「そんな、私を、まるで道具のように。……いや、サディスティックな乙女にこき使われる。これもまたありかもしれない」
「だそうだぞ、お前」
冷めたヴァルーが呟く。気持ち悪いものを見たように上ずった声で呻いた乾は、エルンストをデスクに放り出して再び部屋の隅へ避難する。
「ったく。あんたはどこまで変態なのよ」
被虐嗜好に目覚めたエルンストはその程度の罵倒では怯まない。しずしずと頭を下げ、目を光らせながら真っ直ぐに彼女を見つめる。
「構いません。あなたが望むなら、気の済むまで蔑んでください!」
「何だこいつ」
ヴァルーがぼそりと呟く。しばらく閉口しっぱなしだった巽も、バツが悪そうに苦笑しながらヴァルーに尋ねる。
「しかし不思議なものだ。君が他と対立している理由はもう十分にわかっているが、彼も何故イマジナリー全体の方針に逆らうのだろう」
「変態だからに決まってんだろ」
「ああ……」
ヴァルーはうんざりと即答し、巽は納得して深々と頷く。何の迷いもない反応に、エルンストは彼らをじろりと睨み付けて吼える。
「納得するでない! 私はな、穢れなき乙女に危害が及ぶような彼らの所業が許せんだけだ」
「ああ……」
巽はそういうことかとでも言いたげにして何度も頷く。エルンストは顔をしかめて首を振ると、開けた窓に向かいながらちらりと巽を睨む。
「くっ……一言だけ言っておくぞ。お前は白峰様に親しいようだが、彼女の純真なる身体を、心を少しでも穢してみたまえ。私の角が貴様の心臓を貫くぞ」
「何だこいつ」
呆れたヴァルーが再びぼそりと呟く。エルンストは一度威嚇するようにデスクを踏みしめてみせると、再び身を翻して窓の外へと飛び出してしまった。その背中をじっと見送り、巽は肩を竦める。
「乾ちゃんも災難だねえ。人にもイマジナリーにもストーカーされるとは」
「それで二人の助けになれるならいいわ。あれだってこんな扱いでいいみたいだし、みんな幸せな世界でいいんじゃない? そういう事にしましょ」
一発殴りたくて仕方が無いと、拳を握ったり開いたりしながら、乾はひきつった笑みを浮かべて二人を見つめる。ヴァルーはやれやれと翼を縮め、欠伸しながら答える。
「怖え女だな、お前」
「お好きにどうぞ」
ヴァルーの皮肉っぽい口調も、気に留めず乾はつんと澄ましたままだった。その時ちょうど扉が開き、不思議そうな顔をした壮二郎が部屋に入り、むっつりした顔の二人と一匹を見渡す。
「どうしたんださっきから。随分騒がしいが」
「作戦会議よ。作戦会議」
「ふむ……?」
珍しくつっけんどんな乾に、壮二郎は首を傾げるしかなかった。
喫茶店『ナナカマド』では、今日も口髭を綺麗に揃えたマスターが、黙々とコーヒーを淹れていた。無口で、決して他人の素性を詮索しようとしない。彼は、どんな客も淡々と受け入れるだけだった。だからこの店には一癖も二癖もある人間が集まるのだ。
「やあマスター。いつものを頼むよ」
そのうちの一人が剣崎巽だ。いつもふらりとドアを鳴らしては、微笑みながらカフェオレを頼む。マスターは言われた通りに準備して、にこやかに頷くのがお決まりだ。
巽は鞄を肩に掛けなおすと、隅の席に腰掛ける。この場所は半ば彼の特等席と化していた。ここに座って、彼はいつも物思いに耽り、また本を読んでいるのである。ついでに、彼はその位置からこの喫茶店で憩う人々の顔を眺めるのだ。
(あいつは……何だか覚えがあるような気がするな……)
「え?」
ヴァルーの神妙な呟きに、巽は視界の中にいる青年を注視した。同性から見てもケチのつけられない美貌。それに纏うはシルクハットにスーツ、椅子にはフロックコートが掛けてある。そんな一昔も二昔も前の格好をしていながら、彼は喫茶店に置かれているマンガを手に取り読み耽っていた。特徴の固まりのような彼を、もし知っていれば巽が忘れるわけもない。
(まさか。僕は見たことないが)
(ああ? じゃあどこで俺は見たんだ……?)
巽達が首を傾げていると、ふとシルクハットの青年と目が合ってしまった。思わず巽は顔を背けようとするが、青年は人懐っこそうな笑みを浮かべ、じっと巽の事を見つめてきた。
「どうしました? 僕の顔に何か?」
「いや。ただ、洒落てるなと思っただけさ」
巽は慌てて取り繕う。
「それはそれは。お褒めの言葉に預かり光栄です。……ここで会ったのも何かの縁でしょう。どうです、少しお話でも」
青年は立ち上がって深々と頭を下げると、マンガとコーヒーを両手に持って真っ直ぐに歩み寄ってくる。有無を言わせない何かを感じ、巽は感情を込めない曖昧な笑みで頷いた。
「まあ、構わない」
「よかった。では失礼して」
彼は座るなり、いかにも上品な仕草でカップを傾ける。紳士振りを前面に押し出しているせいで、脇に置かれたマンガが余計に目立つ。巽は気にせずにいられず、思わずちらちらと見てしまう。
「好きなのかい、マンガ」
尋ねられると、青年はふと笑ってマンガを手に取った。慈しむようにその表紙を撫でて、彼は呟く。
「ええ、とても。人間の想像力を、どんな媒体よりも感じることが出来ますのでね。この前も白峰古書というところで百冊ほど買ってしまいました」
「百冊だって? ……ああ、そういえば、乾ちゃんがそんな客が来たと言っていたっけ。君がその客だったのか」
巽は一か月ほど前の話を思い出した。彼女はいつものエプロン姿のまま狐につままれたような顔をして、こんな風に、と仕草を真似していた。きらりと目を輝かせた青年は、巽の詮索するような目を逆に覗き込んで尋ねる。
「あなたの方こそ、あの看板娘さんの知り合いなのですか?」
「幼馴染さ。彼女とは生まれた頃くらいからの付き合いだ」
はあ、と青年の口から声が洩れる。
「羨ましい。彼女のような美しい女性と親しい関係だなんて」
「君ほどの美男子に言われたと知ったら、、きっと乾ちゃんも喜ぶだろうね。最近災難に遭ってばかりだから」
「それはそれは。気の毒に……おっと、別にあなたとそんな話をしようと思っていたわけではありませんでした。もっと重要な話がありましてね」
「重要な話?」
巽がオウム返しにすると、彼は背広の内ポケットから手帳を取り出し、一ページを開いて彼に手渡した。そこには、『青くなったドラグセイバー、また市民を救う』と銘打たれた記事がスクラップにされていた。涼しい顔でその記事を見つめていた巽だったが、青年は腹に一物抱えたような、陰のある笑みを浮かべてそっと耳打ちする。
「これの正体、あなたですよね」
思わず目を見開き、巽ははっとして仰け反りそうになる。しかしヴァルーが身体を抑え込み、一応の体裁は保った。
(こいつ……藪から棒に何言ってやがる……)
「そうですよね。だって見ましたもん。物陰で、ボロボロのドラグセイバーがボロボロのあなたになるところを」
(あの時か!)
巽とヴァルーの心の声が重なる。殺人鬼に辛勝した時、周りに気を配る余裕さえも無かった。後悔を気取られないようポーカーフェイスを必死に作り、巽は隣で柔和な笑みをいやらしく続ける青年を見やった。
「それをわざわざ僕に確かめて、君は何がしたい?」
「いえ。少しあなたに聞きたいことがあったものですから」
「……一体何なんだ」
青年は頷くと、不意に姿勢を戻し、再びコーヒーを飲み始める。マスターがカフェオレを巽に運んで来ていた。巽は礼を言う余裕もなく、小さくお辞儀だけしてカップを口へと運ぶ。ふと見れば、青年の笑みの奥で、瞳はちっとも笑っていないことに気が付いてしまった。思わず身構えながら、青年が口を開くのを巽は待つ。
「そうですねえ。聞きたいことなんですが、あなたは、人間が神を生み出したのは、何故だと思いますか」
(こいつ。何のつもりだ……)
ヴァルーが苦々しげな顔で呟く。巽は軽く俯いて表情を陰に隠し、低い声で答える。
「僕の尊敬する人物が、人間は恐怖に心を支配されそうになったとき、それでも前に進みたいと願うときに神を造り、救済を求めたと教えてくれた。僕自身もそういうものだと思っている。人類が恐怖を乗り越える為に神は生み出されたんだ」
「なるほど。それが聞ければ十分です。あなたの事はよくわかった」
「何だって?」
今の質問に意味があったとは到底思えず、巽は思わず青年の底知れない笑みを見つめる。青年は静かに立ち上がり、椅子に掛けてあったコートを手に取る。呆然としている巽を余所に帰り支度を整えていた青年だったが、不意に彼はボタンを留める手を止め、じっと巽を見下ろす。
「そうです。あなたに伝えておかなければならないこともありました」
「何だい……それは一体」
彼はずいと耳元に近寄り、ひっそりと囁いた。
「覚えておいてください。わかっているでしょうが殺人鬼は生きています。君は……きっちりと奴に止めを刺さなければならない。君が、本当にヒーローになりたいと望むなら」
突然の事に、巽は口を利く暇もない。青年は今度こそボタンを留め終え、踵を返すとマスターに代金を支払い、ステッキを腕に引っ掛け優雅に店から去っていった。胃の腑に石でも詰め込まれたような気分で、巽は頭を抱える。
「彼は一体何なんだ……」
(あいつ……もしかすっと人間じゃねえかもしれねえ)
(何だって?)
しかめっ面でいるヴァルーに、巽は反射的に尋ねた。ヴァルーは頷く余裕もなく、ただ道へと消える青年の姿を追い続けていた。
(何しようとしてんだ。奴らは……)
店を出た青年は、その足で住宅街裏の林へと踏み込んだ。特に手入れもされないその暗がりの中へ、進んで足を踏み入れる住人はいない。しかし無表情のまま青年は林の中を突き進み、奥地に立ち尽くしていた大男と少年の元へと向かう。雨が降っているわけでもないのに黒傘を差した少年は、青年の姿を認めるなり口を尖らす。
「遅いぞ。何をしていたのだ」
「すまない。少し調べなければならないことがあった」
「ほう。それは一体?」
着くなりステッキで地面に幾何学模様を描き始めた青年を、強面の大男は太い眉を持ち上げじっと見つめる。
「我らの英雄の資質についてだ。……幾らかはわかった」
「あの者の事か。驚くべき存在よな。あのイマジナリーにさしたる力は無いというのに、オリジナルのイデアとすら渡り合う力を手にし、さらに強めているとは」
少年は傘をくるくると回しながら気の抜けた調子で呟く。本当に彼がそう思っているようにはとても見えない。大男は青年の言葉に従い模様を囲みながら首を振る。
「侮るな。仮にも同志が目を掛けている存在だ。只者ではない」
「そうよ。適当に物事を見定めてはいけないわ」
不意に割り込んできた透き通る声に、三人が一斉に木の上を振り返る。梢に留まっていた一羽の鳶がじっと三人を見下ろしている。かと思えば、次の瞬間には艶やかな黒髪を持つ妙齢の女へと姿を変えていた。彼女もまた、漆黒のスーツに身を包んでいる。少年は目を丸くすると、頬を膨らませてそっぽを向く。
「でたらめを言うでない。私は真剣だぞ」
いかにも子どもっぽいその仕草に、女性は肩を竦めた。いかにも不機嫌そうに振り返ると、少年は女性に噛みつく。
「おい、その態度は何だ。その態度は」
「別に。あなたが真剣だというなら、そういう事にしましょうか」
「釈然としないな……」
「余計なことを話していないで、手伝ってくれ」
青年がじっと二人を見回すと、彼らは肩を竦めて模様に向かって手を翳す。その瞬間、模様はいきなり輝き出し、普通の一回り、二回りは大きな虎が現れた。欠伸をすると、虎は取り囲む四人を見渡す。
「ついに俺の出番というわけか」
「ああ。お前の強さを見込んで頼みがある。新たな姿を手に入れた『ドラグセイバー』の力を試してきてほしい」
「奴か。今や多くのオリジナルイデアが奴の手によってカミナギから排除されている。正直言って、私も奴に勝てるかはわからんぞ」
青年の言葉に、虎はついに来たかという態度で顔をしかめる。少年はさらに傘をくるくると回して虎をじっと見つめた。
「だからと言って、狩りもせずにコソコソし続ける虎というものもおるまいて。尻込みしている場合ではなかろう」
「……それを言われてはな。わかった。だが敵わんと思ったらすぐに撤退するぞ。それは許せよ」
「ああ。行ってきたまえ」
青年が頷くと、虎は身を翻し、森林の外へと飛び出していった。その姿は途中で見えなくなる。しかし四人は、虎の消えたその景色をじっと見つめ続けていた。
真紅のドラグセイバーが大通りに飛び込む。パトカーや警備車で囲われた空間の中で、数十の銃口に囲われた虎はしきりにドラグセイバーの名を吼え続けていた。警備車を軽々乗り越えて虎の前に降り立ったヴァルーは、大剣を担いで虎を睨み付ける。
「うるせえよ! んな何回も呼ぶんじゃねえ!」
「貴様が遅いからだ。もう少しで暴れてやろうかと思っていたぞ。さあ。さっさと蒼色へと姿を変え、貴様の本気を見せてみろ」
虎は鋭い爪を剥き出しにして低く構える。気怠そうに息を吐き出したヴァルーは、大剣を地面に突き立て虎の牙を剥き出しにした顔を睨む。
「あん? お前、俺達の事を試す気かよ」
「当然だ。このオリジナルに向かって手を抜けるほど、自分が大した存在だと思うわけではあるまい?」
虎は獲物の隙を探るかのように抜き足差し足ヴァルーの周囲を巡る。全身の毛が波打ち、今にも飛び掛からんばかりの勢いだ。兜の具合を整えながら、ヴァルーは中で腕組みしている巽に尋ねる。
(だとよ。どうする)
(確かに出し惜しみして勝てるような相手でもないだろう。速攻で決めてしまおう)
「よし。……喜べこの野郎が。全力出しといてやるよ」
ヴァルーが勝ち誇ったように言い放った瞬間、左目の輝きが消失し、全身が炎に包まれる。見る間に温度を高めたその鎧は真紅から深い蒼へと染まり、炎は腕へと集まり光へ変わった。同じく蒼く輝いた大剣をまるで棒っきれのように振り回し、ヴァルーは虎に向かってギラリと目を輝かせた。。
「来いよ」
「ふん。相手にとって不足は無い!」
虎が不意に跳び上がって腕を鋭く振り下ろす。守りに入る気も無く、ヴァルーは強引に大剣を振り薙ぐ。激しい火花が飛び散り爪と大剣が交錯すると、反動で虎はくるりと宙を舞い、降り立ちざまに爪で襲い掛かる。ヴァルーは身を翻すと、剣の腹で爪を受け流し、虎の腹へ蹴りを入れようとする。しかし虎もさる者、素早く飛び退き反撃を許さない。再び正対する格好となったヴァルーと虎は、互いににやりと笑う。
「はあん。中々やんじゃねえか」
「お前こそ。カミナギのヒーローと呼ばれるだけはあるのだな! 裏切り者とはいえ認めてやる!」
「へらへらしている場合じゃないぞ、ヴァルー。だらだら戦っていても仕方ない」
戦いの中でおおよそ慣らしたとはいえ、身体にのしかかってくる負担は相変わらずだ。長く戦えば戦うだけ不利だった。ヴァルーは肩を竦めると、大剣をその場に投げ棄てる。
「わかったわかった。ならさっさと捻じ伏せっか。さっさとな」
「よし。行こうじゃないか」
巽は頷くと、腕の光を足へと集め、徒手空拳で虎へと迫った。目に留めるのがやっとの速さに、虎は思わず身を縮めて守りへ入る。
「そんな守りに意味は無い!」
「くっ……」
突き込まれた拳をどうにか身を捻って躱すが、続けざま乱舞のように繰り出される蹴りには対応しきれず、虎は思わず後退してしまう。その瞬間を見逃さなかった巽は、さらに深く踏み込み虎の首根っこを押さえ込んだ。瞬間腕に光を集め直し、ヴァルーは剛力で虎を締め上げる。
「よしよし。こいつでどうだ」
「……しまった。ぬかったか!」
「油断はいけないねえ。まあいいさ。今まだ君はこの街に対して危害を加えようとしていない。このまま大人しく退散するなら君を消そうというつもりはないが……さあ、どうする」
巽は虎にそっと耳打ちする。むむ、と虎は他所に目を逸らして唸った。目的はドラグセイバーの実力を調べて報告すること、わざわざチャンスを与えてくれるのだから願ったり叶ったりだった。
「いいだろう、ここは退いてやる。後悔しなければいいがな」
「君も、他のイマジナリーのようにこの街を襲ったらどうなるか、今のうちに心へ刻んでおくといい」
「ふん。気に入らんな、その態度は」
巽が首を離すと虎は低く吐き捨て、退散しようと巽達に背を向ける。
「……まずいっ!」
じっとその姿を眺めていたヴァルーだったが、背後にただならぬ気配を感じて慌てて飛び退く。虎もその叫びに気付き、反射的に脇へと逸れた。そんな彼らの前に滑り込む斑紋付きの白鎧。蘇った殺人鬼が、首を鳴らしながらゆっくりと振り返る。
「しばらくぶりですねえ。どうですか最近の調子は」
「お前は。懲りも無く……!」
巽は目を見開き、怒りに満ちた眼差しで殺人鬼を睨む。殺人鬼はその銀色の眼を喜びに輝かせ、大剣を拾って自分を睨み付ける神凪のヒーローと見つめ合う。
「もちろんですとも。あなたがたのせいで、しばらく起き上がることもままなりませんでしたがね。持て余して持て余して仕方がありませんでしたよ!」
瞬間、殺人鬼は風となって駆けた。巽は神経を研ぎ澄ますが、男が狙ったのは巽達ではなく、異様さに気圧され動けずにいた虎のイデアの方だった。狂気に侵された銀色の瞳は、たとえそれが所在無きイマジナリーだとしても、恐怖させるには十分の悍ましさを放っていた。
「何をする……つもりだ!」
「あなたもそれなりに強さを感じる……いいですか? あなたの力、頂いてしまっても……」
「何だと」
拒む間もなく、殺人鬼の手が虎の頭に押し当てられる。瞬間、目を剥いた虎は吼えて苦しみ悶え始めた。ヴァルーは眉間に皺寄せ、大剣を構えながら走り出した。
「何してやがる!」
「見てわかるでしょう。彼を頂いているのですよ!」
虎の姿が消滅する。剣を振りかぶったヴァルーを突き飛ばした殺人鬼は、恍惚の声を上げて諸手を掲げた。兜の後ろから白毛が伸び、虎の尾のような一つの房となり、鎧にも仮面にも、斑紋ではなく虎を思わす紋様が代わりに浮かび上がる。肩や腰を覆った毛皮は青白く光を放ち、火花を散らす。
「まさか、放電しているのか?」
態勢を整えながら、巽はじっと目を凝らす。今や怪物と化した殺人鬼は満足げに頷くと、手の平を巽に差し向けた。刹那激しい稲妻が輝き、どうにか逃れた二人は驚きに目を見開くしかない。
「馬鹿な。さっきの虎にそんな力は……」
「あなたと同じですよ。虎といえば、雷神と並べて語られることも少なくない。ちょっと想像すればわかりませんか」
「俺達と同じ力を持ったってわけかよ。ふざけやがって!」
ヴァルーは神速で駆け出し、激しく風を切りながら大剣を加速に任せて強引に振り下ろそうとする。しかし怪物はそんな軽い一閃を受け止め、するりと音も立てずに詰め寄った。抜かれた短剣を籠手で受け止め、ヴァルーは目の前に輝く赤銅色の瞳を睨む。
「てめえ、また速くなりやがったか!」
「ええ。さすがにまだ、あなた方を逝かせてしまうというわけには行きませんがね」
「くっ……」
巽は顔をしかめると、剣を捨てて怪物の拳を避けながら一撃を入れようと足元を狙って矢継ぎ早に蹴りを繰り出すが、怪物はぬるぬると蠢き躱すばかりだ。ヴァルーが苛立ち任せに拳を振り抜くが、当たるわけもない。挑発するように笑い続ける殺人鬼に、ヴァルーは目をぎらつかせて拳を固める。
「ああっ! もう埒があかねーぞ!」
「……このまま持久戦に持ち込まれたらこっちの身が厳しい」
巽は苦々しげに呟く。頭痛が彼の集中力を削ぎ始めていた。
「なら一気に押し切んぞ! 高速移動だ高速移動!」
「わかった。全速力だ!」
「ほう。どんな風に私を逝かせてくれると言うんですかねえ?」
愉悦に浸りながら首を傾げる怪物。嫌悪感に吼え、ヴァルーは駆け出した。
「うるせえ変態、黙ってろ!」
音速さえ超え、衝撃波を身に纏いながら巽達は怪物に突進する。回し蹴りで襲い掛かり、そのまま足払い、立ち上がって正拳付き、当て身、肘鉄。しかし彼は、巽達の攻撃をするすると容易く躱してしまう。放たれた雷撃を避けて飛び退き、巽は呆然と男を見つめる。つまらなそうに溜め息をついた怪物は、じろりと巽を睨んだ。
「残念ですねえ。どのくらい激しくしてくれるかと思ったら、所詮はその程度か」
「こいつ、僕達の速さに付いて来ている」
「私が取り込んでいる力、チーターと今しがたの虎だけとでも思いましたか」
「……過重融合。狂人の度すら超えてるぞ。てめえ」
ヴァルーの絞り出すような言葉にさえ、殺人鬼は関心を示さない。ただ首を傾げ、警戒心を露わにする二人を鼻で笑うだけだった。
「好きに言いたまえ。私は究極の快楽を得るためならば、どんな努力も惜しまない性質なのだよ」
この時、巽はまだ気づいていなかった。殺人鬼の奥に潜む更なる混沌は、二人の想像の埒外にあったことを。