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九話 剛蒼なる闘志

 剣崎巽。白峰乾との関係性が常々疑われている彼は、彼女に乞われてストーカーを個人的にとりあえず成敗した。とはいえ犯人を取り逃してしまった彼は一応乾の部屋を守っていたが、その夜この街に潜む本物の怪物に出会って……



「この野郎!」


 飛び降りたヴァルーは乱暴に大剣を豹に叩きつける。しかし豹は紙一重でするりと躱してしまう。大剣の熱に水が沸き立ちもうもうと湯気を立てる。豹はヴァルーを横目に一瞥し、肩を竦めて低い笑い声を洩らす。


「おやおや。おっかないですねえ。そんなものを叩きつけられたら、私死んじゃいますよ?」

「お前が言うな!」


 ヴァルーは叫び、大剣で強引に薙ぎ払う。しかし豹は軽くその大剣の刃に飛び乗り、金色の瞳を怪しく輝かせて短剣を振り上げる。


「やれやれ。血気盛んで実に不愉快だ」


 腕に向かって振り下ろされる短剣。巽は大剣を手放すと、と素早く飛び退き一閃を躱す。右目だけを紅く輝かせたドラグセイバーは、片手を牽制するように突き出し殺人鬼を睨み付ける。


「挑発に乗ってはだめだ。ヴァルー」

「わかってっけどよ、そんなの……けど、こいつを見た瞬間から胃のむかつきが収まらねえんだよ!」


 首を傾げている豹に向かって、ヴァルーは拳を固めて突っ込む。右フック、左ストレートにボディブロー。彼の放つ乱打をしばし豹は両手を使い往なしていたが、不意に鼻で笑うと目の前から消え去った。巽は息を呑むと、翻って背後から斬りかかってきた豹の腕を押さえつける。咄嗟のことに息が荒くなり、目も見開かれる。


「は、速い!」


 豹は得意げに巽達の目をじっと覗き込むと、素早い二段蹴りを鳩尾に叩き込み、宙高くへとかち上げる。ヴァルーは一瞬息を詰まらせたが、すぐに態勢を整え川に降り立つ。


「効きゃしねえぞ、こんな手抜きキック」

「ふむ。そこのに比べると、いささか固い……って、おやおや」


 幽霊の男はすでにいなくなってしまっていた。血痕がコンクリート壁を伝って歩道へと伸びている。余所見をしている隙に哮り上げてヴァルーは殴りかかったが、殺人鬼は屈んで躱し、何事もなかったかのように血の跡を目で辿り続ける。何度拳が突き出されても、意にも介さない。


「困ったな。彼には是非とも死んでほしいのに」

「ふざけるな! 行かせてたまるかよ!」


 ヴァルーは渾身の回し蹴りを放つ。しかし、豹は蚊でも払うかのようにあっさりとヴァルーを払いのけ、ゆらゆらと歩き始めた。


「やれやれ。仕方ない」


 豹の姿が見えなくなる。二人は慌てて岸壁を駆け上るが、その時にはもう彼の姿は遠く彼方にまで離れていた。全速力で追いかけるが、角を曲がった時には跡形もなく消えてしまっていた。その場に崩れ落ちると、拳を地面に叩きつけてヴァルーは激昂する。豹は彼をまるでそこにいないかのように扱った。しかし、自分は怒りを燃やすばかりで何も出来なかった。傷ついたプライドとちっぽけな自分の情けなさに彼はひたすら震える。巽も歯を食いしばって爪が食い込むほど地面を握り締め、呻いた。


「もっと、速く、動くことができれば……」

「巽、ヴァルー!」


 パジャマの上から直接コートを羽織った乾が血相を変えて駆け寄ってきた。地面に崩れ落ちている二人の側に跪き、その暗い面を覗き込む。


「ねえ、どうしたの? ねえったら!」


 しかし二人は答えない。自分の無力さに打ちひしがれたまま、二人は黙り込んでいた。



「お願いします。助けてください」


 未だ眠りに落ちている街の中、幽霊姿の男を前に、殺人鬼はぶるぶると首を振る。いかにも苦しそうに自分の胸へ手を当てがい、喘ぎ交じりに呟いた。


「とんでもない。私はまだ君の断末魔を聞いていないんだ。ああ……それを聞かなかったら、私が心苦しくて死んでしまう」

「化け物、化け物」


 四肢の筋が断たれてもうまともに動けず、芋虫のようにもがきながら男は口から血を垂らして呻く。喉も潰れてしまい、助けを求める声も掠れて虚しい。殺人鬼はくすりと笑うと、男の右手を取り、もう片方の手でそばのマンホールの蓋を開ける。


「この期に及んで生にしがみつくその愚かしさ。君のような人間は、この死に方が一番ふさわしい」

「な、何をするつもりだ」


 殺人鬼は短剣を抜くと、男の手首を素早く切り裂いた。止まりかけていた血がまたも流れる。飛び出した血をわざと浴びるようにしながら、殺人鬼はずるずるとマンホールへと男を押し込み始める。


「いいじゃありませんか。助かるかもしれませんよ? それで何時間も堪えられるのならですがねぇ」

「いやだ」


 男の抵抗も児戯に等しく、殺人鬼は手首から脈々と血を流す男を下水道に放り込んだ。何度も響く鈍い音に合わせて、男の掠れた断末魔が飛んできた。殺人鬼は笑いを堪えることが出来ない。マンホールの蓋を閉じると、彼はその上に立ってじっと耳を澄ませる。地獄の底から響くような呻き声が、絶え間なく蓋についた小さな穴から洩れ聞こえてくる。お気に入りの曲でも聞くかのように、殺人鬼は力を抜いて立ち尽くし、挙げ句の果てには鼻唄まで始める。死を前に生にしがみつこうとするいじらしいその様は、殺人鬼に至高の絶頂感を齎す。天を見上げ、彼は嘆息した。


「ああ……何故こうも人は生きたいと喘ぐのかねえ。お陰で今日も達してしまいそうだ……」

「こんなところで自慰に耽るとは、やはり君も趣味が悪いな」


 響いた冷たい声色。殺人鬼は蕩けた目を固まらせると、じろりと路地の向こう側に目を向ける。漫画を片手に持ったシルクハットの青年が、彼に向かって非難の眼差しを送っていた。殺人鬼は悪びれもせず、じっと青年を見つめた。


「これはこれは。いつぞやの紳士ではありませんか。紳士は一々他人には干渉しない寛容さを持つべきだと思いますがね……」

「黙りたまえ。君は世界に存在するには相応しからざる澱みだ。直ぐにでも浄化されねばならない」


 青年は真紅と深緑のオッドアイを輝かせ、その黒髪も金色に変える。シルクハットを脱ぎ、静かに怒りを燃やして男を睨み付けた。男は短剣を籠手から抜くと、せせら笑いながら低く構える。


「何を言っているのですか。あなた達の望みは、この世界に恐怖をもたらすことなのではありませんか? 私だってその助けになっているはずですが」

「穢れた口で我らの崇高な使命を冒涜するか。歪み切った貴様の情欲は我らが計画に支障を来す。今すぐにも消えろ」


 ステッキを脇へ放ると、青年は静かに拳を突き出し、がらがと喉を鳴らし、蒸気が洩れだすような声を吐く。激しい憎悪に殺人鬼は目を細めて身動ぎするが、青年の背後へいきなり現れた壮年の男が、そっとその肩を叩いた。


「構うことはないよ。今君が力を使うべきではない」


 はっとした青年は髪も瞳も黒へと戻る。


「しかし、この男の存在は許されません」

「何のためにこの街にはヒーローがいると思っている?」


 青年は言葉を失い、憤懣やるかたない顔で小さく俯く。殺人鬼は馬鹿にしたように笑うと、短剣を収めて壮年の男のしたり顔をじっと見つめる。


「ヒーロー? あのごてごてした鎧の融合体かな。残念だが、彼には何も出来んよ」

「残念だが、その言葉はすぐ訂正されることになる。お前は、神凪市のヒーローに選ばれるということの意味を知らないな」


 殺人鬼の放つ傲岸不遜さにも眉一つ動かすことなく、男はただ自信たっぷりに微笑む。人を躊躇なく殺める鬼も、目の前の男の持つ異様な雰囲気にほんの一瞬たじろぎ、目を訝しげに細める。


「ヒーローに選ばれる意味。そんなに大層な存在ですか、彼は」


 男は深々と頷き、踵を返す殺人鬼の背中をじっと見送った。


「君は思い知ることになる。おそらく、今日にでも」



「気を落としたって始まらないよ。これからを考えなきゃ」


 乾がそう言いながらコーヒーをトレイに載せて自室に入る。ベッドの上には、曇りきった顔の巽が寝転がり、隅でヴァルーが腐っていた。牙を剥き出しにし、ヴァルーはひたすら呻く。


「んなこと言ったってよ。俺達があの野郎に手も足も出なかったせいで、あいつは殺されるんだろ。そんな、そんな胸糞悪いことがあるか」

「そうかもしれないけど。……そうだけど。でも、落ち込んだからってそのイマジナリーと融合してた殺人鬼に勝てるわけじゃないでしょ」

「生意気なことばっかり言いやがって……そんなこと、言われる前からわかってんだよ」


 乾がテーブルにカップを置くと、ヴァルーは力なく飛び上がってそこにしがみついてコーヒーをがぶがぶと煽る。口だけ達者にして平静を繕う彼に同情の眼差しを送り、相変わらず天井を見つめている巽に振り返った。


「巽くんもだよ。結局帰ってきてから一睡もしてないじゃん」

「眠れるわけがない。僕達が力不足なばかりに、殺人鬼を取り逃がしてしまった。こんな調子では、僕達に神凪のヒーローを名乗る価値は無い」


 起き上がった巽は低い声で嘆き、額に手を当てる。いつでもヒーローについて口にする巽に、コーヒーを早々に飲み干してしまったヴァルーは呆れたように上目遣いを送る。


「お前もお前だ。何かっていうとそればっかりじゃねえか。何がそんなにお前をこだわらせるんだよ」


 意外な事を聞かれたというように巽は目を丸くする。手に取ったコーヒーの渋い黒色を見つめ、彼は僅かに頬を緩める。ブラックコーヒーは彼にとって特別な想いを呼び起こす代物だった。苦くても熱くても我慢してそれを啜る時だけ、彼は父と会うことが出来たのである。


「僕の父は、神凪のヒーローだったらしい」

「お前の親父が?」

「ああ。僕の尊敬する人が言っていたのさ。昔から喧嘩っ早くて不器用なところもあったけれど、そんなこと気にならないくらい、曲がったことが大嫌いで、仲間を放っておけなくて、人を守るために命を投げ出すことも厭わない人間だったとね」


 彼はそう言って天井を仰いだ。脳裏にスーツを着込んだ男の後ろ姿が蘇る。その人物は父の話をするとき、決まって自分から背を向け、窓の外に沈む夕日を見つめながら、自ら噛みしめるように話していた。巽は彼を人生の師と仰いでいたが、そんな人物をも感傷に浸らせる父は、さらなる憧れだった。巽は憧憬に浸りぼんやりしていたが、ヴァルーは顔をしかめて首を傾げる。


「で、何でそいつがヒーローなんだよ?」

「この街全体に失踪と奇病が蔓延する事件が起きた時も、僕の父は自分の死さえも恐れず街を救ったんだ。この街に吹く嵐は、俺が止めると言ってね」

「やべえな。一級品のバカじゃねえか。向こう見ず過ぎんぞ」


 ヴァルーは目を泳がせ、理解できないと首を振った。聞いた瞬間に乾はさっと顔色を変えたが、当の巽は苦虫を噛み潰したような顔で頷く。


「ああ。そうだ。父は、結局その後間もなく、この街に現れた通り魔から通行人を庇って、そのまま死んでしまったからね。もうすぐ生まれるはずだった僕の顔を見ることもなく」


 今度はヴァルーが顔色を変える番だった。口元をひくつかせ、気まずそうに顔を背ける。


「悪い。まさかそんなことになってるとは思わなかった」

「いいんだ。僕も全て人から聞いた話だから、実感が余り無い。……だからこそ、僕は父に憧れて、自分が同様に必要とされているこの現状に応えたいと堪えようもなく思うのかもしれない。こう言うと、バカバカしいと君は笑うだろうけれど……」

「いや。今更笑ったりしねえよ。お前はお前なんだなって思うだけさ。何だかんだ、言っちまえばそれだけの理由で戦おうと思えるんだ。十分凄い奴なんじゃないか。お前は」

「君が僕を褒めようと思う日が来るとは思わなかったよ」

「うるせえよ、この野郎」


 ふと顔を綻ばせる巽。ヴァルーは一瞬目を丸くしたが、すぐに眉間の皺を深くして、うざったそうに舌打ちする。ヴァルーと出会ってじきに二か月が経とうとしているのに、いつまでも素直にならない彼に乾は思わず失笑してしまった。


「もう。もしかしたら、巽くんのお父さんも、案外ヴァルーみたいな人だったのかもね」

「あん?」


 思わず喧嘩腰になるヴァルー。


「だって。何だかんだ言って弱い者いじめは嫌いだし、巽くんとは何だかんだ言って付き合ってるし。喧嘩っ早くて不器用ってのも、ヴァルーにそのままあてはまるし」

「やめろよ。お前らのセンチメンタルに俺を巻き込むな」


 思わずしかめっ面で不貞寝するヴァルー。


「照れてんだ。かわいいヤツめ」

「ああ? んな事ねえよ! 誰が、そんな馬鹿な死に方したただの人間に喩えられて嬉しくなるってんだよ。おい、んな顔すんじゃねえよ」


 思わずがばりと起き上がって吠えるヴァルー。しかし乾はお見通しとばかりに頬杖ついたままにやにやを止めない。ヴァルーは打つ手無く喉をガラガラ鳴らして威嚇するだけ、翼を縮めて再びごろ寝する。ごろ寝して、今この時間に自分が言い放った言葉の数々を頭の中で反芻した。いかにもいい奴じみていて、ヴァルーは自分が自分でないような気がした。自分は他者を顧みず自らの力を誇示する暴力の象徴として定められたのではなかったかと、自問する。それが、他人の手にかかって死のうとしている一人、それもストーカーをするようなちっぽけな人間が殺されることに怒りを覚えているのは、何故だと。ヴァルーは片目を開き、顔をしかめた乾に小言を並べられてバツの悪そうな顔をしている巽を見た。


(こいつを選んじまったせいか? ま、悪かねえかもな……)


 振り回され通しで一度はぶっ飛ばしてやりたいくらいに怒りを覚えたヴァルーだったが、最近はどうでもよくなりつつあった。そんな自分の変化も、ふと思えば不思議な気がしてしまうのだった。


「いい? 巽くんとヴァルーは今この街にとって必要だとは思うけど、私は心配してるんだからね。あんまり無茶ばっかりしないで」

「そうは言うけど、無茶をしないでイマジナリー達と渡り合うのは難しい。我慢してくれないか」

「巽くんならそう言うよね。ほんとにもう……」

(こいつらまたやってんのかよ……さっさと付き合っちまえばいいのに。二人して何やってるんだ?)


 傍から見れば夫婦漫才痴話喧嘩にしか見えない二人の遣り取りにヴァルーは溜め息をつく。また何か一発仕込んでやろうかとあれこれ思案していたが、そんな彼の思考を遮るように、鈍い頭痛が襲い掛かる。澱んだクリエーションが街の方角から響いてくる。ヴァルーは呻いて起き上がると、さっと飛び上がって巽の中に突っ込んだ。


(おい、奴が出た。行くぞ)

「わかった。……今度こそ止めよう」

「私も避難の手伝いに行く」


 立ち上がって変身した巽達に合わせ、乾も意気込んで立ち上がる。一瞬言葉を詰まらせ逡巡した巽だったが、肩を竦めて頷いた。


「ダメと言っても乾ちゃんは聞かないからな……本当は来てほしくないけど」

「巽くんに言われたくないな」

「……やれやれ。行こうか、ヴァルー」


 腰に手を当て胸を張る彼女に、巽は何も言い返せずに肩を竦める。そのまま気を引き締めた巽はじろりと外を見据え、未だ日の上がりきらない街に向かって飛び出した。



 目覚めを襲われた街は混迷を極めていた。一組の家族が車を飛ばして必死に逃げようとする。しかしチーターのイデアを宿した殺人鬼の前では自動車も三輪車も変わらない。ボンネットが激しく凹み、短剣で切り開かれ斑紋の刻まれた籠手が突き入れられる。

 悲鳴が狭い鉄棺で反響し、返り血に塗れた幼い子供が引きずり出される。子どもは突然の事態に訳も分からず泣きじゃくるだけばかりだった。間もなくバランスを失った車はビルの角へと突っ込んだ。運転席も無残に潰れ、独り取り残され泣き続ける幼い子の首根っこを掴んだまま、殺人鬼は身をぶるりと震わせ、恍惚の目を向ける。


「ふふ……美しい家族愛だ、ムラムラしてしまう。君はあの世で誇っていいよ。自分の母は、自分を護ろうとして死んだとねえ」


 短剣を逆手に持ち替えた殺人鬼は、そっと幼児の首筋に刃を当てた。身を挺して庇おうとされた命。その愛の証を壊す時、男は激しい幸福に満たされる。自分がその愛を征服したような気分になる。子どもが喚いて叫んでも、聞こえなかった。


「さあ、もっと私を幸せに――」

「黙りやがれ!」


 ヴァルーの飛び膝蹴りが殺人鬼の腕に炸裂し、突き飛ばされた鬼はタイル張りの歩道に投げ出される。放り出された子どもを抱き留めるも、子どもはパニックを起こして暴れ出す。


「ママ、ママぁ!」


 このまま戦うわけにもいかない。巽は辺りを素早く見渡し、仕方なく建物の陰に子どもを隠す。声を掛ける暇もない。励ますように肩を叩くと、むくりと起き上がった狩猟豹に正対する。


「とうとう派手に暴れ出したね、この悪魔が」

「また君か。やれやれ、そうやって君が私を欲求不満に駆り立てるから、思わず公衆の面前で行為に及びたくなるのだよ。わからないかね」

「わかってたまるか!」


 失望したような口調に理性も吹き飛びかけたヴァルーが再び蹴りかかる。避けられてなお、正拳に裏拳、肘鉄に回し蹴りを矢継ぎ早に繰り出していく。始めこそゆらゆらと余裕構えて避けていた狩猟豹も、回し蹴りは避けきれずに籠手で受け止める。


「おや。先頃お会いした時よりも速くなっている」


 燃え上がって鎧の隙から紅い光をうっすらと放つ隻眼のドラグセイバーを殺人鬼は見つめて首を傾げる。足を下ろした反動で当て身を入れ、仰け反ったところを巽はさらに横蹴りを見舞う。


「覚悟しろ。こうなったら止めろと言っても止められない!」

「血気盛んだなあ。いかにも不愉快だよ」


 態勢を立て直した男は首を振り、踏み込んできた巽をすり抜け、子どもが隠されていた建物の角へ斬りかかる。巽は目を見開いて振り返る。


「待て!」

「おや、これは」


 しかし、子どもはすでにいなかった。殺人鬼が顔を上げれば、子どもを抱きかかえ、必死に走る乾の姿があった。その細い背中を見た途端に殺人鬼は震えた。名も知らない子どもに命を懸けることのできる乙女を目の当たりにして。


「ああ……これは至上の美だ!」

「させないっ!」


 両手を戦慄かせると、短剣を抜き放って一気に駆ける。吼えた巽は走りながら右腕を突き出す。赤熱した拳から火の玉が放たれ、今まさに乾の背中へ斬りかかろうとした狩猟豹の肩に炸裂した。吹き飛んで転がる怪物を一瞥し、乾はそのまま目の前のビルへと駆け込む。狩猟豹は拳を道路に叩きつけ、起き上がりざま短剣を振り薙ぎ飛び掛かってきたヴァルーを斬り返す。


「ぐぅっ……!」

「いつまでも私の邪魔ばかりする出歯亀め。それなら君のお望み通りに死なせてあげよう」

「死ぬかこの!」


 しかし拳を振り抜こうとした瞬間、全身が鉛のように重くなりヴァルーはその場にぐらりと膝をついてしまった。全身に力が入らない。


「何をしている? 戦うのではなかったのかね」


 殺人鬼は巽達の顔面を蹴り飛ばす。兜に深い亀裂が入り、燃える鱗がはらりと舞い散る。巽は受け身を取ってどうにか起き上がりながら、煤けた自らの鎧を見つめる。


「まずい、身体が……」

「おやおや。威勢よく現れたというのに。無様なものだ」


 一瞬で目の前に飛び込み、殺人鬼は腕組みしてせせら笑い、起き上がった巽の腰元を蹴りつける。竜の尾を模した腰当も脆くなり、砕けて吹き飛ばされる。ビルの柱に叩きつけられたヴァルーは、ずるずると地面に倒れる。それでも彼は折れずに真紅の目で狩猟豹の金色の瞳を睨み付けた。


「黙れ、舐めてんじゃねえぞ」

「大口を叩くなら、私に少しでも呻かせてからにすべきでは」


 さらに追い詰め、狩猟豹はヴァルーを捻り上げて蹴りつける。壁に跳ね返り、道路の真ん中に投げ出されて崩れ落ちる。意識が飛びかけ、目の前が歪んだ。


「てめえ、このまま俺達が終わると思うな」

「やはりつまらん。強くもなければ弱音も悲鳴も上げずに大口ばかり。どんな神経してるのかわからんな」


 狩猟豹は肩を竦めると、彼らから背を向け一棟のオフィスビルへと目を向ける。ヒーローのことが気にかかり、窓から屋上から人々が見下ろしている。乾もまた、泣き続ける子どもを宥めながら青い顔して巽を見つめている。真正面から彼女の姿を捉えた男は、目を歓喜に輝かせ、諸手を彼女に差しのべた。


「ああ……君の喘ぐ姿を見せてくれえ!」

「やめろ!」


 悪魔は指先から爪を伸ばし、悲鳴を上げ逃げ出そうとする人々の中、それでも小さな子どもを庇おうとする乾に向かって駆け出した。巽は喚くと、どうにか立ち上がって沈みそうになる身体を懸命に動かす。


(街の人々を守る為に戦おうとしているくせに、乾ちゃんさえ守れないのか、僕は。もっと速く動け。もっと速く――)

「疾く!」


 狩猟豹が爪を光らせ跳び上がろうとした瞬間、鋭い叫びとともに紅い影が不意に視界へ飛び込んだ。陽炎を揺らめかすその影は、籠手で爪を受け止め、掌底を浴びせて突き飛ばす。


「ぬうっ!」


 虚を突かれた狩猟豹は思わず後退りし、愕然と正面を見つめる。鎧から炎を噴き出したドラグセイバーが、真っ直ぐに殺人鬼を睨んで構えていた。そのうちに炎はますます熱さを増し、蒼い輝きを放つ。


「何だ、これは」

「言ったはずだ。もう止まれと言われても、止まらない!」


 気合の一声で蒼炎が弾け飛ぶ。灼きの入った蒼に輝く鎧を纏い、巽達は立っていた。恐れる刃がいつまでも襲ってこないことに気づいた乾は、おずおずと顔を上げて街を見下ろす。


「蒼い……ドラグセイバー」


 近くの枝を折って短剣へと変えた巽を、殺人鬼は鼻で笑う。


「青くなったから何だと言うんだ。それで何か変わるのか」

「だったら自分の身で試せ」


 鉄靴を輝かせ、目にも映らぬ速さで狩猟豹へ迫った巽は逆手に持ったナイフを振るって切りつける。しかし硬い鎧からは火花が散るばかりだ。殺人鬼は鼻で笑って首を振る。


「その程度では達せないねえ」

「一発でダメなら、お前が参ったと言うまでやるだけだ!」


 狩猟豹も拳や蹴りを繰り出してくるが、音も振り切る勢いで動く二人には当たらない。一度拳を繰り出せば十の攻撃となって跳ね返る。小石ほどの一撃に過ぎなくとも、百度当たれば猛獣すら殺す。執拗な斬撃に斑紋の鎧には罅が入り、消耗した男はふらついて片膝をつきかけた。見逃さなかったヴァルーは、突き出た膝を踏みつけ、隙の出来た顔面に二度目の飛び膝蹴りを叩き込む。加速の乗った一撃は狩猟豹の頬当てを叩き割り、血の滴る牙を露わにする。


「うおおっ」


 地面を無様に転がる殺人鬼。唸りながら起き上がったところに、大剣を振るったヴァルーが身を乗り出す。


「おっ死んじまえこの野郎が!」


 鉄靴の蒼光が籠手へと移る。振りかぶって隻眼を輝かせたヴァルーを一目見た瞬間、男は生唾を飲んだ。


「ほう、これは中々乙な雰囲気だ」


 諸手を広げると、ヴァルーの強引な袈裟斬りを一身に叩き込まれる。蒼炎が噴き出し、アスファルトが砕けて小さなクレーターが出来た。周りで彼らを見下ろしていた人々は、吹き飛び倒れた狩猟豹を見下ろし歓喜の声を上げる。それに反して、ヴァルーは剣を担いで舌打ちした。


「くそっ。しぶてえ野郎だ」

「やれやれ。こいつは効いたが……まだ足りないなぁ」


 しかし、殺人鬼は恍惚の声を上げながらゆらりと起き上がる。鎧の胸には赤々と傷が刻み込まれていた。立ち上がって不敵に笑う男だったが、全身に波打つような光が走り、男は呻いて胸を押さえる。


「これは……私も少々動き過ぎたか。ドラグセイバー。覚えておいてあげましょう……」


 頬当てが割れて剥き出しになった悍ましい牙の列を見せつけ、そのまま足元のマンホールを踏み抜き飛び降りた。はっとしたヴァルーは、大剣を投げ捨て追いかけようとする。


「おい。待っ――」


 しかしその叫びは途切れ、その場に倒れ込む。勝っても体力は限界だった。


「まずい。融合が、保てない……」


 震える腕をついてどうにか起き上がった巽は、ふらふらと路地の影へと足を踏み入れる。そのまま変身を解いた巽は、ボロボロの服のまま、その場に倒れこむ。ヴァルーも疲れ果て、一言も発せぬまま倒れている。巽も最早何も考えられない。意識を薄れるままに任せ、静かに彼は目を閉じた。



 その時、巽はまだ気づいていなかった。守るべき存在と思っていた(ひと)に助けられる日が来ることを。



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