第三章①
病室の扉の向こうから聞こえる声で、遥は目を覚ました。テーブルの上にある電波時計で時刻を確認すると午前七時。休みの日はいつも十二時過ぎまで寝ている彼女にしてみればまだ早い時間だったが、扉の向こうの会話が気になった。
夢の影響か、首に圧迫したような違和感があり、何となく息がし辛かったが、ベッドから降りてスリッパを履いた。そして、足音を立てない様にしながらそっと扉に近づいて耳を澄ます。
会話をしているのは二人の男女であり、その二人の声を、遥はよく知っていた。
「……黙っていましょうって……あなた、この事を印藤さんに伝えないの?」
「……印藤は昨日、小学校からの友人を亡くしたばかりです。これ以上、アイツの精神に負担を掛けるのは良くないでしょう。少なくとも、この事件が収束するまでは」
また何かあったのだろうか。まさか、また誰かが……
突然扉が開かれ、遥は外で会話をしていた二人……蝋嶋と筑摩に、至近距離で目を合わせてしまった。扉を開けたら、まだ寝ていたと思われていた遥がいきなり目の前に現れた事に、二人はかなり驚いている様子だった。
「おはようございます」
マズい……盗み聞きしていた事を悟られたかもしれない……はぐらかす為、二人が口を開く前に、遥は挨拶をしたが、内心かなり焦っていた。
「……おはよう。昨日はよく眠れたかしら」
「はい、心の方も一晩寝たらかなり落ち着きました」
「ならいいけど……」
遥と筑摩の会話を蝋嶋は険しい顔で見つめていた。遥はあえて、蝋嶋のその表情に気づかない振りをして筑摩との会話に集中する。
「何か、捜査の進展はありましたか」
「……犯人の方にはあったみたいだけど」
筑摩は無念そうに俯く。
「あなたの先輩の庵薺さん。彼女、昨日から出かけたきり家に帰っていないらしいのよ。ワタシ達も全力で捜索しているけど」
「そうですか。庵先輩もですか」
彼女の生存は絶望的だろう。仮に生きていたとしても、もうまともな会話をする事は出来ないに違いない。
昨日と同様、遥の心は澄みきっていた。
……自分が仲間や親友の死に直面しても、こうして悠々としていられるのは、殺人鬼だった母の血の影響だろうか。
筑摩は左腕にはめた腕時計の針を確認する。
「いけない、もうこんな時間。署に戻らないと。ワタシもずっと、あなた達の傍にいてあげたいけど……二人共、この病院を出たら、寄り道などせずに真っ直ぐ家に帰る事。家に帰ったら家中に鍵を掛けて、どんな訪問者が来ても絶対に鍵を開けない事。いいわね?」
「分かりました。捜査、頑張って下さい」
小走りで去る筑摩を見送ると、そこには遥と蝋嶋だけが取り残された。
「あの人、俺達に気を使ってくれたんだろうな」
「どういう意味です」
「行方不明になってる庵こそがこの事件の真犯人である可能性に、天下の警察が気づいていない訳がないだろう」
蝋嶋は遥に背を向ける。
「お前はもうすぐ退院出来るだろう。それまで二度寝なんかするなよ。もしも何かあったらナースコールで看護師を呼べ」
そう言うと、蝋嶋も去っていった。
「…………つ」
首筋がまた痛んだ。
それから二時間後。
医師の許可が出て、遥は晴れて病院を退院した。
医師と看護師達に見送られて病院の玄関を出ると、その前に停まっていた黒塗りの外車の窓が下り、運転手が顔を出した。
「家まで送っていこう。乗れよ」
「え……」
遥は度肝を抜かれた。その外車のハンドルを握っていたのは、自分と歳がほんの二つしか違わない、高校生の蝋嶋だったからだ。
外の空気が吸いたいからと最初は断ろうかと考えたが、断れば、わざわざ自動車を用意してくれた蝋嶋にも悪いし、一連の事件の事もある。そう思い、遥はしぶしぶ扉を開けて、車の後部座席へ乗り込んだ。
「先輩、車の運転、出来たんですね」
「免許を取ってまだ一週間にもならないがな。それより、早くちゃんとシートベルトを付けろ」
遥がシートベルトを装着するのを見届けた蝋嶋は、エンジンを入れて車を発進させた。
蝋嶋が運転する車は病院の敷地を出て車道に出た。高級車である為か、揺れもほとんどなく、座席も革張りで気持ちが良い。
車の運転に集中しているのか、蝋嶋は何も喋らない。
遥は窓の外の景色を見ながら、物思いに耽った。
鈴蘭が死んだ。陳腐な言い方をすれば、信じられない。
小学校の頃からの親友で、プライベートでもよく遊んだ仲で、最近では図書部に引き入れてくれて充実とした日々を提供してくれた。
その彼女は昨日、何者かに殺された。無残に首を刈られて。
鈴蘭――
目を閉じれば、昨日の窓の外の光景が蘇ってくる。
どうしてよりにもよって鈴蘭が。一昨日も、強気な姿勢で突如起きたこの事件に臨んでいた彼女が、どうして犯人の魔の手になど掛かったのだろう。
「分からない」
そう言えば一昨日の別れの間際に、鈴蘭はこんな事を言っていた。
……もしも仮にアタシが、どんなに酷い姿形になったとしても、アンタだけはずっと、アタシの友達でいてくれるわよね?
この発言は、彼女なりに死を覚悟して言ったのかもしれない。
いや、待て……
昨夜の夢が頭にちらつく。
この発言は……
数時間前の筑摩の声が響く。
庵薺さん。彼女、昨日から出かけたきり、家に帰っていないらしいのよ。
まさか……
蝋嶋が車を停車させた。どうやら我が家へ着いたらしい。
「着いたぞ。……どうした印藤。顔色が優れないが」
「先輩……暫くわたしと居てくれませんか?」