第二章①
昼の十二時過ぎに、遥は目を覚ました。身体中が何となく痛い。何度も悪夢を見ていた様な気がする。
家の中は相変わらず静寂としていた。洗面所で顔を洗い終えると台所へ行き、袋に入った菓子パンを朝食兼昼食で食べる。食べながら、現在海外に出張中の父を想う。
遥は父と二人暮らしであるが、血の繋がりはない。元々は母の連れ子で、母が再婚して離婚した際に、引き取られたのだ。
父は、大手の貿易会社に勤めている。義理の娘である自分を愛してくれてはいるのだが、こうしてかなりの頻度で海外出張へ出向いている為、一緒に食事を取る事さえままならなかった。
母の事は……思い出したくもない。
菓子パンを食べ終えると、リビングのソファに座る。
起きてから時間が経ってきてか、頭が冴えてくると共に、何とも言えぬ孤独感が心を襲ってきた。どうやら自分は、他人の不幸は何も感じないらしいが、自分に迫る恐怖や絶望には過剰に反応するらしい。
誰かと一緒にいてほしかった。それが駄目でも、会話がしたかった。
遥は意を決してソファから立つと、固定電話に歩み寄る。携帯電話の類を持っていない遥が、人と連絡を取る為には、家にあるこの固定電話を使うしかなかった。
最初は父に電話を掛けようとしたが、仕事中かもしれないので断念した。やはり、掛ける相手は一人しか居ない。
鈴蘭……居てくれるといいけれど。
身体が覚えた番号をプッシュし、受話器に耳を当てる。
「お願い」
思わず口に出していた。図書部に入部して多くの者と親しくなっても、遥にとっては鈴蘭が一番の存在だった。しかし、向こうのコール音が響いてくるだけで、鈴蘭はおろか、電話に出る者さえ居ない。
鈴蘭の事だ。何処かへ遊びに行っているに違いない。
肩を落として受話器を置いた瞬間、今度はこちらの電話が鳴り響いた。反射的に受話器を再び手に取る。
鈴蘭だ!
「はい、印藤です!」
「印藤か。俺だ、蝋嶋だ」
かなりの失望を感じた。どうしてアンタが。
「……何の用ですか」
「今からお前の家へ行っていいか」
背筋に寒気が走った。
「他の人の家はどうなんですか。楽市先輩とか安倍川先輩とか」
「楽市の家は猫が居て嫌だし、安倍川の家は高価なフィギュアが沢山あって落として壊したりしたら悪いし、麻生の家は飲んだくれの親父が居るし、庵と舞姫の家に至っては、そもそも連絡さえつかなくてな」
蝋嶋は消去法で遥の家に電話を掛けてきたらしい。鈴蘭のみならず、庵にも連絡がつかないというのを聞き、遥は少し不安に思った。
「お前に何か用事があるなら無理強いはしないが、昨日の事件で少し情報を得たから直接会ってそれを誰かに伝えておきたいんだ。時間はあまり取らない」
本当は、この男と過ごすのは嫌だったが、もう、どうでもいい。誰かと過ごせるならそれで良かった。
「分かりました。お待ちしています」
「それじゃあ、今すぐにそちらへ向かうとしよう」
蝋嶋はそう言うと、電話を切った。
それから三十分程後に、蝋嶋季士はやって来た。黒を基調とした洋服を着ており、まるで葬式にでも出席するかの様な服装である。
「お邪魔します」
蝋嶋は玄関先でお辞儀をしてから、靴をそろえて家の中へ上がる。遥は二階の自分の部屋へ彼を案内した。
遥の用意した座布団に座って、お互いの顔を見合わせる。
「さっそく、事件について俺が得た情報を開示しよう……と、いきたい所だが、まず一番最初に伝えなきゃいけない事がある。ある程度は覚悟の出来ていた事だが、錦縁先生はあの後、間もなく死亡が確認された」
遥にとって、そんな事はどうでも良かった。だが、情報を教えてもらうという名目で家に上げた以上、自分は彼から話を聞かなくてはならない義務があるだろう。
「あの人は俺の書いた小説を初めてボロクソに批評した人だ。裏を返せば、初めて真剣に読んでアドバイスをくれたんだ。そんな人を殺した犯人を、俺は絶対に許す事は出来ない」
「だから、自分で情報を集めて犯人を見つけ出すと?」
「ああ。絶対にな」
あえて声に出す事はしなかったが、「馬鹿じゃないの」としか言いようがない。一介の高校生如きに一体何が出来るというのだ。素直に警察に後を任せた方が無難だろう。
「だが、昨日起きたばかりの事件だ。やっぱり、インターネットにも大した情報は載っていなかった」
「そうですか」
「そこで、最新の情報を得る為には大人の……事件の調査に関わっている大人の協力者が必要だと考えてな。今日の午前中に、その人と話をしてきた」
「誰なんです。その協力者というのは」
大方の察しは付いたが、一応聞いてみた。
「筑摩さんだ。お前も覚えているだろう。昨日、俺達を聴取したあの若い女の刑事さんだ」
遥は脳内で、あの刑事の機械的な声を再生する。
「今日の午前中に、桂署に行って会って来た。俺が協力を要請すると、すぐに快く応じてくれたよ。刑事である自分が居ながら、人が殺されるのを許してしまったんだ。あの人なりに責任を感じているんだろう」
そう言いながら、蝋嶋は皮製の表紙の手帳を取り出して、付箋を貼ったページを開く。
「さて、筑摩さんから教えてもらった情報を順に追って説明しておこう。まず六泥を殺した凶器についてだが、これについては面白い事が判明したそうだ」
蝋嶋はやや興奮気味で説明する。
「錦縁先生の死は俺が瞬時に考察した通り、毒物による物だった。あの場にあった全員分の紅茶が入ったカップと電気ポットからそれが検出されたんだが、それと共に血液の反応も出たそうだ」
「全員分のカップから……つまり犯人は」
蝋嶋は手のひらを遥の顔の前に突き出す。口を挟むなという事だろう。
「つまり六泥の命を奪った凶器は固まらせた水……つまり氷だったんじゃないかという結論が出たらしい」
蝋嶋が言う中で、遥は別の事を考えていた。自分達の生死に直接関係のある事実を。
「警察が考えた犯人の行動はこうだ。まず六泥を倉庫で殺した後、図書室に行って犯行に使用した氷を電気ポットに入れて溶かす。その後、電気ポットに毒を入れる。後は俺達図書部の人間が毒に当たって死ぬのを待つだけだ」
突然、蝋嶋の声は明るくなる。
「それにしても、どうして氷なんかを凶器につかったんだろうな。もしかすると、犯人は大の推理小説好きかもしれない。氷がトリックに使われるなんてよくある」
「わたしの知っている推理小説好きは、あなた位ですけど」
ちょっと皮肉を言ってやると、気分を害したのかと思ったのか、彼はすぐに「すまん」と呟く。
「それよりお前さっき、何か言いたそうにしていたが、何が言いたかった」
そう、遥にとって、氷の問題なんかよりもこれが一番重要だった。
「ポットに毒を入れたっていう事は、犯人はわたし達図書部を全員皆殺しにするつもりだったんですね」
「そうらしいな」
冷淡に蝋嶋は言う。
「この事から、この事件の犯人は、人の命等顧みない異常な思考の持ち主である事には間違いないだろう」
異常な思考……この場に居ない、図書部のメンバー達の顔を思い浮かべていく。
「そんな人がわたし達の近くに」
また蝋嶋は手のひらを突き出して、遥の言葉を遮る。流石にムカついた。
「一体何の真似ですか」
「黙れ……」
左手人差し指をゆっくりと突き上げて、天井を指差す。コツ、コツという、ゆっくりと誰かが歩くような音が微かにした。
屋根の上に誰かが居る。
まさか、六泥と錦縁を殺した犯人が、蝋嶋から異常な思考の持ち主と称された殺人鬼が、自分達の真上に……?
腹を決めたのか、蝋嶋は立ち上がって窓に近づく。
「待って下さい、先輩」
遥も腰を浮かせた時、窓の外で人が舞った。
最初は屋根の上に居た殺人鬼が飛び降りたのかと思った。しかし、それはたったの一瞬の思い込みであり、実際に落ちてきたのはもっと暴力的で、猟奇的で、そして遥にとっては悲劇的なものであった。
彼女は――
凄まじい音を立ててそれが庭に落ちたと同時に遥は部屋を、家を飛び出し、それの落下地点へ向かう。
何本もの花壇の花々をへし折って、それは転がっていた。
若い女の死体だった。しかし、遥はその顔立ちを見て女だと判断した訳ではなかった。まして、顔なんて見れるはずもない。その頭部は綺麗に刈り取られていたのである。
遥が目を付けたのは、死体の身に着けたその淡色のパーカーである。数ヶ月前の彼女の誕生日に、遥がプレゼントした物であり、包み紙を開けた彼女はすごく喜んでくれていた。
「鈴蘭――」
親友の惨死体を前に、遥は崩れ落ちた。