第一章①
それから一ヶ月が経った。
放課後になると遥はすぐに教室を出て、図書室へ向かう。図書室にはすでに、鈴蘭を始めとした図書部のメンバーが集まっていた。
「遅いよ遥。早く座って座って!」
「分かってるよ。そう急かさないで……って、あれ」
いつもの席に、一人のメンバーが座っていない事に気がついた。
「あの……蝋嶋先輩はどうしたんですか」
「蝋嶋くんは用事で少し遅れて来るそうだから、僕達だけで始めておこう」
六泥の号令で、いつも通りに図書部の活動が始まった。
図書部の活動は、主に文芸の創作活動だ。書いてきた創作物を部員達同士で見せ合って色々と意見を出し合い推敲し、一つの冊子にまとめ、十月にある文化祭でその冊子を配るのである。
ただ、今日の活動は月に一度の読書会であった。
「さて皆、ちゃんと読んで来たかな?」
そう言って、六泥はおもむろに、一冊の文庫本を取り出してテーブルの上へ置いた。
六泥信也は前述の通り三年生で、この図書部の部長である。部長とだけあり、見境なく様々なジャンルの本を読み漁っており、古今東西の文芸に対しての知識は豊富である。また人当たりも良い為、皆からも頼られ、好かれていた。
「今はまだ居ないけれど、蝋嶋くんのリクエスト。コナン・ドイル著の【緋色の研究】だ。今日はこれについて感想を出し合っていきたいと思う」
緋色の研究は、世界的に有名なシャーロック・ホームズシリーズの記念すべき第一作だ。ホームズとワトスンが始めてコンビを組み、難事件に挑んでいる。二部構成になっており、第一部では、事件が発生し、犯人を捕まえて事件を解決させる所までを描いており、第二部では、その事件の犯人の動機が描かれている。
「私はあんまりミステリーとか読んだ事はないけれど、これはなかなか面白かったと思うな」
そう言ったのは、副部長の庵薺だ。彼女は主に和歌や俳句といった、日本古来の文芸を好んで創作しており、特に和歌は毎年一月に皇居で行われる歌会始にも参加を許される程の実力を持っている。鈴蘭と同じく背の高い、温厚な性格の美少女だ。
「キャラクターも一人ひとり取っ付きやすかったし、世界中で愛されているだけの事はあったわ」
「なるほど……安倍川くんはどうだい」
六泥は少し離れた、眼鏡を掛け、よく肥えた体型の二年生の男子生徒に声を掛けた。
安倍川鉄雄は二年生。六泥、蝋嶋、庵の後輩であり、遥、鈴蘭の先輩でもある。ライトノベルを中心に読み、家にはそれらのキャラクターのフィギュアが所狭しと並んでいるらしい。
彼は身体を重たそうにずらして六泥に向くと、感想を述べる。
「ボクは第二部の話が少し長ったらしく感じられましたね。これはあくまで推理小説です。事件の経過や探偵の推理を全体的な主点に置いて、犯人の動機なんかはほんの数ページ程度で語られる程度でいいんじゃないでしょうか」
「それはどうかしら」
安倍川に反論してきたのは、同じく二年生の麻生素亜だ。純文学を好み、文章力も相当なものではあるが、誰彼かまわずキツく喰らいついてくる為、遥はあまり好きにはなれなかった。
「人が人を殺すってのは相当重い事なのよ?数十ページに渡って描かれても別にいいじゃないのかしら」
「確かにそうだけどさ……」
「何か意見でもあるの?言ってみなさいよ」
六泥が黙って腕を差し出し、麻生を制す。彼女は少々ふてくされ、押し黙った。
「麻生さんの意見はよく分かったよ。次は……楽市くん、キミの感想はどうだい」
「おもしろかったです、以上!」
楽市獅子は、漫画本を捲りながら、とてつもない大声で答えた。
今時、彼の様なあからさまに柄の悪い高校生はほとんどいないだろう。髪は紅に染め上げ、耳や口には大量のピアスを開けた、典型的なチンピラである。一応図書部の部員として部活には顔を出すものの、創作物は書いてこない、本もまともに読んで来ないなど、素行に問題があった。
「楽市くん、キミがこの図書部の活動にあまり熱心でない事は僕も重々承知しているが、せめてこの図書室の中では静かにしてもらえないだろうか」
六泥が穏やかな口調で楽市を咎める。それを楽市は舌打ちで返した。
「……どうせ、いつもここに居るのはオレ達図書部と、耳のいかれた司書のおっさんだけだろ。なのに何で静かにする必要があるんだ」
六泥は楽市の毒を軽く無視すると、鈴蘭に向いた。
「舞姫さん、感想を」
「はい。色々な意見が出ていますが、アタシとしてはすごく楽しめたお話でした。アタシはこの図書部に入部してから、ジャンルを問わずに様々な本を読んでいて、中でも推理小説と恋愛小説がお気に入りですが、その二つのジャンルを見事に融合させたこの小説は傑作だと、読み終えた時、感じました」
第一部が推理小説で、第二部が恋愛小説といった所だろう。遥も一応、一通り読んでいる為に理解は出来た。
「じゃあ印藤さん、感想を頼むよ」
「……分かりました」
遥は軽く息を吸い込むと、何度も練習してきた感想を述べ始めた。
「わたしはこの図書部に入部するまで、本を読んだ事なんてほとんどありませんでしたが、今回の読書会を通じて、自分の中でかなり本という物について興味がさらに湧いたと思います。これを機に、もっと多くの本を読んでみたいと感じました。以上です」
皆、あっけからんとした様子であった。
「遥」
向かい側の席に座っている鈴蘭が呆れた様に言う。
「今ここでは本の感想について求められてるの。別にこの読書会の感想を求めてる訳じゃないから」
まずい。そうだった……
慌てて本その物の感想を頭から搾り出そうとしたが、その必要はなかった。
「いや、これはこれでいいと思うよ」
六泥が遥をフォローする。
「本を読んで皆が皆、同じ感情を抱くなんて事はありえないんだから、そんな言い方はあまり良くはないと思うよ。舞姫さん」
部長からそう言われた鈴蘭は、はっと気づいた様子で遥に軽く頭を下げる。
「ごめんね。遥」
頭を下げられ、何だか自分が彼女に悪い事をしたような気分になった。
「……さてと、おれからも、ちょっと感想を言わせてもらおうか」
そう言って、顧問の錦縁創が立ち上がる。
錦縁は彼女達の通うこの高校の現代文を担当している若い教師であり、それと同時にこの図書部の顧問もしていた。その乗りの良さや人柄から、多くの生徒達からの支持も厚いが、図書部のメンバーの書いてくる創作物の批評はかなり辛口である。
「こういった推理小説っていうのは、一見トリックとかがあってかなり複雑そうに見えるんだけど、実際は一方通行なんだよね。ホラー小説や恋愛小説なんかは、話の中に色々なドラマがあったりするんだけど、推理小説ってのはそんなドラマは少なくて、一つ、あるいはいくつかの事件を取り扱ってそれを探偵が解くだけだ。だけどこの【緋色の研究】は、後半部に当たる第二部をそのまま他の話にしている事から、推理小説としてはかなり異端な部類に入る、面白い作品だと思うよ」
彼はそう語り終えると、席に座る。これで一応、全員が感想を述べ合った訳だが……
「……待たせたな」
くぐもった声が背後でした。
「やっとこの本の推薦者が来たか。ほら、早く座ってくれよ」
「ああ……遅れて悪かった」
蝋嶋季士は鞄を置くと、いつもの自分の席へと座る。
蝋嶋季士……図書部の部員で三年生の、病的な白髪が特徴の男だ。寡黙で、自分の興味のない事は余り口にはしないが、興味のある話題になると、人が変わったかの様に饒舌に喋り出す。
推理小説が好きらしく、それの長編小説を主に書いてくる。
「それじゃあ蝋嶋くん、キミの感想を聞かせてくれよ」
「分かった……やはりこの【緋色の研究】は、世界的に有名なシャーロック・ホームズシリーズの第一作とだけあって……」
数十分後……
話し続ける蝋嶋を除いた八人全員がテーブルに頭を突っ伏して、寝息を立て始めた。
「蝋嶋先輩の話……長いんだから……いつも無口なくせに」
図書部の活動が終わり、大きな欠伸をしながら遥と鈴蘭は学校の廊下を歩いていた。
「それで?どうよ」
「何の話?」
「察しが悪いわね……図書部の事よ。もう一月になるじゃない」
「そうだっけ」
もうそれだけの時が過ぎたのか。遥は全く実感などしていなかった。
最初は入部届の真相を図書部のメンバーに伝えてさっさと退部するつもりであったが、実際に会話をしたりしてみたら、鈴蘭の言った様に、悪い人達ではなく、自然と図書部に足を運んで活動に参加する日が徐々に増えていっただけなのだ。
「入って良かったでしょ?図書部」
「ええ……」
「だけど、本当にいい男はいない」
「何の話?」
「察しが悪いわね……先輩達の事よ」
鈴蘭はたまに、唐突に男子の話を始める。そんな事に興味のない遥は、適当にイケメンでモテそうな男子の名前を挙げるのだった。
「錦縁先生は地味だし、安倍川先輩は性格はいいんだけど、体格や趣味が引く。楽市先輩は根は小心者だろうし、蝋嶋先輩は……醸し出してる雰囲気があれじゃあね」
「部長の六泥先輩は?あの人、顔も性格もいいと思うけど」
「あの人は……ちょっとね……」
鈴蘭の顔が曇る。
彼女が彼に対して何を思ったのかは分からなかったが、この興味のない話を切らせる事に、どうやら成功したようだった。
「一緒に帰る?」
久しぶりに親友と下校しようと思い、遥は尋ねる。
「ごめん、今日はちょっと後で外せない用事があるから。また今度ね」
「そう、残念」
鈴蘭と別れると遥は靴を履き替え、外へ出た。辺りはすっかり暗くなり、気味の悪い烏の鳴き声だけが辺りに木霊する。
鈴蘭の行動はかなり問題があったものの、結局良い方向へ行ったと言えるだろう。図書部のメンバーと過ごすのはとても充実としており、今となっては、遥も鈴蘭には感謝している。
しかし……
いつ、その充実とした日々が崩れるのか。それだけが遥にとっては不安だった。六年前の様に。
電柱に止まっていた一羽の烏が、自身の黒い羽を撒き散らして飛んだ。