第三章②
この家で死体が落ちてきたのを目撃して気を失い、病院に運ばれて一晩を過ごし、こうしてまた戻って来た訳だが、たったの二十四時間もこの家を離れていないにも関わらず、何ヶ月か振りに帰宅した様な気分だ。
昨日と同様に蝋嶋を自室の座布団に座らせると、単刀直入に遥は切り出す。
「わたし、分かりました。この事件を起こした黒幕の正体に」
蝋嶋の目が光った。
「それは本当か」
「ええ、筋の通る根拠だと思うのですが」
「言ってみろ」
ごめん。
遥は心の中で彼女に謝りながら言った。
「わたしは、鈴蘭こそが皆を殺した犯人だと思うんです」
「……それで?」
昨夜の夢が再び頭に浮かぶ。
「先程、車の中で考えてみたんです。鈴蘭の死について。あれはどう考えてもおかしいんです」
「それはつまり、どうして舞姫の遺体の首が切断されていたのかって事か?」
「はい」
あの遺体は惨たらしくて衝撃的ではあったが、冷静になって考えれば誰だって、その切断された首について疑問に感じるだろう。
「ああやって、わたし達の目の前に遺体を放り投げた事から、バラバラにして何処かへ持ち運びやすくしようとしたとは、絶対に考えられません。ならば、どうしてあの遺体の首を切断する必要があったのか。推理小説の好きな先輩なら、分かりますよね?」
「稀に使われているトリックだ。殺した奴の死体の顔をそうやって切り落とすなり、潰すなりして分からなくして、本当は生きている人間を死んでいるかの様に見せるってトリックだな」
「今朝、筑摩刑事が、昨日から庵先輩が行方不明になっているという話をしてくれたのを、先輩も聞いていますよね。もしかすると、鈴蘭は自分と体格が似ている庵先輩を殺害した後に、その首を切断し、その遺体が自分の物であるとわたし達に誤解させる為に自分の服を遺体に着せたんじゃないか……そう思ったんです」
「なるほど……筋は通っている。だが、身長からして……」
蝋嶋はまだ少し疑っているらしく、何やら呟いていたが、この説を出した自分に、遥は嬉しかった。
親友は生きているかもしれない。
携帯の着信音がした。蝋嶋の方から聞こえてくる。
「失礼」
蝋嶋はポケットから携帯を取り出すと、耳に当てる。
「もしもし……ああ、筑摩さん……えっ?」
彼は顔を上げて遥の方を向く。その顔には焦燥が見られた。
「……はい、分かりました。印藤にも伝えておきます」
通話を切ると、蝋嶋は告げる。
「筑摩さんから連絡だ。ビニール袋に入れられた庵薺の頭部が、俺達の通う学校近くの山の中から発見されたらしい」
「それってつまり」
遥の喜びは絶頂を迎える。
「それとほぼ同時刻に、頭部が発見された場所から程近くの川で、ジュラルミンケースに入れられて遺棄された舞姫鈴蘭の遺体も発見されたそうだ」
本当の闇へと堕ちる――
印藤遥の母は、母親としても、人間としても最悪の人物であった。
十八歳の若さで遥を出産した彼女は、ろくに働きにも行かず、飲酒やパチンコばかりをして過ごしていた。幼い娘の遥が泣き出そうものなら、気を失うまで容赦なくその頬を打ちつけ、食事や排泄の世話もしなかった。
その後、どうした経緯か大手の貿易会社に勤める堅実な男と彼女は結婚した。しかし、その自堕落な生活が改められる事はなかった為、結婚からほんの数年で離婚する事となった。今から七年前の出来事である。
堅実な養父に引き取られた遥は、母が居た頃とは違う、順風満帆な生活を送る事となったが、それも僅か一年で崩れる。
大手グループ企業の会長と再婚をした母が、その遺産を我が物にするべく、その再婚相手と連れ子達をほぼ皆殺しにしたのだ。誰もが知る大手グループ企業の会長一家を襲った連続殺人事件ともあって、当時のメディアで連日大きく取り上げられた。
遥の極度な人間不信はここから始まった。
遥がその連続殺人事件の犯人の娘という情報を仕入れた同級生の一人が、皆に触れ回ったのだ。それから皆の遥に対する態度と目が変わる。仲の良かった同級生からも遊びで仲間はずれにされ、教科書や靴を何処かへ隠され、道を歩いていると全く顔も知らない中高生から罵声を浴びせられる始末。周囲の大人達も、それらを黙認していた。
自殺してしまおうかと、自分をいじめている連中を殺してやろうかと、何度考えた事か。
そんな彼女に、唯一手を差し伸べてくれたのが舞姫鈴蘭だった。今でも遥はあの日の出会いを覚えている。
一人で泣きながら下校する遥を嘲笑うかの如く、夕日が美しい日だった。
アンタ、何をそんなにしくしく泣いてるのよ。
いきなり目の前に現れた、栗色の綺麗な髪をした気の強そうな少女の何とも言えないその威圧に、遥は泣き止んだ。
台無しじゃない、その可愛い顔が。
何て臭い言葉だろうと今では思うが、その臭い言葉によって、その当時の自分が救われたのは事実だった。
その後も鈴蘭は遥の前に現れ、休み時間や下校を共にした。最初の頃は、自分が殺人犯の娘と言う事で、単なる好奇心で近づいて来たのだと思っていたが、遥に向いてくる周囲の刃から、献身的に身を挺して守ろうとする彼女のその姿を見る内に、そんな考えは消えていった。
時には優しく笑い、時には厳しく律してくる。そんな舞姫鈴蘭は遥にとって、最良の友であり、姉妹であり、母であった。
その彼女はもう、この世にいない。
筑摩の話によると、鈴蘭と庵は地域のボランティアにも積極的に参加していた為に顔も広く、すぐに身元が判明したそうだ。 二人は六泥同様、頭を割られて殺されていたらしい。
「……嘘よ」
闇から這い上がろうと、もがく。
「嘘よ。鈴蘭が死んだなんて」
「筑摩さんは堅実な人だ。嘘を吐く人じゃない。お前は犯人のミスリードに乗せられたんだ」
「嘘よ!絶対に嘘よ!」
立ち上がって大声で喚く。
口や身体が勝手に動く。遥自身も驚いた。死体を見ようが、目の前で人が死のうが、全く何も感じなかった自分が、舞姫鈴蘭が本当に死んだというのを聞かされただけで、こんなにも心が抉られる思いをしているのだ。
……いや、彼女は絶対にまだ生きている。死んだはずはない。
もう何も分からなかった。ただ、喚く事しか出来ない。
「嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ!」
「落ち着け印藤」
「筑摩さんの方が……アンタの方がわたしに嘘を吐いてるのよ。そうでもないと鈴蘭が死んだなんて」
顔に、多量の冷たい水が掛けられた。机の上の、花瓶の中入っていた水を、蝋嶋が思い切り遥の頭に掛けたのだ。
「…………」
「少しは頭が冷えたか」
髪や顎から、水滴が絶え間なく落ちる。蝋嶋はポケットからハンカチを取り出すと、遥に差し出した。
「結構です」
遥は蝋嶋を置いて部屋から出ると、一階の洗面所へ向かい、バスタオルを一枚引っ張り出すと、乱雑に頭を拭いた。
頭は確かに冷えたが、悔しさが込み上げる。蝋嶋から水を掛けられた事ではない。鈴蘭はもう、この世に居ない。犯人の手で殺された。信じたくないが、信じるしかないその事実が、遥の精神を裂く。
頭を拭き終えた後も、遥はバスタオルを片手に突っ立っていたが、暫くするとふらつく足取りで洗面台に歩み寄る。何も考えず、ただ何となく歩み寄ったのだ。
鏡に自分の顔が映し出される。目は血走り、唇も荒れ、顔全体も一気に数十歳老けた感じだ。蝋嶋もこんな顔で喚かれれば、水を掛けたくもなるだろう。
そんな酷い顔に手を触れようとした時、昨日までは無かった物にが目に入った。
これは……
手を顔から首筋に移してそれに触れると、また痛みが走る。
――これ以上、アイツの精神に負担を掛けるのは良くないでしょう。
今朝の蝋嶋と筑摩の会話の内容が、分かった様な気がした。
ドタドタと階段を駆け下り、廊下を走る音が聞こえてきたと思えば、血相を変えた蝋嶋が洗面所に飛び込んできた。
「印藤!」
丁度良かった。蝋嶋に確かめなくてはならない。
「先輩、わたしの首に付いている」
「話は後だ。来い!」
「えっ」
蝋嶋は強引に遥の手を引くと、家の外へ引きずり出して、停めている車の中へ彼女を放り込む。
「痛い……ちょっと、何をするんですか!」
「麻生からさっき連絡があったんだ!」
車の鍵を回してエンジンを掛ける。蝋嶋の次の言葉は、何となく予想出来た。
「今度は安倍川が殺されたらしい」