第3話: ダークグレーの過去
28歳。 私にとって、この1年ほど苦しく辛い年はなかった。
23歳の春、私は結婚した。 幸せなはずだった。 ・・・はずだったというのは、自分で幸せだと思い込もうとしていたのかもしれない。 ただ、家を出たかった。 ある意味、独りになりたかった。 それには結婚が一番よかったと、幼い頭で考えたこともあるし、私はその結婚相手を、神の前で誓ったように、『愛している』と思い込んでいたのだ。
結婚生活は、最初から言葉の暴力で始まった。 その度に傷つき、でも、我慢するのが結婚なのだ、と、自分自身に言い気かせ、なんとか続いていた。
だけど、辛かっただけではなく、優しい一面もあったりして、そんなとき、私は『大丈夫。間違ってなんかない』と、思い直していたのだ。
言葉だけではない暴力が始まったのはいつだっただろう。 思い返せば、結婚する前に、ちょっとした私のミスに激怒し、山奥に連れて行かれて思い切り平手打ちを食らった。それが一番最初だ。 だけど、私は、そのときに言った。『暴力は、この世の中で一番嫌いなの。だから、結婚してから暴力を振るったら、私はそのときに離婚する。』と。
一番卑怯者は、弱者に対して、会話ではなく、会話が成り立たなくなったら暴力で制するということだ。 言葉が通じないのはどうしてだろうか、と、まずは考えなくてはならないと思う。 通じないならば、その時点である意味The end なのだ。 どうしようもないこともある。
そこで、暴力に訴えてしまうしかないのならば、もう、その先はないのだ。
戦争がいい例だ。 どうにもならないから、武器で。 なんと、安易な考えだろう。 もっともっと、話し合わなければいけない。 もっと、相手を思いやらなければいけない。 その末にもし話し合いがつかないのならば、それは、どうしようもないことなのだから、譲歩するとか、あきらめるとか、術はいっぱいあるだろう。
別れもその一つだろう。
なのに、夫は私に暴力を振るうようになってしまった。 徐々に強く強く。
家の中は、もうどうにもならないぐらいぐちゃぐちゃになってしまっていた。 襖は、骨組みから壊れ、自家用車は、ぼこぼこに蹴られ・・・私にはどうすることもできなかった。
一つ、私に神様が与えてくれた大切な宝物があった。 その結婚で、たった一つ大切な宝物が生まれた。 娘だ。
妊娠がわかったときに、すでに結婚していたのにも関わらず、夫に言われた。
『堕ろしてくれ』
目の前が真っ暗になった。
この人・・・何を言ってるの? 命だよ? しかも、私たちは、もうきちんと結婚している。婚姻届を出している、社会に認められた夫婦だよ?
そして、泣いた。 何に哀しかったのか、それすらわからなかったけど、とにかく泣いた。泣いて、泣いて、『命を無駄にはできない。私は、何があっても産む』そう言って、なんとか夫に納得させた。 私にとって、とても大きい傷だった。
でも、その命は、それまで生きてきた私の人生の中で、これほどにもないぐらい愛おしく、愛おしいという言葉では足らないぐらい・・・私の命だった。 その大事な大事な命のために、いろいろなことを我慢することができたのだと思う。 だけど、そんな日々も、限界が来ていたことは否めない。 私は、毎日1時間も眠れない状況で、育児と仕事を抱え、精神、肉体、全てにおいて限界に達していた。 夫は・・・仕事が終わった後も、飲み会や、博打などで、帰ってくるのは明け方だったのだ。
そんなとき、結婚前にずっと好きだった人から誘われた。
その人は、そう、それほど堅実でもなくて、私を都合のいい女にしていた人だ。
だけど、私は誰よりもその人のことを好きだった。 誰よりも何よりも。 彼がいたら、それだえでよかった。 だけど、彼はそうではなかった。
「お前のこと、楽だし、好きだけど、結婚を今は考えられない」と言われ、そして、終わったのだ。 その後、結婚相手と、出会い、私はすぐに結婚した。
そう、誰でも良かったのかもしれない。 私を家から引っ張りだしてくれる人だったら、誰でも。 だから、結局は、私が悪いのだ。 全て。
その彼からの、職場への電話にはさすがに驚いた。 この人何をしてるの?って。
彼にはその時、婚約者がいた。 もうすぐ結婚、という状況だった。風の噂で聞いていた。
なのに、何故?
「小川さん、外線でーす。繋ぎますよー。」総務から、電話が回ってきた。
『はい、小川です』
『元気にしてるか?』
『まぁ。どうしたの?』
『会うか?』いつも勝手だ。
『はぁ? 何言ってるかわかってる?』
『会うか。』
『・・・・・・』
『会うか!』
『わかったよ。』
弱い私がいた。 ダメだ。 やっぱり、彼には叶わない。 きっと・・・ずっと私の中では、消えずに続いていたのだろう。 バカだ。 私は、大バカだ。
土曜日の昼間、職場の近くに迎えに来た彼。
私は、週のうち一日休みをもらう代わりに土曜日出勤していた。 その土曜日の午後、お休みをもらい、彼と会うことにした。
「変わんねーな。」
第一声、それですか。
「あんたもね。」
私も、、、それですか。
のりのいい二人は、数年経ったとは思えないぐらい昔に戻っていた。
好きだ・・・やっぱり、この人しかいないのに。 でも、もう、無理なんだから。
彼の車に乗り込み、しばらく海沿いを走った。
「どうよ、ここんとこ」
ちょっとふざけ気味に私が訪ねる。
「ふん、どうだろうな。」
彼は、相変わらず、ぶっきらぼうに答える。
「そっか」
「ん」
楽だ。 この感じが、私は居心地がいい。
そうこうしていると、かわいらしいホテルの前の駐車場に車を停めた。
「なんなのよ、ここ」
「ホテルだろ?」
「そら、見ればわかるさ。何でよ?」
「そういうことだ」
「???」
「降りよう。」
「なんで?!」
「いいから」
有無を言わせないところが全く変わらない。
部屋に入ると、
「俺、婚約解消するんだ。」
「な、なんで?!幸せなんじゃないの?」
「考えたんだ。 このまま一緒になったとして、あいつは、家事も完璧にやるだろうし、きっと子供とか産まれたら、育児もしっかりするんだろう。それは、ありがたいんだろうど・・」
「けど?」
「だけど、笑ってる二人が見えない」
「?」
「俺は、お前といるとき、お前のバカみたいなところを見て、いつも楽しかった。それでおちょくって、俺も笑ってることが、すごく好きだったんだ。だけど、その反面、お前はいつもクールで、それほど俺のこと思ってもないような態度をとる。 不安だった。こいつ、本当は俺といても俺のこと好きでも何でもないのか?って」
明らかに、それは、私が思ってたことでしょうよ。 今更何言ってんの? ふざけないで! そう思いながら・・・そう思っているはずなのに、嬉しかった。
「私は・・・あんたと一緒にいることが全てだった。 だけど、あんた、ふらふらいろんな人のところに行ってたでしょ? それでも良かった。 だって、私は、どんなあんたでも好きだったから。 でも・・・私を突き放したじゃない。だから、私は、今結婚してる夫のところに走ったんだよ。」
「そうだな。 失うと、すごく浮き彫りになるんだよな」
言葉にはもう出来なかった。 私の、搾り出した言葉の全てだったから。
神様は、時にいじわるになる。
それは、きっと、『真実』を知らせるためなのかもしれない。 結局は、辛いと思うことでも、『それは間違っているんだよ』と、教えてくれているのかもしれない。
「シャワー浴びて来いよ」
なんなの?この態度!? でも・・・私、バスルームに行ってた。 そして、念入りに体を洗っていた。
彼がシャワーを浴び、出てくるとすぐに私のところまで歩みより、手を引っ張られ、ベッドに倒されて・・・
彼は、前のままの彼だった。 何も変わっていない。 自己中心的な性。
でも、私は、どんな彼でも、彼だけが私の中で満足したとしても、ずっと好きだったし、愛していたし、今も変わらないことを知ってしまった。
もう、離れられないでしょう? どうすんの?
自問自答。
私、どうすればいいんだろう。
せっかく、ケリを付けて、かれと別れてからの数年間、苦しくても、思い出の曲を聴いて泣いても、それでも抑えていた私なのに、もう、抑えきれないよ。 どうすんの?
彼は、一度私の中で満足したら、イビキをかいて寝ていた。
っていうか、私、仕事に行ってることになってるし、いつまでもここに居られないでしょう?どうすんの?
考えあぐねて、メモにメッセージを残して帰ることにした。
「私、もう帰るね。ゆっくり休んでね」
タクシーを呼んでもらって、駅まで辿り着き、家路につくまでにしばらく時間がかかった。
「何やってたんだよ!」
今にも襲い掛からんとする夫が玄関に立っていた。
「ごめん、残業していて・・・」
「じゃぁ、今度は金がいいな!」
そう言って、機嫌を直して居間に向かって歩いていった。
金ですか・・・ 虚しい。 お金だけ生きがいに持つなんて。 でも、それで、暴力から免れたのならば今日は良しとしよう。
子供と夫の夕食を手早く用意し、食べさせ、やっと今日が終わる。
なんと、あわただしい一日だったか。
私は、この先どうするのか。
もう、今日は眠ろう。 どうせ、そう長時間眠れないのだから。