家族
それからも時はゆるゆると過ぎて行った。
維織は少し大きくなって、立ち上がってよちよちと歩くようになった。
あれほど独身を長く続けていた前世の息子達の明維と晃維は、蒼の娘たちと相次いで望んで婚姻に至り、未だ気強く維月を想い続ける将維と末の息子亮維は、時に月の宮で維月と過ごして、それで落ち着いていた。維心も、自分の分身のようなこの二人に関しては、もう何も言わなかった。二人共に一度は妃を迎え、それで駄目であったのでその努力は汲もうということらしかった。
維心は、子育てのために頻繁に月の宮へ戻る維月に付いて、月の宮へ来ていた。
常の里帰りは一ヶ月間、三、四ヶ月に一度のことであったのだが、今は一ヶ月に一度、一週間ほど戻る。
なので、いくら維心でも宮を開けて追って来る事が出来ない時もあったので、今回は始めから付いて来たのだ。
維月は、十六夜の腕から離れてこちらへ向かう、維織に手を差し出していた。
「維織、さあ頑張って。もう少しよ。」
維織は赤子ながら、まるで立ち合いをしている軍神のように真剣な表情で維月に向かって慎重に一歩一歩進めていた。維心は、将維もこんな感じだったなと、前世を思い出していた。
維織は、やっと維月の前まで来て維月に飛び付いた。維月はそれを満面の笑みで受け止めた。
「まあ維織!なんて上手に歩けるようになったのかしら。良い子ね。」
維月は維織の頬に唇を寄せた。十六夜が笑って近付いて来た。
「最長記録だぞ、維織。よく頑張ったな。」
維織はきゃっきゃとはしゃいでいる。十六夜はその頭を愛おしげに撫でた。維心が、居心地悪げにしていると、維心に気付いた維織がそちらへ手を伸ばした。いつものことだが、抱っこしろということらしい。維月が困ったように言った。
「まあ維織…駄目よ。このかたは龍の王様なの…簡単に触れてはならないかたなのよ。」
維織は不思議そうに維月を見る。十六夜が苦笑した。
「ま、維織にはまだ無理だな。さ、オレの所へ来い。」
維織はすぐに十六夜に手を出した。十六夜はそれを抱き寄せて、言った。
「じゃあ、部屋へ帰るか。維心は、将維が話したいと言ってたぞ?」
維月が維心に頭を下げる。そして、維織を抱いた十六夜と共に、歩き去って行った。
そうやって一週間過ごした後、わんわん泣く維織に後ろ髪を引かれるような顔をしながら、維月は維心に抱かれて龍の宮へ帰って来た。しばらく暗い顔をしていた維月も、維心に促されて居間の椅子へ座る頃には気持ちを切り替えて、維心に微笑み掛けている。
維心は、複雑だった。前世、十六夜と維月には、蒼の月の命という子があった。しかし維心と結婚する前であったし、それにその命は形を持たず、人であった蒼に宿ったので子育てをする必要もなかった。なので、維月と十六夜のそんな姿を見ることもなかった。
しかし、今生ではあのように実体を持つ命を成し、二人で幸せそうに育てているのを見ると、落ち着かなかった。前世では、維心と維月は途切れなく6人もの子を成した。それは維月が月になったばかりで、子が出来ないように調節することが出来るのにも関わらず、その方法を知らなかったからで、維月がそれを習得するまでの間、ずっと続けて子供が出来たからだった。
今生では、既に最初からその方法を知っている維月は、まだ維心との間に子を成していなかった。本当は十六夜との間にも出来ないはずだったが、月の命というのは維月にも十六夜にもどうにも出来なかったようで、本当なら出来ないはずの子が、簡単に突然出来てしまったのだ。
しかし、生まれ出ると可愛いようで、二人は本当に維織を可愛がって育てていた。維織も皆に可愛がられて、母親と離れて育っていても、影響していないようだった。
維心は、維月を抱き寄せた。
「…維月、我も主の子が欲しい…。」
維心は、維月を抱き締めたまま言った。維月は、困ったように維心を見上げた。
「維心様…。」
維心は維月の目をじっと見た。
「もう、前世の子も婚姻を済ませた。それに、我らは新しい生を生きておる。我らに、今生の子がおっても良いではないか。」
維月は、困ったように維心を見た。
「ですが、維織もまだ手の掛かる歳でありまする…もうしばらくお待ちいただけませぬか?数年のことでありまする。神世の数年などすぐでありまするし、維心様も私も、まだ成人してそう経っておらぬ歳でありまする。前世維心様が1700歳で子をなしたことを思ったら、すぐでありますから。」
維心は、しばらく黙ったが、横を向いた。
「…わかった。」
維心は、黙って物思いに沈んだ。維月はどうしようかとおろおろとした。維心の気持ちは分かる。でも、あっちこっち行ったり来たりしている今の状態で、自分がお腹に子を持ってしまっていたら、維織の世話も出来ない…。それに、こちらの子が生まれたら、そうそうこちらの宮を開ける訳にも行かなくなる。前世ではなかったこんな軋轢が、ここに来て浮き彫りになってしまった…。
「維心様…。」
維月が呟く。維心は、維月を見て少し口の端を上げた。きっと微笑みたかったのだろうが、出来なかったのだ。維月は袖で口を押えて、下を向いた。維心様に、それでなくとも我慢を強いているのに、私は…。
「申し訳ありませぬ…。私は、何と我がままであるものか…。」
維心は、今度こそなんとか微笑んだ。
「すまぬ。主の言うことはもっともなのだ。我には分かっておる。」と、維月を抱き寄せた。「分かっておるのに…。」
維月は、維心を抱き締めて思った。前世でうまく行っていたからと言って、今生でもうまく行くとは限らない。こんな不自然なことをしていて、これから何百年うまくやって行ける保証はないのだ…。
その頃、月の宮の見回りの軍神が、蒼に来訪者を告げていた。北のずっと果ての地、アイシアという国から来たと言う。外国人かと思ったが、外国の神だと頭の中で蒼は訂正した。言葉はおそらく問題ない。蒼ですら、この数百年で何か国語か分かるようになった。その国の、王と側近の軍神が一人だけで来たのだと言う。蒼は、少し緊張しながら頷いた。
「では、ここへ案内せよ。」
軍神達は、頭を下げると出て行った。
数人の軍神に前後を挟まれて宮へ降り立ったその王は、体は細いが驚くほど気が強い王だった。どうもそういう仕様のようで、纏っている甲冑のせいで顔がはっきり見えない。驚いたことに、付いて来ている軍神は亜麻色の髪に琥珀の瞳の女だった。
その軍神が言った。
「我が王、レイ様でありまする。我は軍神の長、ナディア。こちらにおわす、月と是非立ち合いをしたいと、こうして遠路はるばる参りました。」
日本語だった。蒼は少しホッとした。
「月と。」と、傍らに立つ十六夜を見た。「こちらが月。名を十六夜と申す。十六夜、立ち合いをするか?」
十六夜は、じっとレイを見た。
「…なんだか胡散臭いヤツだな。お前の腕は確かなのか?」
レイはそれには答えず、傍らのナディアが答えた。
「我らの国では、王は滅多に公の場で口を開かれませぬ。王の腕は、もはやあちらに敵が居らぬほど。月の評判が戯言でないなら、我が王の申し出をお受けなさいませ。」
気の強そうな顔をしている。しかし、依然として王の方は全く口をきく様子はなかった。十六夜はフンと横を向いた。
「まあ、遠くから二人きりで来たわけだし、一度ぐらい立ち合ってやってもいい。」と、傍の軍神を見た。「コロシアムに案内してやりな。」
軍神は頭を下げ、二人を案内して行った。蒼は、それを見送りながら言った。
「…まあ、遠路来た訳だし、ちょっと相手をしてやったらいいんじゃないか。」
十六夜は頷いた。
「ちょっとって訳には行かないだろうな。あいつは維心並に気が強いぞ。ま、オレに敵は居ないけどな。行ってくらあ。」
蒼も立ち上がった。
「オレも行くよ。」
二人は、臣下達にも付き添われてコロシアムへと向かった。