大氣の見たもの
二人が去ってから、維織を乳母に渡すと、大氣は言った。
「実は我はあの先も見ておる。」碧黎と十六夜が振り返った。「だからこそ急ぎ戻って参った。まさかあの小さな維織が見ておるとは思わなんだからの。主らには見せようぞ。あの壁を見るがよい。」
大氣は椅子に座ると、手を翳した。十六夜は、先など見たくなかった。だが、必死に目をそちらに向けて壁を睨み付けた。
大氣の手から出た光は、碧黎と同じようにそれを映し出した。
維月と維心には、それからも度々子が出来た。皆男で、もう三人目が腹に居た。
十六夜は滅多に降りて来なくなり、実質蒼が一人で宮を守っていた。レイティアはまだ月の宮に居たが、こちらも滅多に部屋から出ることはなかった。十六夜の妃とは言っても、十六夜は宮に降りて来ないので、会うこともない。十六夜自身がどう考えているのかも、今の蒼には分からなかった。こちらから呼び掛けても、答えもしない事が度々だったからだ。
碧黎も、たまに十六夜と話しているようだったが、その表情は険しかった。そんなある日、碧黎は龍の宮へと赴いた。
維月は、大きな腹を抱えて居間で出迎えた。維心も珍しい客に共に碧黎を待っていた。
「珍しいの、碧黎よ。どうしたのだ?」
碧黎は維月を見た。穏やかで優しい気を発している…そうか、主は維心の元で幸せか。
「娘の様子が気になっての。しかし主に大切にされておるようよ。穏やかなことだ。」
維心は笑った。
「そのような心配は要らぬ。我は維月を己より大切に思うておるゆえ。」
この世最強の龍王に守られた娘…。碧黎は頷いた。
「…しかし、我の子は維月のみではないからの。話があって来た。良いか?」
維心は察して頷いた。そして維月を見た。
「主は下がるか?」
碧黎は首を振った。
「維月にも聞いて欲しいのだ。」
維月は少し強ばった顔をした。しかし、頷いた。
「はい、お父様。」
碧黎は維心に促されて椅子に座った。維月が維心に助けられて座るのを見て、碧黎は口を開いた。
「主らが幸福なのは良い事だ。しかしあれよりもう数年、十六夜が月から降りて来ぬようになり、こちらの呼び掛けにもろくに答えぬようになってしまった。維心、主はどうよ。」
維心は、維月を気遣いながら言った。
「あれと約した通り、折りに触れては維月の様子を話している。この子が出来た時も話した…しかし、最近は確かに呼び掛けても反応がない時があるの。答えても言葉が少ない。聞いておるのかと思うほどぞ。」
碧黎は珍しく、悲しげに視線を落とした。
「…実は、あれは病み始めておる。」維月が驚いた顔をした。碧黎は頷いた。「そうよ。維月、主を想うあまり、苦しみ抜いて誰に癒される事もなく過ごしたゆえ、狂い始めておるのだ。先日の気の嵐を覚えておるか?」
維心は頷いた。いくら自分が抑えようとしても抑えきれず、なのに、あるときフッと元に戻った。何事もなかったように。
「あれは、十六夜が我を忘れておったゆえ。」碧黎は言った。「維月まで殺すつもりかと我が叫んで、やっと我に返った。だが、あれより答える事がない。今どうなっておるのか、我にも気取れぬのだ。分かるのは、唯一主だけぞ。月に帰れば、知る事が出来る。」
維月は、月を見上げた。思えば最近は月を見上げることもなかった…十六夜を思い出し、レイティアを思い出してしまうから…。レイティアと、それなりにうまくやっていると思っていたのに。
「でも…」維月は腹を押さえた。「この子が居る限り、戻る事が出来ませぬ。この子は龍。この体はエネルギー体だから、この子を残して行く事になる。生まなければ、無理なのです。」
碧黎は頷いた。
「分かっておる。産み月が近いであろう。生んだら、月を訪ねてやってくれ。元に戻れぬなら仕方ない。だが、あやつの心は死のうとしておる。このままでは、生ける屍になってしまう…。」
いつもは冷静な碧黎が涙ぐんでいる。維月は胸を痛めた。まさかそんなことになっていようとは…。
「わかりました。出産したら、すぐに参ります。お父様…それまで十六夜をお願い致します。」
碧黎は安堵したように頷いた。そして、龍の宮を飛び立って行った。
それから、碧黎は答えない十六夜に向けて話し続けた。維月がもうすぐ帰るから、それまで後少しの辛抱だと。
維月が第三皇子を出産したとの知らせが来たのは、それから三週間ほど経った日だった。元より月の維月は、月に戻った方が回復は早い。十六夜をずっと気にかけていた維月は、維心に見送られて月へとうち上がって行った。
《十六夜?》
維月は声を掛けた。ピクリと何かが反応したのが分かったが、しかし答えはない。維月は再び十六夜に呼び掛けた。
《十六夜…そこに居る?》
《……。》
何かが反応しているのは分かったが、しかし言葉になっていない。維月は十六夜の命を抱き締めるようにした。
《十六夜…ごめんなさい。分かっていたのに。私、あなたが優しさからああしたことは分かっていたの。なのに、どうしてもつらくて仕方がなかった…愛していたから…。》
十六夜からは、答えはやはりなかった。維月は、ふと気付いた。十六夜の命は、とても小さくなってしまっている。そう、今にも消えそうな…それが命ではなく十六夜の意識だということに、維月は気付いた。十六夜は、死ねないのに、意識だけを殺そうとしたのだ。苦しみ抜いた末の、十六夜の選択だった。しかしそれは、黄泉にも行かない真実の消滅だった。
《ああ!十六夜!》維月は必死に呼び掛けた。《戻って来て!逝かないで…私がこんな風なばかりに、あなたをこんなに苦しめたなんて…!》
微かに、何か聞こえた。維月は耳をすませた。
《…維月…すま…ない…愛して…る》
維月は、人型なら涙が出たと思った。
《私もよ!愛してるわ!十六夜…!》
《…よかっ…た…。》
十六夜の念が途切れた。維月は叫んだ。
《嫌!嫌よ十六夜!逝かないで!》
維心は、月を見上げてそれを聞いていた。十六夜が消滅する…黄泉にも逝かず、命を残して意識だけが…。
維心は涙ぐんだ。十六夜…!我はどれ程に主に助けられたことか…!なのに、もう会えぬと申すか…!
十六夜の意識は、風前の灯火だった。維月が必死に留めようと月に残り、僅かな意識を守り続けた。そしてそれは、ひと月にもなった。
《お父様!力をお貸しください!》
維月の声がふいに叫んだ。
「使うが良い!」
碧黎は、維月に向かって己の持てる力を一気に打ち上げた。維月がそれを受け、見る間に月の宮へと二つの光の玉が降りて来る。碧黎はその軌道を読み、それが十六夜と維月の部屋に降りるのを感じた。
碧黎がそこへ飛び込むと、そこには人型になりつつある二体のエネルギーがあった。碧黎が力を貸しながらじっと見守っていると、やっと維月と、十六夜の人型になった。
維月はふらふらと十六夜を支えながらよろけた。碧黎は手を貸して十六夜を寝台へ寝かせ、維月を見た。
「維月…ようやったの。」
維月は頷いた。
「なかなかに無理でありましたが、やっと人型になれるだけの意思を戻して…まだ意識は戻りませぬが…。」
碧黎は涙ぐみながら維月の頭を撫でた。
「良い。ここまで戻っただけでも上出来よ。とりあえずは、この人型が維持できている間は大丈夫なのであるから。大儀であったぞ、維月。」
維月は頷いて、十六夜の頬に頬を擦り寄せた。十六夜…きっと戻してみせるから!




