005
ぱちり、と火が爆ぜた。
広場の中央では、陽光に照らされた、ゆらゆらと淡く薄い炎が揺れている。
その一方では、かちゃかちゃと食器のなる音がする。それを示すかのように、炎の前では姫椿が調理器具を振るっていた。
ミツキは目の前で繰り広げられる光景を、ただ黙って見ているしかできなかった。それは特別な理由があると云うわけではなく、ただただ単純に「あんた達二人はは座って待ってなさいね」と姫椿に言われたからである。
「……」
ミツキは手持ち無沙汰に隣に座る少女を見る。
イチカは先程までと変わらず、ぺたりと座り込み、その視線を地面へと落としていた。打って変わった点があるとすれば、恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めていることと、その両手を自分のお腹へ添えていることだった。
「あはは……」
ミツキはそのイチカを見て、乾いた笑いを浮かべてしまう。言葉を掛けようにも、その言葉が今のミツキは持ち合わせていなかった。
事の始まりは正にそのイチカだった。
◇
「さて少年。話も落ち着いたところで、腰も落ち着けましょ」
そんな言葉を区切りに、ミツキと姫椿は既に座り込んでいたイチカと同じように地面へ腰を下ろした。広場の中心から少し外れ、三人で綺麗な三角形を描く様な形である。
「さて、折角だし少し話でもしましょう」
姫椿がミツキへ視線を向け、そう言ったときだった。
『ぐう~』
と、音が鳴った。どこか間抜けで、聞き覚えのあるような音だった。
警戒をする様な音ではなかったが、ミツキは周囲をきょろきょろと見渡す。単純に、何の音だったのか、気になったのだ。
だが、その好奇心が失敗だったと、ミツキは一瞬で気付いくことになる。そして、同時に後悔することにもなる。
「…………ぁぅ」
イチカは顔を赤く、まるで熟し切ったトマトの様に染め、お腹を押さえて丸まっていたのだ。
『ぐぅ~』
その光景ですべてを理解したミツキだったが、それに追い打ちをかけるかのように、もう一度音は――お腹の音は鳴る。その度に、イチカは恥ずかしそうに体を縮こませてしまう。
「あら、イチカ。お腹すいたの? ま、もうお昼だものね」
姫椿はあっさりと気にする様子もなく、イチカにそう声を掛ける。イチカはそれに一度は首を横に振ったのだが、その結果もう一度お腹を鳴らしてしまい、渋々といった体で首を縦に振った。
「それじゃあご飯にしましょうか。ミツキ君もそれでいいかしら?」
「あ、はい。僕もそろそろお腹が空いてきてたんで」
話を振られミツキは咄嗟に答える。空腹であるというのは事実ではあった。だが、正直に言えば、昼食を取るという考えが抜けていたのだ。
(ご飯があんまりおいしくない……っていうか、全然おいしくないからなぁ)
ミツキは心の中でそうぼやく。
この二ヵ月の中で最も大きな悩みの種であったのが、正にこの食事であった。
〈エルダー・テイル〉には〈料理人〉という生産系のサブ職業が存在しており、食材アイテムを揃えることで、和食から洋食、中華などと云った現実世界に存在するほとんど料理を製作することができたのだ。その為、完成品であるところの料理アイテムも多岐に渡って存在し、普通にプレイしているだけでも色々な場所で目にすることになる。
そして、この状況に陥ってしまい、それらの料理を実際に飲食することが出来るようになった。もとい、普通に生活する限り、腹も減るし排泄も行う必要があるのだ。結果から言ってしまえば、食べざるを得ない状況になってしまったのだ。
だが、どれを食べようが味がしない。
まるで湿気た煎餅のような、何とも言えない味が口の中に広がるだけだったのだ。また、下手に焼いたり、調味料を加えたりと手を入れようとすると、一瞬で消し炭や味のないゲル状のものに変化してしまう。
(果物や野菜なんかの素材そのものは味がするから、まだよかったけど。やっぱり飽きるよね)
それが、ミツキの目下の悩みであり、食事に対してどうしてもモチベーションの上がらない理由だった。
「じゃあ、ちょっと準備するから待っててね。二人はゆっくりしてていいわよ」
「あ、いや。僕は手持ちが、」
「いいのいいの。イチカを助けてくれたお礼に、アタシが振る舞ってあげるわよ」
ミツキが鞄――〈ダザネッグの魔法の鞄〉から用意していたトマトと塩を取り出そうとしたところで、姫椿はさらりと言い切った。
「いや、でも……」
言いかけてミツキの口が閉じられる。姫椿は早々と自分の〈ダザネッグの魔法の鞄〉からアイテムを取出し、準備を始めた。
その手際の速さにミツキはそれ以上口を挟めず、待つことにしたのだった。
(……ふむ。味のしないものでも、女の人に作ってもらったって考えれば、また違うものかな)
イチカと並んで、ぼんやりと作業を眺めながらミツキはそんなことを考えていた。
そこで、ミツキはふと、何かを感じた。
(ん……良い匂いが……って、ええっ? ちゃんとした料理の匂い……?)
鼻孔を刺激する、香しい香り。それは鼻から喉を抜け、胃まで届いてくる。急速に脳は空腹を訴える。
「ちょ、姫椿さん! これっ……!」
「もーぅ、本当にせっかちさんねぇ。もう少し待ってなさい。すぐに出来るわよん」
姫椿は火へ小さな鍋とフライパンを掲げていた。鍋からは白い湯気が、フライパンからはじゅうじゅうと調理の音が弾けている。
「アタシ、ちょっとしたご飯も手を入れないと満足いかないのよね。と、完成。イチカ、お皿出してもらえるかしら」
「……うん」
呆然とするミツキをよそに、二人は慣れた手つきで料理を盛り付けていく。
「とは言っても、こんなところじゃ大したものも用意できないし、簡単なものになったけど勘弁してね。さ、冷めないうちに食べて」
「あ……はい」
ミツキの目の前には、二つのサイズの異なる皿が並べられていた。
平たい皿には、肉と野菜を炒めたもの――要するに野菜炒め。もう一つは少し深さのある皿で、中には馬鈴薯や人参、玉葱といった野菜のゴロゴロと入ったスープ――いわゆる、ポトフが注がれていた。
「冷めないうちにーって言っても、こんな暑い日だと、大丈夫だと思うけど。……ん。もしかして野菜苦手だったり? ダメよん、こんな状況になったからっていっても、栄養はしっかりバランス良く取らないといけないわよ」
「あ、いや。嫌いじゃない、です」
むしろ基本的に好き嫌いのないミツキにとって、これらは好物とも言える。だからこそ、ミツキは戸惑ってしまっていた。
記憶にある料理が、記憶にある形と匂いを持って出てきたから。
「――い、いただきます」
「どうぞ~」
「いただきます」と丁寧に手を合わせるイチカを横目に、ミツキはポトフに差し込まれていたスプーンをそのまま掬い上げる。スプーンの先には角切りの馬鈴薯が琥珀色の透明なスープに浸かっている。そこから立ち上る湯気に乗ってコンソメの柔らかな香りが鼻に届く。ごくり、と知れずに喉がなった。
「――っ! う、うまっ!」
「んふふ。良かった。まだいっぱいあるから、どんどん食べて頂戴」
ミツキはそんな姫椿の言葉も半ば耳に入らず、必死でポトフを口へかきこんでいく。
一口頬張る度に、野菜それぞれの味やスープのコクが広がっていく。ポトフだけじゃない。野菜炒めも、シンプルな調理方法であったが、だからこそか記憶にある、ずっと食べたいと願っていたものと限りなく同じで、ミツキはスプーンや箸を動かす手を止めることが出来なかった。
「あらあら、何よそんなにがっついちゃって。そんなにお腹空いてたの?」
「いや、あの、おいしくって」
「うふふ。褒めても何も出ないわよ。それだけの食べっぷりだったら作ったかいがあったわねぇ」
あっという間にミツキの皿は空になった。結局、ミツキは何度かのおかわりをしてしまっていた。
「……ごちそうさまでした。本当に、おいしかったです」
「もう。ミツキ君ったら、何かと律儀なのね。こんな簡単な料理でそこまでお礼言われるとこっちが恥ずかしくなってくるわ」
「でも、こんな美味しい料理食べたのは久しぶりだったから。ずっと味のない食べ物ばっかりだったし」
「味のない……精進料理でも食べてたの?」
姫椿の視線がミツキの上から下までを見渡す。
「いえ、〈武士〉だから精進料理食べてたとか、節制をしていたとかじゃなくてですね」
「なんだ。そういうロールプレイかと思ったわよぉ」
「もしかして、味のない料理のこと、知らないんですか?」
まさか、と思いつつ、ミツキはそう姫椿に問いかけた。
既存の料理アイテムを食べても味がしない。それはこうしてコミュニティに属さず、一人旅をするミツキにとっても一つの常識になっている。それを知らないという事は有り得ないはずだが――
「? なにその味のない料理って」
と、姫椿は頭に疑問符を浮かべ、きょとんとした。その様子は本当にその事実を認識していない様で、嘘偽りは無いようにも感じ取れた。
「……えーと、ちょっと待っててください」
そう言って、ミツキは自分の鞄からアイテムを取り出した。それは、昼食用のトマトの付け合せにと用意していたあんぱんだった。取り合わせとしては首を捻りたくなるものではあったが、味がしないため、あれば何でもよかったのだ。
「これ、ちょっと食べてみてください」
「ええー、アタシももうお腹いっぱいなんだけど。イチカは?」
イチカは小さく首を横に振った。
「よねぇ。まぁ……なんだか気になるし、ちょっとだけなら」
「割ってから真ん中の餡の部分とか食べて下さい」
「はいはーい…………って、なに、これ」
一口齧った姫椿が眉間に皺を寄せ、その整った顔をしかめる。信じられない、とも、理解が出来ない、とも表情で語っている。
「料理アイテムなんですけど……食べたことなかったんですか?」
「料理、アイテムって…………もしかして、〈料理人〉が作るアイテムの事?」
姫椿はもう一口齧ると、再度顔をしかめる。それを飲み込んで、イチカへと何も言わずに手渡した。渡されたイチカはどうするべきかと困惑していたが、姫椿の様子や話の流れから気になったのか、同じように一口齧ると、これも同じように顔をしかめていたが、きちんと口に含んだ分は最後まで飲み込んでいた。
「そうです。普通に店売りされている料理アイテムや、〈料理人〉がメニュー画面から作ったアイテムは、全部こんな感じなんですよ。何を食べても、味がしない」
「ひどっ……最悪ね」
姫椿はばっさりと言い捨てた。そして口直しにか、水筒の水を口に含んだ。
「アタシだったら、こんなの気が狂うわね。しかし、全く気が付かなかったわ……って、もしかして、ミツキ君ってずっとこんなのばかり食べてたの?」
「あ、はい。でも、野菜とか、素材そのものは味がするんで、ここのところはそっちばかりでした」
そう言って、ミツキは鞄からトマトを取り出す。
「素材は味がする……まぁそうよねぇ。味見はたくさんしたけれども、味がしないなんて感じたことなかったものね。はぁ、なるほどねぇ。メニュー画面から作成だなんて、思いつかなかったわ」
「ずっと普通に料理していたんですか……?」
「うん。言ったでしょ? アタシ、どんな簡単な料理でも自分で手を入れないと納得いかないのよ」
ミツキは先ほどの調理風景を思い返す。確かに姫椿は鍋を火にかけ、フライパンを振るっていた。だが、それもミツキの知る『今の常識』からは外れている行為だ。
「でも、普通に料理すると……ええと、実際にした方が早いかな。あの、姫椿さん、包丁貸してください」
「ん。はい」
姫椿から包丁を手渡され、ミツキは握っていたトマトへその刃を当てる。
しかし、つぷり、と包丁がめり込んだと同時にトマトはその形をどろりと、ゲル状の物体に変えてしまった。
更にと、ミツキはイチカが持っていたあんぱんを受け取る。
あんぱんは先程よりわずかにその体積を減らしており、ふと見ればイチカが一生懸命に頬張っていた。食べ物を残してはいけない、という教えを受けたんだろう、とミツキは思ってしまう。
受け取ったあんぱんをそのまま広場中央の焚火にあてる。普通なら、パンの表面に焦げ目がつく程度の距離。しかし、あんぱんは一瞬にして黒い消し炭になってしまった。
「……と、こんな感じになるんですよ」
「わあお」
「下手に料理しようとしても、全然料理にならないんです。なんで、姫椿さんは普通に出来るんですか?」
大袈裟なリアクションを取る姫椿へ、ミツキは問いかけた。それこそが、ミツキの頭の中で渦巻いている最も大きな疑問だった。
「んー。って言われてもねぇ。普通に料理しているだけだし、特別なことはしてないわよぉ。あーアタシのサブ職が〈料理人〉ってのは関係あったりするのかしら」
「でも〈料理人〉が作っても味がしない……」
「……もしかしたらね、そこがたぶん違うのよ」
姫椿はおもむろに立ち上がり、皿を片付けながら言った。姫椿の差し出された手に、ミツキは自分の皿を渡す。
「味がしない料理って、えーと、こうやって、と」
姫椿は集めた皿を紙に包んで鞄に入れると、代わりにいくつかの野菜を取り出した。そうして、どこか遠くへ意識を飛ばす様に、虚空を見つめる。ミツキにはそれが、メニュー画面を開こうとしている行為だと理解できた。
「えいやっと」
掛け声とともに、姫椿の手に乗せられていたいくつかの野菜が一瞬で消え、代わりにボウルに盛られたサラダが現れた。姫椿は葉の一枚を一掴み口に運ぶと、苦い顔をした。それは、その青葉が苦かったのではなく、予想通り味のしないものだったからだとミツキにも分かる。
「……ってこうなるわけね。でも、こうやって、自分で味付けしちゃえば……って、勿体無いからこれをそのまま使えるかしら」
そう言って、姫椿は鞄から取り出したボトルの中身――ドレッシングをサラダにかけた。そして、同じように取り出したトングでかき混ぜる。
「こんな感じに、自分で調理しちゃったら……と。はい、どうぞ」
ボウルを差し出され、ミツキはその葉の一枚を取って口に入れた。若々しい野菜の風味と、ドレッシングの酸味が口に広がった。
「味がする……」
「うん。じゃあミツキ君、同じように混ぜてみて」
「えーと、こう、ですか……うわっ」
ミツキがかき混ぜようとトングをボウルに突き刺したところ、中の野菜は一瞬でゲル状のものになってしまった。
「やっぱりね」
「これって……」
「要するに、〈料理人〉の人がメニュー画面で調理をしようとすると味がしない。〈料理人〉を持たない普通の人が調理をしようとするとそんな感じに失敗する。ってことは、残りの組み合わせ的に〈料理人〉が普通に料理をすればいいってことなのよ。普通の人はメニュー画面からの作成は出来ないからね」
さらりと言いきった姫椿だったが、理解が出来なかったのかイチカはそれに首を傾げた。
「もっと簡単に言うと、普通の行為でもサブ職業が必要になるってことね。たぶん。〈料理人〉じゃない人が失敗するのは、〈料理人〉のスキルが無いから、ってことじゃない?」
「……ふむ。確かに、それだと納得、ですね」
「たぶん、こうやって現実に生活をするのなら、料理なんか手を抜かずに実際に作れってことなんじゃない?」
思えば簡単な話である。ただ、それを試すにも、そこに発想を至らせるにも、単純だからこそ難しかった。少なからずミツキが生産系のサブ職業であれば、それも違っていたかもしれないが、ミツキのサブ職業は〈旅人〉というロールプレイ系の職業だったため、それも叶わなかったのだ。
「はは、本当にすごいな。まだまだ分からないことばっかりだ」
切り取られた空を見上げ、ミツキは笑う。
この二ヵ月である程度の仕組みを理解したと思っていた。それでも、こうして日々新たな発見がある。それが、ただ単純に嬉しく思えた。
そして、ミツキはそのまま空に想いを馳せる。
厚く葉を広げる木々に阻まれ、まるで井戸の底から見上げるかのように空は狭い。だが、その先は果てしなく広がっている。
この空の続く果てに、何が待ち構えているのか、それを想えばミツキの心は震えてくる。
「楽しみだなぁ」
空を見上げたまま、ミツキはもう一度、そう呟いた。
「……ミツキ君、一つ聞いていい?」
ミツキの様子を眺めていた姫椿が尋ねる。
「なんですか?」
「ミツキ君は、どうしてトスに来ていたの?」
「どうして、ですか?」
「うん。アタシ達は逃げてきたっていうのが、一番の理由。ミツキ君も同じなの?」
姫椿はそう言って、ミツキの顔を覗き込む。
ミツキは何となくではあったが、その言葉の裏の意図を理解できた。
「そうですね。実際に、〈Plant Hwyaden〉の強制移住の話を聞いたのは、トスに着いてからです」
「……ってことは、ナカスを出たのはかなり前でしょ。たぶん、アタシ達が出るより、ずっと前。なんで、ナカスに残ろうって思わなかったの?」
姫椿の疑問も単純なものだ。
今のこの状況はどこも混迷の最中にある。右も左もわからず、どう進めばいいか分からない状況だ。その中で、人の集まり――コミュニティを離れるというのは、よほどの理由が無ければ難しい。
そのよほどの理由が、イチカや姫椿にとって〈Plant Hwyaden〉による強制移住なのだ。
だが、それがミツキには当て嵌まらない。そこを疑問に感じても不思議では無い。
「えーと、簡単な話なんだけど」
答えを待ち構える姫椿へ、ミツキははにかんでそう言った。
「行きたいところがあるんです」
「……いきたい、ところ?」
話に耳を傾けていたイチカが、小さな声で言った。
ミツキは「うん」とそれに頷いて応える。
「あと、やりたいこともあって――――」
説明を続けようとして、ミツキが言葉を宙で断ち切った。イチカ達へ向けていた視線も外し、遠く、漆黒の満ちる森へ向けられる。
「どうしたの?」
「?」
二人が疑問符を投げかける。ミツキは視線を戻さないまま、
「――気を付けてください。変な気配が、します」
と、静かに告げた。