004
「うふふ、ごめんなさい。驚かせちゃったわね」
動きを止めてしまったミツキの耳に、森の暗闇の中から女性の声が届いた。
「……誰、ですか」
ミツキもそれに返事をする。
「アタシは敵じゃないわよ。ミツキ君」
名前を呼ばれ、ミツキはどきりと心臓が跳ねた。女性にしてはやや低いアルト。それなのに、この声色には艶やかさが含まれていた。
「な、なんで僕の名前を……」
「なんでも何も、さっき大きな声で自己紹介してたでしょ。とても分かりやすい内容だったわよん」
けらけらと笑い声が周囲へ木霊する。
「……。敵じゃないというのなら、出てきて、もらえますか?」
そう闇に声を投げつつ、ミツキは横目にイチカを見やった。
イチカの視線は声の方向へ向けられている。緊張感は感じられない。それはそこに『知っている誰か』がいることを示しているようにも取れる。
だからこそ声を上げたのだろう、と繋げて考えることが出来ないほどミツキは馬鹿ではない。
それでも。
ミツキはこの場において、イチカを守るのは――守らないといけないのは自分なのだと自覚をしている。それが、こうして行動した自分の責任だと理解している。故に未だ片手は刀の柄に添えられており、緊張を解くことはしない。
「もう、せっかちね。早漏は女の子に嫌われるわよん。ちょっと待っててね、今から出るわ」
がさりと茂みが揺れる音がした。
続けて、暗闇と陽光の境界を越え、まるでその闇から溶け出てくるかのように姿を現したのは、浅黒い褐色の肌を持ち、露出の多い服に身を纏った女性だった。
「んー。やっぱり明るいところがいいわね。どうにも暗いところだと気が滅入ってくるわ」
女性は両手を天に掲げ、背伸びをする。ぐっと逸らされた胸が、強調される。
「――っ」
ミツキは思わず目を逸らしてしまう。
それほどに、その女性は魅力的で、イチカとはまた違う女性としての存在感がそこにあった。
これでもかとアピールされるふくよかな胸、すらりと曲線を描く細いくびれ、そこから続くぴんと跳ねたお尻。それらを演出するためにか、彼女の衣服は面積が少なく、肌のほとんどを露出させている。
また、ルビーを溶かしたような深紅の髪は顔の前半分を隠すほどに大きく垂らされており、その隙間から覗かせる鋭い金色の瞳は妖艶さを醸し出している。
そして――
「どうにか追い付けて良かったわ。不便不便と思ってたけど、こうなってみたら案外便利な物ね」
女性はまるで独り言のようにそう言う。
傍から聞いていれば、意味の解らないであろうその言葉の意味を、ミツキはすぐに理解していた。正に、今そこに思考を向けていたからだ。
それほどに、それ――女性の肌の到る所に描かれる紋様――は目を引く。
〈法儀族〉。
プレイヤーが最初のキャラメイクの際に選択することが出来る種族の一つ。高い魔法特性を持ち、魔法職にとっては有意な特技を取得することが出来る。
その中の一つに〈魔力視覚〉と呼ばれる種族特技がある。
この特技を使用することで、キャラクターはMPが存在する生物を、物理的障害物を無視して輝きとして視認できる。おそらく、ではあったが、ミツキは彼女が〈魔力視覚〉を用いて後を追ってきたのだろう、と想像できた。確かに、この特技を用いればあの魔法的な靄はほぼ無効化することが出来る。
そしてもう一つの特徴が、その身体に現れた〈紋様〉である。まるで刺青に見えることから、通称『イレズミ』と呼ばれているのだ。
ミツキの視線は正にその〈紋様〉へと向けられていた。
「うふふ。珍しいでしょ。じっくり見ていいのよん。ほら、昔は分からなかったけど、紋様はこんな所にも」
「わー! そんな、胸を見せつけないで下さい!」
「うふふふ。初心ねぇ。可愛いわぁ」
ミツキが〈紋様〉へ目を向けてしまったのは、何も彼女の肉体にそれが似合っていたから、という理由だけではない。少なからず、そう云った気持ちも否定できなくはなかったが、純粋に、〈紋様〉を見ること自体が珍しかったからである。
高い魔法適正を持つ〈法儀族〉ではあるが、そのプレイヤー数は長い歴史を持つ〈エルダー・テイル〉の中では断トツに少ない。
その理由が高い魔法適正の対価に与えられたHPを始めとする耐久ステータスの虚弱さだ。
ただでさえ、魔法職は前衛に立てるほどのHPや防御力を持ち合わせてはいない。高レベルの戦闘になれば、ダメージを受けた瞬間に死亡の危機に瀕してしまう程だ。
故に、前衛職はタウンティング系の特技を用いてモンスターのターゲットが後衛の魔法職に向かないようにする。だが、それでも完全にターゲットを固定できるわけではない。何かしらの事故があれば後衛もダメージを受けてしまう。しかし、一撃程度は誤差の範囲であり、回復職の支援であっさりとリカバリー出来てしまう程度のものだ。
だが、〈法儀族〉はその比較ではない。軽い一撃ですら致死へ届きかねない程であるのだ。だからこそ、事故が起こりやすく、選ぶプレイヤーは少なかった。
「ま、面白いものね。これ、設定じゃ刺青じゃないってなってたけど、本当に刺青みたいに掘ってるわけじゃないみたいよ。触ってみる?」
「いいです!」
女性は肌を妖艶な手つきでなぞる。ミツキが顔を赤らめて視線を逸らすと、さもおかしそうに女性はからからと笑う。
「……ああもう。あなたは、何者ですか。この様子だと僕たちの……敵じゃないと思いますが」
「んふ。そんなのアタシをじっくり見ればすぐ分かるのに、もうミツキ君は可愛いわねぇ。ま、いいわ。アタシばかりミツキ君の事を知ってたら不公平だものね」
言って、女性はこほんと咳を吐く。
「アタシは姫椿。Lvは90で、見ての通り〈法儀族〉の〈妖術師〉。サブ職は〈料理人〉。こっちもLvは90。〈エルダー・テイル〉歴は四年ぐらいかしら。そして、そこのイチカと同じギルド――〈空の小箱〉に所属しているわ」
「それで、僕達を追って……?」
「まぁ、そういうわけでは……あるんだけどね」
少し歯切れの悪い返答に、ミツキは少し首を傾げる。
「はっきり言うとね、イチカを最初に連れてたのはアタシだったりするのよ」
「……え?」
「ナカスから一緒にトスまで来てたのよ。なんだっけ、〈Plant Hwyaden〉ってギルド? あいつらがミナミに強制移住しろって五月蠅くなってきたから逃げてね。で、トスにもそろそろやってくるから離れないとねーって、旅の準備をしてたらイチカがあいつらに捕まっちゃったのよ」
ミツキはイチカを見やると、姫椿の話に頷いて応えていた。ミツキが見ていることに気付いたのか、イチカは視線を上げると、同じようにこくこくと頷いてみせた。
「うふふ。仲良くなったものね。ま、あんな衝撃体験をした後じゃねえ。ってことで、イチカが捕まってしまって、アタシがどうしたものかしら、と考えてたらカッコいい〈武士〉のお兄さんが颯爽と連れ去って行ったってわけよ」
「あー、えーと……」
「カッコよかったわよお。見てて恋に落ちちゃいそうだったわあ。宿屋の主人さんと話し合って、こっそり近づいて『こっちにもいるぞー』って、『僕も冒険者だー』って。で、後なんだったっけーっと……そうそう、イチカの手を引いて『行こうっ!』って。もう、うふふふふ」
「最初から見てたんじゃないですか! いたんだったら声をかけて貰えても……」
思わず声を張ったが、口を開くうちにどこか恥ずかしさを胸に感じてしまい、最終的にミツキは小さな声でもごもごと言うことしかできない。
少女――イチカを助け出すという、勢いに任せた行為を思い返せば返すほど、それを傍から見られていたと思えば思うほどに、自分が滑稽に思えてきたのだ。ましてや、連れがいるのではないか、と思い至らなかった自分の浅はかさが恨めしく思えてくる。
(確かに女の人一人でイチカちゃんを助けに入るのは難しいから、様子を見るのが普通だけどさっ)
ミツキは心の中で一人ごちる。
「ふふ。そんな勿体無いじゃない。折角のおいしいシチュエーションを逃すだなんて」
「おいしいって……」
しかし、姫椿はあっさりとそんな風に言うのだった。
「ま、ひと悶着でも起きそうならアタシも出て行こうとは思ってたのよ。でも、早々と退散されちゃったから、アタシ呆然。うひゅーカッコいいー! って。でも放って置くわけにもいかないから、追うしかないわーってね」
「な、なんか、そのごめんなさい……」
居た堪れなさが込み上げてミツキは完全に目を逸らしてしまう。それだけを聞いていれば、まるでミツキが連れ去ったかのように取れてしまうのだ。そして、それはほぼ事実でもあるのだ。
「ううん。いいのよ。どうせアタシじゃ上手く助け出すことなんてできなかったと思うしね。よくて、全員大乱闘の末にナカス送り道連れってところかしら。それに、イチカがそれだけ懐いてるってのを見ると、結果としてもミツキ君に助けてもらってよかったと思うわよん」
逸らした視線をそのままミツキは後ろのイチカへ向ける。イチカは変わらず帯を掴んだまま、ミツキを上目遣いに見上げている。
目と目が合わさったのをミツキは実感した。
何度目かはもう分からない。それでも、宝石の様な瞳の透明感にミツキは再び吸い込まれそうな感覚を覚える。
「――っ、あ、ぁぅ」
だが、先に視線を外したのはイチカだった。
ぱっと帯から手を離すと、そのまま顔を地面へと背け、へたり込んだままの姿勢で半歩ほどミツキから距離を取った。明確な拒絶。だが、それは嫌悪からではなく、羞恥からのものであると、イチカの朱の差した頬が語っていた。
その異性の行動に、ミツキもどこか気恥ずかしくなって固まってしまう。
「あら。ちょっとからかい過ぎちゃったかしら。ごめんなさいね」
姫椿は言葉とは裏腹にからからと笑いながらそう言う。
何かしら反論してやろうとミツキは姫椿へと目を向けたが、姫椿はにこりと笑みを浮かべてそれを制してしまう。
(うー、女の人って、ズルいなあ……)
苦い表情を浮かべるミツキへ、姫椿は笑みを崩さないまま、口を開いた。
「ま、ともかく。感謝するわ。ありがとうね、ミツキ君」
「僕は、その咄嗟にやっただけなので……むしろ、迷惑かけたような」
「いいのよ。さっきも言ったけど、アタシ一人じゃ多分助けれなかったと思うしね。
それに、こんな状況でしょ。誰かが助ける、助けてくれるって、やろうと思っても出来ないことだし、望めないものなのよ。結局みんな大事なのは自分だからね。
だからアタシたちも二人だけで動こうって決めてたのよ。同じギルドで顔見知りだったから。でも、その挙句がああいう事でしょ。笑いたくても笑えないわ。
そんな時に、キミは助けてくれた。キミがいなければどうなってたか分からなかったから、良かったわ。
本当にありがとう」
姫椿はさらりとそう言い切った。その言葉に、ミツキは心の奥に残っていたもやもやした気持ちが晴れるような気がした。
(あの時は、どうしても助けなくちゃって。〈冒険者〉だったらそうしないと、って。でも、そう思ってた一方でどこか、それでいいのかなっても思ってた。このまま、勢いに、感情に任せて進んでいいのかって。そっか……僕も怖かったんだ。イチカちゃんを助けることが、本当にベストなのか、僕が信じきれてなかったんだ)
ミツキはイチカを見やる。すると、同じようにイチカもミツキを見ていた。
重なった視線を、イチカはしばらく外さなかった。そして、小さく頷いて、ようやく恥ずかしそうに俯く。
その言葉の無い意思表示にミツキの胸がじんわりと暖かくなる。
(なんだかな、結局僕も格好良くはなれないなあ。少しは格好つけようって、〈冒険者〉らしく振舞おう、だなんて思ってたけど、こうして、分かりやすく認めて貰えないと、安心出来ないなんて。ほんと、まだまだだ)
照れ隠しにミツキは笑ってしまう。
「むふふ。青春よねぇ」
姫椿はそう言いながらミツキの元まで歩いてくると、
「さて少年。話も落ち着いたところで、腰も落ち着けましょ」
肩を叩き優しい声で、そう言うのだった。