003
「――ふぅ……」
足を止め、ミツキは大きく息を吐き出した。
途端に疲れが襲ってくる。身体はずしりと重い。心臓は酸素を循環すべく激しく拍を打ち、連動して呼吸も粗くなってくる。
深呼吸をする。全身に森の新鮮な空気が充満するのを感じた。
「ふぅー……はぁー……」
ミツキは呼吸を整え、天を仰いだ。昏く籠っていた闇はそこにはなく、綺麗に円形に開かれた枝葉の隙間から眩しい太陽の光が差し込んでいた。
今、ミツキ達がいるのは森の中でも開けた場所だった。直径十メートル程度のスペースに木々や建造物は無く、地面もおおよそ平らに整えられている。おかげで見通しも良く、安心して休憩することが出来そうだった。
(ダンジョンの休憩ポイントだね。ちょっと露骨になってる感じはあるけど、助かったや)
ミツキは、ほぅ、と息を改めて吐くと、後ろを振り返る。
少女はぺたり、と地面に座り込んでいた。その顔は俯いて地面に向けられ、表情は窺うことが出来ない。それでも少女の肩は微かながらに上下しており、自分と同じように疲れているのだろうと見て取ることが出来た。
(まぁ、それもそうだよね……。いくら〈冒険者〉の体で体力があるって言っても、これだけの距離を走ったら疲れるよね。それに……)
そう考えを馳せて、ミツキは少女を見やる。
少女の体はとても小さく見えた。地面にへたり込み、体を丸めているせいもあるのだろうが、その見た目は正に小さな子供の様にも見えて、触れれば壊れてしまいそうな危うさすら感じた。
(……いくら立派な装備をしていても、中身は普通の人なんだから)
それは少女に対してのみではなく、自分自身へと帰ってくる思いだ。
この世界に落ちる――いわゆる〈大災害〉から二ヶ月は経った。だが、実際のところ、何もかもに慣れたとは決して言い難い。
ミツキも、ある程度――特技を使用したり、この森を駆け抜ける程度にシステムには馴染んでいる。だが、〈冒険者〉の身体能力には慣れきるには至らない。むしろ体を動かせ
ば動かすほど、元の世界の肉体とのギャップに驚いてしまうばかりなのだ。
「あ、っと。ごめん、ずっと手を握ったままだったね」
ミツキは慌てて手を離す。手を繋いでいたこと自体を忘れていたわけでは無かったが、追手から逃走するという極限状態のためか、それを自然なこととして認識してしまっていた。
とは言え、既に追手も撒いたと思われる状況である。その為、これ以上手を繋いでいる必要はなく、むしろ冷静になった今、必要以上に女の子の手を握るという行為はミツキに余計な緊張を与えかねなかった。
離した少女の手はするりと抜け、その胸元へきゅっと抱え込まれるように戻っていった。
「ええと、あの……」
とりあえず何か言おう、と口を開いたミツキへ、少女顔を上げる。
透き通る、まるで宝石をも思わせるような瞳が、再度ミツキを捉えた。
少女の目は真っ直ぐにミツキを映していた。その透明な眼差しに、ミツキは吸い込まれそうな錯覚を感じた。
(うわっ、まただ……。すごい、綺麗な目だ)
咄嗟に、ミツキは恥ずかしさを覚えて目を逸らしていた。鼓動がどこか早くなる。先程まで少女の手を掴んでいた右手に、妙な汗すら感じてくる。
(あう、どうしよう……。変に緊張してきたよ)
ミツキは顔を逸らしたまま横目で少女を窺う。少女は顎を引き、僅かに緊張した面持ちでミツキを見ていた。再び交差した視線に、ミツキは心臓が跳ねるのを実感する。
それほどに、眼前の少女は美しかった。
木漏れ日に照らされ、森のざわめきを背に抱え、華麗な衣装に身を包むあどけない少女の姿は、一つの絵画のように完成されてしまっており、それ以外の何物にも立ち入る隙を与えていない。
腰ほどまであるふわふわの長い髪は、ミルクティを溶かしたかのように優しい色で暖かさを感じさせる。また、その身を包む衣服も淡いピンクとベージュを組み合わせたもので、彼女の少女然とした雰囲気を殺さない、過度に華美過ぎず落ち着いた美しさを持っている。
まるで、人形か、物語の登場人物。
(――いや、お姫様だ)
ミツキはただただ息を呑む。二人の息遣いだけが、静かな森の中に流れていく。
「――――」
知れず、ミツキは沈黙していた。
ぼうと、目の前にある美しいものに見蕩れてしまっていた。
そう見つめるミツキへ、世界は少女の情報を与えてくる。
イチカ/〈森呪遣い(ドルイド)〉/Lv90/〈空の小箱〉
視界に入ってくる情報の羅列に、ミツキの理解は一拍遅れて追い付く。
(――綺麗な名前だ)
イチカ。それが少女の名前だと知って、何となくそう思う。
それ以外の情報もミツキの思考を揺らしてはいた。しかしそれらを思考する余裕はとうにない。
少女――イチカは変わらず無垢な瞳でミツキを見上げている。
ミツキもただ、その瞳に自らの眼差しを向けるだけだ。
「…………」
「――――」
通り抜ける風の音が、まるで波の様に満ちては引いていく。
木漏れ日は揺れて、二人を撫ぜていく。
永遠かと紛う程の短い時が流れていく。
最早、ミツキの脳裏につい先刻までの騒動は残っていない。既に思考はこの沈黙を是とし、それ以外のあらゆる全てを非としている。それほどに、この静寂は心地よく、穏やかだった。
只々、少女と共にいるこの時間に浸っていたいと思った。
「…………」
「――――」
(…………あ)
静止した時の果てに、ミツキはようやく意識を取り戻した。途端に、肌を差す陽の暖かさや、鼻腔をつく風の匂いを感じた。
(言葉を失う、ってこんな感じ、なんだな。でも、このままじゃダメだよね……ええと、どうしよう)
ぼう、とそんな事を考える。
まだ思考は上手く働いてくれない。それどころか、思索すればする程に、袋小路へ陥るような感覚すらあった。
(ダメだ。可愛いからって、変に考えるとおかしな事になる。普通に、なるべく普通に話しかけて……)
ようやく弾き出した答えに、ミツキは決意してイチカへと改めて眼差しを向ける。大きく息を吸い、呼吸と思考を整える。
「……あの、」
「――っ!」
今まで視線を向けていたイチカが、びくりと身体を震わせた。まるでその様子は天敵に追い詰められた小動物を連想させる。
「あ、えーと……」
完全に虚を突かれた形でミツキが口を噤む。
考えていた言葉は宙に浮いてしまっていた。口は縫い付けられたかのように閉ざされている。
それでも、一度破られた穏やかな静寂はもう戻ってこない。
場を動かさないといけない。そう考えるミツキの思考は、必死とも云える速度で失われていった言葉を手繰り寄せる。
「……ご、ごめん」
思索も虚しく、口を突いて出たのはそんな謝罪の言葉だった。
(うわぁ、なんだか、言い訳から入るって格好悪い)
そう心の中で自嘲するも、それ以上の言葉は既に出てこない。ミツキは思考もままならないまま、流れに身を任せて口を開く。
「お、驚かせちゃった、かな?」
「……」
イチカは僅かに目を伏せて、ミツキの言葉に返事をする。
それはミツキの質問に対する肯定の意でもあったが、返事をしてくれたことにミツキはほっと安心した。
(まずは第一段階突破、かな。良かった。とりあえず話は聞いてくれそう)
胸を撫で下ろし、ミツキは呼吸を整える。
「無理やり、連れて来ちゃって、ごめんね。咄嗟の事で、逃げることしか思いつかなくて」
言って、ミツキは半歩近づこうとする。だが、イチカはそれにびくりと肩を震わせ、体を丸める。
「ううむ、どうしよう、困ったな……」
ミツキは考えをそのまま口に出すと、右手で頭を掻く。
(あんまり驚かせるようにしたらダメだ。もうちょっと落ち着いて、ゆっくり話していこう)
僅かではあったが、ミツキは先程よりは随分と落ち着けていた。
改めて呼吸を整え、意識して表情を緩め、ミツキは口を開く。
「素性も分からないと怪しまれて当然だよね。僕はミツキ。きみと同じ〈冒険者〉で、メイン職は〈武士〉。サブは、ちょっと地味なんだけど〈旅人〉なんてのをしてる。ギルドには所属してなくて、大体一人でいろんなところを回ってる」
イチカはミツキの言葉の区切りごとに、小さく眉を動かし反応を示す。伏し目がちで、視線が交差しそうになればすぐに逸らされてはいたものの、話を聞いているようではあった。ミツキはそれを確認して、話を続ける。
「トスにまで来てたのは、いろいろ見て回りたかったのがあって。そこできみを見かけて、つい我慢できないで割りこんじゃった。もうちょっとスマートなやり方があったのかもしれないけど、ごめん、あの時はああするしか考えつかなかったんだ」
ミツキの言葉に、イチカは小さく首を横に振った。
「あぁ、よかった」
ミツキもその様子に胸を撫で下ろす。この状況ではそうリアクションを取るしかなかったのだとしても、イチカのその反応は、すぅ、と心を軽くした。
「えと、僕の自己紹介はこんな感じなんだけど。良かったら、きみの事も聞かせて貰えないかな。少しの間、だけかもしれないけどお互いの事を知ってて……ええと、知ってた方がいい、と思う」
最後はしどろもどろになって、無理やりに言葉を区切ってしまう。
平然と話しているように見えても、ミツキは相変わらず完全に平静になりきれてはいないのだ。
(というか、あんまり人付き合いもいい方じゃないからなぁ。普段からもっと積極的に話してればよかった。ううむ、ソロプレイヤーは辛いなぁ)
そう後悔しても今となっては何もかもが遅い。こうなってしまって、手を出した以上は後にも引けないのだ。かくなれば、当たって砕けろの精神で臨むしかない。
(とは言ってもなぁ。なんというか、可愛いんだよな……。こんな女の子の前で緊張するなって言う方が無理だよ。それに、変にいろいろ聞いてもナンパみたいで嫌だしなあ)
現実世界において至極一般的な男子高校生であるミツキには、正直に言ってしまえば異性との会話をすることはあまりない。加えて、イチカの様な美少女とは接する機会からして皆無だった。
そんな美少女を前にして、平静を保って会話をしろ、場を盛り上げろ、というのは到底無理な話なのだ。
そもそもから云ってしまえば、それが簡単にできるのであれば、このように一人旅をしているはずもなく、もっと遡れば〈エルダー・テイル〉すらしていないかもしれないのだ。
はぁ、とミツキは肩を落とす。自分の甲斐性の無さが恨めしかった。
「…………」
一方、イチカは小さく体を丸めたまま、ミツキへ視線を向けず黙っていた。
「……うん。まだ時間もあるし、話はゆっくりしよう」
押し黙るイチカへ、ミツキはそう言葉を投げかける。事を急いでも仕方の無い。自分のスキル不足なのだ、と納得させる。
「とりあえず、よろしく」
そう言って、ミツキは握手を求める様に右手を差し出した。
「…………」
イチカはその右手をちらりと見て、ぷいと顔を逸らした。
「はは」と苦い顔をしてミツキも自分の右手を覗き込む。
右手にはまだ微かに少女の温もりが残っている。つい先程までこの少女の手を引いていたのだと考えると、どこか恥ずかしさを覚えて、顔が熱くなってしまう。
ふと見れば、横顔に見えるイチカの頬にもどこか朱が差しているような気がした。
「……ま、いっか」
そう溜息を吐き、ミツキが気を緩めた時だった。
「――――!」
がさり、と木々の隙間から響いた音に、ミツキは緊張を走らせる。
音のする方向――おそらく自分達のやってきた方角へ、目を向ける。だが、そこは深い靄に覆われ、見通しは悪い。
ミツキは目を眇めると、意識を集中させる。常人より研ぎ澄まされた〈冒険者〉の感覚は、微かな音や気配も取りこぼさないかのように四方へと散り、網を張る。
もう一度、がさり、と音がした。
ミツキは方向を完全に掴み、音のした場所を見据える。
「――誰だ!」
自然に、ミツキはイチカの前に立つと、腰の刀へ右手を伸ばす。だが、その刀を支える左手にどこか力は入らない。
(撒いたと思ったのに、まだ追われてたのか……! くそ、出来れば戦いたくはない、けど。今から逃げるのも、体力的に難しい)
背後のイチカをミツキは意識する。
ここは今更改めるまでもなく、戦闘可能なエリアであり、追い付かれてしまえば戦闘は避けようがない。
そして、先程の追手は少なくても三人。
三対一でイチカを守りながら戦う。それは考えるだに至難の業だ。しかし、そうしなければここまで逃げてきた意味はなくなってしまう。
それでも、とミツキは躊躇してしまう。
もとよりPvPやPKなど対人が得意でないと云う理由もある。ただ、それ以上に事を荒げず収める事が出来れば、それが一番だと考えていた。
(こんな状況になってまで、争うなんて、勿体無いじゃないか)
ミツキは下唇を強く噛み、刀を掴む右手へ力を込める。
「――っ」
そんな時、服の帯を引かれた感覚にミツキは振り返る。
見れば、イチカが表情を曇らせ、不安げに帯を掴んでいた。
「……くっ」
ミツキの心に熱い気持ちが篭る。
(そうだ。ここで僕が守らないで、誰がこの子を守れるんだ。甘っちょろいことを言ってる場合じゃないなんて、とっくに分かってたはずなのに。今更、選択しようだなんて、くそ、僕は馬鹿か)
ぐっと歯を噛みしめる。口の中は苦い、血の味がした。
「――イチカちゃん。下がってて」
低い声を背後へ、刀の柄を握る。
体は緊張に強張っている。抜いてしまえば、戦いが始まると分かっている。なのに、この思考はそれ以外を提示してはくれない。
掴まれた帯からは小刻みな、イチカの緊張を示す震えが伝わってくる。
(怖いに決まってるよね。僕だって、怖い)
そう考える間も、帯はさらに強く引かれる。
「大丈夫。僕に任せて」
「――ぁ」
鈴のような声が、耳に届く。
――守らなければ。
想いを胸に、柄に掛けた手をそのまま引き抜こうと力を入れる。
右手に刀の重さがかかる。ずしり、と。それは重力よりさらに強く、ミツキの腕を地面へと引きつける。
これが、本物の武器の重さだ、と。
命を刈り取る物なのだ、と。
それは静かに訴える。
しかし、選択肢はない。もう、心は選んでいる。
この重さを、受け入れなければならないと、理解している。
「――ッ!」
右手に力。歯を食いしばる。
だが、そんな時。
もう一度、帯が引かれた。それは、動きを阻害するほどに強い。
(え……?)
そこでミツキはようやく違和感を覚えた。
ミツキははっとなって振り返る。そこには左手で頭を抱え、右手でミツキの帯を掴む少女がいる。
イチカはミツキと目を合わせると、ぶんぶんと首を振り、
「――だ、だめっ!」
か細い――それでいて強い響きを持った声を上げた。