002
天高くどこまでも続く蒼穹はまるで透き通るような宝石の輝きを連想させる。
降り注ぐ日差しは初夏を思わせるもので、じりじりと肌を焼く。それなのに体を撫ぜる風はどこか涼しさを帯びており、篭った熱を冷ましてくれる。
空気は僅かな不純物すら覚えさせず、新鮮さを感じさせる。鼻腔を擽るのは、混じり気のない土の香りだけ。その透明感に、遠くの空に目を凝らせば、遥か彼方まで視界に捉えることが出来そうな錯覚すら覚えた。
ミツキはその微かに甘さを孕んだ大地の匂いを体の隅々まで吸い込み、周囲を大きく見渡した。
視界に広がるのは、どこか趣きを感じさせる古い街並みだ。しかし古いとは言え、それはあくまでもこの世界を基準にである。旧時代の都市を利用して作られた街並みは、朽ちたコンクリート造りの建物を補修したものが多く、ミツキにとっては比較的見慣れたものでもある。
それでも、その景色には目を引くだけの魅力があった。ミツキは吸い寄せられるかのように、そして自らの記憶に刻み込もうとするかのように、まじまじとその隅々に目を配らせ観察する。その眼差しはまるで少年の様でもあって、精悍な顔つきのミツキにはどこか似つかわしくもあった。
目の前には大きな街道が伸びていた。アスファルトではなく石畳で作られ、建築物とは異なりまるで異国のそれをミツキは連想する。一歩踏み出すと、ざり、と靴の擦れる音がした。
街道には多くはないが、決して少なくはない人の波が流れていた。簡素な服に身を包む、町の住人。荷物を抱える者。馬を引く者。羊を連れる者。馬車を操る者。それらは既に完成された街の雰囲気を作り上げており、ミツキにとってどこか疎外感を思わせるのに十分な景色と、迫力を携えていた。
「――――」
しばらくの観察を終え、ようやくミツキは止めていた足を進めると、止め処なく流れる人の波へと踏み込んだ。その足取りは目的地が初めから決まっているかのように迷いなく真っ直ぐであり、そして何か楽しいことがあるかのように軽やかだった。
しかし、足取りこそ真っ直ぐではあったものの、ミツキの視線はあちこたへと振りまかれていた。ミツキも自身を俯瞰して思えば、まるで田舎から都会に出てきたばかりのお上りさんだ、と可笑しくなった。
「あはは、違いはないけどね」
ミツキはそう口元を吊り上げると、先程よりも軽快な足取りで街道を歩いていった。
景色は様々に流れていく。その見覚えはあるが、実際に見たことのない光景に、ミツキは昂揚感を募らせていった。
「うん。やっぱりあった」
しばらく街道を歩き、広場を抜けたところでミツキは立ち止まり、正面の建物を見上げてそう呟いた。ミツキの視線の先、建物の軒先に掛けられた看板には『INN』の文字がある。宿屋である。
「旅と言えば、宿とご飯と温泉、だよね。……とは言っても、それで期待できるのなんて、宿ぐらいのものだけど。ご飯は言うまでもないし……温泉はこのあたりには無いからね。ユフ=インにでも寄れば良かったかあ」
ミツキは誰にともなくそう零すと、「あはは」と笑った。
今ミツキのいる街は交易都市トスと呼ばれる、居住ゾーンをもつ街だった。
交易都市トスは、現実世界の九州は佐賀県にある鳥栖市をモデルとした街でもある。その鳥栖市がこの〈エルダー・テイル〉の世界、ヤマトにおいて交易都市と呼ばれるのは、鳥栖市が現実世界においても交通の要所である所以からである。
まず、分かりやすい例としては鉄道だ。現実世界では鳥栖駅を中心として、北は福岡、南は熊本から鹿児島、そして西は長崎と佐世保へ、と九州内の各地へ向かうための分岐路を作っている。
もう一つ有名なのは、高速道路のジャンクションだ。こちらは鉄道より進路が増え、福岡方面、熊本方面、長崎方面、大分方面、と東西南北への分岐路となっている。その為、九州内の高速道路の中では最も交通量の多い場所となっているほどだ。
そのような現実世界のモデルを踏まえ、この〈エルダー・テイル〉においても交易都市トスはナインテイルの重要な交通の要所のなっていた。つまり、ナインテイルの各地に向かうのであれば、ほぼ必ずと言っていいほどにこのトスには訪れることになるのだ。その為、トスにはそれらの施設、つまり宿などは十分にそろっていた。
「お邪魔します」
古びた木造のドアを開き、中に入ってミツキはそう声をかけた。
「やあ、いらっしゃい」
窓から差し込む光のみの薄ら暗い部屋の奥、カウンターの向こうから壮年の男性が返事をする。
白髪交じりの頭に、無精髭を携えた細い体系の男性だ。くたびれたシャツを着ており、決して整っているとは思えない格好でこそあるが、その佇まいと態度は落ち着いており、宿屋の主人として様になっている。
「〈冒険者〉さんかい? 部屋を借りるなら、一日で金貨五枚だよ」
「うん。じゃあ一部屋お願いできるかな」
ミツキはそう言いながらはにかんで、懐からくすんだ金色の金貨を二枚取り出すと、かちゃりとカウンターに置いた。
〈エルダー・テイル〉というゲームは基本的にゾーンと呼ばれる単位で世界を区切って表現している。大きなものではダンジョンがまるまるそれに当たり、小さなものでは部屋の一室などがそれに当たる。
これらのゾーンは金額を積むことで期間限定でオーナーになることが出来る。それを利用したものが、ギルドの拠点に用いられるギルド会館のギルドホールや、こういった居住ゾーンにおける宿屋などのサービスだ。
一般的な安い部屋であれば、一日金貨五枚程度で借りることが出来る。プレイヤータウンではない主要五都市以外のこの様な宿屋は、ゲーム時代は狩り終了後の一時的な精算場所などで用いられていた。しかし、それも今となっては本来の用途で使用することになる。
「って、よくみたら結構汚れてるな。あんちゃん、どこから来たんだい? 結構な長旅をしてきたって身体に書いてあるぜ」
「あはは、そうですか? 色々回って来たんですが、元々はナカスからです」
「へぇ、ナカスか。久し振りだ。最近は向こうから来る〈冒険者〉さんも減ってね」
「そうなんですか?」
ミツキはそう尋ねた。だが、その後、“この状況”へと即座に思い至ると納得する。
それもそのはずなのだ。ミツキ自身、こうしてトスまでやってくるのは珍しいと思う。
今から二月ほど前、何の前触れもなくミツキ達はこの〈エルダー・テイル〉の世界へ〈冒険者〉として落とされた。
〈冒険者〉の間で言われる〈大災害〉である。
かつてゲームだったころ、ナカスからトスまでやってくるのは難しい話ではなかった。現実世界の距離で三十キロもない距離であり、この〈エルダー・テイル〉の世界での〈ハーフガイア・プロジェクト〉においてはその半分である。下手すれば遠足程度の決して長くない距離である。
だが、このゲームが現実となった――と言っていいのか分からないが――状況では、たったそれだけの距離も安心が出来ない。ナカスから外れたゾーンは、モンスターの出現する戦闘ゾーンなのだ。
プレイヤータウンからそう遠くないこともあり、モンスターのレベルこそ高くはないが、それでも戦闘を行わなければならないことは間違いない。そしてそれは日本という現代社会で生活してきたプレイヤーにとって、何よりもネックであった。
少なくとも、ミツキがナカスを出た時点で、他にナカスから外へ出た〈冒険者〉は数少なかった。
「おや、聞いてないのかい? なんだか〈冒険者〉同士でちょいといざこざがあってるって話さ。なんでも、ウェストランデが絡んできてて、〈冒険者〉を向こうのミナミの町に連れて行こうって話になってるらしいぜ」
「そんな話になってたんですか……ふむ」
ミツキは顎に手をやり思考する。
その話はミツキにとって初耳だった。ただ、それも考えればどこか納得してしまう話でもあった。
ナカスの町は当時混乱の渦中にあった。このような世界に来てどうすればいいのか、誰も分からずただ日々を暮らすしかなかった。その中で誰かがリーダーシップを取って纏めようとするのは、当然の流れではある。
(ただ、ミナミに連れて行く、ってのは、あんまり好きじゃないな)
理屈と感情は別物だ、とミツキは心の中で想いを吐く。こうして、狭い範囲ではとはいえ、たった一人でナインテイルを回り、トスまで旅したミツキとしてそれを是とするのは好ましいと思えなかった。
「ま、あんちゃんみたいな〈冒険者〉が来てくれないと俺らもおまんまの食い上げだからな。大した持て成しは出来ないが、歓迎するよ」
「ありがとうございます」
ミツキはそう言って丁寧にお辞儀をした。
「ははっ、礼儀がいいあんちゃんだ。〈冒険者〉はみんな冷たいぶすーっとしたやつばっかりだと思ってたが、最近はそうでもないんだな」
「あー……」
ミツキは主人の言わんとすることを薄らとではあったが、理解できた。
この様な状況になる前――つまり、ゲームであった時は、彼等〈大地人〉(NPC)とは決まりきった会話しか行うことが無かった。更に言えば、一方的に〈大地人〉へ話しかけ、何らかの選択肢を選ぶ程度だったのだ。
「正直、〈冒険者〉はいけすかねぇ奴らばっかりだと思ってたんだがな。あんちゃん達を見てると考えを改めてしまうな」
そう話す主人の口ぶりに、ミツキはどこか引っかかった。
「もしかして、僕以外にも誰か〈冒険者〉がこっちに来たんですか?」
「ん。ああ、そうだよ。すまんね、すっかり説明しないで話しちまってたな。丁度さっき、あんちゃんが来る少し前に出て行ったんだがね、〈冒険者〉がいたのさ。さっきのナカスの話なんかもその子たちから聞いたんだよ」
「ふむ……さっき出て行ったって、どうしてです? どこか向かう先があるとか?」
「さあ、そこまで詳しい話は聞かなかったね。そのナカスのいざこざってやつかい、それからしばらくは逃げたいって言ってたぐらいだよ。元々がそれから逃げるためにこっちに来たって言ってたからな、しばらくは転々として行くんじゃないかね」
「そうですか……」
「探せばまだそのあたりに行くかもしれないぜ。本当に、あんちゃんと入れ替わりぐらいのタイミングだったからな。旅の支度もしているだろうしな」
ミツキの表情を読み取ったのか、主人はそんなことを言ってくる。
「あ、いや。別にそこまでじゃないんです。ちょっと、こんな状況でアグレッシブに動く人なんだなって思って、気になったぐらいなんです」
ミツキは照れ笑い気味にそう答える。言い終えて、それは暗に自分のことを言っているような気分になったのだ。
「そうかい。ともかく、部屋だが二階の――」
主人が奥にある階段を指差そうとした、その時だった。
部屋の外から大きな声が上がった。耳に心地の良い街の音が一転して不穏なざわめきへと変わる。
「――我々は神聖皇国ウェストランデより来た〈Plant Hwyaden〉のものである。この町に〈冒険者〉はいないか! 〈冒険者〉は全てミナミの町へ来てもらう!」
「〈冒険者〉はいないか! 隠れても無駄だぞ!」
「逃げようたって無駄だぜ。……おい、何見てんだ〈大地人〉のくせによォ! 見てるぐらいなら、〈冒険者〉を連れてきな!」
強く、威圧を感じさせる声。提案と云うよりは命令。それは、まるで初めから有無を言わせるつもりがないようにも取れる。
「……って、噂をすれば何とやら、だな」
主人はそうぼやき、カウンターから外に出ると、ミツキの脇をすり抜け、ドアから顔を覗かせて外を伺った。その横顔はこれから起こることに対して、不安を抱いているようにも見えた。
ミツキもその傍からこそりと身を乗り出して隠れるように外を伺う。
外には三人の男女がいた。その格好から、彼らが〈冒険者〉であることはすぐに見て取れた。無骨な鎧に身を包んだ戦士、ひょろりとした身体に杖を持った魔法使い、そして背中に弓を背負う威圧感を携えた女性だ。
「……ふむ、〈守護戦士〉に〈妖術師〉か〈付与術師〉、それに〈吟遊詩人〉ってところかな」
ミツキはその見た目から相手のクラスを予想する。集中して見れば、その名前とクラス、そしてレベルを見ることは出来たが、まじまじと見ていては見つかってしまう為、盗み見る程度しか出来なかった。
ミツキは外の〈冒険者〉達から視線を外しと室内へ身を隠し、考える。
あの〈冒険者〉達の指示に従うかどうか、答えとしてはNOだ。
もしこのまま相手の言うがままにミナミへ連れて行かれるのだとすれば、ここまで来た意味を失ってしまうからだ。
(とは言え、このまま隠れてるのも、時間の問題だよね)
ミツキは頭の中にトスの全景を思い浮かべる。
交易都市として人も物も多くが行き交う街ではあるが、プレイヤータウンではないトスは決して広くはない。例え三人という少人数で見て回るとしても、全てを巡回するのに半日もかかることは無いだろう。
ましてや居住ゾーンである。見つかり、名前を把握されてしまえば、そのあとの追跡手段は幾らでもあるのだ。
(そこまで追われるのか、って話にもなるけど、黙って見逃してくれそうな雰囲気でも無いしなあ)
ふうむ、と視線を宙に浮かせ、ミツキは頭を掻く。
(少しゆっくりしたかったけど、仕方ないね。向こうが動き出す前に、店の裏側からでも出させてもらおう)
「――あの、おじさ」
「ああっ!?」
背中に向けられたミツキの声を遮り、主人が驚いた声を上げる。
「あ……ちゃあ。そんな気はしてたんだが、あの子、まだいたのか」
「え?」
ミツキは思わず聞き返した。
「ほら、さっき話した、あんちゃんとは別の〈冒険者〉だよ。出て行ってくれてれば、と思ったが、これまた予感ってのは悪い方に当たるもんだな」
ミツキは主人の言いぶりに、再びその傍から外を盗み見た。
「――――っ!」
「こら、大人しくしろ! 下手に抵抗すれば、戦闘扱いになるぞ!」
視界の先、宿屋から見える大通りの溜まりの広場。その端で、先程の〈冒険者〉が一人の少女を押さえていた。
その少女も手には杖を持ち、〈大地人〉とは見るからに異なる格好をしている。主人も言っていたことから、少女が〈冒険者〉であることは間違いはないだろう。
ただ、その少女が彼ら〈冒険者〉と同じには見えなかった。その見た目からなのか、根源的な雰囲気からなのか、それははっきりとミツキにも分からない。
――しかし、少なくとも。
そこで行われている行為がミツキにとって違和感を抱くものであることは間違いはない。
(……違う。あんなのは、格好悪い)
ふつり、とミツキの心がざわつく。思考自体は冷静だ。それでも、胸の奥は熱を帯びている。
「……どうしたものか」
「助けに行きます」
独り言のように呟いた主人へ、ミツキは即答した。外へと注意を向けていた主人が、驚いた顔でミツキへと向き直る。
「お、おいおい、あんちゃん。いや、そうなればとは俺も考えてはいたが……。決断が早くないか? それに、あんちゃんもあれに巻き込まれるのは嫌なんじゃないか?」
「……それは確かに嫌です。でも、それ以上にあの行為を見過ごすのは、嫌です。だって、〈冒険者〉なんですよ」
その言葉の意図を読めず、主人はミツキの言葉に首を傾げる。
(僕達は、あんなことをするために、〈冒険者〉になったんじゃ……ゲームを始めたんじゃないはずだ)
ミツキはいたって冷静にそう考える。
この世界は最早ゲームとはかけ離れてしまっている。だからといって、ミツキの心からゲームを始めた時の気持ちが失われているわけではない。
〈エルダー・テイル〉の画面を開き、自身の分身となる〈冒険者〉を作った時の気持ちはまだミツキの心の中に残っている。
どこか遠くへ旅をしたかった。
現実で出来ないことをしたかった。
強大な敵を倒したかった。
ヒーローになりたかった。
(PKなんかをする人もいる……けど、みんな、楽しむために、冒険をするために〈冒険者〉になったんじゃないか)
推奨される行為ではないとしても、言ってしまえばPKもゲームを遊ぶ手段の一つなのだ。そもそもPvPのルールがある以上は、PKもゲームの仕様の一つである。悪質な粘着などを除けば、悪役の演技をする遊びとも考えられる。
(それでも、あれは違う。僕達は自由があったはずなんだ。自由があったから、いろんな遊びができた)
勿論、ミツキ自身も自由にはルールが必要だという事は分かっている。特に、この混乱の渦中にある状況ではそれは必須に近い。それでも、無理やり押さえつけて、何かを強制するなんてことは、違うと、ミツキは考える。
(それに、何よりあんなのは格好悪い。女の子を複数で取り囲んで、無理やり連れて行こうだなんて、大の大人がすることじゃない)
理屈も感情も織り交ぜて、ミツキは右手を強く握りしめる。
「でもよ、あんちゃん。助けるのはいいが、どうするんだ。向こうは三人、こっちは俺を入れても二人だぜ」
主人はするりとミツキの前に出て、そんなことを言う。その様子を見てミツキは思わず笑ってしまった。
「なんだい。なんか可笑しなことでもあったか?」
不思議そうに主人はミツキの顔を覗き込んでくる。その様子が更に面白くて、ミツキは首を振って「いや」と答えた。
「……あはは、おじさんも人がいいですね。僕一人に任せてもいいのに、自分もカウントしてる」
主人が前に出たのも、あの〈冒険者〉たちから見つからないようにとの配慮だろう、とミツキは分かっていた。それを思えば、先程までの煮えるような感情もどこか落ち着いて、表情も緩んでくる。
「はっ。そりゃそうだ。いくらあんちゃんが〈冒険者〉だからって、全部任せるわけにはいかねえさ。それに――」
言葉を区切る主人にミツキも「それに?」とオウム返しで尋ねる。
「それに、あの子は俺にちゃあんと挨拶してくれたんだ。それだけであの子はいい子だって分かんのさ。そのいい子が困ってる。そりゃあ、助けないわけにはいかないな」
「……ぷ、あははは」
「それに可愛かったしな」
「あはは。それは、確かに大事ですね」
「だろ」
「ですね」
ひとしきり笑って、ミツキは視線を広場へと戻す。緊張はどこにも感じていない。
「さて、改めてどうするか」
「ふむ……」
冷静になった思考で、ミツキは改めて頭を回す。
(案が無いわけじゃ、ない。でも、落ち着いて考えよう。勢いだけで決めるのはダメだ)
視界の先には抵抗する少女の姿が見えている。あまり時間はかけられない。
暫くの沈黙。手を顎に当て、ミツキは周囲を見渡す。
あの〈冒険者〉たちは少女を連れていくのに手間取っている。その理由は単純だ。それはトスの町は戦闘禁止エリアだからである。
戦闘禁止エリアとは、その名が表すとおりに戦闘行為を禁止するエリアで、主にプレイヤーが腰を落ち着ける場所であるプレイヤータウンや居住ゾーンで設定されている。これは、ゾーンごとに設定されているのが主で、購入しオーナーとなったゾーンでは戦闘訓練を行うために、と戦闘禁止エリアを設定しないこともありえたりする。しかしそれはあくまでも例外で、ほとんどの街は戦闘禁止エリアに類されており、その中で下手に戦闘行為をすれば、衛兵がやってきて処刑、もしくは牢獄へ入れられてしまう。
(それは、つまりこっちも下手に攻撃を出来ない、ってことだよね……。そうなると、無理やりあの子を引き剥がすのは難しいか……。って、待てよ、攻撃行為にさえならなければ、いいのか……?)
ミツキは目を眇める。それはまるで、姿なき解答を捉えたかのように鋭い。
「……――うん、決めました」
落ち着いた様子ではっきりと呟いたミツキに、主人は視線だけで続きを促す。
「まず僕があいつらの注意を引きます。その間におじさんはあの子を助けに行ってください」
「お、おい。それだけなのか? それに俺が行くのか? 言っちゃなんだが、俺は〈冒険者〉になんてとてもじゃないが歯が立たないぞ」
「大丈夫です。おじさんに危害が加わるようなことにはならないと思います。それに、そうしないようにするのが、僕の役目ですからね」
「……分かった。だが、あんちゃんも無茶はするなよ」
「はい。じゃあ、さっそく動きましょう」
言って、ミツキはするりと宿の外へ出た。
初夏を思わせる匂いがミツキの鼻をくすぐる。それはどこか緊張をはらみ、長い間嗅ぎ慣れた空気とは違っている。
「……よし」
ぐっと息を呑み、ミツキは強く足を踏み出した。事を行おうとする直前に緊張が戻って来たのか、地面を掴む足取りはどこか重い。
それでも、そのままミツキは足を進める。じりじりと、出来るだけ平然を装う。
(……気付かないでくれよ。でも近すぎても、遠すぎてもダメだ。丁度いい間合いを見極めないと)
街の喧騒はまだ強い。手を出すことが出来ない〈大地人〉は、少女と〈冒険者〉の悶着を遠目に野次馬の塊を作っていた。そのおかげか、ミツキが近づく姿に誰も気づく様子はない。
(よし。このくらいの距離があれば丁度いい)
ミツキは人垣の少し手前、騒動の中心から十メートル程度の位置で足を止めると、深く息を吸って周囲を見渡した。
周囲の注目は未だ変わらず、人垣の向こうへ向けられている。隙間から窺えば、少女には男の〈冒険者〉が二人張り付いており、女性の〈冒険者〉はそれを少し離れた位置から見ているようだった。横を見れば、同じぐらい離れた場所に、大きく迂回して近づいたのであろう宿屋の主人がいた。
「――」
ミツキは吸い込んだ息をゆっくり吐き出すと目を閉じ、頭の中にあるイメージを走らせる。
(大丈夫。考えれる限り、ベストな形だと思う)
数瞬。ミツキは目を開くと、人垣の向こうを見据えた。
「――――こっちにもいるぞ!」
そして、強い声を上げた。
ざわり、と周囲がざわめく。一斉に視線がミツキへと向いた。
それに一瞬だけミツキは怯む。だが、もう止まることはできない。そのまま、ミツキは足を前に踏み出す。
「僕も〈冒険者〉だっ!」
一歩、二歩と踏み出す。遠目に窺っていた〈大地人〉の塊が、まるでモーゼの海割りのように割れていく。
「――なにィ?」
少女を掴んでいた〈冒険者〉の視線がミツキへと向く。そこで、ミツキは素早く相手をステータスを確かめる。
ダンクマール/〈守護戦士〉/Lv90/〈Plant Hwyaden〉
「勝手に来てくれるとは、物わかりがいい奴だ」
もう一人の魔術師風の男もそれに続いてミツキへと注意を向ける。
錆鼠/〈妖術師〉/Lv90/〈Plant Hwyaden〉
二人のステータスを確認し、ミツキは一つ安堵の溜息を吐く。
(良かった。二人とも攻撃職だ)
心の中でそう呟いて、少女へと視線を送る。少女は肩を震わせ、下を俯いている。
「おい、どうすればいいか分かっているのなら、こっちへ来い。全ての〈冒険者〉は我々〈Plant Hwyaden〉に所属してもらう」
ダンクマールという名を持つ戦士がミツキへと手を伸ばす。その瞬間、ミツキは大きく一歩、踏み込んだ。
ざり、という音が周囲へ響く。その違和感に気が付いたのか、二人の〈冒険者〉も身構える。だが遅い。
ミツキは意識を集中させ、頭の中でアイコンを探すと、目的の一つを選択した。
「――〈猿叫〉!」
瞬間、ミツキの口からまるで雄叫びに近い声が発せられた。周囲の〈大地人〉が咄嗟に耳を塞ぐ。
その力強い、相手を威圧させる声はまるで戦闘の始まりを思わせる。
「なッ、タウンティング、だと!?」
そう声を上げたのはダンクマール。その両手は少女から離され、今は体全体をミツキへと向けている。その傍らの錆鼠も同じだった。完全にミツキへと周囲を向けている。
〈猿叫〉。
気合を込めて叫び相手を威圧する武士の持つタウンティング系特技の一つで、射程の広い挑発。その射程距離はおよそ八メートル――正にミツキとダンクマール達との距離である。
「今だっ! おじさん!」
ミツキは視線をそのまま叫ぶ。次の瞬間、ミツキの横を一人の男性――宿屋の主人が駆け抜けた。
「くッ! させるかァッ!」
何が起こっているのかを理解したのか、ダンクマールの体が動く。だが、注目をミツキから外すことは上手くできない。
「もういっちょ! 〈天下御免〉!」
ミツキはそう叫び、駆け出した。
〈天下御免〉。
移動しながらもヘイトを常時集める〈武士〉の特技。その誰に憚ることなく戦場を縦横無尽に駆ける姿に、見るものは目を釘付けにしてしまう。
まるで疾風だった。堂々たる様子で走る姿に、ダンクマールと錆鼠の視線は完全に固定されてしまっている。
その隙を潜り抜け、主人が少女の元へと辿り着く。
「――ッ!?」
咄嗟にダンクマールが腰の剣に手を伸ばす。だが、それを錆鼠が「止めろ!」と声を張って制した。
「ここは戦闘禁止エリアだ! 戦闘行為は処罰の対象になるぞっ!」
「ぐッ……!」
ダンクマールの手が止まる。結果的に、二人は突撃するミツキへ注目することしかできない。その隙に、主人は少女を男たちから引き剥がしていた。
これがミツキの考えた作戦だった。
戦闘行為に当たらない行動――ターゲットを取らないタウンティング技能を使用し、注意を引き隙を作る。トスの街は戦闘禁止エリアであるため、それに対してもし相手が戦闘行為を取れば、衛兵が相手を攻撃する。取らないにしても、その隙に少女を助けることが出来る。
(単純だけど、成功してよかった……)
駆けながらミツキはホッと溜息を吐く。衛兵が現れるかどうか、更にタウンティングの効果が街中で相手に届くかどうかは、賭けだったのだ。失敗していれば、衛兵に掴まっていたか、強行的に少女を連れ出すしかないかった。
結果として、ミツキは賭けに勝った。ミツキはそのまま何もすることのできない男たちの脇を抜け、傍らに逃げていた少女と主人の元へ向かう。
「あんちゃんっ!」
「うんっ、ありがとう、おじさん!」
それだけを交わし、主人は少女の腕をミツキへと伸ばさせる。項垂れていた少女の顔が上がる。
刹那、視線が交差した。
吸い込まれそうな水色の、まるで透き通る海を思わせる綺麗な瞳。ミツキは一瞬だけ、そのあまりに透明な瞳に映るミツキ自身を見る。
時が止まったかのような感覚のまま、ミツキは少女の細腕を掴む。
「――ぁ」
少女の鈴の鳴るような小さな声が漏れた。その響きに、ミツキの鼓動が瞬間的に高まる。
「……行こうっ!」
駆け抜ける勢いをそのまま、ミツキは手を引く。少女は小さな息を漏らすと、そのまま立ち上がり勢いに任せてミツキに引かれていく。
「よーっし、そのまま逃げちまえー!」
走り去る背後から、そんな主人の声が聞こえた。ミツキは少女の手を引く方とは逆の手を振って、それに応えた。
「――ッ! 何をしている、追え!」
同時にそんな声が響いた。続いて、数人分の足音。
(やっぱり、追ってくるよね。でも、簡単に捕まるつもりはないっ)
ミツキはもう後ろを振り返らない。少女の手を引き、真っ直ぐに街の外へと飛び出した。
待ち構えていたかのように、一陣の風が吹き抜ける。二人はそれを背中に、広がる平原を颯爽と駆け抜けた。
遠くへ、遠くへと。ただ愚直に足を進める。
そして、その勢いのまま、平原の先に待ち構えていた鬱蒼と茂る森――〈古きヨシノの森〉へと足を踏み入れた。
◇
「あー、行っちまった」
二人、そしてそれを追うための三人が去った後、主人は地面に腰を下ろしたまま独りごちた。
「風みたいなやつだった。さあっと来たと思ったら、さあっと去って行きやがった」
そう言って、風が駆け抜けた方角を見やる。その後ろ姿ももう見えない。
「流石は〈冒険者〉ってやつだな。全く、もうこんな思いはこりごりだ。あのあんちゃんの宿代は、その手間賃ってことで頂くかね」
呟いて主人は、「はは」と笑った。ほんの一瞬の、まさに瞬く間に終わってしまったひと時を宝物のように胸に仕舞い込むために。
「……あ」
と、そこで視界の先に何かを見つけたのか、ぽつりと声を漏らした。
「あー、あっちゃあ。すっかり忘れてた。……あー、まぁ、大丈夫だろ」
ぽりぽりと頭を掻きながら主人は考える。どんな困難が降りかかろうとも、あの名前も聞いていない〈冒険者〉なら、乗り越えるだろう、と。
「ともかく、頑張れよ。〈冒険者〉さん」
Docから<武士>の特技を引用させていただきました。
また、街中での使用に関しての処理は勝手な裁量です。ご了承ください。