001
「――、――」
地面を蹴る音が不揃いなリズムを奏でる。
二つの影があった。一つは大きく、もう一つは小さい。その影は、所狭しと聳える木々の隙間を、まるで水が自然と流れるかの如く流麗に通り抜けていく。
そこは森だった。そして、不思議としか形容する術が無かった。
視界は見通しが悪い。それは光が天高く広がる枝はによって遮られているからだけではない。まるで日の沈む前の黄昏時を思わせる、白と藍の入り混じった不可思議な靄が、フィルターを掛けているかのように視界のほとんどを埋め尽くしている。
かろうじて見える視界の中には、かつての名残であろう、朽ち果てたコンクリートや石造りの建物がぽつりぽつりと点在していた。木々たちは、それらを囲むように大地に根を下ろし、またその立体的な地形に親和するよう建物そのものへと根を這わせ、一つのオブジェクトと化して森を作り上げている。
道はあってないようなものだ。高低差も激しく、迂回路も多い。更に見通しも悪ければ、足場も悪い。それでも、青年はまるで疾風のように、後ろ手には一回りは小さく見える少女の手を引いて駆け抜けていく。
(――やっぱり、変わってないな)
青年――ミツキは心の中で呟く。
ミツキは少女の手を引きながら、速度を落とすことなく立体的な森の中を駆けていく。
道なき道を右へ左へ。行く手を拒む廃墟を迂回し、またその先へと進む。
その迷いのない迅速な判断は、まるでその先に何があるのかを知っているかのようだ。
(右に二つ、次に真っ直ぐ行って、その後左。それで、“間違い”がなければ間違いない)
そう呟いて、ミツキはまるで答え合わせだと思った。
事実、ミツキはこの場所を知っている。どう進めば“正解”であるかを把握している。
だがミツキ自身、実際に来たことがあるわけでも、見たことがあるわけでもない。
(……いや、来たこと、はあるのかな。それが、僕だって言っていいのかは分からないけど。知識にはあるけど、記憶にはない。うーん、なんだかやっぱり違和感があるなあ)
ふと自分の体へとミツキは視線を送る。
ミツキが今着ているのは、一言で説明するならば和服だった。まるで、時代劇にも出てきそうな立派なものだ。更に、その上には掛けられた金属製の胸当てと肩当て、そして腰には二振りの日本刀を下げている。それらがミツキから現実味を失わせ、二カ月近く経ても未だ完全には拭いきれない違和感を与えていた。
(重いとは思わないし、着ている分にはしっくりくるんだけど、やっぱり慣れないな。なんだか、コスプレしてるような気分がどうもね。でも、“ここ”じゃそれが普通なんだよね)
ミツキは走りながら周囲へと意識を配らせる。
辺り一面を覆い尽くす、不可思議な靄。所々に見えるかつての建築物と、そこから伸びる背の高い木。鼻孔をくすぐる森の香り。木々の間を抜ける静かな風。
その全てが幻想的で、そして現実離れしている。少なくとも、ミツキの知る『現実』にこのような景色は存在しなかった。あるとすれば、それは物語の中にしかないものだった。
しかし、これは現実なのだと、疑う余地などないと、ミツキは知っている。
現実であって、現実ではない。
今からおよそ二か月前に、非現実が現実になってしまった世界。
「……これが〈エルダー・テイル〉の世界」
ミツキは自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
かつて、エルダー・テイルというMMORPGがあった。
二十年もの長い歴史を持ち、全世界で数十万人ものプレイ人口を抱え、〈ハーフガイア・プロジェクト〉と呼ばれる地球再現を抱えた、世界最大規模のオンラインゲーム。
それが、ミツキがプレイしていたゲームであり、そして今、ミツキが現実に存在している世界だ。
ミツキは視線を前に据え、目に映るものを観察する。
五歩先は仄昏く、十歩先は闇に満ち、二十歩先は漆黒が塗られている。ミツキが足を進めれば五歩先の昏がりは一瞬で眼前に迫り、それと同じだけその先の闇は後退する。まるで傍から見れば二人が闇を追い回しているようにも取れそうだった。
(前と全く同じなんだな。僕達を囲む様に段階的なテクスチャが張られているような、そんな感じだ)
ミツキはそう考えを巡らせ、今自分たちがいる場所を再認識する。
〈古きヨシノの森〉。
それが今ミツキ達が駆け抜ける森の名であり、ナインテイル自治領――現実世界では九州の佐賀県、その中でも有名な吉野ケ里遺跡に当たる場所に作られた広大なダンジョンの名であった。
かつて、これがゲームであったとき、〈古きヨシノの森〉には操作するキャラクターを中心に視界が悪くなっていくというギミックが存在していたのだ。それは、今となっても忠実に再現されている。
(うん。てことはやっぱり、記憶通りに進めば問題ないはず)
ミツキはかつてこのダンジョンをクリアしたことがあった。その為、〈古きヨシノの森〉のダンジョンマップはミツキの頭の中にある。
(こうやって、本当の自分で体験するのは、また違うけど。とりあえず、森の中心部まで行ければ――)
そう考えて、走りつつミツキは後ろへと視線を送る。
繋がれた手の先に、一回りは背の違う少女がいる。鮮やかなミルクティーを思わせるブラウンの長い髪に、華麗な装飾で彩られたお伽噺の登場人物を再現したかのような可愛らしい服装。長いふわふわのスカートには、金色の鮮やかな曲線が流れている。更に目を引くのは、ミツキの手を握るものと逆の手には握られた自分の背丈ほどもある長い杖。ミツキと系統こそは違えど、同じように現実離れした、まるでファンタジーの物語に出てくるような格好をしている。それは、彼女も同じ〈冒険者〉であることを暗に示している。
少女はその顔を靄に僅かに隠しながらも、不安げな表情を浮かべていた。それにミツキは気付くと、自分に向けられているのではないか、と一瞬だけ考えてしまう。
(……うーん。後悔、はしてないけど。無理やり連れだした、みたいになっちゃったのは事実だし。あの時は無理やりでも連れていくしかなかったと思うんだよね。それに〈冒険者〉なら、こうするべきだったと思うんだ。でも……確かに強引では、あったかな)
心に沸いた不安に、知れず少女の手を握る力が強くなる。慌ててそれに気付き、ミツキは緩めようとしたが、少女は逆にその手を握り返してきた。
「――あ」
優しい暖かな体温が触れ合う手のひらから伝わってくる。それが現実味のない、惑わそうとしてくるこの森の――この世界の中で、唯一と思える確かなものを与えてくれているように思えた。少なくとも、間違ってなかったのだと、ミツキは思うことが出来た。
「――うん」
そうひとり頷いて、ミツキは足を速める。
最初の想い――この少女を助けたいと、それだけを考えて。