(7)
気がつくと、明るい部屋のソファに寝かされていた。
天井がフルフル震えるほどのすさまじい頭痛に我知らず呻いた。 酔いが醒めかけている。
肩と右腕の中では、打撲の激痛が躍っている。
「あッ、起きてる!!」
居間の入り口でキンギョちゃんが叫び、タオルを持って飛んで来た。
僕の頭に、ひんやりしたタオルを置いてくれた。
「卓さん、大丈夫ですか? も、もおッ‥‥、なんでこんな無茶するんですか!!」
2枚目のタオルで、彼女は腕を冷やしてくれた。
右腕は内出血で真っ青だった。
「今日あんなにステキな演奏をした腕なのに、なんでもっと大事にしないんですか。
肩もこんなに‥‥もおッ、信じられない!」
傷を冷やしてくれながら、彼女は涙ぐんで怒っていた。
「あれが、うわさの兄上どのか」
僕がつぶやくと、彼女は鼻にシワを寄せ、
「兄上なんていいもんじゃありません。 ただのバカよ。
まだそのへんに転がってますけどねっ!」
言い放って、床の上を指差した。
キンギョ兄は、絨毯の上に無造作に転がされていた。
僕が殴った左の頬に、おざなりに濡れタオルが置かれている。
明るいところで見ると、この男も酒を飲んでいることがわかった。
「おっ、きみ、大丈夫かね?」
父親らしい中年の男がやって来て、キンギョちゃんの肩ごしに僕の顔をのぞき込んだ。
「すまないことをしたね。 腕とか肩とか、上がるかね?
もしアレなようなら、明日病院に‥‥」
「いえ、そんな必要はないです。 ただの打ち身ですから」
あわてて断った。
妙な感じだった。
夜中に、酔って娘にちょっかいを出し、息子を殴りつけた男に対する父親の態度ではない。
極端に影の薄い父親を見ていると、これでは息子を抑えることは無理なのではという気がして来た。
咽喉が渇いて焼け付くようだった。
水を一杯欲しいと言うと、キンギョちゃんが台所から持ってきてくれた。
後ろから、母親らしい女性が一緒に来て、僕が体を起こすのを手伝ってくれた。
頭がくらくらしたが、酔いはだいぶ醒めて来ている。
水を一気に飲み干すと、ようやく意識がはっきりした。
「夜分にお騒がせして申し訳ありませんでした」
コップを返して、母上にお礼を言うと、華やかな笑顔が返って来た。
「強そうなカレシで安心したわ、あや。
この先結婚だなんだって言っても大丈夫そうね。
なんにしたって、お兄ちゃんに勝てる人じゃないと、あやと付き合うのは無理だもんね」
母上は娘の頭を、小さい子にするように撫でた。
驚いたことに、キンギョちゃんは母親の言葉を訂正しなかった。
僕はカレシでもなければ、結婚相手でもないのに。
彼女は黙ってうなずくと、突然、顔を覆って泣き出したのだ。
間抜けな話、それまで僕はわかっていなかった。 彼女がこれまでこの家で戦って来たのだということが、この時やっとわかったのだ。
ただでさえレイプ云々の問題は、被害者の気持ちが複雑で難しい。
その相手が家族であると言うことがどういうことか。 ただ責めて遠ざければいいというものではない。 誰にでも相談できることでもない。 憎しみも愛しさも見分けがつかない。
4年前に僕が拒絶された理由も、解った気がした。
「おい母さん、布団敷いといたぞ。
篤樹をわしの部屋に寝かそう。 どうせこのまま、朝まで起きやせんだろ」
父親がやってきて、キンギョ兄を担ぎ上げた。
母親が急いで手を貸す。
「あたしが手伝うよ」
「あやはそこにいてあげなさい」
両親と兄の姿が、廊下に消えていった。
キンギョちゃんは手ぶらで、僕の傍に戻って来た。
ソファの横にぺったり座り込んで、僕の額のタオルを持ち上げた。
それからまた、ちょっと信じがたい行動をした。
まず、子供じみた目できょろきょろと周囲をうかがった。
それからいきなり顔を伏せて、僕の唇にキスをしたのだ。
面食らって、身動き取れなかった。
彼女は唇を離すとふと笑い、
「お酒臭いわ。酔いそう」
と、文句を言った。
こっちは酔いが戻りそうだ。
「卓さんありがとう、あたし嬉しかったの。 兄貴を叱ってくれたでしょう?
『大事にしないのに、守るフリをするな』って。
本当にその通りの人なんです。
あの瞬間、あたしすごくすっきりした」
彼女は新しく冷たいタオルをあてがってくれながら、続けた。
「あたし、この家からちゃんとお嫁に出るのが夢なんです。
兄貴とも、逃げ回るんじゃなくて結婚してもきちんと親戚づきあいしたいって。
そのためには、家を出ずに戦わなくちゃいけなくて。
一回兄貴から逃げてしまったら、もう全然だめになっちゃうと思って、それで外の音大受けるのやめて、家から通える大学にしたんです。
れんさんがいなくなって、もう一緒に戦ってくれる人なんかいないと思ってた」
「僕がその役をしても、いいのか」
「ホントは卓さんしかいないんです。 でも、この家のことを見せるのがいやだったんです。
れんさんはそういうことを少しも気にしない人ですけど、卓さんはそうじゃありません。
この家は病んでます。 それをあなたに見せるのがいやだった」
キンギョちゃんの目から溢れ出す涙を、僕は指先でぬぐった。
そんなレベルで何とかなる量の涙ではなかったので、結局濡れたタオルを二人で使っている感じになった。
「この家のことが理解できるかどうかはわからない」
僕は正直に言った。
「でも、君を守ることはできる。 一緒に戦うこともできる」
「戦ってくださいますか」
「君がして欲しいことならなんでもする」
僕は請け合った。
「別れ話以外ならね」
ふと思った。
旅をしていたのは、僕の方かも知れない。
僕こそが、突然聖剣を授かった、弱気の勇者で、一本角の魔物を倒し、囚われの姫君を助け出す。
そして今、新たな物語が始まる、というナレーションが入るシーンだ。
ゲームのオープニングナンバーは、ショパンのピアノ曲。
眼を閉じると、昼間の自分の演奏の記憶が、今になって初めて蘇って来たのだ。
あの時感じた「言葉にならない何か」が、この胸の中にある。
それはこれから先、僕の聖剣としていつも手の中に残るだろう。
気がつくと、キンギョちゃんは座り込んだままうたた寝をしていた。
僕は彼女の頭をそっと、僕の胸の上に乗せた。
この胸の中に流れる、僕の過去最高のエチュード。
彼女にもきかせてやりたいと思った。
夢の中に流れてくれるよう祈りながら、イメージのボリュームを上げて、眼を閉じた。
穏やかな彼女の寝息に、自分の呼吸を合わせながら。
(三人魔王 終わり)
いかがでしたでしょうか。このお話は「ビョーキえっち」の続編ですが、これはこれで一つの短いお話になると思ったので、シリーズ内で独立したものとして再編しました。曲目があまりメジャーでないのが申し訳ないのですが、ピアノ曲を思い浮かべながら読んでいただけたら幸いです。