(6)
耳の記憶には自信がある。
広瀬の声は、ちょっと変わっていた。 低音の部分だけが、ザラついて骨をこするようなハスキーボイスだった。
その声を皮切りに、頭の中で全員の声を再生してみる。
広瀬。 羽賀。 柘植。 もう一度広瀬。 そして。
確かに、僕だけが規格から外れているのかもしれないと思った。
こんな話があるものか。 一番、人に誇れると思っていたものが、彼女の規定からは外れていたのだというのか。 そんなどうしようもない理由で足踏みをしていたのか。
がっくり来ると同時に、酔いが回って来た。
適当な言い訳をして、店を出てから他の連中と別れた。
電車を降りたら9時だった。 足がもつれてふらついている。
よろよろ歩いて、地下道を渡った。
住宅街は暗く静かだ。
見上げた目的の2階建て家屋は、なんだか知らないがやたらとぐるぐる回っていた。
「起きてるか」
携帯に向かって言った。 舌が回らなくて自分でも気持ちの悪い声だった。
「……卓さん、めっちゃ酔ってますね?」
あからさまに警戒した声で、キンギョちゃんが答えた。
「もう家に帰ってるんですか?」
「きみはどうだ、家にいる?」
「はい」
「なら出て来い。 すぐ前の通りにいる」
「はあッ?」
「早く来ないと、歌うぞ」
わけのわからない脅し文句を一方的に伝えて、通話を切った。
はっきり言って、もうやけくそだ。
金魚家の窓には、全部明かりが点いていた。
以前ここに来たのは、高3の時だった。
キンギョちゃんは実の兄にレイプされたと言った。
守るつもりで駆けつけた僕を、彼女は拒絶したのだ。
今夜は守る立場じゃない。 彼女を誘惑する気分でも、もうない。
ただの酔っ払いだ、ろくでなしだ。
もしも彼女が出て来なかったら、本当に1曲歌ってやろうと思っていた。
玄関のドアが開いて、普段着のキンギョちゃんが走り出してきた。
見開いた目が僕の顔を見て、ものすごく同情的な表情になる。
「もおッ‥‥!! 先輩、どうしちゃったんですか?
こんなの全然、らしくないじゃないですか!」
悲しげに言って溜め息をついた。
「きみが別れ話なんか、するからだ」
愚痴っぽく言うと、不覚にも涙が出そうになった。
「なんであたしの言う事なんか気にするんですか?
音大には、ステキな女性いっぱいいるでしょうに。 スグルさんなら引く手あまたでしょうに。
わざわざあたしみたいな‥‥きゃあ!」
足下がふらついて傾いた僕の体を、キンギョちゃんがあわてて支えた。
「お願いだから、しっかりしてください!」
仕方ないじゃないか。 もう理屈じゃないんだから。
酔いのために感情の起伏が顕著になっているのだろう。 支えてくれる彼女への愛おしさを僕はこらえきれなくなり、思わずその細い腕を取った。
そこから肩をたどり、背中まで腕を回して抱き寄せる。 同時に耳元に口を寄せて、囁いた。
しかも声をわざと、バリトンからテナーの際まで引き上げてみた。
一世一代、柄にもない誘惑を目論んだわけだ。
「ラストステージにしなくていい。 中途でいいから、飛び込んで来てくれ。
僕だって完全な人間じゃないし、過去には失敗もしてるんだ。
それでいいじゃないか」
それなりにいい台詞だったはずなんだが、アルコールという薬物は恐ろしい。
頭の中がこれだけまともなのに、体は全くついて行かなかった。
舌が麻痺している僕の口を経由すると、台詞はこんなふうにしか聞こえなかった。
「らすとすてーりにしなっていー。
ちゅーとれいーからとゥぃこんれきれくえ」
なんの呪文なんだかわかりゃしない。 所詮は酔っ払いのやることだ。
僕はもうやぶれかぶれで、事のついでにキスの1つもしてやろうかと作戦を変えた。
しかし一瞬早く、彼女の唇は鋭い叫び声を上げた。
「逃げて! 先輩早く逃げてぇッ!!」
同時に僕は、彼女に突き飛ばされて尻餅をついた。
アスファルトに座り込んだ僕の眼に、一匹のモンスターが映った。
玄関灯を背にしたシルエット。
長い一本の角を持った怪物がそこにいた。
よく見ると、角と見えたのは剣道の竹刀だった。
それを振り上げているのは、長身の若い男だった。
釣りあがった眼は鋭く、視線がピタリと僕をにらんでいた。
「非常識な酔っ払いめ。 綾姫に不埒な真似をした報いをくれてやる」
男の口から、凄みのある言葉が滑り出て来た。
ハッとした。
この男の声こそ、真性“ライン際”ではないのか!?
「やめてよお兄ちゃん! 竹刀はダメよ、危ないじゃない!」
大上段に振りかぶった男の腕に、キンギョちゃんがむしゃぶりついた。
男がめんどくさそうに片腕を一振りする。
キンギョちゃんの体があおられて吹っ飛び、門柱の脇でひっくり返った。
「何をする、きさま!!」
僕はカッとして立ち上がった。
相変わらず世界はぐるぐる回っていたが、怒りの噴出は止められなかった。
「彼女に謝れ。
大事にしないなら、守るフリなんかするな!!」
竹刀の間合いにズカズカ踏み込んだ。
男が竹刀を振り下ろす。
十字に固めた両腕でブロックした。
激痛が走った。
大丈夫だ、腕が折れたりはしない。 僕のほうが背が高い分、威力が弱まっているのだ。
2打めは左脇。 手にした荷物で払った。
この男は。
この男は。
キンギョちゃんをあれほど傷つけて置きながら、その自覚はないのか。
振り払った腕の先で、彼女がどれほど痛い思いをしたのか、今も気づかないのか。
同情なんかじゃなかった。
僕は同じ男として、彼がしたことを許せなかった。
僕が詰めた間合いを、相手が飛び下がって広げる。
そこをさらに踏み込む。
ブロックがわずかにズレて、肩を打たれた。
パキャンと変な音がした。 竹刀が折れた音らしい。
不思議と、痛みはそこそこだった。
固めた拳を思い切り叩き付けた。
男の頬骨の感触が、手の甲に伝わる。
相手がひっくりかえるのをほれぼれと見送った。
ざまあ見ろ!!