(5)
「これきり」
オウム返しするだけで、すぐに言葉が出てこない。
「‥‥もう、会わないとか、そういうことか」
キンギョちゃんが小さくうなずいた。
「理由は」
「温度差が、つらいんです」
「温度差とは」
「卓さんはすごく、あたしを買ってくださいます。
それに見合うものをあたしは持ってませんし、お返しできません」
「何を言ってる。 返さなくていい」
「身に余る評価は人を卑屈にします。 卓さんだって、今日予定よりずっと高い賞をもらって、申し訳ながってるじゃないですか!」
強い口調で、彼女は言い放った。 僕は驚いてその顔を見つめた。
怒っているのかと思うような、強烈な意志を持った表情に戸惑う。
「あたし、卓さんの恋人になって毎日心の中で、ごめんねごめんねって言いながら暮らすのはいやなんです」
「恋人になれないにしても、会うのをやめる必要があるか?」
彼女は激しく首を振った。
「今日の演奏を聴いて思ったんです。
卓さん、あんなに真剣なのに、失礼な付き合いは出来ないです」
僕の醜態といったらなかった。
口を開け、台詞が出てこないので閉めることを、3回も繰り返した。
「つまり、‥‥僕はつまり‥‥重いのか」
彼女は下を向いた。
うなずいたのか、ただうつむいたのかはわからなかった。
「卓さんは、本当のあたしなんか嫌いだと思います」
「え?」
「あたし、そんなきちんとした人間じゃないんです」
キンギョちゃんは、決心したように顔を上げた。
「あたし、れんさんと別れた後、卓さんに言えないこと、いっぱいしました」
「‥‥キンギョちゃん?」
「寂しかったんです。 れんさん、地元に残ってるし、いろいろ噂を聞かされるし。
寂しくて死んじゃいそうだったから」
「それは、その‥‥遊びで、誰かと‥‥ということか」
「その場限りで、ということです。
相手や回数も、言った方がいいですか?」
僕は愕然とした。
この3年間、彼女には毎日必ずメールを送って返事も貰っていたのだ。
大学が遠くになって、たまにしか会えなくても、それなりに繋がっているつもりだった。
寂しいとか、つらいとか、そんなことが彼女の通信に入っていたことは一度もなかった。
なんでだ?
頭痛がし始めた。
「どのみち好きでもない相手で埋めなきゃならないなら、何故僕に言ってくれなかったんだ!!」
「卓さんをお遊びの犠牲に出来るわけないじゃないですか。
中途半端が嫌いな人だって、ちゃんとわかってるんです。
そこにたどり着くのは、ホントに最後じゃないと」
「最後?」
「長い旅をして、おしまいにたどり着くべき場所です。
行くか行かないかはともかく、途中じゃダメなんです。
卓さん、自分がラスボスキャラだって自覚ないんですか?」
「ら、ラスボス‥‥?」
「大魔王です!!」
何がなんだかわからない。 これは女の理屈というやつか?
さっぱり理解は出来ないが、一つわかったことがあった。
僕が無邪気に好きだ好きだと繰り返したことが、彼女をとんでもなく追い詰める結果になったのだということだ。
僕があまりにも「いい人」でいすぎたために、その恋人の立場は雲の上までせり上がってしまった。
「あたし、何にも考えずに卓さんの恋人になれるんなら、とっくにそうしてます!」
僕は息を呑んで、キンギョちゃんの高潮した顔を凝視した。
柘植が言ってた恋人になりたい相手とは、僕をさしているのか!
なんてことだ。僕は間抜けだった。
彼女は僕に負い目を持っている。
広瀬がまだ好きなこと。
兄との近親相姦のこと。
いけしゃあしゃあと僕の腕に飛び込むには、重すぎる枷をかけられている。
僕の真剣さが、彼女にはつらいのだ。
それに気づかず、容易に飛び込めない両手を広げて待っていた。
とんだ馬鹿野郎だ、緑川 卓は。
「し、新歓コンパで魔が差してキスだけッ。
キンギョちゃん、嫌がらなかったし‥‥わ。
う、ウソじゃないって、痛ッ、痛い痛い痛い!!」
後ろに回した腕を思い切りひねられて、羽賀は普段より2オクターブも高い声を出した。
祝勝会の宴席で、みんな既にしたたか飲んでいる。
座敷に羽賀を組み敷いたまま、僕はもう一杯焼酎を空けた。
「ふうん、4月早々とは、ずいぶん手が早いじゃないか」
「酔ッ、酔った勢いだって、いてててて。
やめろ、折れる折れる折れる!」
羽賀が畳を叩いて苦しがる。
普通は誰か止めそうなものだが、先生も室井も相当飲んでいて、笑ってばかりで助けない。
柘植はキンギョちゃんが帰るや否や、姿を消したらしい。
「あの柘植ってヤツとはどうなんだ」
言いながら、焼酎をロックで一杯に満たす。
「あのヘロヘロ男、あの性格でキンギョちゃんに迫ったのか」
「つ、柘植はああ見えて、“ホートクテナー”の出なんだよ。
部内じゃ結構ハバを効かせてんだ、デデデデデ‥‥」
「宝珠徳進高校グリークラブか!」
「そそう、オレらが4位落ちした年に、全国制覇したチームだ。 とくにあそこのテノールは定評があるってテ、ああイテッ、よせ痛い! 俺のせいじゃねえーーー!!」
「もう3度高い声が出たら許してやる」
「あああああああ〜〜〜♪って、無理だあ!!」
羽賀をいじめても、それ以上収穫はなさそうだった。
席に戻って、飲みなおしにかかる。
「卓さんは、本当のあたしなんか嫌いだと思います」
「あたし、そんなきちんとした人間じゃないんです」
キンギョちゃんの言葉が頭の中で反響している。
僕に守られて、彼女は息苦しかったんだろうか。
同情されることに屈辱を感じていたんだろうか。
そうだ、彼女は誇り高い女の子だったじゃないか。
僕の同情にすがって生きるくらいなら、広瀬の2番目あたりでやって行けたんだ。
真ん中じゃないと嫌だと言ったあのプライドを、僕は美しいと思った。
“お父さん = ラスボス = 大魔王”
彼女の中の僕のイメージは、もともとそういうものだったのだ。
男性的な象徴であっても、恋の対象ではない。
そりゃ広瀬のようにフェロモン過多ではないが、もう少し何とかなっているものと思っていた。
ロックで飲んだって、少しも酔いが回らない。 溜め息をついたとき、室井が話しかけてきた。
「魔王。 ……魔王は、あーやが好きなんですね」
この子も結構飲んでるはずだ。 眼がとろんとして眠そうだ。
返事をするのが面倒で、僕はグラスの底をにらんだ。
「ね。 魔王に教えてあげましょうか。
あーやの秘密、知りたくないですか?」
無視しているのににじり寄ってきて、室井は更に囁いた。
「秘密?」
「“三人魔王”のCD一枚で手をうちますよ!」
「何のことだ」
室井はうるんだ瞳を輝かせた。
「以前、あーやは低音パートの人にも交際申し込まれたんですけどソッコー断ったんです。
あたしと一緒にいるとき、バスの人がお茶に誘っても即答でノーでした。
無意識なんでしょうけど、全然態度が違うんですよ。 鼻も引っ掛けないって感じ」
「どういうことかよくわからんな」
「そのバスの人たち、話す声もモロ低音で、ズシンと来るんです。 それが嫌なんじゃないかって。
バスの中でも高めの声の人には、もう少しフレンドリーなんです。 学食で一緒にお弁当食べてたりもします」
「そんな差別をする子じゃないだろう」
「だーから、無意識なんですってばぁ」
室井が笑った。笑うといかにも酔っ払いだ。
「逆にイイ線行った人はどうかって考えて見ましょうか。
羽賀先輩も、柘植っちもテノールですよね。
私は会った事ないけど、例の“れん”ってオトコは、どうだったんですか?」
「広瀬は合唱をやってないが」
くだらないと思いながら、つい考えてしまった。
「確か、しゃべる声はテノールか、バリトンか‥‥」
「境界線上でしょっ?」
嬉々として、室井が言った。
「そういえば、羽賀もテノールにしては低めだな」
「実は柘植っちもそーなんですよね!」
「ライン際か」
「魔王は!?」
ギョッとした。
僕の声は。
歌のパートはテノールだが、しゃべると低い。 ライン際よりもっと低い。
バリトンの中音部だ。
「ばかばかしい、ただの偶然だろう」
吐き捨ててグラスに氷を放り込んだ。 内心は穏やかじゃなかった。
キンギョちゃんのようにしっかりした女の子が、声の高さなんて動物的な基準で相手をチョイスしているなんて、俄かには信じがたい。
心臓の音が早まっている。