(4)
「せんぱいっ」
夢の中から呼ばれたような気がした。
客席から小さな影が、転びかねない勢いで駆け下りて来て、ステージに走り寄った。
(キンギョちゃん‥‥)
小柄な彼女は、ステージにようやく首から上だけ出して、手の中の物をこっちに差し出した。
僕は立ち上がり、それを受け取った。
ポケットティッシュと、カットバンだ。
会場にざわめきが起こっていた。 客席からは、僕が何故トラブッているのか解らないのだ。
係員が幕間から出て来ようとするのを、手を上げて止めた。
「ありがとう、助かった」
ティッシュで血をぬぐってカットバンを貼る。
少々邪魔でも、この際は仕方ない。
「先輩頑張ってくださいね。 あッ、間違えた‥‥」
キンギョちゃんはチロリと舌を出して、訂正した。
「スグルさん」
まったく、この子は。
こんな時に、そんなこと気にしなくていいのに。
客席に戻って行く彼女の後姿を見ながら、苦笑した。
愛しさがあふれ出す。
ピアノの前に座って、まず鍵盤の血を拭き取った。
それから2回、大きな呼吸をした。
意識が澄み渡って、透明になるのを感じた。
僕が彼女を好きなのは、少しも間違ってない。 好きになって当たり前じゃないか。
文句があるヤツは、勝負してやる。
最初の和音を、情感を込めて弾き降ろした。
傷は少しも痛まなかった。
メロディに乗せて、自分の思考に没頭した。
人を好きになる。
理由なんてない。
ピアノを表現するのと同じだ。
言葉で言えるものを、ひとつひとつ取り除いて行く。
最後に残った物が、本物の心だ。
鍵盤に込めた音は、作る端から消えて行く。
全部消えた後にも、何かが残るだろう。
理由なんていらない。
名前も必要ではない。
何を盛り込んで弾いているか、自分で解る意味もない。
音は、届く。
心は、広がる。
思いは、はばたく。
音色は、響く。
さあ、聞いてくれ。
これが僕の中身だ。
とてつもなく大きな、名前のない「何か」だ。
弾き終わった途端、会場からほおッと、吐息のような妙な気配が伝わった。
それから割れるような拍手が起こった。
立ち上がってお辞儀をする。
僕は、自分がどんな演奏をしたのか覚えてなかった。
目立ったミスタッチがゼロだったのはわかっていたが、音の記憶がない。
客席の沸きようが意外で、ステージを退出する時は呆然としていた。
舞台裏で、ヤンババ和音が、僕をギッとにらみ付けた。
荷物を取ってロビーまで戻って来ると、赤い扉から戸隠先生が飛び出して来た。
僕の尻をバシバシ叩いて、上機嫌で叫んだ。
「完璧! 完璧じゃった!
スグルがあんな弾き方をするのを初めて見たぞ。 このドーピング野郎!!」
「し、してませんって、ドーピングは‥‥」
苦笑いしたところへ、今度は羽賀が飛び出して来た。
「♪ドーピング! ドーピング!
舞台で堂々と、ドーピング♪」
小さく手拍子してはやし立てるのを、頭をはたいて止めた。
一緒に出て来たキンギョちゃんが、少し複雑な表情でそれを見ていた。
「おまけに、お前の後で演奏した今川和音がガタガタでな。 ミスを連発して、結局一回中断したあと、戻り弾きをやったんだ。
こうなると順位もわからんぞお」
先生は心底楽しげにプログラムを広げ、僕の順位を予想し始めた。
結果が出たのは午後3時。
僕は表彰台に上がることが出来た。 大健闘の3位だった。
今川和音は、努力賞にも名前が挙がらず、ステージから見ても解るくらい派手に泣き崩れていた。
僕にはあそこまでの情熱も意地もない。
声楽の大会なら当然入れ込むのだが、今の僕にとってピアノは趣味だ。
申し訳なく思った。
羽賀が祝勝会を提案していたが、キンギョちゃんが今日は帰ると言い出した。
僕はさっきからなんだか彼女の様子がおかしいような気がしていたので、心配になった。
彼女の後を追うようにあわてて客席を後にしたその時、いきなりの怒号に飛び上がった。
「ちょっと!謝りなさいよ!
あんたのことよ、ミドリカワ!!」
振り向くと、今川和音が血相変えて仁王立ちになっていた。
「あんたねえ、椅子のレバーを血だらけにして行くって、どういうつもり?
あっという間に手が真赤になったわよ。
マナー違反だわ、訴えてやる!!」
そう言えば、忘れていた。
鍵盤を拭くだけで精一杯で、椅子のことは思い出しもしなかった。
道理で、ヤンババ和音がミスったわけだ。 こっちはあらかじめ知識があったが、彼女にはなかったのだからあわてて当然だ。
悪いことをした。
ホントに僕は戸隠先生の言うとおり「椅子に爆弾を仕掛けて1位の子を抹殺」してしまったのだ!
「いやこれは申し訳ありませんでした」
とにかく頭を下げようと思った。 口調も思いっきり選んだ。
「今さらとは思いますが、お詫びを申し上げます。
気付かずしたとは言え、他人の演奏を妨げたのですから大変なことです。
これから本部へ一緒に来ていただければ、その由をお伝えして僕の入賞は取り消して頂きましょう」
ヤンババは、えっと叫んで口を開け、僕の顔を胡散臭げに見直した。
「そこまでしろと言ってるわけじゃ‥‥」
弱気な口調になる。
「おい、そういうことは会場整備として主催者側の責任になるんじゃないのか」
羽賀が助け舟を出してくれたが、僕が遮った。
「どう扱われるかはともかく、連絡はしないとな。
ちょっと本部へ行ってくる」
「やめてよ! いらないわよ、一言言いたかっただけだし」
ヤンババがあわてて事を取り下げた。
結局、ヤンババのスカートに血の染みを発見した僕が、クリーニング代としてささやかな金額を渡し、それで収まりが付いた形になった。
「そこまですることはないのに。
血で滑って弾けなかったと言うんならともかくさ。 失敗したのは本人の心の弱さってもんだろ」
羽賀がぶつぶつ言ったが、僕は償いが出来てほっとしていた。
それは、まぐれで手の届かない賞をかっさらってしまったことへの償いかもしれなかった。
キンギョちゃんを送って一緒に帰る、と言うと、羽賀と室井の猛反対に会った。
仕方ないので、一旦送ってから、僕だけ戻って合流する約束をした。
ふたりで駅まで歩いた。
さっきから悪い予感がし続けている。
キンギョちゃんは、演奏が終ってから、僕に口をきいていない。
彼女の性格上、「一人で帰れますから皆さんと打ち上げして下さい」くらいに遠慮しそうなシーンもあったのに、その様子もない。
表情を見ても、明るい話があるとは思えなかった。
まだ明るい町並みに、車の流れが賑やかだ。
キンギョちゃんは暗い表情で、ふっと僕を見上げた。
「卓さん。 ‥‥これっきりにしちゃ、いけませんか」
悪夢の台詞を吐き出した。