(3)
開演のブザーが鳴った。
「じゃあ頑張ってください」
「鼻血は出すなよ」
めいめいがちぐはぐなことを言いながら、客席に戻って行ったあと。
ロビーから直接楽屋に行こうと立ち上がった僕に、
「あの‥‥あのう、すみません」
例のオドオドした男が声をかけて来た。
戸隠先生の姿を探すと、ロビーにいた知り合いらしき老人と話し込んでいる。
「なんですか」
男に向き直る。 相手はおずおずと切り出した。
「ええあの、僕は金魚さんと同じ合唱部の人間で、柘植と言います」
「はあ、つげくんね。それで?」
「み、緑川さんは、金魚さんの先輩だとお聞きしましたが」
「そうです」
「その‥‥それだけですか」
「‥‥他に何かなきゃ、いけませんかね?」
「そ、そういうわけじゃなくて。
あのですね、金魚さんに今、恋人とか、そういう人はいないのかって」
なんでそんな持って回った言い方をするんだ!?
僕はいらいらして、あからさまな溜め息をついた。
「あんた、何が言いたいんだ?
彼女に恋人がいるかどうかなんて、本人に直接聞いたらいいじゃないか」
「いえ、は、はい。 き、聞いたんです。
そしたら、恋人になりたい相手はいる、って」
「なりたい相手?」
「つまりは片思いの相手ってことでしょう?
それで、あの、僕はそれがあなたかと思って、室井さんに頼んで今日、あなたに会いに来たんです」
「僕は違う。こっちがアタックしてるんだ」
「で、でも、だったら一体誰なんでしょう?
羽賀先輩に聞いても、『オレだったらイーけど、多分違うね』としか」
「そんなこと知ってどうするんだ。
相手がわかったところで、自分の立場は変わらないだろう」
「だって‥‥知りたいと思わないですか?」
知りたいさ、当たり前だ。
でもそんな本音のつぶやきを、このナメクジ男に聞かせてやる気はさらさらなかった。
キンギョちゃんが広瀬という男に失恋したのは、3年以上も前のことだ。
しかも納得して身を引いた形だった。
もしも広瀬が相手なら「忘れられない相手」とは言っても、「恋人になりたい」とは言わないだろう。
頭痛を感じて、目を閉じた。
ああいう娘が、一番始末が悪いのだ。 適当に遊んでいる子なら察しがつく事が、彼女にはわからない。 自分が男を惑わしているという自覚がない。
誰にでも愛想よくするから、見ろ。
この場に3人も被害者が出てるじゃないか。
僕には一つの後悔があった。
以前、キンギョちゃんのことを心配するあまり、彼女を傷つけてしまったことがあるのだ。
彼女は実のお兄さんと兄弟以上の関係があった。
それを僕が知ってしまったのは単なる偶然であって、彼女が打ち明けてくれたからでも相談に乗ったからでもない。 だのに僕はそれに勝手にアドバイスをしようとし、勝手に彼女を助けようとして拒絶された。
閉ざした扉をこじ開けようとして、目の前で雨戸まで閉められてしまったのだ。
閉ざされたドアの中には、今でも彼女と彼女の兄の禁断の記憶が封じられている。
その固い檻の前で、僕は成すすべもなくただ立ち尽くしていただけだった。
あの時のような失敗は2度としたくない。 彼女が扉を開けてくれるまで、せめて外に出て来てそれを語ってくれるまで、信じて待つのだ。
こんなぽっと出の坊やなんかには負けられない思いが、僕の胸の中にはあるのだった。
「楽屋を使われますか?」
ステージ裏の廊下で、係員に聞かれた。
「いや、ロッカーだけで」
「どうぞ。一番の練習室、10分使用できます」
廊下のロッカーに手回り品を突っ込んで、練習室に入った。
小さな防音室にアップライトの古びたピアノが一台。 傍らの椅子には係員らしい中年の女性が、腕時計をにらんで座っている。
ピアノも声楽と一緒で、ウォーミングアップなしで本番に臨むと、指がもつれてうまく弾けない。 直前に指を動かして整えるための練習時間だ。
僕は、緩んでキシキシする鍵盤に指を走らせ、一回ゆっくり弾き流した。
終って小さく舌打ちした。
やはりカットバンが邪魔でいらいらする。 単純な曲なら気にならない場所だが、今回はショパンだから、黒鍵だらけでミスタッチが出やすい。
少し迷ったが、意を決してカットバンをはがしてみた。
一応、出血は止まっていた。 傷口は結構深く、ぱっくり開いている。
薬指で鍵盤を叩いてみた。
痛みはさほどなかった。
そのまま時間一杯まで練習した。
出血がなかったので、ほっとして練習室をあとにした。
再び、係員に連れられて、今度はステージのすぐ裏に出た。
演奏中のピアノ曲は、リスト“森のささやき”
なんというか、力任せのリストだ。これじゃ“岩の叫び”だ。 相当気負っている。
コンクールではよくこういう輩が登場する。 筋肉ががちがちになって、腕で弾いてる感じだ。
あがったら、ああなる。
僕は深呼吸をした。
岩のリストが終盤近くなった頃、僕の後ろに痩せぎすの女が案内されて来て、並んだ。
「まだ時間がありますから、お静かにお願いします」
係員に釘を刺すようにいい聞かされて、不遜なうなずき方をしていた。
なるほど、これが今川和音か。
なかなか激しそうなヤンババだ。
拍手に送られて、前の演奏者が退場してきた。
高校生位の女の子だった。 身長が140cmくらいしかない。
これは椅子の座板がかなり上に上がってるぞ。
アナウンスの声が、会場に広がった。
「エントリーナンバー32番。緑川 卓。
曲目はショパン エチュードОp10‐8」
拍手の中を登場して、正面で礼をする。
こういうコンクールは、出場者と応援者と関係者ぐらいしか来ていないので、客席の埋まり具合は半分以下だ。
それでも拍手が終ってピアノに向かう瞬間、これだけの人数に注目されると緊張する。
その時に椅子の高さを調節しなければならないのが、結構つらいのだ。
案の定、座板は相当上の位置にあった。 これを一番下まで下げなければ、僕の身長には合わない。
観客に集中した視線を浴びせられて、ついあせったのがまずかった。
レバーをつまんで思い切りぐんと板を下げた。
ブツンと、鈍い音がした。
何が起こったか、わからなかった。
腰掛けて鍵盤に指を置いた。
そして気づいた。 今のは傷口が開いた音だ。
すでに右手の一部が真赤だった。
鍵盤に血が垂れ始めている。
拭き取るにも、荷物はロッカーの中だ。
頭の中が、真っ白になった。




