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3人魔王  作者: 友野久遠
3/7

(3)

 開演のブザーが鳴った。

 「じゃあ頑張ってください」

 「鼻血は出すなよ」

 めいめいがちぐはぐなことを言いながら、客席に戻って行ったあと。

 ロビーから直接楽屋に行こうと立ち上がった僕に、

 「あの‥‥あのう、すみません」

 例のオドオドした男が声をかけて来た。


 戸隠先生の姿を探すと、ロビーにいた知り合いらしき老人と話し込んでいる。

 「なんですか」

 男に向き直る。 相手はおずおずと切り出した。


 「ええあの、僕は金魚(かなを)さんと同じ合唱部の人間で、柘植(つげ)と言います」

 「はあ、つげくんね。それで?」

 「み、緑川さんは、金魚さんの先輩だとお聞きしましたが」

 「そうです」

 「その‥‥それだけですか」

 「‥‥他に何かなきゃ、いけませんかね?」

 

 「そ、そういうわけじゃなくて。

  あのですね、金魚さんに今、恋人とか、そういう人はいないのかって」

 なんでそんな持って回った言い方をするんだ!?

 僕はいらいらして、あからさまな溜め息をついた。


 「あんた、何が言いたいんだ?

  彼女に恋人がいるかどうかなんて、本人に直接聞いたらいいじゃないか」

 「いえ、は、はい。 き、聞いたんです。

  そしたら、恋人になりたい相手はいる、って」

 「なりたい相手?」

 「つまりは片思いの相手ってことでしょう?

  それで、あの、僕はそれがあなたかと思って、室井さんに頼んで今日、あなたに会いに来たんです」

 「僕は違う。こっちがアタックしてるんだ」

 「で、でも、だったら一体誰なんでしょう?

  羽賀先輩に聞いても、『オレだったらイーけど、多分違うね』としか」

 「そんなこと知ってどうするんだ。

  相手がわかったところで、自分の立場は変わらないだろう」

 「だって‥‥知りたいと思わないですか?」


 知りたいさ、当たり前だ。

 でもそんな本音のつぶやきを、このナメクジ男に聞かせてやる気はさらさらなかった。

 

 キンギョちゃんが広瀬という男に失恋したのは、3年以上も前のことだ。

 しかも納得して身を引いた形だった。

 もしも広瀬が相手なら「忘れられない相手」とは言っても、「恋人になりたい」とは言わないだろう。


 頭痛を感じて、目を閉じた。

 ああいう娘が、一番始末が悪いのだ。 適当に遊んでいる子なら察しがつく事が、彼女にはわからない。 自分が男を惑わしているという自覚がない。

 

 誰にでも愛想よくするから、見ろ。

 この場に3人も被害者が出てるじゃないか。


 僕には一つの後悔があった。

 以前、キンギョちゃんのことを心配するあまり、彼女を傷つけてしまったことがあるのだ。

 彼女は実のお兄さんと兄弟以上の関係があった。

 それを僕が知ってしまったのは単なる偶然であって、彼女が打ち明けてくれたからでも相談に乗ったからでもない。 だのに僕はそれに勝手にアドバイスをしようとし、勝手に彼女を助けようとして拒絶された。

 

 閉ざした扉をこじ開けようとして、目の前で雨戸まで閉められてしまったのだ。

 閉ざされたドアの中には、今でも彼女と彼女の兄の禁断の記憶が封じられている。

 その固い檻の前で、僕は成すすべもなくただ立ち尽くしていただけだった。

 あの時のような失敗は2度としたくない。 彼女が扉を開けてくれるまで、せめて外に出て来てそれを語ってくれるまで、信じて待つのだ。

 

 こんなぽっと出の坊やなんかには負けられない思いが、僕の胸の中にはあるのだった。



 「楽屋を使われますか?」

 ステージ裏の廊下で、係員に聞かれた。

 「いや、ロッカーだけで」

 「どうぞ。一番の練習室、10分使用できます」

 

 廊下のロッカーに手回り品を突っ込んで、練習室に入った。

 小さな防音室にアップライトの古びたピアノが一台。 傍らの椅子には係員らしい中年の女性が、腕時計をにらんで座っている。


 ピアノも声楽と一緒で、ウォーミングアップなしで本番に臨むと、指がもつれてうまく弾けない。 直前に指を動かして整えるための練習時間だ。

 僕は、緩んでキシキシする鍵盤に指を走らせ、一回ゆっくり弾き流した。


 終って小さく舌打ちした。

 やはりカットバンが邪魔でいらいらする。 単純な曲なら気にならない場所だが、今回はショパンだから、黒鍵だらけでミスタッチが出やすい。

 少し迷ったが、意を決してカットバンをはがしてみた。

 一応、出血は止まっていた。 傷口は結構深く、ぱっくり開いている。

 薬指で鍵盤を叩いてみた。

 痛みはさほどなかった。


 そのまま時間一杯まで練習した。

 出血がなかったので、ほっとして練習室をあとにした。


 再び、係員に連れられて、今度はステージのすぐ裏に出た。

 演奏中のピアノ曲は、リスト“森のささやき”

 なんというか、力任せのリストだ。これじゃ“岩の叫び”だ。 相当気負っている。


 コンクールではよくこういう輩が登場する。 筋肉ががちがちになって、腕で弾いてる感じだ。

 あがったら、ああなる。

 僕は深呼吸をした。


 岩のリストが終盤近くなった頃、僕の後ろに痩せぎすの女が案内されて来て、並んだ。

 「まだ時間がありますから、お静かにお願いします」

 係員に釘を刺すようにいい聞かされて、不遜なうなずき方をしていた。

 なるほど、これが今川和音か。

 なかなか激しそうなヤンババだ。


 拍手に送られて、前の演奏者が退場してきた。

 高校生位の女の子だった。 身長が140cmくらいしかない。

 これは椅子の座板がかなり上に上がってるぞ。



 アナウンスの声が、会場に広がった。

 「エントリーナンバー32番。緑川 卓。

  曲目はショパン エチュードОp10‐8」

 

 拍手の中を登場して、正面で礼をする。

 こういうコンクールは、出場者と応援者と関係者ぐらいしか来ていないので、客席の埋まり具合は半分以下だ。

 それでも拍手が終ってピアノに向かう瞬間、これだけの人数に注目されると緊張する。

 

 その時に椅子の高さを調節しなければならないのが、結構つらいのだ。

 案の定、座板は相当上の位置にあった。 これを一番下まで下げなければ、僕の身長には合わない。

 観客に集中した視線を浴びせられて、ついあせったのがまずかった。

 レバーをつまんで思い切りぐんと板を下げた。

 

 ブツンと、鈍い音がした。

 

 何が起こったか、わからなかった。

 腰掛けて鍵盤に指を置いた。

 そして気づいた。 今のは傷口が開いた音だ。

 すでに右手の一部が真赤だった。

 鍵盤に血が垂れ始めている。

 拭き取るにも、荷物はロッカーの中だ。


 頭の中が、真っ白になった。



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