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このお話は、初め「ビョーキえっち」の付録として掲載したモノを、後日「続編」を立ち上げる際に短編として独立させたものです。
「ビョーキえっち」本編の続編を編集するに伴いまして、こちらの記述にも一部直しが入っております。悪しからずご了承くださいませ。
窓から降り注ぐ日の光が、美しい縞を作って降りてくる。 その光が、プールの水面に青い網目を作っている。
水の網の中をゆっくり泳いで行くと、囚われた魚のような気分だ。
クロールで10往復。 平泳ぎで10往復。
できるだけゆっくり、ゆったりと泳ぐ。
呼吸器の強化が第一目的なので、急いでも意味がない。
僕の場合、パワーは手足ではなく、腹筋背筋に欲しいのだ。
授業の空き時間、平均週3回を目標に、このスポーツセンターに通っているのはそういうわけだ。
戸隠先生あたりに言わせると、
「そんな暇あったら、ピアノの練習をせんかい!」となるのだが、将来を賭けるつもりのないことで、日常のペースを崩すほど練習するつもりは、僕の方にはない。
例え明日が、ピアノコンクール当日であろうとだ。
「きみ、体力あるね。何かやってるの?」
ロッカールームで、中年の男に声をかけられた。
さっきやたらと気負ったバタフライで、プールの水を減らしていたヤツだ。
手足の筋肉は隆々。 なのに腹はまん丸にメタボっている。
ムキになって鍛えて、呼吸を忘れるタイプだろう。
「別に、運動はここでしかしてませんよ」
僕が返事をすると、男は面食らったように目をしばたたかせた。
顔から想像した声と違ったと言うんだろう。
まあ、この声に驚かれるのには慣れている。
「スポーツマンに見えるがねえ。学生サンかね」
「大学生です、今年卒業ですが」
「ほう。就職は決まってんのかい?」
「いえ、まだ少し勉強します」
いい加減めんどくさくなって来た。
こんな田舎にしてはいい設備のスポーツセンターが大学の近くにあるので、気に入って通って3年経つが、人口が少ないせいか、大人がやたらと暇そうに擦り寄って来るのに閉口する。
「大変だねえ、就職、いまはどこも難しいよね。
どういう方面に進むんだい?」
「声楽家になるんです」
こう言うと、大抵の人が言葉をつなぐのに困るらしく、ちょっと固まる。
さあ、世間話できるならやってみろ。
タオルを畳もうとして、へんな染みがあるのに気がついた。
赤い染みだ。
よく見ると、荷物やロッカーのドアにも付いているじゃないか。
原因は右手の薬指の内側にある、小さな傷だった。
どこでついたものかは覚えてない。 プールで泳いでいると、皮膚がふやけて些細なことでも怪我をするのだ。
「ピアノ弾きたきゃ、泳ぐな!」
先生によく叱られるのだ。
まずいな、明日ばれない様にしないと。
指先じゃないから、さほどプレーには影響しないだろうが、雑菌には注意だな。
建物を出たところで、携帯が鳴り出した。
「金魚 綾姫」と画面に表示されている。
だのに出た途端、耳をつんざくような黄色い声。
「ぎゃあああ、魔王だ魔王だ!!
あーやのバカ! 今なら留守電だって言ったじゃん!」
誰だ、このけたたましい女は。
「もしもし、緑川先輩ごめんなさい、あたしです」
電話を奪いとったらしく、息を弾ませて、キンギョちゃんの声がした。
「すみません、今のは大学の友達の室井さんです。
先日の大学祭で、先輩の“3人魔王”のステージを見せたら、ファンになっちゃって。
あたしがプール中に留守電入れとこうとしてたら、無理やり横から。
お騒がせしました」
ゴメンなさい、と可愛い声で謝られると怒れない。
僕の4年越しの片思いの相手だ。
高校時代は僕の後輩として合唱部で頑張っていた子だが、音大には行かず、家から通える地元の大学に入った。 その大学で合唱部に入り、あくまで趣味の範囲だが、元気いっぱい頑張っている。
ものすごい美人でも、とびきりスタイルがいいわけでもないとこがいい。
体のでかい僕から見たら子供みたいに小柄だ。
でもそこからいつも大きなパワーを取り出してくる。
人の中に溶け込む。 いつも笑っている。 そして時々、きらりと光る。
女の品格ここにあり、という気がする。
おかげで少しも頭が上がらない。
「謝らなくていいから、いいかげん直してくれないか。
部長とか先輩とか、他人行儀な呼び方はせずに名前で、と頼んだじゃないか」
僕が不平を鳴らすと、
「そうでしたね。つい、癖で」
声に笑いが含まれている。
全然直す気ないんだな。
まあ僕のほうも、何度訂正されても「キンギョちゃん」をやめないのだから、偉そうに言えた義理ではないわけなんだが。
「まあいい。用件はなんだ?」
「明日のコンクール、頑張ってくださいって、言いたかったんです。
それで、室井さんと一緒に見に行くんですけど、楽屋に訪ねていったら入れてもらえますか、ってことなんですけど」
「楽屋っても、4人ぐらい入ってバタバタ着替えてるからなあ」
「ダメですか? お花くらい届けたいね、って話してたんですけど」
「花束なんか恥ずかしいからいいけど、顔を見に来てくれるなら楽屋入りの前に会えるよ。
今回、出順が後半だからな」
「あ、そうなんですね。
じゃ、会場に9時半には入ってますから、電話ください」
「ありがとう」
「それじゃ」
「あ、ちょっと待って」
僕は携帯を握りなおし、姿勢を正した。
「キンギョちゃんそろそろ、真剣に考えてくれないか」
通算17回めの口説きにかかる。
「卒業して、その先はまだ決まってないが、どのみち声楽で食べてくつもりだ。
地元でちまちまやるのは不可能だ。
そうなってからじゃ、滅多にデートもできなくなる。 今のこの時間が惜しいんだ。
何度でも言う。
何度でも頼む。
僕とステディな付き合いをしてくれないか。
こういう友達としてじゃ、なくてだ」
相手がちょっと沈黙した。
くふんと小さく鼻を鳴らして、困っている。
「あの‥‥先輩‥‥」
「名前でと言ったぞ」
「卓さん」
お。今日は素直だな。
「あたし、せん‥‥卓さんの事は、尊敬してます。
こんなにすごい人とは、もう一生めぐり合えないかもって思います」
「‥‥それで?」
「でも、付き合うと言ったらなんかその‥‥。
‥‥お父さんとかと、交際するみたいで」
一瞬、目の前で火山が噴火した。
溶岩が、火山灰が、嵐のように降ってきた。
視界が赤くなり暗くなり、耳の中ではテレビの深夜の砂嵐の音。
父親! 父親だって!?
僕の心はローラーでつぶされたみたいにペシャンコになってしまった。
今まで断られた、どんな台詞よりもひどかった。
つまり、彼女の目には僕の長所や魅力がきちんと見えてはいるわけで。
その上で、それが自分の恋愛対象に当てはまらないと判断した、と言うことなのだ。
こうなると、もう何を武器に切り込めばいいかもわからないじゃないか。
くそ。
緑川 卓、ここで玉砕か!?
「3人魔王」は、シューベルトの「魔王」の改訂版だ。
大学祭は、少々不真面目な企画をやっても許されるので、やんちゃな企画として僕が提案した。
といっても、音楽自体をおちゃらけた物にするわけではない。
単に「パロディチックにやりたい」というだけのことだ。
普通、クラシックを「いじる」ことは許されない。
そこを、ちょっとふざけてもいいかしら、と言って改訂版にしたというわけだ。
シューベルトの「魔王」。
嵐の中を馬で走る父親の腕から、魔王が息子を奪い取って黄泉に連れて行く話だ。
普通は、ひとりの男性歌手が、子供、魔王、父親の3人を演じ分ける。
その意外性と緊張感が、ホラー短編を読むようなゾクゾクした面白さを生んでいる。
僕らはこれをわざわざ、3人の歌手が分業で歌う形にした。
子供を、アルトの女性。 魔王をテノール、父親をバリトンのそれぞれ男性に。
もちろん途中で音の高さを変えなくてはいけない。
ピアノ譜から何から何まで全部書き換えた。
間がせわしなくならない様に、ポップスの挿入歌を入れたりしたので、だいぶ長いものになった。
そうして、演技力たっぷりに、子供の争奪戦オペラとして歌い上げたのだ。
客の受けは尋常じゃなかった。 一般にはわかりやすい音楽だったのだろう。
校長が喜んで、CDを出してくれた。
そのお祭り騒ぎの「三人魔王」で、僕は魔王のパートを歌った。
可愛い少年よ
こちらへ来て遊ばないか
虹色の花、千の草木
小鳥舞う夢の岸辺へ
誘惑者である魔王は、少しエロチックで、少しコミカルに演じた。
何故か女性の評判が良かった。
ところがどうだ。 彼女にとって、僕は「父親」だと。
これまで4年間、待って、待って、待ち続けた結果が。
彼女の信頼を得ようと、完璧な男らしさを崩さなかった結果が。
コンクールどころの話ではない。
僕は僕の「魔王」と父親の呪いにはまり込んでしまった。