第86話 境界の亡霊
深雪は給湯器から熱めのタオルを用意し、拘束台の側へ戻った。20時を過ぎた研究室には、電子の唸りに代わって、湿ったタオルの熱気だけが微かに漂っている。
まずは、顔からだった。
熱いタオルが、汗と皮脂にまみれた篠原の頬を覆う。深雪は事務的な手つきで、乱れた髪を掻き上げ、耳の裏から首筋、そして鎖骨の辺りにこびりついた「熱」を拭い去っていく。
続いて、タオルは豊かな起伏を滑り、腹部から脚へと降りた。そこには、2時間の死闘を物語る凄絶な痕跡が晒されていた。革ベルトが食い込んでいた手首や足首、そして胴回りには、どす黒いほどに鮮やかな拘束の跡が、真っ白な肌の上に浮き上がっている。深雪はその鬱血した跡を淡々と拭い、電解質ジェルのベタつきを取り除いていった。
次に、深雪は篠原の膝を割り、多点センサーが密集していた内腿を持ち上げた。そこには、125%の決壊を証明する、白濁した粘り気のある奔流の残滓が、汗とジェルに混じって生々しく張り付いている。
じゅ、と湿った音が静寂に響く。
熱いタオルで内腿から陰部にかけてを丹念に拭き上げる。つい先刻まで狂ったような収縮を繰り返していたその場所も、今はただ、熱を失った柔らかな肉として静まり返っている。濃厚に立ち昇る特有の匂いを避けることもせず、深雪は無機質な手つきで、汚された肉体を清めていった。
一通りの清拭を終えると、深雪は重く沈み込んだままの篠原に、自身の予備の白衣を無造作に掛けた。糊のきいた清潔な布地が、湿った肌を覆い隠す。
深雪はそのまま拘束台を囲むカーテンのレールに手をかけた。
シャッ、という硬い金属音が響き、篠原は明るい蛍光灯の下から、狭く、暗い、カーテンの檻の中へと隔離された。深夜、研究室の静寂を、乾いたキータッチの音だけが刻んでいく。
深雪は、青白く光るモニターの波形から目を離さぬまま、指を走らせた。
『治験事後解析ログ:被験体 S・M(非公開)』
【検証項目A:抑制反応の欠落】
100%閾値付近。……やはり、波形が凪のままだ。
本来観測されるべき「下振れ(自己防衛本能)」が完全に欠落している。
グラフ上では、脳内の抑制機能が一時的に消失していたと捉えるのが妥当。
【検証項目B:加速度の異常】
予測曲線を無視した垂直に近い立ち上がり。多点センサー起動前のベースライン上昇。
脳が外部刺激を「加速して迎えに行く」特殊な反応形態を示している。
――そこまで打ち込み、深雪の指が止まる。
脳外科医としての冷徹な論理が、次の言葉を急かす。
だが、その確信を裏付けるには、まだ足りない。
【総括と保留】
グラフ上では「抑制の喪失」と「加速の異常化」が顕著。
しかし、これを脳の恒常的な変質と断定するには、現時点では材料が不足している。
外部要因による「突発的エラー」の可能性を考慮すべきか。
1. 被験体(篠原委員長)の当日のコンディションによる特異な反応。
2. AS-09パッチの薬理作用が、予測を超えた異常な波形を擬似的に形成した可能性。
深雪は、一度強くバックスペースを叩いた。
画面上の「異常」という文字が消える。
【判断】
現象が「恒常的」か「突発的」かは不明。
不用意な告知は被験体に不要な混乱を招くリスクがある。
現状、篠原に対してこれを「脳の異常」として伝えるのは得策ではない。
――しばらくは「正常範囲内のデータ」として扱い、経過を観察する。
カタ、と最後の一打を終え、深雪は背もたれに体を預けた。
モニターの隅で点滅する赤い「125.0%」の数字。
確信はある。このレベルの焼き付きが、単なる一過性のエラーで終わるはずがない。
今は彼女を「正常」という名の檻に放流し、泳がせておけばいい。
この数値が本物ならば――彼女は必ず、自ら私の元へ戻ってくる。
深雪は「保存」を選択し、画面を閉じた。
研究室には再び、重苦しくも静謐な、観察者のための静寂が戻った。




