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ダンスが終わり、リリエットがそっと手を引くと、会場のざわめきが一層大きくなった。その視線の中心にいるのは――クラウディオだった。
「お兄様、最低!」
怒りに満ちた声が響いた。
クラウディオが驚いて振り向くと、そこにはセシルがいた。彼女の表情は普段の明るさとはかけ離れ、怒りと呆れが入り混じっていた。
「まさか、まさかとは思ったけど……本当にリリエットだって気づいてなかったの!? 間近でリリエットを見つめておいて気づかないなんて、どういうことなの?」
セシルの非難の言葉に、周囲の貴族たちはさらに騒ぎ始めた。クラウディオの背筋に、冷たい汗が流れる。
「待て、何を――」
「待つも何もあるか!」
今度はリリエットの兄、エドガーの低い怒声が飛んだ。
「お前、どれだけ妹のことを蔑ろにしてきたか分かってるのか? いつも冷たい態度を取っておいて、今夜になって別人と勘違いして言い寄るとは……これほど屈辱的なことがあるか?」
「……」
クラウディオの顔から血の気が引いた。
ゆっくりと、彼はリリエットに視線を戻した。
ワインレッドのドレス、ふわりと波打つ髪、気品ある佇まい。そして、どこか冷めたような瞳――。
それは、確かに彼の婚約者だった。
クラウディオは、ようやく自分のとんでもない勘違いに気づいた。
婚約者を見違えるほど、彼女の姿を認識していなかった。見ようともしなかった。
彼は、自分がリリエットを「知らない」ことを、今さらながら思い知った。
そして、ダンスの間に芽生えた不思議な感情――心を奪われるような感覚が、じわじわと自分を侵食していく。
彼女は美しかった。優雅で、芯のある態度で、目を離せなくなるほどに。
――ずっとそばにいたのに、どうして気づかなかった?
――どうして、こんなにも彼女を遠ざけていた?
クラウディオは、ようやく自分が婚約者を好きになったことを自覚した。
だが、同時に、これまでの自分の振る舞いを思い返し、青ざめた。
冷たい言葉。避けるような態度。婚約者でありながら、ただの義務のように扱ってきた日々。
そして今夜、婚約者を口説いておきながら、それが誰なのかすら気づかなかったという事実。
――取り返しのつかないことを、してしまったのではないか。
リリエットの目に、もう以前のような憧れは宿っていなかった。その事実が、クラウディオの胸をひどく締めつけた。
クラウディオはその場に立ち尽くしたまま、視線を落とした。これまでの自分の行いを振り返れば振り返るほど、心が冷えていく。
リリエットは、黙って彼を見ていた。いや、正確には、もう彼を「見つめて」すらいなかった。以前なら、どれほど冷たくあしらわれても彼の一挙一動に一喜一憂していたはずなのに。今の彼女は、まるで別の世界の住人のように、ただ静かにそこに立っているだけだった。
「……もういいわ、お兄様」
リリエットが小さく呟いた。
エドガーはまだ怒りを収めきれない様子だったが、彼女の言葉に僅かに肩の力を抜いた。セシルも同様だったが、納得がいかないように腕を組んでいる。
「リリエット、でも……」
「いいの。ただ、私の気持ちが……少し変わっただけ」
クラウディオの胸がひどくざわついた。その言葉が、彼の心を貫いた。
「……変わった?」
無意識に問い返すと、リリエットは僅かに微笑んだ。だが、それはどこか寂しさの混じったものだった。
「ええ。私はずっと、あなたが冷たいのは私に何か問題があるのだと思っていたの。でも、違ったのね。あなたはただ、私のことを見ていなかっただけ」
あまりにも静かな声音だった。責めるわけでもなく、怒るわけでもなく、ただ淡々と事実を告げるように。
「今日、それが分かったの」
リリエットは、もう一度だけ彼を見つめた。そして、ふっと息をつくと、ドレスの裾を軽く持ち上げ、優雅に会釈した。
「素敵なダンスをありがとうございました、ヴェステンベルク様」
彼女は、あえて「クラウディオ」とは呼ばなかった。
その瞬間、クラウディオは気づいた。
彼が彼女を遠ざけ続けたように、今度は彼女が距離を置こうとしているのだと。
――まさか、今になって、失うのか。
「リリエット……」
思わず彼女の名を呼んだが、その声は彼女に届かなかった。リリエットは踵を返し、セシルとともにその場を後にする。
背を向ける彼女の姿を、クラウディオはただ呆然と見送ることしかできなかった。
そして、初めて理解した。
自分が、たった今、婚約者を失いかけているのだということを。




