忘れられたラブレター
文字の力。それは人を表し、人を記録し、時には時代を超えて心をつなぐもの。
一枚の紙切れに記された想いは、風に消えゆく言葉とは違い、しっかりとした形を持ち、記憶の中で息づく。
書かれた文字は、書いた人の心の奥底を映し出し、時を越え、誰かの手に渡った瞬間に新たな命を吹き込まれる。
この物語は、ひとつの家族の中で静かに隠されていた、ある愛の手紙が見つかる瞬間から始まります。
無骨で寡黙な男が、思いを込めて綴った文章、そしてその文字がどのように受け取られ、時を超えて生き続けるのか。
鬱陶しかった蝉の鳴き声も遠くなり、日毎に増す涼しさが秋の訪れを感じさせる頃、僕は古びた日本家屋の和室で祖父の遺品整理をしていた。
この家は、父が生まれ育った場所であり、祖父と祖母が長年暮らしてきた家でもある。
畳の匂いが懐かしく漂うこの場所で、僕は祖母と一緒に、家中に散らばった思い出の品々をひとつひとつ手に取っては、その中に込められた祖父の記憶を辿っていた。
祖母と僕は、寝室にある祖父の本棚の整理を始めた。彼は生前、いつも難しい本を読み耽るような人だったから、棚には見慣れない古い書籍がぎっしりと詰まっている。すると、一番上の列の左端から、ちょうど文庫本ほどの大きさの木箱が見つかった。
「おばあちゃん、これ何?」
「まあ、何かしらね。私も見たことないわ。ちょっと開けてみて。」
その木箱はずっと開けられていなかったのか、ぴったりと張り付いていて蓋を開けるのに少し手こずった。
みしみしと音がして壊れてしまいそうで少し怖かったけれど、やがてぱこっと音を立てて蓋が外れた。
中からは数枚の折りたたまれた紙が出てきた。
黄ばんでいて、くすんだインクでびっしりと文字が書かれている。
それらを慎重に広げてみると、達筆で書かれた文字の数々は、まるで別の時代からの手紙のようだった。
「何だろう、これ?」
「まあまあ、あの人ったらこんなところに隠していたのね」
祖母が手元の手紙を覗き込むと、思いがけず優しい笑顔を浮かべた。
「なにそれ?ばあちゃん?」
「これね…おじいちゃんからのラブレターなの」
その言葉を聞いた瞬間、僕は言葉を失った。
祖父が、ラブレター? 僕の知っている祖父は、とても寡黙で、あまり感情を表に出さない人だった。いつも難しそうな本を読み、何を考えているのか分からない。
そんな祖父がラブレターを書いていたなんて、想像もできなかった。
「えぇっ!ラブレターって、あのラブレター?」
「そうよ、そんなに驚かないで。何もおかしくはないじゃない」
「だって、あのおじいちゃんだよ?」
「ふふふ、そうよ、あのおじいちゃん」
祖母は手紙を大事そうに手に取りながら、少し遠い目をして話し始めた。
「おじいちゃんはね、若い頃からああだったの。口数が少なくて、思いを言葉にするのが苦手な人。でも、この手紙は、あの人が私に初めて想いを伝えてくれたものなの」
僕はその話に聞き入っていた。祖父の別の一面を知ることができるなんて、想像もしていなかったからだ。
「それって…おじいちゃんたちがまだ付き合う前のやつってこと?」
「そうよ。おじいちゃんとはね、戦後の混乱の中で知り合ったの。あの頃はみんな必死で生きていたから、そんな余裕はなかったわ。でもね、あの人はいつも私に会いに来てくれていたのよ」
祖母の話を聞きながら、僕はその時代の光景を思い浮かべた。
祖父が照れながら、祖母に手紙を渡す姿。
家の外れで、まるで何か特別なものを渡すようにそっと手渡す瞬間を。
「おじいちゃん、手紙を書くのが得意だったの?」
「いいえ、まったく。むしろ苦手だったと思うわ。だけど、この手紙だけは、すごく一生懸命に書いてくれたの。初めてこの手紙をもらったとき、私は本当に嬉しかったの。だって、あの人の不器用で確かな愛情が感じられたから。」
祖母の言葉に、僕は少し不思議な気持ちになった。祖父のことを少しだけ誤解していたのかもしれないと思った。
「手紙には、何て書いてあったの?」
「いろいろなことが書いてあったわ。ある日は、仕事の合間に見た小さな花のこと、その美しさに驚いたこと。ある日は、君の笑顔がどれだけ自分を元気にしてくれるか…そんなことが、日々の出来事と共に綴られていたの」
祖母の目が、涙で潤んでいるのがわかった。僕はその優しい瞳の中に、祖父との思い出が蘇ってくるのを感じた。
「でも、最後の手紙にはね…」
祖母は笑顔を浮かべながら続けた。
「『きっと君を幸せにする』って書いてあったのよ。それを読んだ時、どれだけ嬉しかったか。今でも覚えているわ」
僕は少し驚いて、でも暖かい気持ちになった。
祖父は、確かに寡黙で難しい人だったけど、その中には深い愛情があったのだ。
「おばあちゃん、おじいちゃんがどんな人だったのか、もっと教えてよ」
「そうねぇ…」
祖母は微笑みながら手紙をそっと撫でた。
「あの人は、いつも不器用で…だけど、本当に優しい人だったの。結婚してからも、愛情を言葉で伝えるのは苦手だったけど、代わりにその気持ちを行動で示してくれたわ。昔、私が熱を出した夜、何も言わずに家を飛び出していったと思ったら、しばらくして薬を手に、雨に濡れながら帰ってきたの。しかも、それが夜中だったから、どうしてそんなものを手に入れたのか不思議だったんだけど…聞いたら、おじいちゃんの友達の家を何軒も走り回って、風邪のお薬を探してくれたのよ。その時の話をするとあの人ったらいつも耳を赤くして、『まぁ、お前のためなら』ってただ笑っていたっけ…」
「あの物静かだったおじいちゃんとは別人だね。」
「そうね、あの人は少しシャイでカッコつけたがるところがあったわね。でも、その不器用さが、私にはとても愛おしかったの」
祖母の話を聞いているうちに、僕の中で祖父への感情が少しずつ変わっていくのを感じた。僕の知らない、優しくて思いやりのある祖父の姿が浮かび上がってきた。
「おじいちゃんのこと、もっと知りたいな」
「そうね、きっとまだまだたくさんの思い出がこの家の中に眠っているわ。あなたがそれを見つけてくれると、私も嬉しいわ」
僕は手紙をそっと祖母に返しながら、祖父の思い出をもっと知りたいという気持ちが湧き上がってきた。祖母が語る祖父の姿は、僕の知っている祖父とは違っていて、けれどもとても人間らしく、愛おしいものだった。
「ありがとう、おばあちゃん。もっといろんな話を聞かせて」
「もちろんよ、いつでも話してあげるわ。でも、今日はこのくらいにしてお茶でも飲みましょう。」
祖母と僕は並んで座り、祖父の思い出を語り合いながら、ゆっくりと時が流れていった。涼しい風が家の中を通り抜け、秋の香りが漂う中、僕は祖父のもう一つの顔に出会えたことを感謝していた。祖父の愛の物語は、時を超えて僕の心にも届き、これからもずっと忘れないだろうと思った。
物語を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
初めて描き切った物語で拙い部分が多々あると思います。
家族の歴史や大切な記憶は、私たちが思っている以上に多くの物語を秘めています。日々の暮らしの中で見落としてしまいそうな些細な出来事や、何気なく残された一枚の手紙。それらが持つ力を信じて、この物語を書きました。 文字で綴られた言葉が、人と人との絆を深めたり、亡き人の心を今に伝えたりする。そんな奇跡のような力を、物語を通じて感じ取っていただけたなら嬉しいです。
私たちが失ったものも、忘れかけた記憶も、どこかでまだ生き続けています。
いつか誰かが、その記憶を再び手に取る日まで。