10. 調子が狂う
「ふむ。これはまた。伯爵殿が血相を変えた様子で呼び出したのは“これ”のせいですな?」
カイザル様に呼び出されて慌ててやって来たおじいちゃん先生が、私の腕を見てそう言った。
「随分と強く掴まれたようじゃのう。爪の跡までしっかりと残っておるぞ」
「……そうですね。かなり強く掴まれました」
私がそう言うと、先生は扉の方に視線を向けるとボソッと小さな声で「これは伯爵殿が見たら大変なことになりそうですな」と言った。
カイザル様は診察の間は扉の外で待っているので、そちらに向けて呟いたのだと思われる。
「大変? どういうことですか?」
「夫人……」
私が聞き返すと先生は苦笑するだけで、その続きは言ってくれなかった。
「───どうだった?」
診察を終えて先生を見送ったあと、カイザル様がまだ怒り冷めやらぬ表情のまま私に訊ねて来た。
まだ、怒っているらしい。
「診察の間にシーデラは追い出した」
「そ、そうですか。ですけど、彼女……シーデラ様は大人しく帰られたのですか?」
「……帰らせた」
「……」
問答無用の容赦ない言葉。
(これは、私を安心させるために言ってくれている……のかしら?)
本当にどうにもこうにも調子が狂う。
他に好きな人がいるから、お飾りの妻を娶ったはずのカイザル様。
愛せない女とは顔を合わせるのも嫌で苦痛で仕事を言い訳にして放置するはずのカイザル様。
(そんな冷たいはずの彼は、どこに行ってしまったのかしら)
今、目の前にいるのは、普通に怪我をした妻を心配する夫(ただし無口)にしか見えない。
そして、カイザル様がお飾り妻の私と離縁してまで手に入れたいほど好きなはずの女性はどこにいるの───?
「……怪我ですが、少し痕は残っていますが数日で良くなるそうです」
「そうか」
「ご心配をおかけしました。それから、助けてくれてありがとうございました」
「……」
私が頭を下げてお礼を伝えると、カイザル様は小さく頷く。
だけど、なぜかその後は悲しそうな目をして私を見ていた。
◇◇◇
「なんていい天気なの……絶好の庭いじり日和だわ!」
「奥様、本当に庭をいじるのがお好きなのですね」
付き添いのメイドに聞かれて私は満面の笑みで頷く。
「ええ! それに今日は久しぶりだしね。やっとなのよ!」
「ご主人様、なかなか許可を出しませんでしたからね」
「そうなのよ!」
そう。
カイザル様はやっぱり過保護だった。
シーデラ嬢の襲撃後、傷痕が消えるまではと庭いじり禁止を言い渡されてしまっていた。
けれど、ようやく……ようやく本日許可が降りたので早速、庭にやって来た。
これまでも、時間が出来ると庭に入り浸っていた私。
ようやくそんな生活の再開だ。
(だけど……まさか、ここまで自由にさせてくれるとは思わなかったわ)
カイザル様は私に女主人の役割をそこまで強く求めてこない。本当に“妻”という存在が必要な時だけお声がかかる。
所詮、お飾り妻でしかない私にそこまで家のことに首を突っ込まれたら後々、離縁しにくくなるからだと私は思っているけれど。
なんであれ、私の伯爵夫人生活は想像以上にのびのびとしたものとなっていた。
「何か好きになられたきっかけとかあるのですか?」
「え? きっかけ?」
「はい。お花や植物を好きな女性は多いですが、育てるとなるとそこまでの方は多くありませんから」
「あー……そうね、普通は希望を伝えて庭師に任せるわよね」
メイドに訊ねられた私はそう答えながら考える。
私が庭いじりを好きになったきっかけね……きっかけ……きっ……
「……」
「奥様?」
私が動きを止めてしまったからか、メイドが心配そうな顔を向けてくる。
ハッとした私は慌てて首を振った。
「何でもないわ、大丈夫よ」
「そうですか?」
「ええ、でも具体的なきっかけは覚えていないの。でも物心ついた時から好きだった、わ」
「そうでしたか」
メイドは安心したように微笑んでくれた。
けれど、私にはどうにも引っかかる事があり、曖昧な笑顔を浮かべることしか出来なかった。
お喋りを終えて庭いじりの作業に戻り、種を植えながら考える。
「……」
(……駄目ね。やっぱり私、おかしいわ)
───どうして?
どうして私はある時を境にして、パッタリと子供の頃の記憶が無いの───?
(これ、やっぱり頭を打ったことが原因なのかしら?)
目が覚めて前世を思い出した時は、一瞬だけ前世の記憶に頭の中が支配されてしまった。
その時の影響で忘れてしまった?
でも、その後にすぐ今のコレットの記憶が流れ込んで来たのに……
(八歳より前の記憶が……無い)
記憶があるのは、八歳の誕生日を迎えた所から。
それは何故なのかしら?
誕生日当日、伯爵家の食卓で目の前に用意されたケーキを前にして嬉しそうに笑っていた自分。
そのことは鮮明に覚えているのに。
(それより前のことを思い出そうとすると記憶にモヤがかかったみたいになる……)
「まぁ……子供の頃のこと思い出せないからって、特別不都合があるわけじゃないから気にすることもないのかもしれないけど」
「──奥様? 何か仰いましたか?」
「あ、いいえ。ただの独り言よ」
(そうよ……そこまで気にすることじゃない……多分)
私は笑って誤魔化して残りの作業に集中することにした。
◇◇◇
それから数日後のことだった。
「───え? カイザ……旦那様が熱を出した?」
「はい」
結婚後、共に無言の食事を摂る時間を一日たりとも欠かさなかったカイザル様が、その日の朝食の席に現れなかった。
まさか、これは遂にその時が?
と、思って覚悟していたら、実態は全然違っていた。
なんと、カイザル様は朝から高熱が出ていて寝込んでいるのだという。
「だ、大丈夫なの!?」
これはさすがに心配だ。
「ご主人様はこんなのはただの風邪だ、心配いらない、医者も要らないと言い張っておられますが……」
「何を! 旦那様はお医者様ではないのだから、診断なんか出来ないでしょうに!」
もしかして医者嫌いなのかしら?
全く! 自分に何かあったらどうする気なの!
カイザル様はいくら新米といえども伯爵家の当主の自覚が欠けてるわ!
私は医者を呼ぶように言いつけてから立ち上がる。
「──旦那様の部屋に行きます」
「え! 奥様……ですが、ご主人様は奥様に移したくないから、決して近付けさせるな、と……」
「また、そうやって過保護ですか! 私はそんなに弱くありません!」
(言いつけを破ったなーーって怒られても構わないわ)
たとえ、本当にただの風邪だったとしても拗らせるとどうなってしまうかは分からない。
それに、病気の時は心も寂しくなって人恋しくなるものだから。
「失礼します───カイザル様? 起きていらっしゃいます?」
カイザル様の部屋の前に着いた私は、軽くノックをして声をかけてみる。
返事が無かったのでそっと扉を開けて室内を覗く。
(暗い……寝室は向こうの扉……よね?)
ここまでつい勢いで来てしまったけれど、少しだけ怯む。
寝室……婚約者だったらこれ以上進むのは躊躇うところ。
でも、真っ白だけど私たちは一応夫婦なのだということを思い出して、私は寝室の扉をそっと開けた。
ゲホゲホ……ゴホッ
ベッドのある方向から苦しそうな咳が聞こえてくる。
(これは……思っていたより酷いかも)
マスクの代わりにとハンカチで口を覆ってから、私はそっとカイザル様に近付く。
「カイザル様……」
「……くっ……ケホッ……」
「え、熱っ!」
額にそっと手を触れるととんでもなく熱かったので、医者を呼ぶように言っておいて良かったと心から思った。
「全く! 私の心配ばかりしているからよ!」
「……ケホッ」
「おじいちゃん先生の薬は苦いわよ~」
(……せめて先生が来るまではここに……)
そんな気持ちでカイザル様を見守っていたら突然、どこか辛そうにうなされ始めた。
「うっ……!」
「カイザル様!?」
「……めん…………ラ」
「え?」
熱にうなされているせい? これは誰かに謝っている?
「ご、めん………………シェイラ」
「……シェイ、ラ?」
また新たな女性の名前が……今度はカイザル様の口から直接漏れた。




