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八月九日

八月 九日






 僕は昨日から隣接した他県にある祖父の家に来ていた。僕の住んでいる所ものどかだが、ここはそれ以上にのどかな場所で、まさに田舎と言う単語にふさわしい土地だ。


コンビニに行くのにも車が必要だし、自動販売機でジュースを飲もうにも自転車が必要、といった感じだ。その代わりと言ってはなんだが、当然ジュース以上に空気はおいしいし、ほんの少しだが、標高も高いので夏に来ると平地よりも、涼しく過ごしやすくなっている。


 九日から十日にかけて開催される夏祭りのことを知ったあの後、ひさしぶりに高まった気持ちを胸に帰宅した僕を待っていたのは、母のこんな言葉だった。


「和成、八日からおじいちゃんの家に行くわよ」


 僕のさっきまで上昇しきっていた気分が、いきなりゼロに急速に落ちていった。初めて飛行機に乗った子供がウハウハと浮かれていたらいきなり床がぱかっと開いて優雅な空の旅から一転、パラシュートのないスカイダイビングを強要された気分だ。僕はそれを顔に出さないように(と言っても多分隠せなかっただろうが)、母に聞いた。


「八日からいつまで?」


「多分、十日の夜には帰れるんじゃないかしら。急でごめんね、お母さん仕事、このタイミングしか休めないの。勉強はあっちだってできるし、それにおじいちゃん、和成と会うの楽しみにしているわよ。もしかしたらお小遣いがもらえるかもよ」


 僕はがっくりとうなだれたい気持ちを押し殺し、うんわかった、と答えた。お小遣いなんて僕にとってどうでもよかったが、僕のことを本当にかわいがってくれている祖父の笑顔や、一年前に祖母が亡くなって今は一人で暮らしている孤独な祖父の気持ちを考えると、とてもじゃないが「行かない」とは言えなかった。


祖父は今年で八十二歳になるが、まだまだ元気で、足腰もしっかりしているし、言葉もすごくはっきりと話す。髪の毛さえ白くなっていなければ五十〇、六十〇代でも通用しそうなくらいだった。そんな祖父でも祖母のお葬式の際はとても小さく見えたものだ。祖父は僕たちが様々な交通機関を使って山を越え、川を越え、多くの時間を費やして夕方ごろようやく家に着いた時、本当にうれしそうな顔をしていた。あの顔を見てしまったら文句の言葉なんて一つも出ない。さすがの僕でもこれは本当だ。


「おぉ、和成、今年も来てくれてありがとうな」


 こんなにも僕のことを嘘偽りなく必要としてくれる人は珍しい。僕はその気持ちに答えるように「当たり前だろ、おじいちゃん」と言った。


着いたその日の夕食は祖父が出前をとってくれていた。特上ずしだった。一体いくらするのかはわからないが、そのネタの質から見るに、ある程度の値段のものであることは間違いなかった。祖父は僕たちが遊びに行った時には必ず、このすしを振舞ってくれていた。


次の日、つまり今日の朝も祖父が朝食を作ってくれた。


「おはよう!」


 祖父の朝の挨拶の声がとんでもなく大きくて、やや寝ぼけている僕をしゃんとさせるのはいつものことだ。朝食は焼き魚に、祖父が家で漬けている白菜と人参の漬け物という、これといって特徴のあるメニューではないのだが、何となく普段食べている食事よりもおいしく感じられた。おいしい、というよりも、母の作っている料理とは少し味付けが違うため、舌が新しいものに興味津々、といった感じなのだろう。そういう風に言ってしまうと毎日作ってくれている母に悪いような気がするが、これはどっちがどうとかという話ではなく、あえて言うのであれば、どちらも僕の舌にとってすこぶるおいしい、ということだった。


昼は近くのそば屋に三人で食べに行った。水が綺麗だからなのか、このあたりは昔からそばが有名らしく、祖父の家に行くと、必ず、同じ店に食べに行っていた。


「あら、今年も来たのねぇ」


 毎年、盆と正月の同じ時期に来るものだから、店員のおばあさんにも、覚えられていて、どうも、と僕も毎回会釈をする。


「毎年孫が会いに来てくれて、高原さんもうれしいねぇ」


「そうだねぇ、毎年、生きているうちは、会いに来てほしいねぇ」


「そうしたら、あと何回くらい?」


「まぁ、あと一、二回くらいってところかね」


 と、毎年同じような冗談をこの店員のおばあさんと祖父は交わしていた。僕はそんなやり取りを笑うに笑えず、はは、と苦笑いするしかなかったが、祖父の元気な姿を見ると、おそらく、少なくともあと十回以上は会うことになるだろうな、と思った。


そんなこんなであっという間に時間は過ぎていったわけだが、そんな一日の締めくくりとして、僕は今、夜の縁側というとても風流な場所で、祖父と将棋で遊んでいる。現在一勝四敗だ。縁側から見える濃い緑色をした植物たちから漂う自然の匂いは、より一層風流さに拍車をかけ、これもまた風流である将棋という遊びの舞台をそれとなく演出してくれている。


「和成、最近どうだい? 学校の方は」


 祖父は柔らかい口調でそう言いながらも盤上ではしっかりと飛車を僕の陣地にまで進めてくる。まさにこれこそ蝶のように舞い、蜂のように刺す、だ。今の状況から僕を虫に例えるとすればさしずめ、芋虫、といった所か。とろとろ歩く代わりにアゲハチョウの幼虫のような、大きな目に見える体の模様、臭い匂いを放つ角のようなもの、それらで威嚇するものの、なすすべもなくやられる、そういった状況だ……また負けそうだ。


「まぁ楽しいよ、それなり(かずなりと韻を踏んだ)」


 僕も負けじと祖父のように柔らかい口調を演じつつ、駒を進めるものの、いまいち攻めきれない。僕の場合は祖父と違い、戦場で舞うチョウに憧れるただの芋虫なのだ。ふと何の脈絡もなく、カフカの「変身」が頭に浮かんだ。それはただのいわゆる虫繋がりで思い浮かんだだけで、何の関連性もない。グレゴールザムザは目覚めた折に自分が毒虫になっていることを発見してもそれほど焦っていなかったが、僕なら当然気が狂ってしまっているだろう、そう僕はグレゴールザムザではないのだ。リンゴを投げられたりして痛い思いをすることはないのだ。


「それなりに楽しいのであれば、問題はないな」


 嬉しそうに笑う祖父に、僕は首を横に振った。


「いや、でも来年大学受験だし、勉強いっぱいしないといけないから、楽しんでいる暇はあまりないかな」


 そんな僕の言葉を聞いて、祖父ははぁと溜め息をついた。


「なぁ、和成。あんまり根詰めて勉強する必要なんてないんだぞ。色々将来のことを考えているのはわかるけど」


「うん、わかってるよ」


「今は友達といっぱい遊ぶんだ、年をとると遊びたくても遊べなくなるからな」


 僕は「一緒に遊ぶ友達なんて誰もいないよ」とは祖父には言えず、黙って頷いた。


「おじいちゃんは昔、勉強なんてほとんどしなかったからなぁ、大学なんてほとんどの人が、行ってなかったものだよ」


「そんなもんだったの?」


「おじいちゃんは農家だってこともあったけど、あの時はそれが当たり前だったんじゃないかな」そう言ってからおじいちゃんは一回咳払いをしてから、空を見た。僕もそのおじいちゃんの視線につられて空を見た。本来であれば空には一面の星が見えるのだが、今日はあいにくの曇り空で、頭上には暗闇以外の何も見えなかった。そんな空だというのにおじいちゃんはしばらく空を、じっと見つめていた。僕がそんな祖父の顔を見ていると、自分のことを見ている視線に気がついたのか、視線を将棋盤を戻した。


「さぁ、勝負を続けるぞ」祖父はそう言うと、すぐに将棋の駒を持ち、力強く盤上に打ち始めた。


 祖父の強烈な攻撃を何とか受け流そうと努力するも、その努力むなしく、まったく僕の手は追いつかない……金を取られた、僕の軍勢が龍王の進撃により、みるみる荒らされていく。やっぱり祖父は強い。祖父の顔はシワだらけで、こんな感じで将棋を打って、良い手なんかを打つと、少しにやりと笑う、そのにやりと笑った時のシワがぐにゃっと動く感じが僕は好きだった。


「そうだ、和成、好きな女の子とかいないのかい?」


 突然祖父がそんなことを言ってきたので僕は持っていた歩を慌てて落としそうになった。


「そうか、いるのか」と、祖父はにやにやしながら言った。顔のシワもにやにやしている。


「ま、まぁね」


「おじいちゃんはもうそんな気持ち、とっくの昔に忘れてしまったけど、いいじゃないか、青春していて」


「ま、まぁね」


 それから僕と祖父はまたしばらく無言で将棋に集中した。風で草木がこすれ合う音と、何の虫だかはわからないが、何匹もが奏でているすっと耳に入り込んでくる音色、そして駒を進める時に盤上を叩く乾いた音を除いて、その静寂が解けたのは僕の王将がどうやっても逃げられない、どうすることもできない状況、つまり、詰んだ状態になった時だった。僕は胸にたまっていた息を、はぁ、と大きく吐き出し、負けました、と言った。一勝五敗。唯一の一勝も祖父がハンデとして飛車と角をなしで勝負した時だ。


「よし、スイカでも食べようか」


 祖父の家は農家で畑がある。と言っても祖父だけでは広い敷地を持つ畑すべてを有効に使うことはできないので、今はもうほとんど他人に貸してしまっている。田んぼもあってその用水路にはザリガニなんかもいて、昔はよくザリガニ釣りをしたものだった。当然その田んぼも今は他人に貸している。残った少しの敷地を使ってスイカとかちょっとした野菜を作って老後の暇を潰しているらしい。


つまりスイカは祖父が作ったものだった。不揃いな形がスーパーなどに売っているものと違って何とも言えない風情があって僕は好きだった。僕がしゃくしゃくと祖父が出してくれたスイカを食べていると(どうでもいいことだが僕はスイカの種を出すのがめんどうなので種まで食べる。だからしゃくしゃくの間にぼりぼりという音も鳴る)、祖父がにやつきながら僕の顔を覗き込んできて、


「ところで好きな人っていうのはどんな子なんだ? かわいいのか?」


 と、言ってからスイカの種を吐き出した。


「まぁ……、かわいいんじゃないかな」


「どれくらいかわいいんだ? すごーくかわいいのか?」


 僕はそんな風に聞かれるのが、なんだか恥ずかしくて「まぁ、それなりだよ」と言うと、祖父は「またそれなりか」と言って、はっはっはっと笑った。


 そう、御木本さんはとにかくかわいいのだ。世界中の言葉を集めても一番しっくりするのが「かわいい」という言葉で、まるで言葉それ自体を具現化したかのような人だ。最上級の「かわいい」という概念と、最上級の「女性」という概念の間に生まれたサラブレッド級の存在が御木本さんだった。こんなに言うと褒めすぎだろと思われるからもしれないが、これでも褒めたりないくらいだ、あーかわいい。


こんな風に頭の中で御木本さんをべた褒めしているのが表情に出てしまっているのか、はたまたもしかすると思考が声に出てしまっていたのかわからないが、おじいちゃんはにやついた顔を気持ち悪いくらいより一層にやつかせながら、言った。


「ばあさんも、若い頃、それはもう相当なかわいさだったんだぞ」


「うん、知ってるよ、ずっと前おばあちゃんの若い頃の写真、見せてもらったことあるし」


 祖母のことを祖父がべた褒めしているのは自分の妻だからとかではなく、また僕がその褒めっぷりに同調しているのも決して御世辞で気を遣っているからではない、祖母は本当に美人で、なぜ祖父なんかと(断っておくが、祖父のことが嫌いで『祖父なんか』と言ったわけではない)結婚したのかわからなかった。これはもう親戚の人たち一同が言っていたくらいだ、なんでこんな男と結婚したんだ、と(さらに断っておくが、祖父は別に駄目な人間というわけではなく、責任感のあるしっかりとした成人男性だが、祖母ならもっと、さらに条件の良い人がいたのではないか、という意味である)。


毎回祖母はその質問に対して「好きになってしまったんだから、仕方がないでしょう」と返答していたのを覚えている。オスカーワイルドが何かの本で「女は男に欠点があるからこそ愛するのだ」と言っていたことをその時なんとなく思い出した。祖父に欠点らしい欠点があるわけではないけれど。


「じいちゃんはどうやってばあちゃんのこと口説いたのさ」


「聞きたいか?」


 うん、と僕は頷いた。祖父が祖母と結婚したのは、僕と御木本さんが結婚するのと等しいくらい難易度が高い……、というとゲーム感覚みたいでちょっと抵抗があるから言葉を変えて……、駄目だ、思いつかない、とにかく通常ではありえない組み合わせなのだ。例えるならば、「人間」と「犬」が結婚するといった具合だろうか。どちらが上というわけではないが、結婚することはない組み合わせで、まさかこの組み合わせの間に子供が生まれるなんて絶対にない、といったカプリングだ。もし生まれたら人面犬になってしまう。一体どんな手を使って祖父は口説き落としたのか、とても興味があるし、参考にもしたい……と言ったって実行に移せるかと言えばまた別の話なんだけれども。


「しょうがない、聞かせてやるか。ちょっとだけ長くなるかもしれないが、勉強はしなくて大丈夫なのか?」


「大丈夫、勉強する時間なんていくらでもあるよ。それより話を聞いてみたいな」


「まぁ、実際大した話ではないからあまり期待するなよ、小説みたいなラブストーリーとは全然違うからな。さてどこから話そうか」




 ☟以下、祖父と祖母の思い出話


 


 僕と秋代さんには出会いという出会いがなかった。何でかって言うと、すでに秋代さんは美人で有名で、興味がなくたって勝手に噂が耳に入ってくるほどだったから、初めてその噂の本人を見た時もそれほど劇的な感じではなくて、あぁこの人が噂の秋代さんか、たしかに美人だな、と軽く思う程度だった。


 まぁ、それ……最初……会い……話し……言えるくらい……つまるところ……二人で……色々な……どういうわけか……結局……しかし……簡単には……苦しい……悲しい……でも……というわけで……と思ったら……………めでたく結婚したわけだ。




 終わり




 祖父の話を聞き終わった時、あまりの感動にむせびあがってしまうほど、涙があふれ出してしまった。そのへんのちゃちな恋愛とはわけが違った。本来なら全文載せてしまいたいところだが、かの有名なセルバンテスの「ドン・キホーテ」のようにページ数を稼ぐために本筋とは関係ない挿話を入れるのには抵抗があるのであえて省略する。感動の物語は多くの人に語らずとも各個人の胸のなかにあれば、それでいいのだ。


「じいちゃん……、すげえぇよ、しゅげえ」


 僕が鼻水をだらだら流しながら、しゅげえしゅげえ、と、連呼していると、どうやら祖父も自分で話していながら熱くなってしまったのか、同じように鼻水を垂らしながらしょうだろう、しょうだろうと頷いていた。非常に暑苦しい祖父と孫だ。


「全然話がわからなかったけどね」


「何か言ったか?」


「いや、なんでもないよ」


 僕はちーんと鼻をティッシュでかみながら、まだまだ僕にも可能性が残されているかもしれないという希望と、果たしてこんなにもうまくいくものなのかという少々の疑問の気持ちを持ちながら、かんだティッシュを広げてびろーんと鼻水を伸ばしてみた。とても汚い。


「まぁ、和成が楽しんでくれたみたいでよかった」


「僕もじいちゃんの話聞けてよかったよ」


「じいちゃんも、和成の話を聞けてよかったよ」


「将棋は次来た時、絶対勝つから」


「はは、楽しみにしているよ」と言った後、祖父はふわぁと小さくあくびをした。


「じゃあじいちゃんはそろそろ寝るとするよ」


「うん、わかった」


 にこりと優しく微笑んで、おやすみ、と言い残して祖父は自分の寝室に行った。今、時間は夜の九時。祖父にしては長く起きていたほうなのだろう、祖父はその年齢の人の例に漏れず、朝が早くて夜も早い。また明日の朝、あの馬鹿に大きい声のおはよう! に目を覚まさせられるのだろう。しかし、子供の僕はまだまだ眠くなる時間ではない。


 虫の鳴き声がする、風が少し吹けば吊るしてある風鈴がちりんちりんと鳴る。夜になるとさすがに昼ほどは暑くないし、なによりも夏の夜の匂いはなんとも言えない、こう、胸がくすぐったくなるような幸福感をもたらしてくれる。特に祖父の家の周りの広大な自然はその匂いを僕の地元よりも、ふんだんに僕の鼻腔に届けてくれる。


僕はさっき祖父がスイカと一緒に用意してくれた氷入りの冷たい麦茶を飲みながら、縁側に座った。麦茶のグラスは結露でびしょびしょだった。空を見るといつの間にか曇りだった空から、いくらか雲がなくなり、いくつかの星と月が見えていた。透明なガラスのグラスが月の光で麦茶を反射させてわずかに輝いている。それが綺麗でとても夏らしかった。


「夏祭り、どうなってんだろ」


 今おそらくまっただ中の夏祭りのことを考えた。御木本さん、夏祭りに来ているのかな?どんな服装をしているんだろう、やっぱ浴衣なのかぁ、見たいなぁ、私服も見たことないし、私服、見たいなぁ。僕は御木本さんの着ている服を妄想しながら、今自分の着ている服をちらりと確認した。白い半袖Tシャツで胸にでかでかとビューティフルデイズと赤い文字でプリントされている。なにがビューティフルデイズだ。一体どんな日がビューティフルな日々なのだろうか。


 僕は心の中でそんな悪態をついて、縁側で足を外に放り出して横になった。足の裏がなんだが気持ちいい。ひさしぶりになんだかすっきりと言うか、解放された気持ちになっている自分を感じる。それが御木本さんから物理的に離れてしまっていることが要因なのか、それとももっと別のものなのか、それはわからない。何だかこの家の雰囲気は僕の日々見ている光景とは違って、現実ではないようであった。


 昔のことを思い返してみた。小学校の頃、初めて好きな人ができた。名前は渡辺ふみという子だった。この子のことは何がきっかけで好きになったんだろう、頭をひねってみても思い出せない。たしかそこまで可愛い子ではなかったと思うんだけど……、その子との顛末はこうだ。ある日、クラスメイトに僕が渡辺さんのことを好きだということを渡辺さん本人にばらされる、僕はそれを恥ずかしがって、「こんなデブ好きになるわけないじゃん」と言う(渡辺さんは少しだけ丸っこくて、いわゆるぽっちゃり系だった)。それで嫌われて終わり。


 その次は中学校の頃だ。名前は中井真央という人だった。中井さんは容姿はそこまで飛び抜けて良いわけではなかったが、なぜだか男子にかなりもてていた。どういうわけだか恋した僕自身にもよくわからないけれど、男子を扱うのがすごくうまい人だったのだろう。ある意味悪女だったのかもしれない。この恋は特になにもなく、単に中学校を卒業して終わりを迎えた。僕が行動してもなにも起きなかっただろう。


 こうして振り返ってみると、少ない恋愛経験ではあるものの、恋の始まりというのは、どうというものでもなく、淡々とスタートするものだとわかる。それは多分男子目線だけじゃなく、女子目線からも同じだろう、恋のスタートはおそらくいつだってさりげない(詩人のような言い方だ、別に気取っているわけではない)。


 さて、この恋はどうなるのだろうか……、そう頭の中で考えてみてもうまくいくような気が少しもしない。やはりそれは僕自身に女性経験がないが故の自信のなさが原因なのだろう。自信か……、大学受験のことが頭をよぎった、それについても自信がない。本当ならもっとしっかり勉強をして、それによって自信を高めていく必要がある。きっと色々な出来事のそのすべてが少しもぶれない確固たる自信によって成功に導かれるものなのだろう。


僕は一体、一度でも望むものを手に入れたことがあっただろうか。また夏の夜の匂いを胸いっぱいに吸い込んでみる。どこかなんとも言えない脱力感と、心臓だけがトクトクとはやる気持ちを持って早く動いている感覚が混じり合い、むずむずした不思議な気持ちになっているのを、実感する。形容しがたい気持ちだけれども、一つ言えるのは、この気持ちは決して幸福なものではない、ということだ。夏の夜はどうしてこんなにむなしいんだろう。


 色々物思いにふけったあと、少しだけでも勉強しようと部屋に戻って机に向かってみたが、少しも捗らなかった。その代わり僕はまた妄想の世界に入り込む。妄想の世界では既に御木本さんと僕は同棲をしていた。妄想の中の僕は御木本さんに頭を撫でられながら膝枕をしてもらっていた。


「おやすみ」


 優しい声でそう言われ、僕は深い眠りに落ちていった……。





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