八月三日
八月 三日
夏休みが始まって三日目。気温は三十七度まで上がるらしく、例年通り非常に暑い夏である。人間というものは気温四十五度を越える環境下に置かれると、脳に血液が回らなくなり、死に至るらしい。つまりあと八度気温が上がれば、僕は死んでしまうのだ。そこまでいかずとも、気温が十五度くらいを越えるだけで、人間の身体能力は、その上昇と比例して低下していくと何かで読んだことがある。色々うだうだ言ったが、一言で表せば、「夏は怖い」ということだ。
そんな夏日和ともいうべき日、僕に、早くも異変が起こった。その自らの体に現在進行形で巻き起こっている異変を簡単に説明すると、頭の中がもやもやする。何もする気が起きない。自宅での勉強も十〇分ほどやると、頭の中で大量の白い霧が発生し、その濃霧の中で右も左もわからなくなって、もはや自分の足元すらも見失うような感覚ですぐに集中力がなくなっていく。これは決して暑さのせいだけではない。そもそも僕の部屋にはクーラーがついていて、非常に快適なコンディションを保てている。
「御木本さん」
僕は机の上でそうつぶやいた。その小さなつぶやきから生まれた空気の振動はびりびりと僕の脳を震わせ、その単語を脳裏に粘着性の高いシールのように貼りつかせる。御木本さんのことが一秒たりとも頭から離れない。会いたい、会いたい、それだけが思考の中でぐるぐると回り、次第にこんがらがっていく。どんな天才でも解けない非常に難解な知恵の輪だ。
僕は数学のノートに数式を書き込む代わりに「御木本夏樹」と書いて、すぐに消しゴムで消した。そしてまた書いた。また消した。それを何回も仕事に忠実なロボットのように繰り返した。夏休み前、今年の夏休みはみっちり勉強するぞ、と決意していたというのに。とてもじゃないが勉強ができる状態ではなかった。御木本さんの顔、服の上からもわかる膨らんだ胸、形の良いお尻、制服のスカートからのぞかせる細すぎないほんの少しだけ筋肉のついたふくらはぎ、そして綺麗な膝裏、何にも例えようのない鼻腔をくすぐる興奮を誘う香り、そのすべてが脳の血管一本一本に染み渡っているようだった。そしてその濃厚な血液はすぐさま僕の下半身にもスプリンターのように進んでいき……僕は椅子から立ち上がり、ベッドに飛び込んだ。この状況には一つの確信があった。
「これが恋の病か」
僕は今まで何かで見たり聞いたりしても馬鹿馬鹿しいとしか思わなかった恋の病というやつに、すっかり体全体が浸食されているのを実感した。御木本夏樹という注射器から甘い、そして苦い不思議な液体を入れられたのだ。
僕は誰とも付き合ったことはないが、当然今までだって誰かのことをいいな、と思ったことぐらいは何度もある。僕はそれが恋愛というものだと思っていた。その経験だけで恋愛の色や形や手触りを全部知ったように振舞ってきた。だから失恋して自殺とか、男女のいざこざで殺人、などという話を聞いても「何を考えているんだろう、この人たちは。恋愛ごときで自分の人生を台無しにするなんて」と思っていた。
まして恋愛小説なんて陳腐極まりない。ロシア文学に見られる重厚さがまるで感じられない薄っぺらい漫画のようなものだと思っていた。事実現代ではそんな薄っぺらいものが、世に充満している。でも今はさんざん馬鹿にしてきてあれだが、何となくその気持がわかる。誇張表現でも何でもなく、自分のすべてがその人に乗っ取られるようになる。僕は今完全に御木本さんに操られているマリオネットになってしまっている。
しかしそのマリオネットができることといえば、ただただ、御木本さんのことを考えて、ありもしない都合の良い妄想世界に入り込んでいくことだけだった。