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どうしようもない僕がほんの少しだけ成長する物語

「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ、生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」 ――ヘルマン・ヘッセ    






まずは冷静に自己分析から始めよう、身長百六十三センチ、体重六〇キロ、視力が悪く眼鏡は手放せない、髪は三カ月に一回ばっさり切ってそれまでは伸ばしっぱなしで、三ヶ月後にまたばっさり切るの繰り返し、服は親が買ってきたものを従順に着る、顔は自分ではそれほど悪くはないと思うが、誰からも良いと言われたことがないのでそれまでの顔なのだろう。年頃なのでニキビも割と多い。


つまり非常に、冴えない普通以下のランクに属する男子校生ということだ。自分という人間一人を表現するのにたったこれだけの解説でなんとなく具体化できてしまうことに我ながら嫌気がさしてくる、それとも人間一人なんて記号のような単純な存在ということなのかもしれないが……。


それはさておき、もうすぐ夏休みだ。さっきの休み時間、夏の空気がもう教室中に充満していて、その空気は勉強をするのにはもうむいていないであろう、ねっとりとしたものがまとわりついてきている中で、クラスのみんなは、どこに遊びに行こうか、何をしようか、そういうことばかり話していた。


まぁ夏休みとはそういうものなのだろう。高校二年生の夏休みは、来年から本格的に大学受験に向けて勉強をしなければいけないことを考えると、実質高校時代最後の夏休みだと言ってもいい。思いっきり、何も後悔がないよう遊びたくさんの思い出を作るべきなのだろう。


でも僕は違う、僕の夏休みは勉強漬けの毎日だ。本格的な受験勉強開始が高三の夏休みからでは僕の目指す大学は遅いのだ。受験戦争……、高校受験とは違って、全国の人間と一つの大学の席を争う。聞いたか? 全国だぞ? 高校総体、つまりインターハイに出場するのと、ようは一緒なのだ。僕はそんなとても大変な戦いに、みんなが夏休みのことについて楽しそうに話している中で、一人怯えていた。


 そんなことを言ってもこんな僕にだって当然遊びたいという気持ちはある、けれど僕は勉強しか取柄がない。運動はからっきしだし、社交性もない。友達だって、本当に数少ないものだ。その友達だって、本当に友達と言っていいのか、わからない。そう、そもそも僕は遊び方を知らないのだ。遊びと言えば家で一人でするロールプレイングゲームが真っ先に浮かんだ。残念ながらこれからの僕にはゲームの中で冒険者になるほど暇はない。


あぁ、夏休みが来てほしくない、勉強漬けの毎日か……、おっと決して僕はそんなことを話したいわけじゃなかった、こんな僕の身の上話を聞いていてもさぞかし退屈だろう。しょせん受験の悩みなんて他人から見ればどうでもいい(おそらく親以外の人にとってはどうでもいい)、非常に個人的な悩みだ。個人的な悩みというものには普遍性はなく、大きな全体という枠組から見れば、アリ一匹にも満たないような小さな観念だ。


今から話すことも個人的な悩みには違いないけれど……、でも僕は話そうと思う。ここまで言って話し始めるのは僕の我儘だし、興味ないね、と言われればそれまでだ。


それにこんなんでいわゆる最初の「つかみ」みたいなものを取れたかどうかは正直不安だし、もともと話ベタな僕がどれだけ聞いている人が退屈しないように話せるかどうかも不安だ。さて、どこから話そうか……。


とにかく今は数学の時間だ。僕の意識の中ではごちゃごちゃと言葉がそこら中に飛び交っていたが、それとは反対に教室は静かで、先生がチョークを使って黒板に文字を書く乾いた音しか聞こえない。


僕は先生が黒板に書いている数式を見るフリをして、僕の目の前の席に座っている女子の後姿を見る。名前は御木本夏樹という。「御木本」が苗字で、「夏樹」が名前だ。夏樹という名前はまぁ平凡だが、御木本という苗字はとても珍しいと思う。遅ればせながら僕の名前は高原和成。まぁそれなりにバランスの取れた名前だとは思う。きちんとした姓名判断による評価はわからないが、割合、僕は気に入っている。


授業中、その珍しい苗字の御木本さんはいつも頭が左右にふらふらしたり、上下にこっくりこっくり水飲み鳥のように揺れていたりしているのでとても目立つ。御木本さんは居眠りの常習犯だ。きっとしばらくするとまた先生に怒られるだろう。世界中で一番平和を感じさせてくれるこの光景はいつものことで、特に午前の授業では起きているほうが珍しい。僕はそんな御木本さんのあっちこっちへふらふらしている頭を見て、まるで自分の子供を見ている父親かのような親近感をもって微笑する。変な人だな……。


ふと、御木本さんの背中に目がいった。制服のシャツの背中が汗で湿っていて、水色の下着がうっすらと透けている……、僕は慌てて目をそらした、駄目だ駄目だ、集中しろ、授業に集中しろ! 僕は黒板の数式と、それについて説明している先生の声に目と耳を集中させた。集中することによって見えた、その数学的世界を知るや否や、僕はそれを鼻で笑ってしまう。


あぁこれ全部知ってる、簡単だよ、こんなの、もう結構前にそれはやった……、先生の教え方はそれなりにうまいとは思うが、授業前にその範囲をマスターしている僕にとっては何の意味もない。僕は数学がどちらかと言えば苦手分野だ。数学能力が全国的に見れば低い方である僕でもすぐにマスターできた内容なのだから、ちゃんと勉強をすれば大した内容ではない。僕の目線は再び、少しずつ御木本さんの背中に移っていく……


「こらっ」


 先生の鋭い声に僕は、親に悪いことが見つかった子供のようにぎくっとした。御木本さんも同じように、反射的に体を震わせ、ふらふら揺れていた体が、一気に直立した。


「す、すいませんっ」


 御木本さんがまだ目覚めきっていない、夢の中のようにふにゃふにゃした声でそう言うと、教室中から笑い声が起きた。


「そうだ、お前のことだ、御木本。わかっているならちゃんと起きて授業を聞きなさい」


「はいっ、ごめんなさい」


「まったく、いつもいつも寝ていて、起こす先生も大変なんだぞ」


先生も笑いながら、注意しているのか、それともただからかっているだけなのかわからない調子で言った。僕もにやけてしまう。それはさっき自分が注意されたものと思った自分自身に対しての照れ笑い、クラスの雰囲気、そして御木本さんの間の抜けたかわいらしい声。それらがすべて美しくマッチングした結果によるものだった。先生は続けて言った。


「高原も笑ってないで、後ろの席なんだから御木本が眠りそうになったら起こしてやれ」


 あはは、とまた教室内で笑いが起きた。その笑いの中、御木本さんは僕の方に振り向き、顔を近づけて、手は拝むように合掌し、大きな目を糸のように細くして甘える猫みたいな笑顔で言った。


「お願いね、高原君」


「う、うん」


 あぁ、夏休みが来てほしくない。なぜって僕は御木本さんのことが好きだからだ。


 


 少しさかのぼって、こうなるまでの経緯を振り返ってみよう。何事もいったん振り返ってよく考えてみることが重要だ。「過去をより遠くまで振り返ることが出来れば未来もより遠くまで見渡せるだろう」と、チャーチルも言っている。最初僕は御木本さんのことが嫌いだった。文字通り嫌いだった。見るといらいらするくらい嫌いだった。授業中毎回寝ているなんて不真面目で気に食わない。


その気に食わなさを加速させたのは御木本さんの容姿だった。整った顔立ちで、スタイルも良く、目なんかはいつも輝いているように見えた。笑うとその優れた目、鼻、口が一層際立って、テレビに出ているアイドルよりもかわいいと思う瞬間があるくらいだった。やはりそんな容姿なので、クラスの男子の中ではいつも話題になっていた。


「今日も御木本さんかわいかったな」


「ああ、俺今日話しちゃった」


「エー、マジかよ、すげぇうらやましいんだけど」


こんなような会話が飛び交うのは日常茶飯事で、もはや、クラス内だけというより、学校全体で有名なかわいさだった。みんな顔にだまされてデレデレしている。だから本人も調子に乗って、いくら注意されても居眠りを平気でしているんだ。そもそも容姿の良い女は卑怯だ。男は顔が良いだけではどうにもならないが、女は顔さえ良ければどうにかなってしまう(ただし若い間は男も顔だけでどうにかなってしまう部分もあるが)。ふざけるなと言いたい。こんな世の中ではすべての事象における、いわゆるチャンスのようなものが、容姿の良い人間だけに集中して、余計に容姿が良いイコール優れているという図式を加速させ、すべての地味な容姿の持ち主が、肩を狭くして生きていかなくてはならないではないか。


僕はすべての同志たちのためにも見た目にはだまされないぞ、と思って常に敵対視していた。思えば、もうこの時からすでに過剰に意識していたのかもしれないが、その時の僕は気がつかなかった。顔だけで中身のない女は嫌いだ、そう頭の中で何度も繰り返していた。その思いがまるっきり反対の方向に強いエネルギーでエフワンカーのように突っ走ったのは、非常に簡単なきっかけからだった。


 あれは忘れもしない(と言うとなかなか重要な出来事のように聞こえるだろう、いや実際重要なんだけれども)今から一か月と少し前の六月、梅雨にふさわしい大雨が降っていた放課後、僕は学校の校舎の入り口のすぐにある傘置き場に置いていた傘が誰かに盗まれているのに憤りを感じ「くそ、くそ!」と心の中で呟きながら、雨が止む、もしくは弱くなるのを待つため、図書室にいた。


雨の日でも図書室にはほとんど人はいなかった。僕の高校の図書室はそれなりに本が揃っているのだが、利用する人が少ないためその蔵書もあまり意味がない。司書の人が作っているオススメの本コーナーがなんの意味も成していない。でもどこの高校の図書室もそういうものなんだろう。オススメコーナーに置いてある本は泉鏡花の「高野聖」だったり、川端康成の「たんぽぽ」といった現代の高校生が読みそうにない本ばかりだった。


湿気で空気が重く、むしむししていて勉強する気にもなれなかったので、僕は適当に何かの本を読むことにした。「カラマーゾフの兄弟」、「罪と罰」、「アンナ・カレーニナ」、どれも僕は家で読んで感動したけれど、今はもっと簡単に、視覚的に楽しめるようなものが読みたかった(正直に言うとカラマーゾフの兄弟にはあまり感じるものがなかった。罪と罰は間違いなく名作である)。そもそもいくら名作と言っても文庫で二、三冊になってしまう小難しい翻訳調の小説を軽い気持ちで読めるわけがない。


 絵本のコーナーに行って、少しページをめくってみても興味がわかない。小学生の頃は熱狂的に絵本を読んだものだったが、今さら桃太郎の強さに憧れたり、あー家来持ってみたいなぁとか思わないし、人魚姫の露出の多さに興奮するわけもない。そもそもなぜ高校の図書室にコーナーが作れるほど絵本が揃えてあるのか理解できない。僕は手に取っていた人魚姫を棚に戻した。


次は画集のコーナーに行ってみた。僕は正直に言って、絵画の芸術的な良さというものを理解できるタイプの人間ではない。そのような感性を持つ人間のことを心底尊敬するし、また、自分にはいつまで経っても見ることのできない世界を見ているのだと思うと、うらやましさと同時に、恐怖にも近い念を抱いたものだった。


そんな僕でもピカソの描いた絵みたいな変わったものを見るのは単純に面白くて好きだった。「ゲルニカ」のような壮大なイメージは見るだけで圧倒されるし、比較的スケールの小さい、「赤い肘掛け椅子の女」のような何てことのない絵も、確かな存在感を持って、まるでそこで呼吸をしているかのようだった。


ふと、「マグリット」という背表紙に目がいった。僕には芸術的感性こそないものの、多少の知識はある、たしかこのマグリットという画家は「イメージの魔術師」とかなんとか言われていて、とても評価の高い画家だったはずだ。昔なにかで「茹でたインゲン豆のもつ柔らかい構造」という絵を見てその絵もさることながらタイトルの何とも言えないすごさに圧倒された覚えがある(あ、違うこれはダリの絵だ)。


期待を胸に手にとって中を見てみると、有名な黒い帽子と、黒いスーツを身にまとった紳士が雨のように降っている絵などの不可思議なものの中に混じって、砂浜に打ち上げられた半魚人の絵が出てきた。その絵は顔から胴体までが魚、その下、つまり足だけは人間という、今までの僕のもっていた半魚人や人魚のイメージからかけ離れていて、そのシュールさにぷっと吹き出した。タイトルは「共同発明」というタイトルだった。日本語訳なので原文とどれくらいニュアンスが同じなのか不明だが、まさしくこれは共同発明で、うまいタイトルをつけたものだと感心してしまう。


 そのマグリットの画集をもって席に座った。木製のその椅子は座ると今まで長時間誰も来なかったのを表すように、ひんやりと僕のお尻を撫でた。図書室の席はあまり多くなく、三つ長机があって、その机にそれぞれ四つの椅子がある。合わせて十二席だ。この雨の中で、どちらかと言うと図書室日和であると僕は思うのだが、その席にまるで誰も座っていないのを見ると、最近の学生たちの間では活字というのがあまり意味を持っていないんだなぁということの縮図のように見えて、偉そうに僕も出版業界の現状を悲観してしまうのだった。こうなってしまったらどんどん若者でもとっつきやすいように、マンガを出版しまくるのだ。大抵の小説はマンガで十分だ。その証拠にこの間読んだなんとか、とか言った小説なんかは、カギカッコの文章を読むだけで十分だった。そんなもの小説である必要なんてまったくない。


雨は少しも弱まる気配を見せない。図書室の窓ガラスには休みなく、ちくちくと雨粒がぶつかる音が聞こえていた。もしかするとこのまま何時間も降り続けるのかもしれない。まぁその時はその時だ。僕にしてはポジティブなこの発想も、この不思議でシュールな半魚人の絵がもたらしてくれたのだろうか。


……それしても何度見てもこの半魚人の絵は面白く見えた。言いようもないくらい奇怪でチャーミングな生物だ。この生物が生きて泳いでいる姿、ん? こいつは泳ぐのかな? 一応魚だしでも足が生えているし、陸地で生活? いやいや上半身が魚である以上エラ呼吸だろう、でもベタだって肺呼吸だし


                  「なにこれ、不思議な絵だね」


 僕がそうやって現実には存在しない半魚人の生態について考えていると、急に背後で女子の声がした。驚いて振り返ると、確かにさっきまでは誰もいなかったはずなのに、一体いつからいたのか、御木本さんが半魚人の絵を指差して笑っていた。


「ねぇ、何これ?」


 御木本さんが笑っているのが何だか僕を馬鹿にしているような気がして少しいらつくと同時に、その楽しそうな笑顔を見て、顔が赤くなっている自分を感じた。顔が近すぎるのだ。それに顔が近づくとわかるが、シャンプーの匂いなのか香水の匂いなのかなんなのかわからないが、すごく良い香りがした。僕はその匂いを嗅ぐだけで、肺の中がくすぐったくなり、心がむずむずした。


「マグリットっていう、画家の、絵……みたい」


「へぇ、マグリットっていうんだ。あぁ、でもこれとか、これとか、何かで見たことあるかも。画家の名前までは知らなかったけど、結構有名だよね」


「う、うん……、け、けっこう有名だと……思います」


「絵とか好きなの?」


「ま、まぁ、ぼちぼちっていうか、普通よりかっていうか……」


「何か絵が好きって、かっこいいね」


「そ、そ、そんなことないよ、別に普通だ……よ」


 変に緊張してしどろもどろになって答えている自分に対してさらに恥ずかしさが増し、さっきよりも顔が赤くなっている気がする。ただでさえ湿気で暑いのに顔がどんどん熱くなって、汗がだらだらと流れ、メガネがずり落ちてくるのを僕は懸命に隠そうとしてメガネを外し、袖で汗をぬぐった。男に慣れているであろうこの女になめられてはいけない、そう思って必死だった。汗をかきはじめたこの一瞬で自分自身の汗の臭い匂いがふわんと勝手に僕の鼻腔に侵入してきて、余計に焦る。


「あー、今日暑いよね、よかったらこれ、使う?」


 御木本さんは制服のシャツの襟をぱたぱたとあおぎながら(この行動に、「こいつはこうやって男を誘惑するんだ!」と思いながらも、さらに顔が熱くなった)僕の隣に座り、ハンドタオルを鞄から取り出すと、僕に差し出した。ピンク色で猫の刺繍がほどこしてあるかわいらしいハンドタオルだった。


「ほら、これ使いなよ。汗いっぱいで気持ち悪いでしょ?」


「い、いいよ、タオル、汚れるよ?」


 僕がそう言って椅子を後ろにずらして、恥ずかしいのを隠すように後退すると、御木本さんはその分、椅子を前進させて近寄り、白い歯を見せて笑った。僕の目線は第二ボタンまで外している胸元に移った。その首元には小さなほくろがあった。


「いいの、タオルは汚れるためにあるんだから」


 御木本さんは「それっ!」と言って強引に僕の顔の汗をタオルで拭いた。御木本さんの匂いと同じタオルの良い香りが僕の顔を包み込んだ。「うりうりー」と言って僕の顔をゴシゴシと拭き終わると、「はい」と言って僕の手にタオルを握らせた。


「あとは自分でね」


 もう僕の顔は御木本さんの匂いで充満し、まるで花畑にいるような感覚に陥り、興奮でクラクラした。そんな状態なものだから「はい」「うん」「おう」「オッケー」「イエス」等々……の数あるたった一言の返事すらできないまま、僕が放心していると図書室の入り口から声が聞こえてきた。


「おーい、夏樹。まだかー、先帰るぞー」


「ごめんごめん、もうちょっと待ってー」その声を聞いて御木本さんは入り口の方へそう返事をすると、僕に、「じゃあそれは今度返してね」


 と言い残し、いつの間にか手に持っていた料理の本を貸し出しカウンターの所へ持っていってから図書室を出ていった……と思ったら、ひょこっとドアから顔だけ出して「じゃあね、高原君!」と言って今度こそ帰って行った。


入り口の声がしてから、あっという間の出来事だった。そして、あぁ、なんてことだろう、僕もあっという間に御木本さんのことが好きになってしまっていた……。残ったのは僕自身の汗の匂いが染みついたハンドタオルとほんの少しだけ鼻腔に残っている御木本さんの香り。僕はその香りをむさぼるように鼻をすすりながら、窓を見た。外の雨は少しも弱まらずしばらく降り続いていた。僕の下半身は勃起していた。その夜から、僕の頭の中には御木本さんが住み着きだしたのだった。


 


 美しい思い出に浸っていると、ホームルームが終わり、下校の時間になった。昨日からもう短縮授業になっていて、午前中には授業が終わる。明後日がいよいよ夏休み、つまり明日が夏休み前最後の登校になる。長期休暇中、御木本さんに会えない……。八月十八日に一回だけ、かろうじて登校日があるものの、やっぱりさみしい。


僕は何とかつながりを確保するためにメールアドレスを聞こうと今日の今日まで機会を伺っていたが、結局まだ聞くことができていない。多分、明日も聞けないと思う。情けないものだが、それが現実で、情けない人間が僕だった。


 僕は、はぁ、と溜め息をしながら昇降口に向かった。本当に溜め息しかでない。僕が御木本さんからメールアドレスを聞き出せないのには二つ理由がある。


 一つ目は、御木本さんはなかなか一人にならない、いつでも誰かと一緒にいるということ。トイレの個室の中でしか一人にならないんじゃないかと思うぐらい、いつもだ(いや、もはやトイレの個室ですら変態がのぞき見しているかもしれない)友達の多い人気者だから当たり前と言えば当たり前だ。


そして僕は友達に囲まれている御木本さんにメールアドレスを聞くなんていう、恥ずかしいことをする勇気がなかった。下手をしたらクラスで晒し者になってしまう、御木本さんにちょっと話しかけられたからっていい気になってアドレスを聞こうとする勘違い野郎だと……。今考えると、あの時図書室で会った時が最初のそして最後のチャンスだったのかもしれない。けれどあの時の僕はそこまで頭が回る状態じゃなかったのだから仕方がない。過去を悔やんでも仕方ないのだ。「過ぎ去りしことは、過ぎ去りしことなれば、過ぎ去りしこととして、そのままにせん」という言葉もある。


 二つ目は御木本さんに付き合っている人がいるんじゃないか、ということだ。僕は正直、これが一番怖い。というよりもあの御木本さんだ、いてもおかしくない、いやいて当然のような人だ。


そう、あの日、図書室で「夏樹」、と下の名前で呼んだ声。下の名前! 果たして付き合っていない男女が下の名前で呼び合うものなのだろうか? そういうことにうとい、古典的な恋愛しか知らない(いやそれすらも知らない)僕にはとてもじゃないが、わからない。僕は他人のことを下の名前で呼んだことなんて一回もない。下の名前で呼び合うなんて、とても親密な関係であるか、例えば「太郎」だとか「次郎」だとかの、単調な名前の人でしか起こり得ないことだ。まして、僕の和成という名前は何だか呼びづらく、もし呼ぶとすれば「カズ」という安易な略称になってしまうだろう。まぁ誰にも今までそんな風に呼ばれたことはないのだが。


 話を戻そう、メールアドレスを聞くよりもまず、そもそもに僕にはやるべきことがあった。それはあの日、御木本さんから借りたタオルを返すことだ。僕はあれから一ヶ月以上経つというのに、お恥ずかしながら、まだタオルを返していなかった。返そう返そう、と思ってもどう話しかければいいのかわからず、そのまま今に至っている。御木本さんの後ろの席という最高のポジションを有しているというのに、だ! タオルを返すことが最大のきっかけだと自分でもわかっているのだが、それができない意気地のなさに我ながらあきれてしまう……。これはメールアドレスを聞き出す以前の問題だ。


 昇降口に着いた。自分の下駄箱から靴を取り出した後、ちらりと、「御木本」とネームプレートに書いてある下駄箱を見る。好きになってからというもの、この「御木本」という漢字が異常なまでに、特別に見えるようになった。本屋の大きく「本」と書いてある看板を見るだけで御木本さんのことが勝手に頭に浮かんでくるくらいだった。


 ――御木本夏樹。……高原夏樹。


 ぶんぶんと僕は頭を振った。自分の苗字を御木本さんの名前に付けるなんて、なんて気持ち悪いことを考えているんだ! ……早く帰ろう。


 僕は靴を履いて、早足で学校を出た。まだ昼の十二時を少し過ぎたぐらいで、じりじりと肌を熱する日射しが、けっして新陳代謝の良いわけではない僕の体から汗をたくさん排出させる。夏休み、か。


 


 そしてとうとう、終業式の日となった。夏休み前最後の登校日である。この日最高のイベントは学校のプールが終業式後に夕方まで開放されることだった。割と、多くの生徒が足を運ぶこのイベントに、なんと、あの御木本さんも向かうとのことだった。なぜそれを知っているかと言うと、近くの席であるという利を生かして、こんな会話を盗み聞きしたからだ。


 僕が、朝登校してきて、朝礼が始まるまでの少しの時間、誰とも話すことのない僕は、そんな寂しい状況を誤魔化すために、机に突っ伏して寝たふりをしていると、御木本さんの声が、耳に入り込んできた。


「うん、今日のプール私も行くよ、水着持ってきたし」


 水着! 僕はその発言を聞いて、ちょうど目をつむっていることもあり、鮮明に御木本さんの水着姿をイメージした。あぁ、見たい。僕がそう思っていると、他の男子たちにも御木本さんのその発言が聞こえていたようで、


「オイ、今の聞いたか、御木本さん今日のプール行くってよ」


「マジかよ、じゃあちょっと見に行こうぜ」


「お前、ちょっとどころか体育の授業の時、ガン見してたじゃねーか」


「うるせーよ、まだまだ見たりねぇんだよ」


「てか、今日のオカズ絶対お前とかぶるじゃねーか……」


 こんな風にざわつき始めた。救いがたいアホたちである。僕に聞こえるくらいなのだから、当然、御木本さんや、他の女子にもその声は聞こえていたようで、「マジ男子キモイんだけど」「来るなよ、変態ども」などと言った、女子陣の男子陣全否定発言が始まり、先ほど、エロチックな妄想をしていた僕もそんな女子の言葉のひとつひとつに胸を深々と鋭利なもので突き刺されるような感覚があってびくびくしてしまう。


 正直、僕も他の女子たちに何と言われようが、見に行きたかった。なにせ、普段の水泳の授業の時は通常メガネの僕は最大の補助道具であるそれを外すしかなく、女子たちの姿をまるで見ることができなかったからだ。だから他の男子どもが、


「御木本さんスゲーエロイな」


「あぁ、マジでやばいな……ってお前何妄想してんだよ」


「仕方ねーだろ、ってかそう言うお前も同じようなもんだろ」


なんていうアホな会話をしていることが大層うらやましく、自分の視力の悪さを呪ったものだった。しかし、僕はプールに行くことができない。それは水着を持ってきていないからではない。仮に水着を持ってきていないことが理由なのであれば、僕は僕の履いているトランクスをこれは水着であると言い切り、着水しているだろう。それがどんなに不自然であろうともだ! 本当の理由は単純明快、一緒にプールに行く友達がいないからだ。さすがの僕も決して、恥知らずなわけではない。単独でプールサイドに、しかも前述の通り、トランクスで向かうなんて到底不可能である。もし、きちんと水着を着用してプールサイドに登場したとしても、他の連中から、


「え、あいつなんか一人でプールに来てるぞ、なんでだ?」


「いや、そりゃ女子の水着姿見たいんだろ」


「マジかよ、そこまでするか? さすがにちょっと」


「あぁ、キモイな」


などという陰口を叩かれること必至である。


 でも、僕は自分の気持ちに正直になって言わせてもらえば、水着姿を見たくて見たくて仕方がない。しかもいくら特別にプールを解放すると言っても、ここは学校であり、神聖な学び舎だ。着用する水着は当然、スクール水着である。ここでもうひとつ正直になって話させてもらうと、僕はスクール水着というのが大好きだ。ビキニなどの水着も当然大好物だが、どうにもこうにも言葉では説明できない魅力があのただのポリエステルのかたまりであるはずのそれには詰まっている……。


思うに、スクール水着だとか、制服だとか、はたまたブルマだとかの、ややアブノーマルな衣料を好む人間というのは、学生である時分に女子との交流が少なくて、その時に、まるで闇鍋を煮るかのようにぐつぐつと鬱屈した、さわやかでありながら非常にどす黒い性的な欲求をこじらせている結果によるものなのだと僕は思う。簡単に言えば、自分が実現できなかった、もしくはこれからも実現できないであろう、欲求をシンボル的な衣服に投影させているのだと思う。つまりはもし、今僕に彼女がいて、毎日のようにいちゃこらしていれば、おそらくスクール水着のことをこんなにも愛しくは思わないはずなのだ。


 まぁそのへんの謎の解析は科学者であることか、心理学者などの知識人におまかせするとしよう。朝礼が終わり、終業式が始まるまでの少しの時間を使って、僕はその何としても見たいという欲求を満たすために、クラスでほぼ唯一自分から話しかけられる人物に声をかけてみた。


「や、やぁ、村沢君」


 その人物の名前は村沢純と言った。まぁ簡単に言えば、この男は僕でも話しかけられるレベルの割と地味目な風貌で、誰に対してもニコニコしているため、本当にからみやすく、彼自身、僕のような最下級人物にも、分け隔てなく話しかけてきてくれる、お人よしな奴だ。


「どうしたの? 高原君」


 村沢はいつものようにニコニコと温和な性格を体現したような笑顔で、僕に返事をしてきてくれることに、安堵すると、次なる質問を投げかけてみた。


「き、今日さ、終業式だよね」


「うん、終業式だね、明日から夏休みだ」


「き、今日も暑いよね」


「うん、すごく暑い、耐えられないね」


 僕はその村沢の額から汗をぬぐいとる仕草を見て、これはいける、と期待感をあらわにして、言った。


「じ、じゃあ今日、もしかしてプールとか行ったりとかするのかな……?」


「え、プール?」村沢は何のことだかわからない、という顔をしてから、すぐにその意味を理解したようで「あぁ、放課後のか」


 僕はこくこくと二度で良いところを五回首を縦に振ると、


「行かないよ、プール。僕は今日用事あるしね。高原君は行くの?」


 帰ってきた無情な返事に僕は、「あ、いや、僕も行かないよ」と小さな声で返事をすると、不思議そうな顔をして僕を見る、村沢の視線を無視して、自分の席に戻り、またしても机の上に突っ伏した。


「高原君、どうしたの? 眠いの?」


 僕が不自然に急に机に突っ伏したものだから、村沢は心配そうな声で僕にそう話しかけてきてくれる。


「大丈夫、昨日徹夜しちゃって」とありきたりな返答をすると、村沢はそれに対して「そっか暑いから体調悪くなったのかと思ったよ、良かった、眠いだけなら」と引き続き、優しい言葉をかけてくれる。今の僕に必要なのは村沢には少し悪いが、優しさではなく、御木本さんの水着だった。


「徹夜って何してたの?」


「まぁ、勉強とか、色々」


 さすがに顔を見て話さないのは失礼にあたると思い、顔を上げてからそう返答した。思わず嘘で使った理由を、会話として膨らましてくる村沢に悪気がないことはわかっているのだが、落胆の気持ちでいっぱいの僕にはただただ面倒だった。


「なるほど、成績優秀な高原君は、影の努力があってのことなんだね」


 ふんふん、と感心した様子の村沢の顔を見ていると、素直に照れくさくなってくる。


「僕ももっと、高原君みたいに勉強しないとなぁ」


 村沢の成績は僕の知る限りでは中の中といったところだ。いや、中の中よりは少しだけ良いから中の中の上と言った方が正しいのかもしれない。ちなみに御木本さんの成績は下の下だ。正直、一体どうやってそれなりの偏差値であるこの高校に受かったのかまるでわからないが、あの容姿をひとたび見れば、入学試験はどんな結果であろうと、入学させたくなる気持ちはわかるような気がする。御木本さんの顔を思い浮かべると、またしても、水着姿への未練が水風船のように膨らんできて、今にも爆発してしまいそうだ。


「ところで」そんな破裂寸前の状態の時に、急に村沢が話しかけてくるものだから、びくっとしてしまう。


「ところで僕に何か用事があったんじゃないの?」


「いや、特別、なにかあったわけじゃないんだ」


「特別な用がなくても話しかけてきてくれるなんて、何か少し嬉しいな、あんまり徹夜とかしないようにね」


 村沢は僕の肩をポンと一回叩くと、自分の席に戻って行った。


 教室は夏休みを今か今かと待つように、ざわめいていた。村沢が僕のそばからいなくなると、そんな潮流に自分だけが、乗れていない感覚に陥り、この教室での光景はまるで、スクリーンを通しての世界のように見えて、僕はこの賑やかな世界から孤立しているかのように感じた。いや、事実孤立しているのだ。夏休みなんて、ちっとも楽しみじゃない。




 上の空で話を聞いていた終業式が終わり、教室での最後の終礼も終わると、教室からすぐにクラスメイトたちはいなくなった。僕はそんな勢いにあえて乗らずにゆっくりと荷物を整理して教室を出た。


 帰る間際、僕はプールの方に近づいてみた。プールサイドの光景こそ見えないものの、楽しそうにはしゃぐ男女の声が聞こえた。僕は自分の耳に神経を集中させ、その声の中に、御木本さんの声を探したが、色々な声にかき消されて、まるでわからなかった。


 プールサイドに行けなかったどころか、僕は御木本さんの連絡先も聞けず、話をすることすらできなかった。もちろんタオルも返していない。今日が夏休み前、最後のチャンスだというのに! 


 僕は相当に惨めな気持ちになって、背中を丸くして、駐輪場まで歩いていくと、駐輪場からでもおそらくプールサイドからであろう、楽しそうな声が聞こえてきた。一体、プールサイドはどういう状況になっているのだろう、僕はそこに行きたくて行きたくて仕方がないのに、どうしてこうやって帰ろうとしているんだろう。


 僕は恨めしそうにプールサイドのある方角を見た。駐輪場からはプールサイドを囲むフェンスの一部ですら見えない。僕はさっきよりも余計に惨めな気持ちになって、自転車にまたいで、ペダルに足をかけた。そのままの姿勢で、もう一度、後ろを振り返る。人気のなくなった校舎は僕のことを冷たく見下ろしていた。これから僕は御木本さんを好きになってから初めて夏休みを迎える。初めて長期的に御木本さんを見ることができなくなる。本当にこのまま帰っていいのか? と校舎に言われているようだった。


(僕はこのまま帰る、だってそうすることしかできないだろ?)


 僕は心の中で、偉そうにそびえ立っている校舎に対して悪態をつくと、わざとらしく足元に唾を吐いてから自転車を漕ぎ出した。後ろを振り向いているわけではないが、どんどん校舎が遠ざかっているのがわかった。もうプールサイドの声は一切聞こえない。僕は逆にせいせいとした気持ちになって、立ちこぎをしてスピードを上げた。


 スピードを上げた瞬間、僕はペダルから足を滑らせて、その勢いで体勢を崩して、派手に転んでしまった。


「痛い……」


 派手に転んだ割には、僕の体自体は、膝と肘に軽い擦り傷をしただけで済んだが、衝撃で自転車のチェーンが外れてしまっていて、変形してしまったそれぞれのパーツのせいで、そのチェーンをはめることができなくなってしまっていた。


「マジかよ……」


 学校から家まではまだまだ数キロある。歩いて帰れない距離ではないが、もし歩くとなれば相当な時間がかかる。けれど、僕はどうしたって歩いて帰るしか方法がなかった。どこまでも僕を惨めな気持ちにさせてくれた今日一日を僕は忘れないし、一生恨み続けるだろう。僕は帰り道、車輪がうまく回らなくて、引いて歩くことすら少し困難になっている自転車を引きずりながらずっと何かに対しての苛立ちを隠せずにいた。


僕は家に着くなり、自分の部屋のベッドに倒れこんだ。


「あー、くそぉぉ」


 僕はその何かに対しての怒りをどこにもぶつけられずに、ベッドの上でゴロゴロと転がり続けた。さて、長い長い前置きになってしまったが、こうして苛立ちとともに、夏休みが始まったわけだ。

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