5話:目覚め
継続的な振動が、体を揺らす。
繰り返し送られる外からの働きに、深く沈んでいた意識が引き戻される。
体の感覚はない。
力が入らず、手足の有無から判然としない。
朦朧とする思考の中で、それでも一点に集中すると、外界との隔たりを微かに感じた。
なにかあると感じたものを、懸命に動かしてみる。
酷く億劫で、鉛を被らされたような重苦しさが続く。
諦めそうになるが、苦しみとは幼い頃から縁が深い。だから耐えられた。
もう少しだけと、集中を繋げる。その先に、光が入り込んできた。
揺れ動く世界。複数の色彩を帯びた、風景のさま。
しばらく茫漠と見詰め続け、ようやくそれが目に映る景色だと分かる。
僕が苦労して開けたのは、瞼だったんだ。
注視していると、流れ去る視界の向こう側が、見慣れた場所だと知れた。
広大な魔王城の中程にある大廻廊。
「ん? 目が覚めたのかフユ。まったく大した生命力だよ、お前さんは」
声が聞こえた。すぐ傍から。
しかし声の主は姿が見えない。
聞き覚えのある声ではあるけれど。
「まだ話す力はないだろ。重傷だったからな。領内に侵入した人族の部隊を始末して戻ってみれば、魔王城は血と屍まみれで肝が潰れたぜ」
声を出そうとしても、喉が動かない。
反応しようにも、体の感覚が覚束ず、何も出来なかった。
けれど少しずつ頭は回り始めている。
記憶を擦るその声が、同僚の姿を思い浮かばせた。
尖った茶髪を後ろへ流す、長身で体格のいい男。
手足を覆う黒い竜鱗とニヤケ面が印象的で、草臥れたコートを愛用する魔王親衛隊第八核。
魔王四天王の一角、魔導卿フィルゼの直弟子でもあるルーイン・ヴェルヴェント。
「俺があと少し駆け付けるの遅かったら、お前ホントに死んでたぞ。あのクールなミナトちゃんが、ベソベソに泣いてるからビックリしたっての」
ミナトの名前を聞いて、意識が一気に覚醒した。
頭の靄が直ちに晴れ、思考が急速に巡りだす。
そうだ、僕は聖剣の黒騎士と戦い負けた。奴は魔王様の元へ向かい、僕は致命傷を受けて昏倒した筈。
流石に死を覚悟したけれど、ルーインが助けてくれたようだ。
それで、ミナトは無事なのか?
「安心しろ、ミナトちゃんに怪我はない。今は先行して脱出経路の確保をしてもらってる」
僕の不安を見抜き、ルーインが答えてくれた。
焦りが引いて、安堵が広がる。
彼女が無事でよかった。
「友情に篤い同僚へ感謝しつつ、お前はしっかり休んでろ。最大級の治癒魔法を掛けたからギリギリなんとかなったが、まだ棺桶に片足突っ込んでる状態だしな。無理はすんなよ。どっちみち動けやしないだろうが」
仄かに全身が温かく、時折視界の端に翠の燐光が映り込む。
今この瞬間も、ルーインが治癒魔法を施し続けてくれているようだ。
彼は豊富な魔力と堅固な竜鱗を有する魔族傍系の一つ、黒竜族。魔導知識と実力は本物で、機転も利く。普段は軽口ばかりで不真面目な態度だけど、いざという時は頼りになる。
なにより命を助けられたんだ、感謝してもしきれない。
「状況を説明するぞ。今は魔王城の外を目指してる。魔王様と勇者の野郎が戦い始めて、城全体がヤバそうだ。転移魔法を使いたいところだが、ドデカイ魔力が吹き荒れてる影響で、精密な転移が出来そうにない。だからお前を背負って俺が走ってるワケ」
さっきから続いている揺れは、ルーインが僕を運んでくれているためか。
それに加えて、魔王様と黒騎士の激突による余波も含んでいるらしい。
僕が全力で挑み、それでも結局は奴に手傷を負わすことが出来なかった。尋常でないあの強さは、もしかすると魔王様に比肩するかもしれない。そうなると、勝負の行方は正直なところ分からなくなってくる。
「まかり間違っても魔王様が敗れるなんてことはない、と思いたいが。なにせ勇者の野郎は、かつて人族の踏み込んだことがない魔王城最深部まで、たった一人で斬り込んできたバケモノだからな。もしかすると、もしかするかもしれないだろ。お前さんを養生させるのも安全地帯の方がいいし、ここは逃げの一手としとくもんだ。異論は認めん!」
「す……ま……な……い」
「気にすんな、お前には随分と借りがある。これで何割かは返せただろ」
治癒魔法が効いたおかげか、少しだけ声を出すことができた。
代わりに喉へ重い痛みが走り、軽い眩暈がする。
大量に出血したし、傷も深いだろうから、当然といえば当然か。
「しっかし親衛隊のトップ争いをしてるお前が、こうも手酷くやられちまうとは、マジでとんでもないな勇者ってのは。鉢合わせなかったことは、俺にとっちゃ幸運だぜ。迎撃に上った四天王とも連絡はつかないしよ。出くわしたら生き残れる気がしねぇ」
ルーインの口から、盛大な溜め息が吐き出される。
確かに黒騎士は一対一でどうにかなる相手じゃなかった。
迎え撃った四天王も、全員倒されてしまったのだろうか。オーダン師匠も。
「ルーイン、この先で壁が壊されてる。そこから外に出られそう」
「お、ラッキーだな。でかしたミナトちゃん。それと朗報だ、フユが目を覚ましたぜ」
「フユが!」
弾んだ鈴音声の後で、軽い駆け足が近付いてくる。
体も首も未だに思い通りならないものの、目だけはなんとか動かせた。
足音のする方向を見れば、ミナトの顔が視界に入る。
特段に怪我もなく元気そうだ。本人を見て確認し、実感としての安心が生まれる。
「フユ、良かった」
僕を覗き込んでくるのは、ミナトの不安げな瞳だった。
雨濡れた子犬のように、所在なげに揺れている。
「もう少しだけ我慢して。安全な所に連れて行くから」
一度二度と瞬きを経て、ミナトの瞳から不安の色が払拭された。
入れ替わりに、強い決意の光が灯る。平時の落ち着きを伴う、頼もしい輝きが。
「魔王城から離れれば転移魔法も使える筈だ。そしたら戦線から離れた村にでも連れて行ってやる。そこでゆっくり傷を癒せよ。無茶は厳禁。これ以上、友達が死ぬのはごめんだからな」
「心配ない。私が付いてる」
ルーインとミナトの声を聞きながら、拭い難い睡魔に蝕まれていく。
体の奥底へ引き摺り込まれるような感覚があった。
背筋を這い上る疲労感が、再び意識を霞ませる。
僕に今できることはない。申し訳ないけれど二人に任せ、少し、休ませてもらおう。