隣のヨミコさん(第1話)
学生達の緩い日常を描いた短編です。
楽しんでいただければ幸いです。
──ときに君は、人は何の為に生きているのだと思う?
夜の闇を背景に放たれた唐突な質問に対して、僕は足下に散らばる本を拾い集めながら言う。
「なんですか急に。中二病でも発病しましたか?」
「なんだい。やけに反抗的じゃないか。人生の意味という深遠かつ壮大な問いを第二次性徴期の少年達が陥るコンプレックスであるかのように言うとは。かつてこの問いに対して真摯に向き合ってきた偉大なる哲学者達が聞いたら怒りで君のブログを炎上させた揚げ句に、これみよがしのリストカット痕の写メを『もう、長袖しか着れない……』とかいうコメントと共に送り付けてきて七代先まで祟るぞ」
「それこそ中二病だ。アンタが一番、先人達を愚弄してんじゃねえか……つか先輩、何やってんスか」
「見たら分かるだろう。本を読んでいる」
「いや、僕が言いたいのはそういうこっちゃなくて、何でアンタは僕に部屋の片付けを押し付けておいて、自分は暢気に本を読んでやがるんですかっつう事なんだけど」
嫌味たっぷり、恨みの視線トッピングで僕が言っても、読子先輩は窓枠に腰掛け、手にした本から視線を外そうともしない。
「日頃、色々とお世話してくれている先輩の部屋の掃除ぐらい、嫌な顔一つしないで率先して──むしろ喜んで行うぐらいに男気溢れる奴だと思っていた私の目は節穴だったかな」
淡々と喋る声に、パラリとページを捲る音が重なる。
「アンタが一体、僕の何を世話してくれたのか是非とも聞きたいですがね」
「君の脳ミソは鶏並なのか? 世話してあげたじゃないか。……主に下半身とか」
なに言ってんのこの人?
「ふざけんな!」
「酷い!」読子先輩は本で顔を覆って湿っぽい声を出す。「私との事は遊びだったんだ……」
「事実を捏造すんじゃねえ!」
「やめて怒らないで! ごめんなさい許して! ……お願いだから、お腹の赤ちゃんだけは……」
「設定を膨らませるな! ていうか大声出さないで下さいスイマセン僕が悪かったですお願いですから黙れよこの野郎」
先輩は本で口元を覆ったまま、目元だけでニヤッと笑った。
この人、最低だ!
ただでさえ壁が薄い上に、この寮に住むのは話題に飢えた暇な学生達だ。変な噂が立ちかねない。
というか、こんな時間に読子先輩の部屋を訪れているなんて他の男共に知られた日には、僕はボロ雑巾のようにされた挙句に十字架に磔にされ、改造車のボンネットマスコット代わりにされるだろう。嫌だそんな怒りのデスロード。
しかし、目の前の女がどれだけ悪意ある冗談を言ったところで、そんな色っぽい状況にはならない。それは僕が草食系男子だとか特殊な性的嗜好を持ち合わせているだとか同性愛者だとかEDだとかそういった事では無く、僕が健全かつ普通な若者であるからこそ──、
この部屋で、そんな事をする気にはならない。
今時、漫画やドラマの中でしか登場しないような木造二階建ての古風なアパート(と言えば聞こえは良いが要はボロだ)の二階。
その一室は本で溢れていた。
比喩ではなく誇張でもなく、溢れていた。
分類も判型もバラバラの多種多様な本が、所狭しと積み上げられている。一応、本棚は有るのだが、そこに収まりきらなかった本が床を、机の上を、寝床ですら浸食し、もはやこの部屋の中で無事なのは天井のみといった有様である。
饐えた紙とインクの匂いが充満し、それだけで酔いそうだ。
横を見ても下を見ても本、本、本、本、本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本本……とにかく本だらけ。
こんな部屋をどう片付けろと言うのか。現代の消防法に適合しているのかも怪しいこの骨董品じみたアパートで、これだけの本が燃えたら即全焼間違いなしだろう。
そんな事を考えている傍から、先輩は煙草に火を点けて美味そうに吸い出した。
「……アンタには危機意識ってモンが無いのか」
「うん? なんだい。君は私の身体の事を気遣ってくれるのかい」
「いや。アンタが肺ガンで死のうが脳卒中を患おうが知ったこっちゃないんだが、この部屋が燃えたら間違いなく隣の部屋に住む僕まで炭化する羽目になるんだよ」
冷たいねえ、と先輩は他人事のように言いながら煙を細く吐く。
「火葬の風習がある以上、この国の人間は死んだら誰だって灰になるんだよ……ふむ」
死んで灰になるのと灰になって死ぬのでは全然違うだろうが、先輩は意に介する素振りも無く、ポンと手を打つ。
「人は何の為に生きるのか……それは灰になる為だ。ふふん。なかなか気が利いてる」
バケツに水を汲んで頭からぶっかけてやろうか──。
半ば本気でそんな事を思っていると、
「ほらほら。さっきから手が止まっているぞ。早く片付けないと朝になってしまう」
そう言いながら自分は窓柵に腕を乗せ、煙草の灰をビールの空き缶に落としながら読みかけの本に視線を戻した。
ぷつん、と頭の中で何かが切れる音がした。
「うがああああ!」
僕は叫びながら足を、どんと踏みならす。
「なんでアンタは僕に丸投げ──」
「危ない!」
してんだよと続けようとした僕の言葉は先輩の声に遮られた。
無数の影が僕の足下に落ち、一瞬、部屋の照度が落ちたように感じられ、視線を上に向けると天井近くまで積み上げられた本が雪崩のように、
(やっべ……)
僕に崩れかかってきた。そして世界は暗転する。
ゆっくり目を開けると、淡く霞んだ視界に焦点が合い始め、天使の輪のような蛍光灯のぼんやりした灯りが見えた。
「──気がついたかい?」
上下逆さまになった先輩の顔が僕の視界に割り込んでくる。驚いた僕の両頬にヒヤリとした感触が伝わり、それが先輩の手である事に気付くのに1秒。僕の頭が先輩の太腿の上に乗っていることに気付くのに更に2秒かかった。
フフフ、と先輩の口から笑いが漏れる。
「あのまま本に押し潰されて圧死というのも、君の平凡な人生を彩るには充分過ぎるほどに劇的かつ詩的な最期だったがね」
「……そんな間抜けな最期は御免です」
言いながら僕は身体を起こす。正直、太腿の感触が名残惜しくはあったが。
「気分はどうだい?」
「まあ、ボチボチ……」
ほら、と言って先輩は透明な液体の入ったグラスを差し出した。
「これでも飲みたまえ」
僕はグラスを受け取り、中の液体を一気に飲み下した。そして次の瞬間、
「────ッ!?」
腹の中が一気に熱くなり、ゴホゴホと噎せた。
「あーあ。君も豪気な男だねえ」
ノンビリとした口調で先輩は言う。
「飲めとは言ったが、何も一気飲みする事はないだろう」
「テメエ、なに飲ませやがった!」
問い詰める僕の眼前に、ずいっと酒瓶が差し出される。
「鹿児島の友人が送ってくれた焼酎だよ。本来なら君のような貧乏学生が口にする事など叶わない極上の酒なんだが、部屋の片付けを手伝って貰った礼に供しようと思っていたんだ。どうだい? 飲みやすかっただろう?」
その言葉に、僕はハッとした。確かに、飲まされたのが普段、居酒屋で飲むような安物の焼酎だったなら口に含んだ瞬間に吐き出していただろう。なにせ僕は、水だと思って口に運んだのだから。
飲んだ直後は一気に広がった腹の熱さも、今ではポカポカとして、むしろ心地良いぐらいだ。
──本当に、良い酒なんだな。
「なんだ、その顔は」
ムッ、とした表情で先輩が言う。
「君は私が、可愛い後輩を無償でコキ使うような輩だとでも思っていたのかい」
「メチャクチャ思ってました」
「君という男は……」
先輩は、ふう、と溜息を吐き、
「まあいい。正直は美徳だ。……ほら。今度はちゃんと味わって飲むんだぞ」
そう言って空になった僕のグラスに酒を注ぎ入れてくれた。
今度は少しずつ口に含みながら僕は言う。
「……すみません。部屋、逆に散らかっちゃいましたね」
「いいさ。目的は果たした」
「え?」
「実は、部屋の片付けを頼んだのは、この本を探したかったからでね」
そう言う先輩の手には分厚い一冊の本。
「これこそが君の頭を殴打し、昏倒せしめた張本人……もとい、張本『本』なのだが」
僕はその本の背表紙に目を凝らし、タイトルを読む。そこには、『ウル技 大技林』の文字。
「うっわ懐かし!」
それは何年も前に刊行されたゲームの攻略本だった。ネットで何でも調べられる昨今、もはや絶滅危惧種と言っていい代物だ。
「いやあ、助かったよ。押し入れの奥からファミコンが出てきたから久々に昔のRPGをプレイしてみたんだが、どうしても見つからないアイテムがあってね。実に歯痒い思いをしていたんだよ。あはははは」
「………………」
「ところで、ものは相談なのだが……」
大体のオチは読めたが、こんなキラキラした顔で頼まれたら断れないだろう自分の人の良さを確信しつつ、僕は聞く。
「……なんですか?」
「今度は肝心のファミコン本体が行方不明だ。探すのを手伝ってくれ」
この作品は実は10年近く前に書いて、そのまま眠っていた作品です。今回、思い切って小説家になろうにエントリーしたので、多少の修正を加えて掲載しました。ところどころに時代を感じるのはそのせいです。