桃香の過去(上)
私の名前は相葉桃香。母と同じ桃色の髪を持つふくよかな女子小学生だ。もう少し正確に言うと顔とお腹は贅肉でたるんでいるし、短距離を走るだけですぐに滝のような汗が流れ出して、豚のようにフゴフゴと濁った声を漏らし、疲労で足が止まってしまう。
父は太った私でも好きだと言ってくれたが、母から受け継いだ桃色の髪以外は殆ど褒めてはくれなかった。そして彼が愛している母の顔を、私はおぼろげにしか覚えていない。
いつか母が帰って来て復縁すると事あるごとに口に出している。だが今まで何年も二人っきりで過ごしてきたが、そんな気配は全くなかった。
話を戻すが自分は元々太ってはいなかった。至って普通の女の子だった。しかし日本人とは明らかに違う桃色の髪が苛めの標的になった。そして私が嫌なことを忘れるために暴食に走った結果、悪循環に嵌ってしまったのだ。
小学校に入学した頃には既に肥え太っており、桃色の髪の女子が悪目立ちするのは、もはや必然と言えた。
何度もこの目立つ髪を日本人らしく黒に染めようとした。だがそのたびに父が大反対して酷いときは暴力まで振るわれた。なので結局、桃色のまま過ごすことになった。
そこから先の日々過激になっていく苛めの内容は思い出したくない。
結果的に私は心が折れて人間不信になってしまい、今の環境から逃げることを選んだ。都会の学校から離れて知らない場所で、また一から人間関係を築きあげる。
とは言っても、見た目が肥え太った豚で桃髪の小学生なので、何処に行っても同じ扱いを受けるかも知れない。
だが今の学校にはもう通える気がしなかった。登校拒否になって半年近くも家に引き篭もっている。
外に出ることを考える足がすくんでしまい、一歩も動けなくなる。常に父にくっついていないと、とてもではないが怖くて表を歩けない。
見知らぬ他人と話すなんてもってのほかだ。それ程までに今の私は心身共に、疲弊してしまっているのだ。
そして都会の小学校の転校の手続きを済ませて心機一転で引っ越しを行う。やって来たのはとある田舎だった。
空気が綺麗だとか自然が豊かだとかの癒やし目的ではないが、接する人が少ないほうが私の対人恐怖症も和らぐ…と、父の友人からそのようなアドバイスを受けたらしい。
私は新しい生活とこれから出会う見知らぬ人に緊張状態だ。しかし気持ち的には落ち着いている。
周りには田んぼや畑ばかりで相葉家以外の住居はない。一番近いお隣さんまで、かなりの距離を歩く必要があった。
父以外の他人と無理に関わらなくて良いなら、それに越したことはないのだ。
引越し業者の荷運びが終わり、まだダンボールの中に入っている物も多いが、寝泊まりするには問題なくなったことを確認する。
あとは日常生活を送りながら、ゆっくりと整えていけばいい。
これからお隣さんに引っ越しの挨拶に向かうが、桃香も来るか? …と父が聞いてきたので、まだ少し怖いが親が一緒なのだ。
それに新しい場所にやって来たせいか、今はワクワクしている。私は迷いながらも小さく頷いて、おずおずと父の手を取ったのだった。
新しい相葉家の玄関から外に出て、古臭い引き戸に鍵をかける。六月の良く晴れた日に、お隣さんまで真っ直ぐ歩いて向かう。
周囲には田んぼや畑、あとは山と草地しかないど田舎らしい。時々農作業をしている人とすれ違うが、こちらを興味深そうに観察するだけで話しかけては来ない。
父の後ろに隠れていても、知らない人との会話に恐怖を感じる私にとっては、ありがたいことだ。
「僕が挨拶するから、桃香はじっとしてるんだよ」
「うっ…うん」
かけられた表札には森久保と書かれており、三人家族らしい。父が玄関のインターホンを押すと奥から足音が近づいて来た。そしてすぐに引き戸がガラガラと開けられて、大人の女性が顔を覗かせる。
彼女は最初に父に怪訝そうな視線を向けて、次に私を見下ろして少し驚いたような顔をする。
「こんにちは。僕たちは…」
そこから父は彼女に引っ越しの挨拶を行い、持ってきたタオルセットをそっと渡す。女性はご丁寧にどうも…と、お礼を返す。そのあとに家の奥にゆっくり顔を向けると、大声で誰かの名前を呼んだ。
すると私と同じ年頃の女の子が廊下の向こうからこちらに歩いて来る。少女は自分たちのほうに顔を向けて、次に大人の女性と会話を交わす。
「えっ? お隣さん? 確かずっと空き家だったよね?
別にいいけど、お母さんのお茶菓子も出させてもらうからね」
そのまま森久保家の母親と娘はしばらく話し合ったあと、黒髪癖っ毛の女の子が私を真っ直ぐに見つめて、優しく声をかけてくる。
「アタシは森久保沙紀。貴女は? もし良かったら名前を教えてよ?」
「えっ! あっ…その…! あっ相葉…桃香…です」
「そっか、桃香ちゃん。大人の話が終わるまで奥の部屋に行って遊んでようか」
知らない人と話すのはとても怖い。沙紀ちゃんと会話するのも緊張でしどろもどろになってしまい、後半は蚊の鳴くような声だ。
しかし彼女はそんな私の様子を気にすることなく、一緒に遊ぼうと誘ってくれた。これはお隣さんとしての最低限の気遣いだろう。
しかしまだ子供の私が気づくわけがなく、とても嬉しく感じてコクリと小さく頷くのだった。
森久保家の居間に案内された私は、沙紀ちゃんが二人分の座布団を敷いてくれたので、ありがとう…と小さくお礼を言って片方に座らせてもらった。
「どうぞ。適当にくつろいでよ」
「あっありがとう、森久保…さん」
その後、冷蔵庫から麦茶2Lペットボトルとガラスのコップ、市販のバタークッキーを持ってきて古いちゃぶ台の上に広げる。
彼女も座布団の腰をおろして楽な姿勢になる。ちなみに私は正座でまだ緊張気味だ。
「沙紀でいいよ。お互い年も近そうだしね」
「うっうん、さっ…沙紀ちゃん!」
私は都会の小学校で苛めを受けて引っ込み思案になり、かつての友達も一緒になって責める側に回り、その結果に暴食による肥満と対人恐怖症で人付き合いも苦手になる悪循環に陥ってしまった。
もはや忌まわしい過去を修正するのも不可能になり、逃げ出した先の新天地で再スタートに賭けるしかなくなった。
さっそく友達ができたので嬉しいものの、興奮状態で体が汗ばんで顔も熱くなり、呼吸もフゴフゴと荒くなって、まるで豚のようだ。
ともかく彼女は、父を除いて今まで会った人の中で一番親しくなったわけだ。そんな情けない私に、沙紀ちゃんが申し訳なさそうに声をけてくる。
「ええと、桃香ちゃん。悪いんだけど、テレビゲームしていいかな」
「えっ…えっ? あっ…うん、どっどうぞ」
「ありがとう。いいところで中断してたんだよ」
私が許可した途端に、沙紀ちゃんは嬉しそうな顔に変わる。そして最近の機種である薄型ではなく奥が厚いテレビと、そこに繋がれた古いゲーム機のコントローラーを手に持つ。
ボタンを押した瞬間に止まっていた画面が動き出し、赤い帽子を被ったおじさんが亀を踏んだり土管に入ったりと、忙しく走り回る。
私は心の奥底では、沙紀ちゃんと話すのを怖がっていた。なのでテレビの画面と表情がコロコロと変わる彼女を交互に眺める。
「さっ、沙紀ちゃん。このゲームって、ど…どんな内容なの?」
「魔王に攫われたお姫様を取り戻すために、配管工のおじさんが敵を倒しながら先に進む内容。…だったかな?」
「そっ…そうなんだ」
姫が魔王に攫われるのはわかる。だがそれを取り戻すのは勇者様か王子様の役目ではないのか。何故配管工が出張ってくるのかはわからない。
しかし沙紀ちゃんはとても楽しそうに遊んでいるので、そんな彼女を後ろから眺めているだけでも、私は心が暖かくなって幸せな気持ちになれた。
しばらく観察を続けていると玄関に居る父から声がかかった。これから沙紀ちゃんの母親と一緒にご近所巡りをしてくるので、付いて来るか森久保家に残るかを選ぶようにと言われた。
私は迷うことなく森久保家に残ることを選んだ。正直知らない人と会うのはまだ怖い。だが目の前の沙紀ちゃんは優しくて怖くはなかった。
「さっ…沙紀ちゃんに教えてもらうから、いっ今は、…別にいい」
「まあアタシもそこまで詳しくないけどね。…っと、ようやくピーチ姫救出だよ」
「ぴっ、ピーチ姫?」
「お姫様の名前だよ。日本語だと、ええと…桃姫になるのかな?」
桃姫とは私の名前にそっくりだ。でもテレビの画面に映っているような可愛らしいお姫様と、豚のように肥え太った醜い自分とでは似ても似つかない。
現実を思い知らされると悲しくなる。沙紀も私のような不細工の相手をさせられて、内心では迷惑に感じているかもと、気が重くなる。
「桃香ちゃん暇でしょう? 次は二人プレイで遊ばない?」
「いっ…いいの?」
「いいのいいの! 地元では年が近くて気軽に遊べる子が少ないから、協力プレイに飢えてるんだよ!」
こっちの返事も待たずに、沙紀ちゃんは機材の別の穴に2Pコントローラーを挿してゲームソフトを交換しながら、気楽に話して聞かせてくれる。
何でもここは見た目通りの田舎で子供の数は少ない。小学校は木造校舎で、一年生から六年生までの全員が一クラスに集まっているらしい。
そして沙紀ちゃんと同い年は彼女一人しか居なかったらしく、そこに性別も年齢も一緒の私が引っ越してきた。
他の学年の子供との仲は悪くはないのだが、家が離れているためにどうしても疎遠になってしまう。
そして少し恥ずかしいが、初日に沙紀ちゃんと初めて遊んだテレビゲーム。そこに登場するピーチ姫に私は何故か強烈な憧れを持った。
魔王に攫われたお姫様を助けるのは、殆どの物語では格好いい勇者様か王子様だ。でもあのゲームの中では配管工のおじさんなのだ。
そういう世界があってもいいのだと思って、居間で二人で仲良くテレビゲームを遊びながら、隣に座っている沙紀ちゃんに尋ねた。
「もっもし、私が魔王に攫われたら、沙紀ちゃんは、たたたっ…助けに来てくれる?」
「そりゃ友達だからね。もちろん助けに行くよ。
あー…でも、アタシって運動苦手だから残機が足りないかも」
沙紀ちゃんはきっと冗談だと考えただろうが、私は本気だった。そして彼女はゲームを例に出して気軽に答えてくれたが、自分は心底嬉しく感じたのだ。
父も普段から私を気遣ってくれるが、それは桃色の髪の向こうにある母の幻を追っているだけだ。娘の私を愛しているわけではない。
だが目の前の沙紀ちゃんは会ったばかりの豚のように醜い姿の私を、同い年で対等な友達として扱ってくれている。
「わっ…私、ピーチ姫になりたい!」
「えっ? 桃香ちゃんってお姫様だったの?」
「そうじゃないけど! それぐらい…きっ、綺麗なお姫様になって、そっそれから!」
思いつきの夢なので、どうやったらなれるかはわからない。だが今の私の頭の中には、豚ではなく痩せて綺麗なお姫様のドレスで着飾った自分が、赤い配管工の服を着てS書かれた帽子を被った沙紀ちゃんに助けられている場面が、胸いっぱいに広がっていた。
「お姫様かぁ。だったら桃香ちゃんの将来はアイドルかな?」
「あっ…アイドル?」
「この間のテレビでライブ中継が映ってたんだけどね。
舞台の上で歌ってた女の人が、ファンの人たちからお姫様扱いされてたんだよ」
実際には違うかも知れないけど、何かそんな感じに見えた…と、沙紀ちゃんが答えてくれたので、私もぼんやりと考えてみる。
お姫様にはどうやったらなれるのかはわからない。でもアイドルならテレビに何度も出ているので、調べれば将来の道筋もわかる。
だがそのためには、まずはダイエットと美容に適した生活を送らなければいけない。
「あっ、アイドルって…皆、綺麗な人…だよね」
「そうだね。でも桃香ちゃんも、ええとー…綺麗な髪をしてるし大丈夫だよ。多分!」
「そっ、そこは…絶対って、いっ…言って欲しかったな」
初めて父以外の人に桃色の髪を褒められた。沙紀ちゃんに綺麗な髪だと言われて、私は嬉しくなって無意識に顔をほころばせる。
逆に彼女は苦笑を浮かべて頭をかきながら、ごめん…と謝罪する。そんな沙紀ちゃんを見て嘘がつけない性格なのだと感じた。
私は沙紀ちゃんと友達になれて本当に良かったと、心の底からそう思った。今は豚のように醜い笑顔だが、すぐにお姫様…ではなく、アイドルの頂点に立つ。そして誰もが見惚れる立ち振る舞いを身につけるのだ。
桃色の髪は苛められる原因だったので嫌いだが、目の前の友達が綺麗だと褒めてくれたので、今は大好きになった。
いつか私がトップアイドルになったその時は、目の前の沙紀ちゃんを招待して特等席で見てもらうのだ…と、興奮して汗が滲む両手を強く握りしめるのだった。




