魅了の歌声
次の日、窓から差し込む朝日を感じて巨大なアコヤガイのベッドで目覚めたアタシは、両側から抱きついて気持ち良さそうに寝息を立てる美人魚姉妹を見つけて、昨夜のことを思い出した。
そして脱いだ覚えがないのにアタシは下着姿になっており、二人の水着も乱れていた。幸い上着はすぐ近くに綺麗に畳まれていたので姉妹を起こさないように気をつけてベッドから離れて、手早く着用する。
妙な汚れや体に異常はないので何もなかった。そう、きっと何もなかったのだ。
思えば長居をしたものだ。本当はすぐにでも地上に帰らなければいけないはずなのに、気づけば一夜を明かしてしまった。
まさかファーストキスを姉妹に奪われるとは思わなかったが、だがあれは飢餓状態に耐えるための緊急避難的な措置なのだと割り切る。
姉妹はアタシの空腹を満たそうとしただけで他意はなかった。それよりも今は地上に戻る手段を探すことが大切だ。
ベッドの上の姉妹は起こすと昨日と同じで離してもらえないと予想して、申し訳ないが放置を決める。
二人の声を聞いていると逆らう気がみるみる萎んでいくのだ。アタシを慕ってくれるのは嬉しいが、ずっとここに留まるわけにはいかない。
と言っても帰り方を知っているわけではないので女王に尋ねるのが確実だろう。
ここに来たばかりのときは普通に話していたが、自分から声をかけるのはやはり緊張する。それ以前に部屋の外がどうなっているのかすらわからない。
そんなことを考えながらイルカスリッパを履いて唯一の出口に歩いていくと、あと数歩という距離で扉は向こうから開かれた。
「あら、起きたのね。昨日は娘たちと遊んでくれてありがとうね。
あんなに楽しそうに遊ぶ二人を見たのは久しぶりだわ」
「はっ…はあ、そっ…それはどうも」
探す手間が省けたが心構えが出来ていなかったので、若干口ごもってしまう。しかしこっそり覗いていたとは、こっちでもアタシのプライバシー保護はガバガバである。。
何にせよ話を切り出すなら今しかない。アタシは確固たる信念を持って口を開こうとする。
「もちろん今日も、娘と遊んでくれるのよね」
「えっ? そっ…それは、でも…アタシは」
「二人共、貴女のことをとても気に入っているの。まるで本当の姉…いえ、それ以上に慕っているわ」
「それは嬉しいけど、でっ…でも」
地上に帰りたいという気持ちがどんどん萎んでいく。別に威圧されているわけではなく、女王は好意的に歓迎してくれている。それをはっきりと断れば済む話だ。
しかし何故か出来ない。アタシの帰りを待つ人たち会うことよりも、目の前の女王の言葉に従ってしまう。
「ねえ、地上なんかに戻らずに、ここで暮らしましょうよ」
彼女の言葉を聞いてアタシは思い出した。地上に残っている森久保除霊事務所の大切な友達のことを、そして何としても帰らなくてはいけないと心を奮い立たせる。
「悪いけど、あっ…アタシは地上に帰るよ! もうお礼は済んだよね! だから、かっ…帰してよ!」
「そう、残念だわ。ここに残りたいと、貴女の口から直接聞きたかったのだけど」
女王がそう言った瞬間、アタシはヘナヘナと床にへたり込んでしまう。全身にまるで力が入らない。
だがこの感覚には覚えがあって、エルザの憑依に似ていた。ただし守護霊と違うのは体だけでなく心まで支配されることだ。
「なっ、何…これ? うっ…歌?」
「美しい歌声でしょう? 海の底から船乗りたちを誘惑するのよ。
沙紀を導いたときは距離が離れていたけど、今はすぐ近くでの合唱よ」
体の自由が効かないため振り向くことは出来ないが、アコヤガイのベッドで寝ていた二人が目覚めてアタシに向かって美歌を聞かせている。
息の合った合唱は自分に休む暇を与えず、へたり込んだ体から逆らう気力を奪っていく。
瞬く間に座った姿勢すら維持できなくなり、やがて心身共にフニャフニャ蕩けてだらしなく顔を緩めたまま、床に仰向けに倒れてしまう。
「お姉ちゃん! 私たちともっと遊ぼうよ!」
「沙紀お姉ちゃんの可愛いトコロ、もっ…もっと見てみたい」
「やっやめ…やめれえぇ…!」
二人の合唱にウットリと聞き惚れながらも、蚊の鳴くような声で辛うじて抵抗の意思を見せる。段々と姉妹の声が近づいてくるのがわかり、それに比例してアタシの反骨精神はみるみる萎んでいき、代わりに圧倒的な多幸感が心の隅々まで塗り潰していく。
「必死に耐えるお姉ちゃんも可愛いね!」
「まだ逆らえるなんて凄い。そんな逆らう沙紀お姉ちゃんも、すっ…素敵」
やがて近づいてきた二人に床で仰向けになっているアタシの両腕を掴まれ、水中を泳いでアコヤガイのベッドの上まで丁寧に運ばれる。
「やっぱり歌を聞かせるなら、ここじゃないとね!」
「昨夜もたくさん聞かせてあげたの。沙紀お姉ちゃん、ほっ…褒めて」
優しく寝かされたアタシは美人魚姉妹に左右から挟まれて、彼女たちはこちらの耳元にそっと口を寄せる。
それはもう吐息がかかる距離であり、たとえ囁き声でも、今の自分では何の抵抗も出来ずに身悶えしてしまう。
「お姉ちゃんって、耳元で囁かれるのに弱いんだよね!」
「歌声を直接聞かせるの、昨日はとても喜んでくれたの」
そう言われても全く覚えがない。それでも姉妹の美声を聞くたびに全身がゾクゾクと震えることから体はしっかり覚えているらしく、まだ始まってもいないのに完全に無抵抗になって、二人を受け入れる気満々のようだ。
「お姉ちゃん、今度は歌声だけでなくて、最後まで可愛がってあげるね!」
「昨日は上着を脱がしたところで、私たちが眠くなったから中断したの」
つまり昨晩は耳元での合唱で意識を飛ばされて、上着を脱がされたところで終わった…と、全然嬉しくない事実が明らかになる。
だが今度は最後までしてくれると言うので、アタシはあまりの嬉しさで全身が期待に震える。
「嬉しそうだね! お姉ちゃん、私たちも同じ気持ちだよ!」
「私たちも、たっ…たくさん可愛がってね」
顔を赤らめたアタシは喜んで首を縦に振り、姉妹と自分のお互いの愛を受け入れる。もはや地上に帰りたいとは欠片も思わず、ただ美しい歌声にウットリと聞き惚れながら、夢見心地まま二人と体を重ねようとする。
だがそこで何故か、女王から待ったがかかった。
「そろそろ頃合いね。沙紀、私たち人魚の眷属にならない?」
耳元で響いていた姉妹の歌がピタリと止んで、女王の声がはっきりと聞こえる。人魚の眷属ということは人間を止めて人外になることだ。
もしかしたらアタシも人魚の仲間入りをするのかも知れない。
「そうすれば姉妹が貴女のために作った歌を毎日のように聞かせてもらえるわよ」
即興の歌でも腰砕けになってまともに動けないのだ。もしアタシのためだけに歌ってもらえたら、心も体も途方もない幸せで満たされることだろう。それはとても甘美な誘惑だが同時に恐ろしくも感じた。
一晩寝ても正気に戻ることはなく、美人魚姉妹の永遠の虜になることを意味する。だが彼女たちは堕ちることを望んでいる。
眷属になったアタシと毎日楽しく遊ぶことを、心の底から望んでいるのだ。
「最後の一歩は、貴女が踏み出すのよ」
歌が止んで正気を取り戻しても心の半分以上は姉妹が占めている。そんな状態でまともに頭が働くわけがない。
「お姉ちゃん、私たちとずっと一緒に遊ぼうよ!」
「沙紀お姉ちゃんと気持ちいいことしたいの。…駄目?」
たとえ歌でなくても、二人は両側からアタシに抱きついたまま耳元で囁いてくる。その美声に霊力をまとわせることで強い催眠作用を引き起こし、一般人の自分は否応なしに甘い夢の世界に引きずり込まれる。
そんなフニャフニャに蕩けきって、芋虫のようにモゾモゾと身動ぎすることしか出来なくなったアタシを満足そうに眺め、妖艶に笑い合う姉妹がとても蠱惑的に見えて、同時に愛おしくも感じられる。
もはやこうなってしまった以上、アタシの意志で魔性の底なし沼に沈んでいくしか道しか残されていなかった。
「あっ…あ…アタシは、人魚の眷属に…」
「そこまでじゃ!」
喜び勇んで魔性に堕ちようとしたところで、突然聞き覚えのある声が室内に響いた。それと同時にアタシは長い夢から覚めて、意識が急激に浮上する。
両脇に抱きついている美人魚姉妹と少し離れた位置にいる女王は、驚愕の表情で唯一の出入り口の扉の向こうを見ている。
そこには何と、川の神のミズチが鬼の形相で仁王立ちしていた。
「沙紀の帰りが遅いと思って来てみれば! これは一体どういうことじゃ!」
ミズチは室内に入って扉を閉めてすぐ近くに居る女王を睨みつけると、怒気を込めた言葉を投げつける。
何故彼女がこの場に立っているのかはわからないが、アタシはようやく助かったと思い、アコヤガイのベッドから身を起こそうとする。
「駄目っ! 行かないで!」
「さっ…沙紀お姉ちゃんは、私たちの本当のお姉ちゃんになるの」
「……にょわ!?」
美少女姉妹による抱きつきが強まり、苦しくはないが身動きが取れなくなる。非力なアタシを二人がかりで押さえ込めば当然そうなる。
水中は人魚の独壇場であり、たとえ美声で誘惑しなくても腕力でも万に一つも勝ち目はない。
「ふっ二人共離して! 何でこんなことをするの!」
「えっ? だって…ねえ?」
「そっ…それは、…その。えっ…えへへ」
川の神が直接乗り込んできたので、もはや隠し通すのは不可能と判断したのか、姉妹はアタシを逃さないように密着したまま、女王ではなく彼女たちが恥ずかしそうに説明を始める。
こうなったことの原因はアタシを助けに単身で乗り込んできたミズチにあると言う。この発言を受けて川の神は、嘘を言うでない! …と激高するが、取りあえず最後まで聞いてみるようにとなだめすかす。
「今は沙紀に免じて許そう。じゃが、もし嘘じゃった場合は覚悟することじゃ!」
取りあえず川の神は扉の前からアタシの近くに移動して、手頃な椅子を引き寄せて腰をおろす。本体では家の中には入れないので、当然の青い長髪の少女の姿を取っている。
女王は外の警備員に一切の手出し無用と声をかけ、続いて各員持ち場に戻るようにと命令を下すのだった。




