人魚の隠れ里
幽霊船団の除霊が終わって、濃霧も少しずつ晴れてきたことでようやく一安心する。やることは済ませたので低空に浮かんで皆を待っていると、ふと誰かの声が聞こえた。
周囲を見回したが当然のように人影は見当たらずに静かなものだ。
やはり気のせいかと思い直した瞬間、美しい歌声がまるで耳元で囁かれるように響き、アタシは突如として全身の力が抜けて海面に落下してしまう。
「……にょわっ!?」
(嘘!? 沙紀の支配権が!)
原因は不明だがエルザの憑依が突然効かなくなったのだ。彼女が宿っていることは伝わってくる。だが霊力を操るのが困難なようで、飛行を維持できなくなった。
低空だったのが幸いして落下で海面に叩きつけられることこそなかったが、周囲に掴まる物は何もない。
「あばばばっ! 溺れる! 溺れるうぅ!」
(何者かが沙紀の体を奪いましたのね! 早く何とかしないと!)
守護霊として肉体の支配権を取り戻そうとしているが上手くいかないらしく、その間にもアタシの全身は水底に沈んでいく。
何故か浮力が全く働かずに、しかもいつの間にか自分でも手も口も動かせなくなり、海底を目指して一直線に進んで行く。
(あー…これは溺れ死んじゃうかも。でもまぁ、それもいいかなぁ)
(何を呆けたことを言っていますの! いやっ…これはもしや!)
体の自由が一切効かずに海底に引きずり込まれるなど、悪夢以外の何ものでもない。それでもアタシは取り乱すことなく、今はとても落ち着いていた。
何処からか聞こえてくる美しい歌声により、自分の中の恐怖心が幸福感によって塗り潰されてしまったのだ。
この歌を聞けるのなら、この場で死んでも何の後悔はないと、自信を持って言い切れてしまう。
(ああ、もう…どうでもいいや。何だかとっても、…いい気分だよ)
(人魚かセイレーンか知りませんが、私の沙紀をどうするつもりですの!)
エルザが怒鳴っている気がするが、何処か遠くに居るようでよく聞こえない。それとは逆に歌声はますます近くなり、息苦しさも感じることなく多幸感で満たされる。
周りの全てが夢のようにぼやけていき、いつしかアタシは完全に脱力しきってしまい、誰かに誘われるがままに暗く冷たい海底に沈んでいく。
(あれは次元の裂け目! なっ…弾かれっ…!?)
最後にエルザが何か叫んだが、アタシは歌声によって作り出された心地良いまどろみに耽っており、もはや外に意識を向けることも億劫になっていた。
そして海中に空いた妙な穴に飛び込んだことをぼんやりと感じていると、このまま瞳を閉じて休むようにと甘く囁かれる。
その歌声を聞いたアタシは幸せに包まれ、逆らうことなく深い眠りに落ちていくのだった。
目が覚めたアタシは自分が見知らぬ場所に居ることに気がつき、一体何があったのかを必死に思い出そうとする。
幽霊船団の除霊は上手くいった。問題が起きたのはその後で、突然美しい歌声が聞こえかと思えば、そこから先は頭の中に霧がかかったかのようにはっきりしない。
いつもアタシに宿っている守護霊のエルザも感じられないし、他の森久保除霊事務所のメンバーの姿も見えない。一体自分の身に何が起こったのか皆目見当がつかないのだ。
それに今自分が寝転がっている巨大な真珠のアコヤガイを開いたベッドに、王侯貴族が使うようなクッションを敷いたような寝具も変だ。
家の壁や天井もやたらと高さと広さがあり、何だか巻き貝の内側のように見える。さらにはあちこちにガラス窓のような物が取りつけられ、そこから明るい光が入ってくる。
何処もかしこも変なところだらけだ。
取りあえず体は普通に動くようなので、ゆっくりと身を起こして床に足をつける。下のタイルまで貝のようだ。
手近な場所にあった可愛らしいイルカのスリッパを履いて、部屋なのか家なのかよくわからない建物から出ようと行動を起こす。
するとまるで見計らっていたかのように、アタシがベッドからお尻を離すよりも先に巻き貝の出入り口が開いた。
「目が覚めたようね」
「うわっ…にっ、人魚!?」
胸元に赤い布を巻いたようなオフショルダー水着をつけ、濃い青色の髪の上には王冠と、それ以外にも全身にいくつもの装飾品を身に着けた高貴な人魚が、何故か空中を泳いで入ってきた。
下半身は魚で上半身が美女の人魚を初めて見たので、大声で驚いてしまう。一瞬彼女は飛行魔法が使えるのだろうかと考えたが、アタシは嫌な予感がしたので深呼吸を行う。
「あー…これは」
「一時的に術をかけたの。今の貴女は水中でも何不自由なく活動が可能になっているわ」
大きな空気の泡が自分の口からコポリと出てきたので、ここは水中のようだ。それに全く気づかないほど、違和感なく順応できていることが明らかになる。普通に話せるし動きにくいわけではない。
別に人間を止めたいとは思ってないので、人魚の一時的という言葉を信じさせてもらう。内心思いっきり動揺しながらも出来るだけ平静を装い、彼女に質問をする。
「ええと、ここは何処で? 何でアタシがここに居るの?」
「気になるわよね。でも、説明に入る前に自己紹介をしましょうか。
私は人魚たちの女王で、後ろに居るのが自慢の娘よ。
桃色の髪が長女で、水色の髪が次女なの」
何となく見た目から予想はしていたが、やはり女王だったのかと心の中で溜息を吐く。
そして動揺していて気づかなかったが、彼女の後ろには髪と同色のビスチェ水着を付けた可愛らしい十歳ほどの人魚の姉妹が、母親の影から顔を覗かせてアタシをじっと観察していた。
「はぁ…それはまあ、アタシは森久保沙紀だよ」
「漁船のやり取りで貴女の名前を知ったのだけど。
人違いでなくて良かったわ」
どうやら女王は何があったのかは覚えないが、アタシは意図的に連れて来たらしい。海上のやり取りを聞いていたのなら、この場に呼んだ目的は一つしかない。
ホッとした表情の彼女に、今度は逆に話しかけてみる。
「もしかして、アタシに除霊を頼みたいの?」
「確かに昨日までなら、除霊を依頼したでしょうね。
でも今はもう、貴女の力は必要なくなったの」
正直今の自分は何故かエルザが居ないので、依頼されても何も出来ない。そっちを頼まれなくて助かったと言える。だが、それ以外でアタシを呼んだ理由が何も思いつかない。
元々頭が良くない自分はたちまちお手上げになり、彼女の答えを黙って待つ。
「私たちも幽霊船団には困っていたのよ。でもそれを貴女たちは除霊してくれた。
なのでこの場に招いて、感謝の気持ちを直接伝えたかったの」
「なるほどー。それは、どういたしまして」
人魚たちの縄張りで好き勝手する幽霊船団に困っており、それをたまたまアタシたちが除霊した。わかりやすい理由で良かった。
となると、これで役目は果たしたことになるので、堂々と地上に戻れるはずだ。
「さっそく感謝の宴を開くのだけど、もちろん貴女も出席してくれるわよね?」
「いやいや、アタシは先約があるから無理だよ。それに友達も居ないし」
人魚の女王はまさか断られるとは思っていなかったのか驚いたような顔をしているが、実際に頑張ったのはアタシではなく他の四人なのだ。
それなのに自分だけが歓迎されるのは少し後ろめたい。それに料理屋の店主が用意した食材が無駄になってしまう。
立場がどうとかはアタシは考えないので、単純に目の前の人魚のほうが優先順位が低いのだ。
「はぁ…何とも噂通りの人物のようね。
命がけの仕事でも義理や人情を優先して名誉やお金は二の次、常に弱者を助けるために行動する。それが貴女、森久保沙紀と聞いたわ」
「何その酷い噂! それ絶対にアタシじゃないよ! 別人だよ!」
実際のアタシとは人物像が反転している。誰がそんな根も葉もない噂を広めたのか、酷いことをする人も居たものだ。
とにかく右手を口の前でブンブンと振りながら必死に否定する。こっちはさっさと昼飯を食べて森久保家に帰宅し、そちらでのんびりしたいのだ。
だが女王は呆れた顔でこちらに視線を向ける。
「貴女の考えはどうあれ、事実なのだから仕方ないでしょう?」
「うぐぐっ! そっ…そんなこと!」
ないとは言い切れない。いつも思いつきで行動しているので自分の行動に責任が持てないのだ。
困っている人を助けたことは何度もあるが、海底の人魚にまで届くほどの大きな噂になっているとは思わなかった。
「とにかく、まだ起きたばかりで本調子じゃないでしょう?
少しの間、娘の相手をしてくれると助かるのだけど」
「でも早いところ地上に戻りたいんだけど」
海底の人魚の里なので携帯が壊れているのは確実だ。となると早いところ地上に戻って友達に無事を伝えたい。きっと心配している。
女王の感謝はもう十分に伝わったので、アタシがこの場に留まる理由はないのだ。
「私、お姉ちゃんと遊びたい!」
「わっ…私も、沙紀お姉ちゃんと一緒に遊びたい。…駄目?」
確かに地上に戻る必要はあるが、子供の頼みは断れない。だが最初は断固とした態度で、拒否しようとしていたのだ。
「うっ…うぅ、すっ…少しの間なら、いいよ」
「「やったーっ!!!」」
しかし姉妹の声を聞いていると、まあ…少しぐらいならいいかな…と、二人のことをとても愛おしく感じて、ついお願いを聞いてあげたくなってしまう。
何かがおかしいのはわかるのだが、やがてそれもどうでも良くなった。
「では頼んだわよ。私は政務があるから失礼するけど。二人共、沙紀に迷惑かけちゃ駄目よ」
そう言って女王は微笑みながら入り口の扉から外に出て行った。姉妹二人が水中を泳いで近寄り、アタシの両側に腰をおろしたので三人分の重みでクッションが静かに沈む。
どのような素材かはわからないが、相当な弾力性があるようだ。
「ねえねえ! お姉ちゃんは霊能力者なんだよね!」
「アタシは霊能力者じゃなくて一般人だよ。力を貸してくれる守護霊が凄いの」
「沙紀お姉ちゃんは、何して遊んでくれるの?」
「うーん、寝起きだし激しい運動はちょっとね」
桃色の髪の姉が活発で水色の髪の妹が物静かな印象だ。二人は人間のアタシが珍しいのか、キラキラした瞳で見つめながらあれこれ話しかけてくる。
そして寝起きなのも理由の一つだが、自分は根っからのインドア派で運動は得意ではない。見た目的に十歳の人魚とどんな遊びをしても、確実に負ける自信がある。
「二人は家の中で、普段どんな遊びをしてるの?」
「えっ!? それは、えっと…そのぉ! 妹と、おっ…お話とか?」
「沙紀お姉ちゃん、私たちはあんまり他の人魚と遊んだことないの。…お姫様だから」
それはまた難儀な人生を送ってきたものだ。アタシも孤独が長かったが遊びには不自由しなかった。
彼女たちも少ないが友達は居るだろうし、室内遊戯の一つや二つあるだろう。そう思っていたのだが、姉妹はそれっきり喋らずに気まずそうに口を閉ざしている。
考えてみれば自分はここまで閉鎖的な環境ではなかった。外から情報を得ることが出来なければ、こういうこともあるかと思い直す。
「えーと…お話、だったよね?」
「うっ…うん! いつも妹と一緒に、楽しくお喋りしてるの!」
「それじゃ、アタシと一緒に話そうか」
「地上のことを聞かせてくれるの?」
左右からの期待の眼差しを受けて、アタシは、もちろん! …と控え目な胸をポンと叩いて自信満々に答える。
とは言っても、自分が知っている地上の情報はそれ程多くない。だが姉妹を楽しませることは出来る。
アタシの精神年齢が低いせいもあってか、子供の食いつきそうな話題には事欠かないのだ。
まずは様子を見るために日本の昔話を披露すると、思った以上に喜んでくれたので、手探りで段々と話題を広げていく。
アタシの住んでいる地上でのことで、個人的に面白いと感じたことも姉妹に聞かせると、両手を握り締めて身を乗り出してドキドキワクワクしてくれた。
ちゃんと楽しませてあげられているようで一安心だ。
「そこで彼は振り向いて、海軍大将にこう言いました。取り消せよ…! 今の言葉…!」
「もう行動の端々から、敗北者感がにじみ出てるね!」
「うーん、何だか一撃でやられそう」
姉妹からアタシの好みの話をしつこく聞かれたので、直接語って聞かせている。ここにはアニメも漫画もテレビもないので、口頭になるのも仕方ない。
彼女たちは好奇心旺盛な子供らしく、努力友情勝利には惹かれるものがあるのか凄まじい食いつきを見せる。
人魚と言えば海なので、同じ舞台であるこの物語を選んだ。だがよく考えたら彼らは殆ど地上で活動していた。しかし面白ければ何でもいいか…と考え、細かいことは気にしないことにする。
やがて窓から差し込む光に宵の色が混じってきたことに気づき、アタシは地上に帰らなければいけないことを思い出す。
「お話はここまでだよ。アタシはそろそろ帰らないと」
「ええーっ! もっとお姉ちゃんのお話聞きたいよ!」
「わっ…私も、沙紀お姉ちゃんと遊びたい」
左右から姉妹の美声が聞こえるたびに、アタシの中の地上に帰りたいという思いが消えて、彼女たちが望むままにもっと一緒に遊びたいという欲求が、心の隅々にまで広がっていく。
「そっ…そっかー。そこまで二人が言うなら、もう少しだけここに居ようかな」
「やったー! お姉ちゃん大好き!」
「一緒のお泊まり。たっ…楽しみ」
嬉しそうな美少女姉妹に左右から抱きつかれたアタシは、同性にも関わらず鼻の下を伸ばしたまま、幸福感に満たされていた。
そのまま代わる代わるに聞かされる妖艶な声色にすっかり骨抜きにされて、二人がかりで巨大なアコヤガイのベッドに容易く押し倒されてしまう。
「えへへっ! お姉ちゃん、食事が届くまで一緒に寝転がろうよ!」
「私も、おっ…お願い」
「仕方ないなぁ。それじゃ、しばらくゴロゴロしようか」
ベッドの上で寝転がるのは好きだ。しかし普段は一人だけなので美人魚二人に挟まれる経験は人生初だが、悪い気はしない。
両側から抱きつかれることでアタシの耳元に直接囁いてもらえる。そのたびに全身に心地良い震えが走るので、足腰に力がまるで入らずに心身共にフニャフニャに蕩けてしまう。
それでも姉妹を年下として扱うために、表面的には平静を装う。
「お姉ちゃん、起きてる?」
「…起きてるよ」
理由はわからないが人魚の姉妹には、とことん対応が甘くなってしまうようだ。今の自分は何の命令もされていないが、ただ囁かれるだけでも心地良さが広がっていく。
「沙紀お姉ちゃん、今日は遊んでくれてありがとう。うっ…嬉しかった」
「子供が大人に気を使うもんじゃないの! わがままを言ったり、自分に正直に生きるのも大事なんだからね!」
桃色の髪の姉はまだしも妹の水色が髪のほうは遠慮がちなので、少し乱暴に彼女の髪を撫でてあげる。
母親は女王なので、きっと毎日政務で忙しいのだろう。アタシの両親も共働きで近年は殆ど顔を合わせなかったため、自分も大人への甘え方はわからない。
「きゃっ! さっ…沙紀お姉ちゃん。やっぱり、…ありがとう」
同じようにに甘え方がわからない子供たちの面倒を見るのは、自己満足だ。アタシは小さい子と遊ぶのは嫌いではないし、姉妹も喜んでいるのでこれでいい。
「お姉ちゃん! わっ…私も! 私も!」
「…はいはい」
同時に頭を撫でるのは意外と難しいなと感じながら、こうして三人並んで寝転がっていると、本当の姉妹になった気がする。
実際には人間と人魚では種族が違うし、容姿も月とスッポンだ。もちろんアタシがスッポンで美人魚が月だ。
人外の相手は慣れているので忌避感はなく普通に接することが出来る。そして昼と晩の二食抜いたのでお腹が空いているはずだが、それを抑え込むほどの庇護欲に心身を支配されていて全く不満はない。
「はぁ…お腹、空いてるはずなんだけどな」
「だったら、お腹をいっぱいにしてあげるねーっ!」
「……にょわ!?」
すぐ隣でベッタリとくっついてた人魚の姉が、あろうことか突然アタシの唇を奪ってきた。そのまま巧みに舌まで絡めてくるので、未経験の自分はたちまち防戦一方になってしまう。
時間にして一分足らずだが、ことが終わったあとには自分は頬を朱に染めて肩で息をしている有様だ。
「いっ…いきなり、何するの!」
「お姉ちゃんの空腹を満たしたんだよ! どう? まだお腹空いてる?」
「えっ? あっ…そう言えば、何だかお腹が膨れたような気がする?」
「凄いでしょう! 人魚は霊薬の塊だからね! 私の唾液を霊力で変化させて、チョチョイのチョイだよ!」
人魚の肉を食べて不老不死になった話もあるので、唾液に細工をして空腹を満たすぐらいわけないのだろう。
確かに理屈ではわかるが、そこに舌を絡める意味は果たしてあったのか。そもそもいつまで経っても食事が運ばれて来ないのが悪い。
そう主張したかったがその前に妹のほうが声をかけたので何事かと振り向くと、彼女は潤んだ目でこちらをじっと見つめていた。
そして顔も妙に赤くなっており、アタシは嫌な予感で背筋が寒くなる。
「沙紀お姉ちゃん、わっ…私のもあげる」
「やめ…! …にょわっ!?」
姉に対抗心を燃やしたのか妹の行為は一分以上も続き、結果的にアタシは夢見心地のままお腹がいっぱいにされる。
そのまま美人魚姉妹に抱かれながら耳元から優しく子守唄を歌われる。
たくさん遊んでくれたお礼だと言われ、こちらの髪を面白半分に撫でられる始末だ。しかし反論する気力が湧くはずもない。
結果、心も体も蕩けさせられたアタシが姉妹の歌声に耐える気も起きずに、あっという間に深い眠りに落ちていったのだった。




