触覚氾濫
今回は同じ文芸部の部員であるモグラ(https://mypage.syosetu.com/1080779/)に書いてもらいました!
ありがとうございました!!
或る男の話をしませふ。青年、彼は、良く日に焼けた健康的な青年だつたのです。齢は、まだ三十を越してゐないでせふ。皺の無い顔を見て、私はさふ判断しました。
私は彼と汽車の待合室で出会つたのです。そう、またもあの待合室で、です。残暑とゐふのは厳しいものと相場が決まつてゐます。その日も例に漏れず、気を抜けば意識を持つて行かれさふな、熱湯の中に居るやふな感を覚えてゐました。
彼は、そんな私の前に、ゆらりゆらりと、おぼつかない足取りで現れたのです。
例によつて、私は面倒だと感じました。何故、この待合室の座席は、三つが一組なのだらふかと大真面目に考えたことがあります。答えは出ませんでした。勿論ですが、いつもその真ん中に座る自分の強情には、追及の手を伸ばしませんでした。
しかしその日は、そんな迷宮思考に耽る時間が殆ど無かつたのです。とゐふのも、闖入者である彼とゐふのが、あまりにも滑稽なナリをしてゐたからです。私は、口に含んでゐた緑茶を、鼻腔に逆流させ、咽てしまひました。その位、彼の姿は滑稽極まつてゐたのです。
何が酷いかと言えば、まず、その服装が珍妙なのです。季節を勘定に入れたとしても、理解に苦しむやふな恰好をしてゐました。
下半身は良いのです。ここでの良いと言ふのは、あくまでも比較的の話に過ぎませんが。ぴしりと下肢に密着するやふな黒い化繊でした。競泳選手が使うやふな、しかしそれが脚迄をも覆う、身体の線が濃く浮き出るものです。私には、彼が筋張つた体つきをしてゐることが、しつかりと読み取れました。
現時点で随分と珍妙なことには相違ないのですが(何故と言わずともお判りでせふが、つまり彼は競泳水着のやふなものを着て、汽車の待合室に這入つて来たのです)、より私を驚かせたのは、その上半身でした。前掛けのやふなものを一枚、はらりと垂らしてゐるだけなのです。幼児が、食事の時につけるやふな、あの前掛けを少し大きくしたもの……小さなエプロンとでも言いませふか、それしか身に纏つてゐないのです。ガタイの良い四角い体に、不釣り合いな一枚の布。困惑なされるのも無理がないでせふ、その時は、私も戸惑いの渦中に居りましたから。
それが、ゆらりゆらり、とこちらに向かつて歩いて来るのです。加えて彼は、背中に鉄板が入つてゐるかのやふに臍から肩口までを一切動かさないとゐふ、独特な歩き方をしておりました。遠目に見ても、右に左に豊かな体躯が揺さぶられてゐるのが分かるのです。恰好も滑稽、歩き方も滑稽。滑稽に滑稽を重ねたやふな彼は、一言も発さぬままに、私の前に聳えました。
私は静かに彼を見上げます。やはり、立派な体躯です。だとゐふのに、他の何もかもがあまりに残念な男でありました。彼は、私の前で微動だにしません。彼は、座るつもりはないやふでした。
黒い影を落とされた私は、少し不安な心持になりました。いつもならば、苛立たしく感じるだけでせふが、相手が相手です。とても大きく、おまけに妙な男でありましたから、無言で前に居座られるとゐふのは、些か戸惑いを覚えるものだつたのです。私は彼に、空いた席に座つてもらうことにしました。いつまでも奇妙な彼の姿を視界に留めて、笑いを堪え切れるだけの甲斐性が、私には無いと思えたからです。
「もしもし、貴方、隣の席はだふです? お座りになられませんか?」
彼は、少し驚いたやふな顔をして、それから小さく首を振りました。横にです。何故、拒絶されたのか、答えは彼の口から語られました。
「お気持ちは嬉しいのですがね、なんです、ええと、こうゐふわけでして」
彼は右手の親指で自身の背中を指します。続けて、「見えませんかね」さふ言つて、機械のやふな挙動で、半身になるように上半身を捻りました。
彼の背中には、無数の針が、深々と刺さつてゐたのです。針治療の最中に逃げ出してきたのかと思う程で、血が流れていないのが不思議に思えました。
「こうゐふわけでしてね。座れはせんのですよ。この格好だつて、好きでやつてゐるわけじゃあ、ないんです」
彼はさふ言つて、肩から下の右腕だけを器用に動かし、自身の頭をぽりぽりと掻きました。
「一体、だふゐうことなのです?」
私は堪らず尋ねました。
「それをお話しするには少し時間が要りますな。貴方、汽車の時間は?」
「まだ一刻もあるのですよ。暇を持て余してゐるところで」
「さふですか、それならば。丁度良かつたですな、こんな笑い話は、そうそう聞けないでせふから、期待してもらつて良い」
彼は首から上だけで、がはがはと笑つて、その珍妙に、滑稽に至つた経緯を話してくれました。だふしてかふ、最近は不思議なことが続きます。彼も復た、とても平常とは思えないやふな、異常に生きる自身の境遇を語つたのです。ここ数週間のことだと言いますので、私は余計に驚きました。
◇
あれあ何時だつたか、まだ梅雨が明けきらない時分だつたかなあ。そこんトコはよく覚えてねえんだが、何があつたかはハツキリ覚えてる。ほんと、ひでえ目にあつたんだ。
おらあ、とびをやつてたんだがよ。あんときゃ仕事が詰まり過ぎててな、体を休ます暇が無かつたのサ。毎朝毎晩、重てえブツ担いで仕事してんだ。そらあ、とんでもねえ負担を体に掛け続けるつてことで、チクセキヒロウつつうのか、それが限界に達しちまつたらしい。腰がぽつくり逝つちまつたのよ。とびは体が資本だからよ、動けなくなれば、急いで治すしかねえんだ。しかしなあ、ガキの頃から体だけは丈夫で、医者になんてかかつたことが無かつたからよ、何処に泣きつけば良いのかも分かんねえで途方に暮れてたんだ。
そしたらさふ、確か、今日と同じ此処だ。この待合室でよ、隣に座つてたノに声を掛けられたんだ。辛そうですね、つてな。見りゃ分かんだろつて話だ。俺が噛みついたら、申し訳なさそうな顔をして、事情を訊ねてくるのサ。
しつかしよお、とびが仕事で腰をやつちまつた、なんて恥ずかしい話、とてもじゃないが話せないと思つたんだ。そんときゃあな。そうして、腰が痛えんだ馬鹿野郎、つて返してやつたんだ。したらな、そいつあ俺に向かって、良い医者を知つてゐるから紹介しましょうか、なんて言うのサ。おらあ迷つたね。けど、そん時はまだ、ガキの頃から丈夫な俺だ、寝れば治るだらふつて高を括つてたんだ。そんでな、余計なお世話だ、つて吐き捨てて、おらあ汽車に飛び込んだのサ。ああ勿論、帰りの汽車も辛えのなんのよ。揺れねえ汽車つてもんを造れば、一儲け出来るんじゃねえかと思つたくらいサ。
が、甘っちょろかちたのは俺の方だつたのさ。腰痛は日に日に悪化していつたんだ。仲間からは憐みの目で見られてなあ、ほんと、堪んなかつたぜ。自分が惨めに思えてくるのは、これ以上ない位に、大つ嫌いなのサ。
あの日、医者を紹介してくれるつつう申し出を蹴つた自分を、これでもかつて恨んだよ。まあ、後で分かることだが、この判断は正しかつた。だがな、そんときゃあ目先の問題が何より重要だつたんだ。早く腰を正常に戻したい、その一心だつたのよ。
さふかふしてたらな、またアイツに会つたんだ。俺は即座に泣きついた。悪かつた、俺が悪かつたから、すぐに医者を紹介してくれ、つてね。あの男は、嫌な顔一つせずに、綺麗な文字が書かれた紙切れを渡してきたんだ。準備していたんじゃねえかと思う位、すぐに、だよ。けど、そん時のおらあ、人を疑つてる余裕なんて無かつたんだ。気が付いたら、足が独りでに進んでた。いつてえ腰を引きずって、なんとかかんとか、その医者の元へ転がり込んだのサ。先生、俺を助けてくれつてな。そこは、病院なんかじゃなくてな、ちつせえ民家みてえなトコだったよ。
その医者は、針治療の名医らしかつた。渡された紙切れにはそう書いてあつたのサ。その先生の立派な髭蓄えた顔には、なんだか既視感を覚えたんだが、俺は気にしなかつた。おらあ、先生の肩を掴んで揺すぶつたんだ。泣きながらだつたかもしれねえ、そん位、腰が辛かつたのサ。腰を治してくれ、つて喚いた。先生は落ち着いた人でな、ゆつくり俺を宥めて、奥の小部屋へ、施術室へ案内してくれたよ。
畳敷きの小さい和室でな、黄色くなった敷物が一つ、ポツンと寂しそうに置かれてゐた。先生は俺に、服を脱いで、そこに横になるやふに言つた。おらあ、黙つて従つたわけよ。んで、施術が始まつた。不思議なことにな、緊張とかは全然無かつたんだ。痛みも無くてな。おらあよ、すぐ眠くなつちまつてサ、目が覚めて、気が付いたら、施術は全部終わつていたんだ。
よく眠られていましたね、なんて言いやがる。先生がうめえのサ、つて返した時に気が付いたんだ。嘘みてえに腰痛が消えていたのよ。おらあ飛び上がって、先生の手を取つて涙を流したね。ああ、このときゃあ、泣いて喜んだともサ。さふして、意気揚々と家路についた。いやあ、あの日は足取りが軽かつたなあ。
異変を感じたのは、数日経つてからだつた。やけに風が強い日だなと思つてな、おらあ、とび仲間に、足場から落ちねえように気い付けろよ、つて叫んだんだ。風が強えぞ、つてな。さふしたら、みんな目を丸くして俺を見やがる。何言つてんでい、風なんかちつとも吹いてねえでねえか、つてよ。おらあムキになつちまつて、こんなに風が強えじゃねえか、つてタオルを掲げてみたのよ。したらばよ、タオルは死んだ狸みてえに、しなつと俺の頭の方に垂れて来たのさ。おらあ、唖然としたね。ちっぽけな脳みそで幾ら考えてみても、なんで俺だけ、風が強いと思ったのか、判らなかつた。
不思議なことは続いたんだ。例えばそうさな……資材の凸凹によく気が付くようになつた。仲間がしたり顔で撫でているもんをついつと触るとな、まだまだ凸凹だらけで粗仕事なのが、すつぱり見抜けちまうわけよ。若造が、仕事が成つてねえぞ、つて怒鳴りつけたね。さふしたら後で、トシに……ああ、同い年の仕事仲間よ、そいつに窘められちまつた。全然問題ねえじゃねえか、八つ当たりはするもんでねえ、つてよ。おらあビツクリ仰天よ。トシが問題ねえつて言うなら、確かに問題ねえんだろうサ。なんて言つたつて、アイツは俺をとびに誘つた張本人だからな。俺よりも大工してるワケよ。トシは、最近変だぞ、つて俺を責めるのサ。俺は悩みに悩み倒した挙句、塞ぎ込んじまつた。周りとズレて感じるのが、恐ろしくて、家の外に出るのが怖くなつたんだ。
それから益々、ひどくなつてゐつた。暑い寒い、熱い冷たい、これが分からなくなつてきたんだ。何に触れても、何処に居ても、痛えの痛えのつてな。堪らなかつたね。地獄に行つたら、きつとこの位、苦しいんだらふつて、洒落でも何でもなく思つたんだ。
そさふしてもう一度、おらあ、先生の診察所を訊ねた。そうしたらよ、そこは蛻の殻だつたんだ。ぽかーんと莫迦みたいに口を開けて、おらあ地面にへたり込んだ。腰痛なんかより、よっぽど辛えつてのに、助けてくれねえのかつてな。とゐふより、先生が俺の体に変なことをしたんだろうな。恨めしかつた。足に当たるコンクリの一粒一粒が、俺を抉つてくるのが分かつたのよ。
帰り路、件の先生の顔が、頭の中に鮮明に浮かんできたんだ。腹立たしかつたからかもな。その顔はよお、この待合室で出会ちたあの男、先生を紹介してくれたあの男の顔と同じだつて、そん時に気が付いたんだ。先生の立派な髭はありゃあ変装だつたんだな、つてさ。全部、自作自演だつたのさ。まあ、一時助けられたのは事実だが、それでも許せることじゃあねえなあ。でもな、幸か不幸かアイツとは、あれ以降、顔を合わせてねえのサ。
話は戻るぜ。家に帰つたおらあよ、激痛の最中で考えたんだ。だふすりゃあ良い、だふすりゃあ良いつてな。そうして、ハツと思いついた。針治療があるじゃねえか。思い立つてすぐ、居ても立つても居られずだ、おらあ、なつがい針をあつちこつち探し回つた。針治療が出来る位の、ぶつとくて、なつげえ針をな。苦労はしたが、見つかることには見つかつた。その程度の労働、地獄の苦しみに比べれば、どれだけマシかつて話よ。
そつからは試行錯誤だった。背中に針を刺すのは難しいし、そもそも先生が、どこに針を刺してゐたか分からねえ。鎮痛に効く場所はあるだらふに、何処だか分からねえのさ。それに、皮膚が敏感になり過ぎて、背中をなぞる針の先端が、今どこにいるのか却つてサツパリ分からねえんだ。触れた場所だけじゃなくて、その周りまで燃えるみてぇに痛みを発するんだ。熱いとか冷たいとか、一緒くたになつちまつて、痛え痛えしか感じねえのよ。おらあ途方に暮れながら、それでも必死でツボを探したんだ。
最後はな、トシに手伝つてもらつて、なんとかツボを見つけることに成功したのよ。壁に針を並べて、体を押し付けるだけで刺せる特製の器具も作つたんだ。でもな、それが完成する頃には、触感が敏感になりすぎてもう、ずつと針を刺し続けてるくらいでしか、痛みを誤魔化せなくなつていたんだ。
さふして、こんな間抜けな恰好してんのよ。下の……なんだっけ、婦人用の……さふ、ストツキングとかゐふんだが、こいつは、断熱性が高いとかで。針がいつズレるか分かつたもんじゃねえから、万が一に備えて、熱さ寒さやら風の感触を受けずに済むモンにしてんだ。上は……見ての通りよ。背中にこんなもん刺してちゃあ、ツナギだつて着れやしねえ。かといつて裸もマズいと思つてな。こいつは苦し紛れつてことサ。
な、面白えだろ、今世紀最大の笑い種だぜ。まつたくよお……。
ところでアンタの顔、なんだか、アイツに似ているような気もするなあ。人違いだつたらすまねえ、何せ、ちょいと前の話だからよ。
◇
私は人違いだらふ、と大袈裟なまでの否定を示した。こんな大男に襲われたら、ひとたまりもありませんからね。人違いなんて洒落では済まない気がします。とんだとばっちり、なんて御免です。念には念を重ね、私ではありませんと彼に伝えておきました。私は医者ではありませんし、そんな針治療のことなんて、勿論、知りませんから。
彼は、さふか、悪かつたな、とがはがは笑い、それ以降また静かになつて、私の前に聳えているのでした。
彼はおしゃべりの好きな男に見えました。ややもすると、彼は、背中の針が抜けないように、声を発することも我慢しているのかも知れません。自然、彼が不憫にも思えました。
話が終わって四半刻程した頃、やつと訪れた列車に、彼はゆつくりと乗り込んで行きました。私は、その後姿を見て、先程のやふな笑いは込み上げてきませんでした。ただ、彼の乗つた列車が、地震の如き縦揺れに襲われませんように、と祈ることしか出来ませんでした。以後、私が彼の姿を見ることは、一度もありませんでした。
迂闊に知らない人の薦める医者にかかつてはいけない。教訓のやふに胸に刻んで、私は汽車を待ちました。
まあ大体の所そんな話です。何か忘れているような気がしますが……なんだったでせふか、最近、本当に物忘れが多いのです。思い出せないのなら、きつと、大したことではないのでしょう。
本当にさふなのでしょうか?
私は彼の話を反芻し、膨らむ違和感に思索の糸を巻き付けました。