聴覚氾濫
或る男の話をしませう。彼は中年と言ふにはまだ若い男であります。
私は彼と汽車の待合室で出会つたのです。真夏の昼下がり、アブラゼミがよく鳴いてゐる時分でした。三つの椅子を三方向からコンクリートの壁で囲んだ待合室の真ん中の席に座つてゐた私にとつて、彼の侵入は私の個人空間の安寧を妨げ、或は破壊する行為に等しいものでした。だからと言いましても、私の怠惰な性格が此処ぞとばかりに仕事しまして、左或は右の席に移動するのでさへ面倒臭く、かといつて移動しなければ隣に座る彼の熱量で私の苦痛は増すばかりとゐふ事態に陥りまして、大体の所さふいつた葛藤に陥るわけですが、いやしかし此処で食い下がるわけには行かないと変な意地が出てきましたところに自らの汗が鼻の下で溜まりまして、呼吸をするたびに汗が鼻に入つてきさふになつたのであります。手で拭ふわけにもゐきませんので私は十五分程それに忍び耐えてゐましたが息苦しいことこの上ありません。ただでさへむさ苦しいこの部屋の中で、私は大層な苦痛を強いられました。側から見たら私はどんな顔をしてゐたか想像するだけで赤面ものです。それは諦めに至る思考の路でもありました。
果たして彼は何の躊躇も無く私の右隣に座りました。厚い脂肪が私の右腕に少し触れ、粘性を持つた湯気を放ちます。
私は嫌悪感を少なからず感じました。職業柄私はこの蒸風呂的箱内にあつてすら背広を着てゐざるを得なかつたのですが、彼の汗が彼が部屋に入るなり染み込んでしまゐました。洗濯屋に早くも出さなければいけなくなったと思い彼を少し睨みますと私は奇妙なことに気付きました。彼の頭部です。つるりとした頭皮の上に生えるのは局所的に発生した樹木と言ふべき芽花椰菜。私はその前衛的すぎる身形に驚きを隠せず、鼻の上の汗を吹き飛ばしてしまひました。なぜ頭に芽花椰菜が生えてゐるのか、いや、刺さつゐるのかもしれません、もしかすると自分で植へたのでせふか。いやそんなはずはないと、私の思考は次々にあふれ、乱れてゐきました。
そもそもなぜこの様な見て呉れで平然としてゐられるのか私には到底理解が及びません。彼の人類にはまだ早すぎるとでもいふべき髪型が彼の思考を表していると言つても良いでせふ。人の思考は表面に出るものです。
彼は徐に頭部の樹木を毟りまして、少し暑さで湯立つたそれを覗き込み、少し揉み、両手の指ですり潰してゐきました。彼の表情はだふゐふわけか誇らしげでありまして、どんどん緑の樹木は原型を失い、膏薬状になつてゐくのでした。
私はいよいよ意味がわからなくなり、一度目を逸らしました。私はその愚行を看過し得ませんでした。彼はこの暑さにやられて頭がおかしくなつてゐるのではないか、なればこれを醒まして差し上げることは随分な親切に当たるだらふ、とかなんとか、何だか的外れな気もする判断を私は下し、意を決して行動を起こしたのであります。
「もしもし、貴方、何をしていらつしやる」
「うああああああああああ!!!!!!」
彼はいきなり大声をあげひつくり返つてしまいました。真夏にも関わらずひやりとした空気がこの待合室を満たします。少し間があつて真顔になり、ゆつくりと椅子に座り直し、彼は指の膏薬を舐めつくすと答へました。
「失礼。薬を練つてゐたのですよ。これは古来三千年は続く漢方薬で、この様にすり潰して使ふものであります。少々聴覚過敏気味でありまして。これを飲むと和らぐのです。先程から私を奇異の目で見ていらつしやるやふだがやめていただきたい。」
疑。
「頭からその様なものを生やしておいて奇異の目で見るなとは何事でありませふか。誰しも驚くはずでせふに。」
私はははと笑つた。
「それについてお話しするには少し時間が掛かりますが、貴方汽車のお時間は」
「まだ半刻は」
「さふですか、ではお話ししませふ。」
といい、彼はここ最近に起きたという嘘のような本当の出来事を話し始めたのでした。
◇
まだあれは梅雨の真つ只中。
私は風邪をこじらせ、遠くのお医者様の診療所に向かつておりました。いつもなら私は風邪を引いても市販薬でだふにかしてゐたのですが、この時ばかりはどうにもならなかったのです。家にある薬、葱、生姜、漢方薬、色々と試すうちに全てなくなつてしまい、打つ手が無くなつてしまつたのでした。
今とてふど同じ、この待合で汽車を待つていると大きな黒い鞄に黒い背広の男がやつてきまして、風邪で震えている私を心配して話しかけてくださつたのです。話すとだふやら男はとりわけ良い薬を持つて売り回る薬売りだそうで、古今東西欧米東洋あらゆる薬を紹介してくださいました。男は種の漢方薬を勧めました。風邪に苦しまされてゐた私は苦しみが無くなればなんとでもなれと言ふ心持ちではい〳〵と二つ返事で受け取り飲み込んでしまいました。するとたちまち震えが止まり、寒気がなくなるどころか体が芯から温まり、汗がとまりません。外套を脱いでしばらくすると私は健康そのもの。もうお医者様の診療所に行く必要もありませんでした。私はとても嬉しくなり、薬代を少し余計に出して礼を言いますと、家へ帰つたのです。
その翌日もその方はそこに居まして、こんな偶然は無いと思い是非ともその薬を家に貯めておきたいと申しますと、その方はまた私に見かねて幾分か余計に種を分けてくださいました。
ふと私は疑問に思いました。
それは何という薬で、どこで買えるのか、と。聞いてみますと、
その方は、異国語の様な発音でその名前を教えてくれ、滅多に手に入る代物ではないともおつしやりました。
古今東西欧米東洋の薬を集めているのですから何ら不思議ではありません。私は彼をまたここで会う約束をし別れました。
果たして私もその方も約束通りに会うことが出来、私はその薬を得たわけです。しかしだふゐうわけかそれきりその方とは会いません……
それからと言ふもの風邪を引いたときにそれを使つてゐたのですが、風邪などさふたくさんひきやしませんから、まふ当分なくなることはないでせふ。いや。あつても今ではまふ使いませんしね。
……何で今は使つてないのか、ですか。それですよ、丁度これから話そうとしていたことです。
それがこの芽花椰菜なのです。
とゐふのも私は当の昔から禿げてゐまして、ああ、これ自体は何も悪いことじやないのですが種を飲んでから少しばかりたちますと、頭の天辺が緑掛かりまして日に日にそこが尖つてゐくではありませんか。
私はこれを鏡で見て飛び上がりました。人間と言う社会的動物の私がこのようなとても目立ち、かつ、奇妙で歪なものを頭から生やしてゐれば引き起こされるのは社会的蔑視に相違ないわけです。差し当たり出かけるときは毎日帽子を被つて過ごしておりました。ですが何ヶ月も立ちますとその突起の大きさが増してきます。私は毎朝〳〵鏡でその大きくなった植物をみてがっかりするのが日課になっていきました。本来そのようなものが生えた時点で病院に行くべきでありましたのでせふ、しかし先述の通り私は医者にかかりたくないという意地がありました。或は植物がそのやふな考えを私に許さなかつたのかもしれません、ああ何と言う不幸な私でせふか。半年も経つ頃にはもう立派な芽花椰菜が私の頭の上に生えてゐました。
てふど芽花椰菜が立派に育つた頃、私の耳に異変が起こりました。ありとあらゆるものの音が聞こへます。私の心臓の音血流の音空調設備の音照明の点灯音隣人の話し声そしてそのまた隣人の話声まで聞こへます。完全に聴覚が研ぎ澄まされて、私は目を瞑つてゐてもどこに何があるのか誰が何をしてゐるのか、半径約百米程以内ならわかるようになつてしまいました。これは先程の芽花椰菜の話と同様に喜ばしいことではありません。確かに耳が良くなつた事自体は良いかもしれませんが、知りたくなかつたこと聞きたくなかつたこと様々な情報が聞こへてきます。まあ幸私は田舎町に住んでゐました。これで都会に住んでゐたらと思ふとぞつとします。一番困つたのは公共交通機関を利用する時でした。駅は雑多な音で満ちてゐます。人々の忙しない足音話し声自販機の音電子音笛の音扉が開閉する音極めつけには電車のブレヱキ音が耳の奥で盛大に響きます。結局駅を利用しようとしたその日は何もせず家へ帰つたのでした。聴覚過敏の所為で夜も眠れず、頭の芽花椰菜も何とか帽子で仕事仲間から隠さねばならない生活が続きました。
ある日思い切つてその芽花椰菜を少し千切つてみました。採れ立てなのでとても瑞々しく光つてゐました。私はだふゐふ訳かぼんやりとした気持ちでその芽花椰菜を口にしたのです。
するとだふでせふ、あれだけ酷かつた聴覚過敏が良くなり、これまで通りの生活を取り戻すことに成功したのです。こんなことで悩みが解決するとは……
それからと言うもの私は聴覚過敏が再発するたびに芽花椰菜を千切つて食べる様になりました。
耳がひどく良くなつたのがあの種を食べた時だと気付いてからは、金輪際あの種を口にしないと心に決めました。薬売りの男は副作用があるのに言つて呉れなかつた訳ですから、あの方に会つたら絶対に文句を言つてやらふと思つて居ますよ。
……ところで貴方の顔がどうもあの男に似てゐるやふな……
◇
私は人違いだらう、と手と首を振ります。私はこの人と、その時初めて会つたのだし、そんな不思議な種と薬売りの事など微塵も知らなかつたので。
彼はさふですか、とだけ言つてそれきり黙つてゐました。私も汽車が来るまで黙つて暑さに耐えてゐました。彼は時折来る汽車の騒音に備えて芽花椰菜を食べてゐました。彼の姿は汽車に乗り込む時以降目にしてゐません。
そしてだふゐふ訳か、その時だけ、少し彼をどこかで見たことがある様な気がしたのです。