視覚氾濫
猩々飛蝗初の短編集。
五感の行きすぎは何を招くのか……全五話、の、ハズです――
最後までどうぞ、お楽しみください。
或る男の話をしませふ。中年と言ふにはまだ若い男です。
私は彼と汽車の待合室で出会つたのです。真夏の昼下がりです。三つの椅子を内包するコンクリート箱の、真ん中の席に座つてゐた私にとつて、彼の闖入は不快指数の上昇以上の、また以外の意味は持ちませんでした。左或いは右の席に移動するのは面倒臭く、かといつて移動しなければ隣に座る彼の熱量で私の苦痛は増すばかりでせふ。大体の所さふいつた絶望的思考を、自らの汗で既に溺れかけてゐた私は行つた訳です。それは諦めに至る思考の路でもありました。
果たして彼は何の躊躇も無く私の右隣に座りました。
私は嫉妬しました。職業柄私はこの蒸風呂的箱内にあつてすら背広を着ていざるを得なかつたのですが、彼は半袖の開襟シャツだつたのです。さふして彼を眺めている内に私は奇妙なことに気付きました。彼の眼鏡です。よく見てみれば、彼の鼻の上に鎮座ましましていたのは分厚い老眼鏡、年寄りがするやふな凸面鏡だったのです。
彼の見た目とその老眼鏡のアンバランスさが、私の興味を引きました。茹だった頭は不思議を解明せずに朦朧と楽しみたい気分を引き起こしました。
彼は徐に老眼鏡を取り外すと、少し曇つたそれを覗き込み、眉を顰めて目頭を少し揉み、両手の指で丹念に老眼鏡を擦り始めたのです。布を使つてなどゐませんから、老眼鏡はどんどん指の脂で汚れていきます。
私も眼鏡を使つていますから、その愚行を看過し得ませんでした。或いはこの暑さと湿気にやられて白昼に寝ぼけておられるのかもしれない、なればこれを醒まして差し上げることは随分な親切に当たるだらふ、とかなんとか、何だか的外れな気もする判断を私は下し、行動を起こしました。
「もしもし、貴方、眼鏡拭きはお使いにならないのですか」
彼は酷く怪訝さふな顔をして私の方を向いて目を白黒させていましたが、何かに気付いたやふな素振りの後、脂塗れの老眼鏡を掛けると、何かに得心がいつたやふな顔をして、答えました。
「いえ、これはかふ、汚さねば使い物にならんのですよ」
怪訝。
「だうゐふことです」
彼は少々悪戯らしく笑つた。
「それについてお話しするには少し時間が掛かりますが、貴方汽車のお時間は」
「まだ半刻は」
「さふですか、ではお話ししませふ。」
といつて彼はその常軌を逸した、とゐふには小さなことかもしれないが、明らかに尋常とは言ないやふな、ここ数週の経験を教えてくれたのです。
◇
まだ梅雨の明けきらぬ頃でした……
私は胃腸が弱く、征露丸を常用しているのですが、あの時期はそれでも耐え難いほど調子が悪く、矢鱈に飲んでいたものですから、その日は出先で切らしてしまつたのです。
今とてふど同じ、この待合でした。こんな風に隣に座っていた方が居ましてね。私があんまり痛さふにしているものだから、先方も見かねたのでせふ、お持ちの胃腸薬をくれたのですよ。おかげで私は窮地を脱したわけです。征露丸よりも効き目がありましたし、効くのも早く、驚いたのを覚えていますよ。
その翌日もその方はそこに居まして、私は迂闊にも征露丸を買い損ねていました。その方はまた私に見かねて胃腸薬を分けてくださり、私はまた窮地を逃れました。
そして私は聞いてしまったのです。
それは何とゐふ薬で、どこで買えるのですか、と。
その方は、効いたことも無いやふな、ちょと覚えにくい名前を上げて、自分の住んでゐる近くの薬局にしか売つていないのだ、と答えました。
そんなことがあるのですか、と聞くと、製薬会社の直営店だからとかなんとか、納得できるやふなできないやふな説明をされ、結局その方が今度買つて来てくれると言い、私は明日もまたこの待合で、同じ時間に会ふ約束をしました。
果たして私もその方も約束通りに会ふことが出来、私は代金を渡してその薬を得たわけです。しかしだうゐふわけかそれきりその方とは会いません……
私は嘗て征露丸を使っていた時のやふな頻度でそれを消費しましたが、予め沢山買つてもらつていたので、無くなる心配はまだありません。今では使つていないので、これ以上減る訳もないのですが。
……何で今は使つてないのか、ですか。それですよ、丁度これから話さふとしていたことです。
それがこの老眼鏡の訳でもあるのです。
とゐふのもね、変な、すこぶる変な話なのですが、私がその薬を使ふやふになつてから、私は妙に眼が良くなつてきたのです。それまではぼやけてゐた距離の物がハツキリと見えるやふになつてきたのです。
困ることじやありません、私は気にしませんでした。寧ろ喜んだくらいです。だつてさふでせふ?
……まあ、私には「その先」が「見え」ていませんでしたから。
まあ、不便は直ぐに感じたんですよ、今迄見えなかつた美人の鼻毛とか毛穴とか、様々なものが、遠くにあらふが近くにあらふがハツキリと見える。
更に直接的な問題として、頭が痛くなりましたね、文字通り。眼から入つてくる情報がとんでもなく増えたわけですから。
しかし私はまふあの薬無しでは胃腸がもちません、自然、頭痛薬の併用を迫られました。
朦朧とすることが多くなり、同僚に心配されました。
仕事で小さな失敗が目立つやふになり、上司に驚かれました。……いいえ自慢や何かではなくてですね。
そして私はどんどん眼がよくなつていきました。
ねえ貴方、人つて……眼が良くなり過ぎると、だふなると思います?
本当の不便とゐふのが、ここらへんから始まりました。
本格的に暑くなつてきた時期ですねえ、目覚めると、全てのものが滲んでいる……といいますか、ちょっと判別できなくなつていたんですよ。見え過ぎて、見えないのと同じ。手を眼前に持ってきても、毛穴と毛のささくれと……変に細部が強調されたやふな詳細過ぎる視界が、ずっと。
なんとかその光景に慣れて、布団から出られたのはまふ夜でした。暗いとゐふのはありがたいもので、眼に入つてくる光が少ないのですから、情報も少ないのです。街の明かりに伏し目がちになりながら用を足しているときに気付きました。却つてトイレの曇りガラスを通して見えた光景は、眼がよくなる前のそれに似通つていたのです。
私は、理屈やらなんやらをしつかりと言葉にする過程をすつとばして思いました。
さふだ!眼鏡だ!!老眼鏡を買いにゆかふ!!
遠視をなおすのが凸面鏡な訳ですから、更にそれを曇らせれば、私は普通の光景を取り戻せると思つたのです。果たして私の想像通り、これは役に立つてくれていますよ。ただまあ、もとより幾分眼が悪くなったくらいのやふな気もしますが。
眼がよくなり始めたのがあの胃腸薬を使い始めのころだつたと気付いてからは、あの薬は使わず、元通りに征露丸を使つていますから、あの時より酷くはなつてゐないと思ひます。ただ、純粋に酷く不便ですね。副作用があるのに言つてくれなかつた訳ですから、あの方に会つたら絶対に文句を言つてやらふと思つて居ますよ。
……ところで貴方、私にはぼんやりとしか見えないのですが、貴方の顔がだふもあの方に似ているやふな……
◇
私は人違いだらふ、と手と首を振りました。私はこの人と、その時初めて会つたのだし、そんな薬の事などもちろん知らなかつたから。
彼はさふですか、とだけ言つてそれきり黙つてゐましたし、私も汽車が来るまで黙つて暑さに耐えてゐましたから、彼とは、私の乗る予定だつた特急の前に来た、彼の汽車に乗ろうと、彼があの待合を後にしたときの会釈以降、彼の姿を見てはいません。
その後、薬には気をつけやふ、とだけ思つて、私は汽車を待ちました。
まあ大体の所そんな話です。何か忘れているやふな気がしますが……最近多くてね。思い出せませんから、まあ、なんでもないのでせふ。