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 雨がざぁざぁと降る夜。月は見えない。


 その日も僕は上司に詰められた。数字がまたしても落ち込みつつあった。主任なんかやめちまえとも言われた。


 先日までの僕は、まるで酔っぱらった自身の姿。それを映す鏡。

 酔いは、いつか覚める。

 それに気づいたから、今日で最後にしようと思った。


 あの交差点を渡れば、もうすぐmonsieurのネオンが見える。強い雨が、傘にパツパツッと突き刺さる。

 今日は、マスターに今までのお礼を言いに行く。お酒も、一杯だけで済ませる。


 スーツの裾は、跳ねっ返りの雨水でびっしょりだ。重く冷たい足で、ピチャピチャと歩を進めていった。



 やがて目の前に、もうひとつの開かれた傘が現れた。

 持ち主は今、僕が一番会いたくなかった人だ。


「……」


 向かう先は、同じだろうな。ため息が出る。僕は少し憂鬱になった。


 もし、次に会ったら「いい加減にしてください」とでも言われるのかな。汚いものでも見る目で、あの声で……あれ?

 そういえば、あの人の声なんか聞いたことないや。


 ……まぁいい。どうだっていいんだ。今更、あの人の声なんて。


「日を改めよう」


 そう思って目を横に逸らす。

 視線の先に映ったのは、無灯火で走る赤いスポーツカーだ。リトラクタブルライトが壊れているのかな。危ないなぁ。


「……」


 ……だめだ、どうしても引っかかる。僕は、今までの彼女の言動を振り返ってみることにした。



 注文はいつも無言。身振り手振りだ。それに、僕が大きめの声でマスターを呼んだ時も、彼女はこちらを向かなかった。

 

 ……あの人のすぐ隣から、大きな声で呼んだ時も。



「……!」



 咄嗟に、視線をあの人の方へと戻す。

 先ほどのスポーツカーが、音を立てて交差点へと向かう。彼女の左右に振れる白い傘は、ちょうど交差点を渡ろうとしていた。




『ゴシャッ』




 道路の路側帯には、無残に潰れた白い傘。


 そのそばで倒れ込んでいたのは――彼女を抱え、かろうじて歩道側へと倒れ込んだ僕の身体だった。



 車の音が消え、雨がざぁざぁと二人の身体をうつ。

 すごく痛い……体のあちこちがジンジンするよ。スーツにしみ込んだ雨水が、僕の尻を容赦なく冷やす。


 “あの人はどうなった!?”

 そう思って、ヨロヨロしながらも顔をなんとか上げる。一瞬のことで、頭の整理が追い付いていないようだが、どうやら無事なようだ。彼女は僕の胸の上で顔をキョロキョロさせて、やがて此方を見る。


 僕の身体を急いで降りて、「ウ、アー」と声にならない声を上げた。雨なんかじゃない。正真正銘の涙を流して。


 よかった。本当に。


 僕はすぐさま、地面に落ちた自分のカバンを探る。

 出てきたのは会社で使う積算用紙と水性ペン。用紙が少し染みていて、すぐに雨でクシャクシャになりそうだけど、これでいいんだ。


 僕は書いた。

 やっぱりすぐ滲んだ。

 僕は急いで、彼女に見せた。



 『ありがとう』




 ※ ※ ※ ※ ※




 僕たちはずぶ濡れになりながらも、monsieurへとたどり着いた。マスターが僕たちを見て、一瞬ぎょっとしたのが分かった。

 そして何かを察したのか、彼は無言で「本日営業終了」の看板を外へと持っていった。ここはどうやら、僕たちの貸切となるらしい。


 二人でカウンターに腰掛けて、僕は彼女を見る。……なんだかとても、しゅんとしているな。


 僕はおもむろに、先ほどの積算用紙の束とペンを二人の間に出し、引き続き“会話”を試みた。



『ようやく、あなたとお話ができますね。


 はい。私もそう思います。うれしいです。


 長い間、あのときのお礼が言えなくて、ほんとうにすみませんでした。


 いえ、あのときは、あなたも大変なんだろうなと私は思っただけです。


 それともうひとつ。僕は先週、あなたに大変失礼な態度をとってしまいました。申し訳ありません。


 それは仕方のないことですよ。私は、聾唖なのですから。


 重ね重ねすみません。恥ずかしながら、その漢字の読み方がわかりません。


 これは、ろうあといいます。生まれつき、耳が聞こえません。』



『失礼いたしました。


 お気になさらないでください。私も私で、いつもは筆談のためにペンとメモを持って来るんですが、あの時は家に置いてきてしまったのです。不快な思いをさせてしまって、申し訳ありません。


 なるほど。そうだったんですか。


 そんなことより、先ほどは助けてくださって、本当にありがとうございました。


 いえいえ、お礼を言われるようなことじゃ。あと、今から敬語やめませんか(笑)


 どういうことですか。


 なんか、ふたりとも謝ってばっかりで固いというか。まぁ、謝りはじめたのは僕の方なんだけど。


 はい、わかりました。


 敬語敬語!


 あっ、ゴメンなさい……』



 僕は彼女との“会話”を通して、色々なことを教えてもらった。


 なにも聞こえないために、これまで友達がいなかったこと。

 なにも聞こえないために、家でパソコンを通した仕事しかできなかったこと。


 人との関わりを持ちたくて、同年代の子が行くカフェやバーにも行ったこと。結局それらはどこも馴染めず、たまたまこのmonsieurに行きついたこと。

 マスターが手話で話してくれたことが嬉しくて、この店が好きになったこと。


 いずれは他の「声」を持つ人たちともここで、こうやって“会話”することを夢見ていたこと。



 たまたま介抱した相手が、このお店に通いはじめたのを知っていたこと。

 これも何かの縁だと思い、ずっとお話をしたいと思っていたこと。


 だんだん店に馴染むにつれ、多くの人と楽しそうに話す僕を見たこと。

 声をうまく出せない自分では、不快な思いをさせてしまうと思っていたこと。それで諦めていた矢先、僕が肩をつついた瞬間がとても嬉しかったこと


 慌ててメモとペンを探したが、見つからなかったこと。

 僕が帰ってしまった時、とても悲しい思いをしたことを。



 そして、僕が車に引かれそうな自分を助けてくれたとき、涙を抑えきれなかったことを。



『マスターを見て。

 すごくウトウトしてるね。

 もう紙もスペースも無くなるし、なにか頼もうよ。マスターを起こすから(笑)

 そうだね。どうしよう。

 どうしょうかな。

 私は一度、他の女の子がよく飲んでるカシオレを頼んでみたいな。

 OK!じゃあぼくもカシ――』




 ※ ※ ※ ※ ※




 それからしばらくの時間を過ごしたあと、僕たちは店を出ることにした。

 僕が、オークのドアをギギっと開ける。


 もう日は登り、雨は上がっていた。アスファルト一面に広がる水たまりに、ネオン光の消えた「monsieur」の文字が映る。


 ドアを開ききると、そこにいた鳩の群れがバサバサと一斉に飛び立つ。それは一糸乱れぬ綺麗な弧をゆっくり描いて、薄水色の空に黒い模様を付けていった。


 それを二人で見上げる。顔を見合わせ、笑みがこぼれる。



 僕はそれから彼女の手を引いて、雨上りの街に踏み出したんだ。





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