Ⅰ
小雨のさんさんと降る1月の夜、僕は店の前に立つ。
くたびれた赤色ネオンがトンツートンツーと瞬く。
店の名は「monsieur」といった。
エイジングの施されたオークのドアを前に、そのときの僕は震えていた。
中を覗こうとしたが、店の窓は僕の頭二つ分高い位置にあった。なんて意地の悪い作りなんだろう?
それは、外界と途絶した雰囲気の演出をするためなんだって。
そんなことは僕だって知ってる。だから怖いんだ。
ドアを開けた途端、店中の客が“馴染みのない”僕を一斉に見るんだろうか。それとも、一人ぼっちのさえない男が来たと、影から指を差すんだろうか。
そう考えただけで、ドアノブを握る僕の手は凍ったように固まってしまう。
そんな僕の手を暖めるのは、今から一週間前に起きた出来事の記憶だった。
※ ※ ※ ※
ここの向かいには、一軒の居酒屋が建っている。
あの時の僕たちは、そこから出てきた。勤めている営業会社の付き合いだった。
ほんの些細な無礼から“上司の酒”を浴びるほど飲む羽目になった僕は、もう限界だった。
ふらつく僕に同僚が手を貸そうとしてくれたが、彼らに迷惑をかけたくはなかった。次の店で標的になるのは、おそらく彼らのうちの誰かなのだから。僕は一人で帰ろうと最後の力を振り絞り、なんとか断りを入れた。
彼らの背中を見送ったあと、僕はすぐさま道の上に伏した。吐しゃ物がコンクリートの上に散らばるのを見て、すべてがどうでもよくなった時。
その人は白いハンカチを持って現れた。
ベージュのコートに黒のタイトなパンツ。長く伸びた茶髪の若い女性。その人は「monsieur」からたまたま出てきたところだったらしい。
バーでほろよい良い気分だっただろうに、こんな惨状を目撃してしまえばすべてが台無しだ。僕は只々、彼女に対して申し訳ないことをしたと思った。
だけど……その人は何も言わずに、僕の背中をさすりだしたんだ。
僕はびっくりして顔を向けた。汚れた口はそのままに。
続けて差し出されたハンカチの滑らかな布地を唇にあてるたび、情けない気持ちがとめどなく湧きあがってきたことを、今でもよく覚えている。
しばらくして、気分は落ち着いた……が。昔から人付き合いが苦手な僕は、会社のお荷物となっている。営業に根本から向いてないといってもいいだろう。そんな甲斐性の無いぼくに、気の利いた言葉は浮かばなかった。
僕は立ち上がるなりその人から顔を背け、手で「もういいです」と制した。その人がどんな顔をして僕を見ていたかは知りようもない。言い訳をするならば、ただ“情けなかった”。そして、“早くこの場を去りたかった”。
そんな気持ちに負けた僕は足早にその場を去った。
覚束ない足取りで帰ってきた、家賃3万の安アパート。紐をカツンと引くと、蛍光灯が散らかる部屋をのっぺりと照らす。僕は敷きっぱなしの布団に、汚れたスーツのままダイブした。
冷静になるや否や、僕はとても反省したんだ。親切の行為、親切から目を背けた行為。泥酔した見ず知らずの男に手を差し伸べてくれた人に――
僕は、「ありがとう」を言えなかった。
※ ※ ※ ※ ※
ふたつの意味で苦い、あの時の記憶が今の僕を突き動かした。
大きく息を吸い込んで、重く冷たいドアノブを勢いよく回す。そのまま勢いがついて、ドアがバタンと大きな音を立て開いてしまった。
“さっそくやってしまった!”
そう思い辺りを見回したが、誰もこちらを見てはいなかった。安堵した僕は、挙動不審に席を探す。
若干狭めな店内は、老齢のマスターが立つトラディショナルな4席分のバーカウンターを設えていた。
奥には4人掛けと2人掛けのテーブル席がそれぞれふたつ。客は大きな席に3人ほど。僕は一目散に、2人掛けのテーブルへと向かう。
テーブルは無垢材を用いた温もり溢れるもの。良い肌触りだ。椅子は少し固かったが、敷かれたチェックのクッションがここのマスターの親切心を感じさせる。
僕は椅子に深く腰掛けて、震えを落ち着かせた。そして言った。
「すみません」
聞こえていないようだ。
「すみませんっ」
マスターがこちらを向いた。やがて彼は僕の前へとやってきて、静かだがはっきりと聞こえる声で言った。
「お決まりですか」
「……カシオレ……ください」
マスターは「カシスオレンジですね」と返す。なんだろう、少し気恥ずかしい。やはりと言うべきか、僕なんかにスマートな注文なんてできるわけがなかった。
バーでカシオレなんてモノを頼む僕の姿。あの上司が見たら、「女々しい」と笑うのかな。……いくらでも笑え。僕は基本的に、こういうお酒しか飲めないんだから。
マスターがカウンターへ戻り、しばしの“休息”が訪れる。人付き合いの苦手加減も、ここまで来れば才能だろう。
店の壁は赤煉瓦積みで、随所にあしらわれたオーク材の内装と相まって重厚さを感じる。巷のテラスを構えたカフェバーとは違って、古風な設えだ。
高めの天井から吊り降ろされた乳白色のペンダントライトが、ほのかな温かみを演出。
対してカウンターは間接照明がふんだんに使われ一際明るくなっていて、壁付の棚に飾られた色とりどりの瓶が光沢を放つ様が、とても幻想的だと思った。
そういった具合に店内を見回しているうち、僕はこの店を訪れた本来の目的を忘れかけていることに気がついた。
なにをやっているんだろう。僕が探しているのは“あの人”ただ一人だけだというのに。
左手につけた腕時計。時刻は10時を回っている。先週のあの時よりも、まだ1時間早い。
明日は世間でいうところの休日にあたる。あの人がここを訪れるとすれば、先週と同じ曜日の今日だろう……と僕は踏んだ。
今、この店にいる他の客は会社帰りと思しき男女が3人。雰囲気の良いジャズが流れる中、なにかの話に花を咲かせていた。
あの人はまだ現れていない。居心地の悪さにそわそわしつつも、僕は紙袋の紐を握りしめていた。紙袋の中身は、新しいハンカチだった。
今日僕がここに来たのは、決して“ショットバー・デビュー”をするためじゃない。
あの人に「ありがとう」と言うためなんだ。