六
貫吾は目を開いた。見知らぬクリーム色の天井が一番最初に見た物だった。周囲を見ようとして、顔を動かそうとした。首に何かがはまっていてうまく顔が動かせない。首にはまっている物をはずそうとして手を動かそうとする。右手には力が入らなかった。左手をと思い動かそうとする。力を入れた途端に酷い痛みを感じた。
「おーい。誰かいないか? ここはどこだなんだ?」
貫吾は声を出した。声は普通に出た。
「貫吾さん! 起きたんですね! すぐにお医者さんを呼んで来ます」
すぐ傍から大きな声が上がり人が駆けて行く足音がする。しばらくその声の主が誰なのか分からなった。声と言葉を脳内で繰り返し声の主が恭子なのだと気付いた時、貫吾は自分の置かれている状況が大体分かった気がした。恭子はすぐに医者を連れて戻って来た。医者が診察をしながら貫吾の怪我の程度を説明してくれる。数十段の階段から落下したにしては軽傷だったらしい。脳震盪と打撲と脱臼と捻挫で骨折などはしていないという事だった。
「どれくらい寝てたんだ?」
貫吾は誰に問い掛けるともなく言葉を出した。
「一時間くらいです。良かった。目が覚めて良かったです。英子さんの御両親に連絡して来ます」
恭子がまた駆けて行く。医者も診察を終えると病室から出て行った。
「英子。見てるか?」
一人になった貫吾は天井に向かって声を掛けた。なんの返事もなんの反応もない。
「カン、シカ、ノイ。生き返ったぞ。しばらくは検査の為の入院生活だ。退屈しそうだ」
三人の声も聞こえない。貫吾は静かに目を閉じる。涙が目尻からこぼれ、頬を伝って首筋まで流れ落ちて行った。
「貫吾君。良かったわ」
「良かった。本当に良かった」
英子の父親と母親の声がしたので貫吾は目を開けた。
「わざわざ来てもらってすいません」
姿の見えない二人に向かって声を掛ける。すぐに二人が視界の中に入って来た。
「貫吾君」
英子の母親が泣きそうな表情で見つめて来る。
「恭子さんから、聞いた。怪我もそれほど酷くはないらしいね。良かった。本当に良かった」
英子の父親が心底安堵しているという顔で見つめて来る。
「すいせん。心配掛けてしまって」
貫吾は並んで見下ろしている二人の顔をじっと見つめた。
「そんな事いいのよ。貫吾君は良くなる事だけ考えて」
「身のまわりの事とかは全部やるから心配はいらないよ。ゆっくり体を治しなさい」
「お父さん。お母さん。すいません」
止まっていた涙が流れ出した。
「泣かないでいいのよ」
英子の母親も泣き始める。
「二人して泣く事はないだろう」
英子の父親が声を震わせてそう言いながら目頭を押さえた。
「私の為に、すいませんでした」
英子の母親の隣から恭子が顔を出すと頭を思い切り下げた。
「あの時、貫吾さんが引っ張ってくれなければ、私も落ちていたはずでした」
貫吾は恭子の顔を見つめた。
「何を、言ってるんだ?」
「あの時、私、階段を踏みはずしたんです。それで、貫吾さんにぶつかって。貫吾さんが咄嗟に肩を引っ張ってくれたから階段の手すりの所に体がぶつかったんです。それで落ちなかったんです。けど、貫吾さんは落ちて行ってしまって」
「いや。待ってくれ。俺は」
不意に何かが割れる音がした。
「どうしたのかしら。コップが落ちたわ。窓も閉まってて風もないのに」
英子の母親が言いながら視界から消える。貫吾は英子の言っていた言葉を思い出した。英子なのか? 大丈夫だ。ちゃんと話せる。貫吾は心の中で英子に語り掛けてから改めて言葉を出した。
「意識してやった事じゃない。たまたまだ。そんな事より、俺はあの時、あんたを階段から落そうとした。だから自業自得だ。あんたが落ちなくて良かった」
恭子が大きな声を出す。
「でも助けてもらったのは事実です。私は自分の不注意でまた人を……。それなのに、そんな私なのに。助けてもらったんです」
言い終えた恭子が両手で顔を覆うと静かに泣き始める。英子。どうだ? ちゃんと話せただろ? 俺は変わったらしい。もう復讐なんてどうでもいいみたいだ。貫吾はもう一度心の中で英子に語り掛けてから口を開いた。
「わざとじゃなかった。そうだろ? 英子の時も俺の時も」
恭子が顔を覆っていた両手を下ろすと涙で濡れた瞳で見つめて来る。
「貫吾……さん……」
「急に変わったからな。驚くよな。今からおかしな事を言うけど聞いてくれ。お父さんとお母さんも聞いて下さい。俺、気を失っている時に英子に会ったんです。あの世みたいな所で。英子は俺に自分の分も生きて欲しいって言ってくれました。復讐とか馬鹿な事はするなって怒ってくれました。英子は願ってくれたらしいです。俺が階段から落ちた時、死なないようにって。俺、階段から落ちた時、死ぬかも知れなかったらしいんです。でも、英子が神様だか仏様だかに死なせないようにって頼んでくれたみたいで。そのお陰で今、こうして生きてるんです」
英子の母親も父親も恭子も貫吾のした荒唐無稽な話を黙って真剣に聞いてくれていた。
「皆さん。すいません」
恭子が喘ぐように小さな声を出し、その場に座り込むとまた泣き始める。
「貫吾君。ありがとね。本当にありがとね」
英子の母親が涙を流しつつ言いながらしゃがむと恭子の体を包むように抱く。
「実に英子らしいね。貫吾君」
英子の父親が静かに嗚咽する。貫吾は、ゆっくりと目を閉じた。英子。これで良いんだよな。俺、生きてみる。お前の分まで、生きてみる。俺の心の中にいる皆も。これで良いんだよな。いつかまたお前らを頼るかも知れないけど、そん時はよろしくな。
「貫吾。見てるからね」
「おじさん。ナイス」
「良くやった」
「応援してる」
皆のそんな声が聞こえた気がして貫吾は目を開けた。貫吾は天井に向かって微笑むと、またゆっくりと目を閉じた。