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貫吾が最初に感じたのは、肌を切るような冷たい風の感触だった。

「吹雪いてるじゃねえか」

周りが見えた瞬間に貫吾は怒鳴った。

「寒いよーおじさん」

カンが抱き付いて来る。周囲には何もなく薄暗い空と縦横無尽に宙を舞う雪しか見えない。

「どこか風や雪が当たらない所はないのかしら」

 アサが周囲に顔を巡らせながら声を上げる。

「あそこ。あれは灯りじゃないか」

 シカが大きな声を出す。

「行ってみよ」

 ノイが皆の先頭に歩み出る。ノイを先頭にしてしばらく行くと、周りの風景が突然変わった。今までは何もなかったのに、いつの間にか周囲には巨大なビルが立ち並び大都市のような景観になっていた。

「どういう事だよ?」

 貫吾は顔を上向けてビル群を見る。

「詮索は後よ。とにかく灯りの所へ行かないと」

「おじさん寒い」

「急ごう」

「もう少しだよ」

 貫吾達は灯りのある場所に辿り着く。軒先の外灯をぼんやりと光らせ、ビル群の間にポツリと一軒だけ建っていたそれはどこにでもあるような平屋の住宅だった。

「着いたー」

 カンがドアに飛び付き素早く開けると家の中に入った。

「おい。勝手に入るな」

「カン」

「何かあるといけない。俺達も行こう」

 皆がドアの傍まで行くとシカが風を受けて勝手に閉じていたドアを開ける。

「私が行く」 

 ノイが真っ先に中に入った。

「ノイ。待って」

 シカがノイの後に続く。

「カン。大丈夫か?」

「カン」

 貫吾とアサも中に入る。

「誰もいないみたい」

 真っ暗な部屋の中からカンの声が返って来た。

「そうか。とりあえず何もないなら良かった」

 貫吾は横に立っているアサの顔を見た。貫吾の視線に気付いたアサが小さく頷く。

「無事で良かったわ。それにしても暗いわね。電灯のスイッチはないのかしら」

「これだと思う。今スイッチ入れるね」

 カンと同じように真っ暗な部屋の中からノイの声だけが聞こえて来る。

「おお。明るくなったな」

「この家の中、何もないわね」

 家の中には何もなかった。がらんとした空間がただ広がっているだけだった。

「本当だね。おかしな家だ」

 部屋の真ん中辺りにいたシカが中を見回すように顔を動かしつつ口を開く。

「寒くないだけ良いじゃないか」

 カンが貫吾の傍に来る。

「しばらくここにいた方が良いかも知れないね」

 ノイがドアのある場所の向かい側にある壁に据え付けられている窓に顔を近付け外を見ながら言った。

「アサ。何か分からないか?」

 貫吾はアサの横顔に目を向ける。

「分からないわ」

 アサが困った表情を見せる。

「玄関はないけど、一応靴は脱いだ方が良いのか?」

 貫吾は靴の踵に指を掛けた。

「土足で入らない方が良いと思うわよ」

「僕も脱ぐ」

「私もそうする」

「俺も脱ごう」

 カン達三人が貫吾達のいる場所に来て、靴を脱ぐ。貫吾は靴を脱ぎ終えると部屋の中央に行き腰を下ろした。アサとカンが傍に来て座る。

「ノイ。どう? 何か見えるかい?」

 窓辺に戻ったノイの傍にいるシカが言葉を出す。

「駄目だね。外は相変わらずの吹雪だよ。空も薄暗いまま」

 ノイが貫吾達の方を向く。

「たくっ。砂漠で暑い暑いと言ってたと思ったら今度はこれか。風邪ひいちまう」

 貫吾は目を閉じると、その場に寝転んだ。

「僕もー」

 カンも寝転ぶと貫吾の体に体をくっ付けて来る。

「いきなり寝る気なの?」

「ああーっ。おじさん。天井」

 カンが叫んだ。

「天井?」

 貫吾は閉じていた目を開けた。

「なんだ? 何かの図か?」

 天井には子供の落書きのような筆致で何かの図らしき物が描かれていた。

「何かしら?」

 天井を見上げたアサが首を傾げる。

「地図だったりして?」

「うん。地図っぽいかも。シカナイス」

「あの丸印がこの家かな?」

 ノイが天井の一点を指差す。

「そう言われるとそうとも思えるな。あのたくさんある長方形がビルか」

「じゃあ、丸印から伸びる線が道筋かしら?」

「そう見ると、線が最後に辿り着いてるばつ印の所に行けって事になるのかな」

 ノイが線に沿って指を動かし、ばつ印を指差した所で動きを止める。

「これただの一本道だぞ。地図の意味あんのか?」

「本当だ。おじさん良く気付いたね」

「貫吾やるじゃない」

「あのな、お前ら」

「真っ直ぐに行けば何かあるって事かい?」

「他にも何かないかな?」

 ノイが部屋の中を見回しながら歩き始める。貫吾は起き上がるとその場に胡坐をかいた。

「行くにしても、この吹雪がおさまらないとな」

「そうね。近ければ良いけれど、どれくらいの距離があるのか分からないものね」

 アサが仰向けに寝転がる。

「そういえば、疲れたね。ちょうど良いから少し休むかい?」

 シカがその場に腰を下ろす。

「アサ。お前さっき俺にいきなり寝るのとか言ってたくせに寝転がるなよ」

 貫吾の方を向いたアサが睨むように目を細める。

「さっきとは状況が違うわ。今はやれそうな事ができたのよ」

「他には何もないみたい。とりあえず吹雪がやむのを休みながら待つのは良い方法かもね」

 ノイがシカの傍に行き腰を下ろした。

「寝よう寝よう。寝転がってたら凄く眠くなって来ちゃった」

 カンが甘えるような声で言う。

「吹雪の中を行くのが試練とかだったら、どうすんだ?」

「貫吾にしては鋭そうな事を言うわね」

「お前な。真面目に聞けよ」

「僕眠い。とにかく寝ようよ。試練が吹雪の中を行かなきゃいけないとかだったら吹雪はやまないって事でしょ。歩くの大変だよ。ぐっすり寝てしっかり休んでから行こうよー」

 カンが駄々をこねるような声を出す。貫吾はカンの方に目を向ける。カンが至極眠そうな顔をして貫吾の顔を見返して来た。

「しょうがねえな。休んでくか」

「考えてみれば、今までずっと動きっぱなしだったものね。水の中に森の中に砂漠に吹雪。ちょっとくらい休んでも罰は当たらないわよ」

 貫吾は寝転がった。天井の図が目に入って来る。

「あのばつ印の所に何があるんだろうな」

 誰にともなく言葉を投げる。

「行けばきっと分かるさ。今は休もう」

 シカが言葉を返して来た。

「そうだな。俺もなんだか眠くなって来た」

 貫吾は瞼をゆっくりと閉じた。

眠りに落ちてからどれくらいの時間が経った頃だろうか。貫吾はふっと目を覚ますと上半身をノロノロと起こした。

「まだ皆寝てるのか」

 あくびをしつつ確認するように皆の姿を見てから呟いた。もう一度寝ようかと思ったが外の様子が気になったので立ち上がり窓に近付いて行く。外は相変わらず吹雪いていた。

「吹雪の中を行く事になりそうだな」

 貫吾はくるりとその場で体の向きを変えると、座って窓のある壁に背中を預けた。眠っている皆の顔を一通り見てから起こそうかどうか考える。

「そのうちに起きるか」

 かわいそうなので起こすのはやめにした。何もせずにぼんやりしていると吹雪の音しか聞こえない静けさに今起きているのは自分一人であるという当たり前の事実を貫吾は改めて自覚させられた。

「このおかしな世界に来てからは賑やかだったな」

 貫吾はまた皆の顔を一通り見た。不意に目を開けたアサと目が合う。アサがキョトンとした顔になってから一度瞬きをした。上がった瞼の下から出て来たアサの目付きが変わっていた。いつものアサの目付きではなく、愛しい者を見る時のような優しく濡れた目付きになっていた。

「ずっと見ていたわ。一人にして本当にごめん」

 アサの口がゆっくりと開き、静かに言葉が紡がれた。

「は? お前、いきなり何言ってんだ?」

 貫吾はアサの顔をまじまじと見つめる。

「やっと会えたのに。またお別れね。でも、忘れないで。私はずっと見ているわ。私は君の事を愛している。ああ。けれど。新しい恋はした方が良いと思うわ。悔しくて、悲しくて、やり切れないけれど、それでも、君は、また恋をして。私の分まで楽しく生きないと駄目なんだからね」

 アサが口を閉じる。貫吾は全身の毛という毛が逆立ち体の芯から興奮と歓喜と不安とが溢れ出て来るのを感じ軽く眩暈を起こした。

「ちょっと待て。待ってくれ。今、言葉を出したのは、英子か?」

 貫吾は立ち上がると、薄氷を踏むような気持ちになりながらアサに向かって足を一歩踏み出した。

「貫吾。久し振り」

 アサがにっこりと微笑む。

「マジか? 本当に英子なのかよ」 

 アサの顔も周囲の景色もぼやけて見えなくなる。

「泣いちゃって良いの? 折角の再会なのに」

「馬鹿野郎。泣かないでいられるか。英子が、お前が、目の前にいるんだぞ」

 貫吾は涙を拭うと、アサの傍まで近付いた。

「相変わらず泣き虫ね。もっとこっちに来て。抱き締めて」

「おう」

 貫吾はアサの前で両膝を突くと、両腕をアサの背中に回しぐっと抱き締める。

「貫吾の匂い。感触。やっぱり本物は良いわ」

貫吾は泣きながら、強く強くアサを抱き締め続ける。

「へ? え? 何? どういう事なの、かしら? 貫吾? ちょっと、これは、一体?」

 アサの口から激しい戸惑いを感じさせる言葉が漏れ出た。

「どうしたんだ?」

 貫吾は抱き締めたまま優しく声を掛ける。

「ごめんね。放してもらえるかしら。ちょっとどういう状況か知りたいの」

 貫吾はアサから腕と体を離し、アサの顔を真正面から見つめる。

「寝ている間に何があったの?」

 アサが真剣な顔をして見つめ返して来る。

「お前、アサか?」

 アサが頷く。

「そうよ。他に誰が」

 アサが何かに気付いたような表情を見せ、口を噤む。

「英子がいたんだ。お前が英子になってた」

 アサが目を伏せた。

「私が英子さんに? 何を言っているのか、分からないわ」

 貫吾はアサの両肩を両手でつかんだ。

「本当か? お前、何か知ってるんじゃないのか?」

 アサがしばらくの間沈黙してから、伏せていた目を上げ見つめて来た。

「知らないわよ。何も知らないわ。手を。手を放して。そんなにつかんだら痛いわ」

「そんな事」

 貫吾は大きな声で責めるように言ったが、その後に続けようと思っていた言葉を飲み込んだ。

「すまん」

 貫吾は静かに告げて、アサから手を放す。

「貫吾。何があったの? 詳しく話してくれる?」

 アサが気遣うように言葉を出す。貫吾はその場に座り、項垂れた。

「アサ、お前が、さっき英子になってたんだ。それで、俺に話し掛けてくれて、抱き締めてって言われて。……。けど、考えてみれば、ありえないよな。俺、どうしちまったんだろう?」

 アサは何も言わない。

「いきなり抱き締めたりしてごめんな。本当に悪かった」

 項垂れたまま貫吾は立ち上がった。

「吹雪、やんでるかな」

 貫吾は窓の方に向かって歩き出した。

「駄目だな。やっぱ吹雪の中を行くしかないのかもな」

 貫吾は窓の外の相変わらず吹雪いている景色を見つめた。

「最後の試練を乗り越えたら、あなたは生き返る」 

 アサの声が背後から聞こえて来る。

「知ってる」

「どうして、そうなっているかは知らないはずよね」

「お前は知ってるのか?」

「知ってるわ。英子さんがそう願ったからよ。あなたが死んだ事を知ってそう願ったの」

 貫吾は振り向いた。アサと目が合った。

「英子と会った事があるのか?」

 アサの瞳の中に映っていた貫吾の姿が微かに歪んだ。

「……」

 アサが何かを言い掛けて口を閉ざした。

「どうした? 何を言おうとした?」

 アサが立ち上がる。

「なんでもないわ。吹雪、本当にやんでないわね」

 アサが貫吾の隣に来て、窓の外を見つめる。貫吾も窓の外に目を向けた。だがすぐにアサに気付かれないようにと意識しつつ、窓ガラスに映り込むアサの顔を見た。

「ごめんなさい」 

 不意にアサが小さな声でそんな言葉を口にした。

「どうした?」

 貫吾は顔をアサの方に向けた。

「嘘をついたわ」

「嘘?」

「うん。さっきの英子さんの話」

「どういう事だ?」

 貫吾は大きな声を出しそうになったが、ぐっとこらえると普段と同じくらいの声量で聞いた。アサが肩を当てるようにして貫吾の腕に寄り掛かって来る。

「何が嘘かは言えない。言うと何もかも台無しになってしまうから」

 貫吾はアサの表情から少しでも気持ちを読み通ろうと目を凝らす。アサはとても悲しそうな、辛そうな、歯がゆそうな、そんないくつかの気持ちが入り混じったようななんとも言えない表情を顔に浮かべていた。

「そっか。言えないのか。なら、しょうがないな」

 貫吾はわざと軽い口調で言ってみた。アサが不思議そうな顔になって貫吾の顔を見つめて来る。

「あなた、変わったわ」

「俺がか?」

「うん。ここに来た時は、もっとなんて言うのか、ええっと、粗暴だった?」

「粗暴ってなんだよ。しかも疑問形かよ」

「粗暴は粗暴よ。今みたいな気遣いなんて絶対にできなかったわ」

 貫吾は窓の外に目を向ける。

「そうかもな。そういう意味じゃ、お前らのお陰だろうな。アサ、カン、シカ、ノイ。どいつもこいつも良い奴ばっかりだ。こんな風にお前らと過ごす時間がずっと続いたら楽しいんだろうな」

 アサがクスリと笑って、寝ている皆の方を見ようとするように顔の向きを変えた。

「何よこれ? 貫吾。貫吾」

 アサが今までとは打って変わって困惑し焦った様子で悲鳴のような声を上げた。

「なんだ?」

 貫吾はすぐにアサの見ている方に顔を向けた。

「なんだこれ。おい。どうした? 何が起こってるんだ?」

 カン、シカ、ノイの体が半透明になっていた。貫吾は一番近くで眠っていたシカに近付く。

「おい。シカ。大丈夫か? どうしたんだ?」

 シカの肩に手を伸ばす。

「シカ。どうした? 起きろ」

 半透明になっているシカの肩に手をおき体を揺さぶる。

「カン。カン」

 アサがカンの方に行き、声を掛ける。

「シカ。シカ。おい。ノイ。ノイ。駄目だ。目を覚まさない。アサ。何か分からないか?」

 貫吾はすがるような思いでアサに声を掛けた。

「何かって、私だって分からないわ」

「そうだ。試練に関係があったりしないのか? 俺が、さっき、ほら。ずっとこいつらといたいとか思ったからじゃないのか?」

 アサがはっとした顔になる。

「まさか……。けれど、ありえるわ」

「どうすれば良い? こいつらはこのまま消えちまうのか?」

「そんな事聞かれても」

 アサが天井に目を向ける。貫吾もアサにつられるようにして天井を見上げた。

「あそこに行けばひょっとしたら」

「ひょっとしたらなんだ? 皆元に戻るのか?」

「分からないわ。けれど、今一番関係がありそうなのはこの事くらいだと思う」

「おじさん」

 弱々しい声がカンの口から発せられた。

「カン。おい。カン。どうした? 大丈夫なのか?」

 貫吾は立ち上がりカンの傍に駆け寄った。

「カン。大丈夫なの? 辛いの?」

 アサが大きな声を出す。

「行かないで。ここにいて。変な夢を見たんだ。おじさんが一人で外に行っちゃうんだ。それで、寒くて倒れて、それで、おじさんが死んじゃって」

 閉じていたカンの目が微かに開き、そこから一筋の涙が流れ落ちる。

「カン。どこか痛いのか? 大丈夫なのか?」 

 貫吾は叫ぶ。

「カン。カン」 

 アサが悲痛な声を上げる。

「僕、もうすぐ消えると思う」

 カンが消え入りそうな声で告げた。

「なんだと? 何言ってんだ」

「あなたは消えたりなんてしないわ」

「僕、知っちゃったんだ。僕が何者なのか」

 カンの目がゆっくりと開いて行く。カンの涙で濡れる瞳が貫吾を見つめる。

「何言ってんだ? 何者なのかってなんだよ。お前はカンだろ」

「そうだけど、違うんだよ。僕は、おじさんの心の一部だ。僕はおじさんがいつの間にか自分の心の中の奥深くに閉じ込めちゃってた子供の心なんだよ」

「そんな事あるか。お前はカンだろ。俺の心の一部ってなんだよ。どうしちまったんだよカン」

 貫吾はカンの瞳の奥を覗き込むように見つめた。

「カン君、だけじゃない。俺もどうやら君の、心の一部らしい。俺は君がここ数年失くしていた、自由でありたいと、思う心みたいだ」

 シカの声が途切れ途切れに聞こえて来た。

「シカ君、まで?」

「おい。シカ。お前までどうしたってんだよ」

 貫吾はシカの方に顔を向ける。

「私も消えそう。私は英子さんと貫吾さんが恋をしてた時の心みたい」

 ノイのか細くなった声がする。

「ノイ。お前もなのか」

「そんな。こんな事。どうしてなのよ」

「何が俺の心だよ。そんなもんがこんな風に人の形になったりするもんかよ。俺は信じねえ。だいたいな。俺の心の中にカンみたいなかわいいガキもシカみたいな色男もノイみたいな男の娘もいるはずがねえだろ。お前ら全員何言ってやがんだ。しっかりしろ」

 貫吾は三人の顔を見ながら叫んだ。ノイがクスッと笑った。

「男の娘って。こんな時にそんな言い方しないでよ」

「おじさん。ありがとう。かわいいだって」

「色男。けれど、それは君自身の事だ。今の君は格好良い」

 貫吾は怒鳴る。

「お前ら、しっかりしろって言ってるだろ。消えて良いのか? こんな不条理で理不尽な事ないだろ?」

 カンが今までよりも少し大きな声を出す。

「僕はおじさんが檻から出してくれたから満足だよ。これからはずっとおじさんの中でおじさんと一緒だ。おじさんはもう僕を閉じ込めたりしない。そうでしょ?」

「カン。お前はお前だ。俺の心だなんて言うな」

「私は少し複雑かな。貫吾さんが新しい恋をしたら私は邪魔になる。けれど、それでも、そうなったとしても、心の中から消さないで欲しいな。酷い事言ってるのは分かってるんだ。でも、そう思っちゃう」

 貫吾はノイの顔を見つめる。

「新しい恋なんてしねえよ。できるかよ。違う。そんな事じゃねえ。お前はお前なんだよ。勝手に変な理屈付けて諦めようとすんな」

「姿が消えても俺達は一緒だ。君の中にいる。君が今までとは違って自分を好きになって、自分の中にある様々な感情や気持ちや思いと向き合えるようになれば、また会えるさ」

 シカがしっかりとした口調で言った。貫吾はすがるようにアサの方に目を向けた。

「アサ? お前? お前まで、なのか?」

 アサの体が半透明になっていた。

「ごめんなさい。私も消えて行くみたい」

「どういう事なんだよ。お前も俺の心の一部とか言うのか?」

 アサが目を伏せる。

「私は違うわ」

「じゃあどうしてだ?」

「たぶん、もうすぐ試練が終わるからだと思う。貫吾。外には行かなくて良いわ。きっとここでこうやって私達と別れるのが試練なのよ」

 貫吾は皆の顔を見回す。

「俺は認めない。こんな終わり方は嫌だ。俺は楽しかったんだ。お前らと出会って。もっとずっと一緒にいたい。俺は生き返りたくなんてない」

 アサが悲しい顔になる。

「貫吾。英子さんが願った事なのよ」

 貫吾は奥歯を噛み締めて束の間沈黙してから口を開いた。

「くっそう。英子。見てるんだろ? お前を失った時みたいに、突然、こいつらを失うなんて辛過ぎる。そうだろう? 英子。皆」

 貫吾の両目から涙が溢れ出す。

「おじさん。駄目だよ。おじさんは生き返らなきゃ。おじさんが死んじゃったら僕らまで死んじゃうんだ。僕はまだ死にたくない。折角おじさんが檻から出してくれたんだ。もっともっといろんな事を知りたい」

「カン」

「私も死んで欲しくない。さっきは新しい恋をして欲しくないみたいな事言ったけど、見てみたい気持ちもあるの。貫吾さんがどんな恋をするのか」

「ノイ」

「俺も生きて欲しい。苦労や悲しみや苦しみ。そういう物を積み重ねて行きながらも生きるのが人だ。そういう物を乗り越えて行くからこそ、人は強くなれるんだ。君は生きるんだ。生きて、もっと強くなってもっと自由になれ」

「シカ」

 アサが貫吾の傍に来て手を握った。

「貫吾。座りましょ。私達が消えるまで何か話をしましょう」

 貫吾は何も答えずに自分の手を握っているアサの半透明になった手を見つめた。

「俺とノイもそっちに行く」

 シカが立ち上がろうとするが、足に力が入らなかったようで転びそうになる。

「シカ。危ない」

 ノイがシカに寄り添い支えると一緒に立ち上がった。

「ノイ。ありがとう」

「私は元々が強いからまだ結構動けるみたい」

 ノイが微笑んだ。シカとノイが貫吾達の傍に来て腰を下ろす。

「貫吾。座りましょ」

 アサがもう一度言う。貫吾は空いている方の手を伸ばすと自分の手を握るアサの手を両手で包むようにして握った。

「ごめん皆。俺は行く。このまま終わらせるなんて嫌だ。できる事があるかも知れないんだ」

 貫吾の手を握るアサの手に力がこもる。

「危険だわ。外はまだ吹雪いているのよ。それに行ったとしても、どうなるか分からないわ。何もないかも知れないのよ」

「そうだよおじさん。一緒にいて」

「君の気持ちは嬉しい。だが、君の身に何かあったら俺達はどうすればいい? 自分達が君の一部だからとか、そんな理由じゃないんだ。君の事が心配だ。だから行かないでくれ」

「どうしても行くって言うなら私も行く。私ならまだ動けるから」 

 貫吾は窓の外に目を向けた。

「もう……。もう、大切な誰かを失うのは嫌なんだ」

 貫吾はアサを座らせてからアサの手をそっと自分の手から引きはがした。

「貫吾。行っちゃ駄目」

「必ず戻る。大丈夫だ」

「おじさん。駄目だよ」

「カン。良い子で待ってろ」

「やめるんだ。死んでしまうかも知れないんだぞ」

「死ぬもんか。絶対に生きて戻ってやる」

「私も行く。一人でなんて行かせないから」

「シカの傍にいてやってくれ。それと、皆を頼む。ノイが残っててくれれば安心だ」

 ノイが責めるような、それでいて悲しそうな顔で貫吾を見つめて来る。貫吾は会話を切るように振り向くと皆から離れてドアに向かった。

「貫吾」

「おじさん」

「君」

「貫吾さん」

 四人が叫ぶ。

「すぐ戻る」

 貫吾はドアを開け、外に出た。吹雪はここに来た時よりも強くなっている。右腕を顔に当て雪を防ぎつつ貫吾は歩き出した。深々と積もった雪が、貫吾の足の自由を奪う。靴が濡れ、靴下が濡れ、ズボンが濡れ、上着も下着も何もかもが濡れて行く。体温が低下して来て、歯がカチカチと音をたて始める。貫吾は歩き続ける。足を止めてはいけない。絶対に止まらない。それだけを心の中で念じている。ドサッという音が聞こえた。はっとして目を開ける。目を開けるという行為に気付きまたはっとした。貫吾はいつの間にか意識を失い倒れていた。体を起こすと立ち上がる。

「ふざけんなっ!」

 貫吾は怒鳴った。それから足を一歩前に踏み出し歩き出した。足からはなんの感触も伝わって来ない。手も足も感覚を失っていた。凄まじい眠気が襲って来る。一瞬でも気を抜けばその場に崩れ落ちてしまいそうだった。カチカチと鳴り続ける歯を食いしばる。歯が出していた音がやむと、吹雪の風鳴りが聞こえ始める。貫吾は歩き続ける。冷え切り、疲れ切り、何もなくただ暗澹としていた脳裏にふっと、カンの顔が浮かんだ。カンは微笑んでいた。カンと過ごした時間の事を考える。アサの顔も浮かび、シカやノイの顔も浮かんで来る。凍り付いたようになっていた心の中が温かくなった。戻るか? そんな言葉が貫吾の心の中に浮かんで来る。戻ればあいつらに会える。変な意地を張って外に来なければ良かったのかも知れない。いや。もう遅いのか? 今戻ってももう誰もいないかも知れない。貫吾は、足を止めた。

「俺は逃げたのか? 皆が消える姿を見たくなかっただけだったのか?」

 皆行かないでくれと言った。皆と一緒にいた方が良かったのではなかったのか。皆の最期を傍で看取った方が良かったのではなかったのか。貫吾はその場に膝を突いた。分からなくなった。自分は何をしたかったのか。悲しみから逃げ出しただけではないのか? 

「しょうがないだろ。もう嫌なんだ。英子を失った痛みに耐えられないんだ。ずっとずっと、続いてるんだ。朝、昼、夜。通勤に仕事に食事。何をやっててもどこにいても、英子の事を考える。英子がいないって事を考える。あいつらまでいなくなるなんて。無理だ。これ以上は耐えられない」

 貫吾は空を見上げた。薄暗かった空は真っ暗な空に変わっていた。吹雪が貫吾の体を激しく打ち据える。不意に体の力が抜け、貫吾の体は前のめりに倒れて行く。貫吾は両腕を前に向かって伸ばし積もっている雪の中に突っ込むようにして体を支えようとした。だが、貫吾の両腕は自分の体を支える力を失っていた。貫吾は雪の中に埋もれるようにして倒れ込んだ。

「なんだよこれ。これで終わりかよ。俺はまた何もできないのか? ……」

 貫吾はうわ言のように呟いた。視界も脳内も真っ黒に塗り潰されて行く。何も考える事ができなくなり、貫吾はゆっくりと目を閉じた。

「おじさん。立って。行くんでしょ」

「まだだ。まだ終わってない」

「貫吾さん。立って。後少し」

「声だ。あいつらの声がする」

 貫吾は閉じていた目を開く。体を起そうと動いた。両腕に力がしっかりと入るようになっていた。貫吾は立ち上がり周囲を見回す。

「いるはずないか。けど、お前らのお陰だ。俺はこうして立ち上がる事ができた」

 貫吾は歩き出す。吹雪の中を真っ直ぐに進んで行く。今まで平坦だった地面が緩やかな坂になって来た。坂は徐々に角度を増して行く。貫吾は足を止め、周囲を見た。坂の角度があまりにも急になった為に迂回路を探そうと考えていた。

「嘘だろ。いつの間にこんな風になったんだ?」

 貫吾が歩いて来て、これから歩いて行こうとする道筋の左右が崖になっていた。貫吾は

顔を前に向けた。

「真っ直ぐに行けって事かよ」 

 貫吾は歩き出す。歩き出してすぐに四つん這いになり四肢を使って坂を上り始めた。不意に手足が滑り、体が斜面を滑り落ちて行く。崖に落ちる寸前のところで体が止まった。

「間一髪だ」

 貫吾は立ち上がると、斜面を見上げた。

「くっそう」

 もう一度上り始める。だが、先ほどと同じ場所まで来ると、手足が滑り進めなくなった。

「そうだ」

 貫吾は雪を掘ってみた。しばらく掘ると土が出て来る。それを足掛かりにして進んでみた。

「なんとか行ける」

 貫吾は雪を掘りながら進み始めた。貫吾の歩みは酷く遅くなったが、それでも少しずつ少しずつ確実に貫吾は進んで行った。ひたすらに雪が覆う地面だけを見て進んでいた貫吾は先を見ようと思い顔を上げた。

「光だ」

 まだまだ距離はあるが、向かう先に光の点が見えた。

「きっと、あれが」

 貫吾は目に焼き付けるように光の点をじっと見つめてから、顔を雪の覆う地面に向けた。貫吾は進む。雪を掘り地面を掘り当てそれを足掛かりとして。貫吾の歩みはやはり酷く遅かったが、確実に一歩一歩前に向かって進んで行った。一度光を見てからどれくらい進んだのか。貫吾は再び顔を上げた。

「こんなとこまで来れたのか」

 光の点は点ではなくなっていた。坂の終わる場所に直径が三メートルくらいはありそうな球形の光の塊があった。貫吾は顔を雪が覆うに地面に向ける。雪を掘ろうとして、手に激痛が走るのを感じた。

「どうしたんだ?」

 貫吾は自分の両手を見た。指の爪がはがれたり割れたりしていて手が血だらけになっていた。

「おかしいだろ急に。まだ行けるはずだ」

貫吾は大きな声を出して自分を鼓舞し、雪を掘ろうとする。激痛が貫吾の手を襲う。

「ここまで来たんだ。後少しじゃないか」

貫吾は顔を雪に突っ込んだ。口を使って雪を掘ってみる。一つの穴が地面に到達したのでそれを足掛かりにしようと、片手を突っ込む。

「後少しなんだ」

指先に気を付けながら手を開いて掌を地面に当てると腕に力を入れて踏ん張り体を進ませようとする。それでもまた激痛が走り腕から力が抜けカクンと肘の所から勝手に曲がってしまった。

「あっ。あああ」

 貫吾の体は雪に覆われた斜面を滑り落ちて行く。先に滑り落ちた時よりも、長い距離を滑り落ちて行く。肘や膝を雪に強く押し付け体を止めようとするが、滑って行く体を止める事ができない。膝に当たっていた雪の感触が不意に消えた。次の瞬間、貫吾の体は崖の下に位置していた。

「嘘だろ」

 貫吾の喉の奥から、呻くような声が漏れ出た。奇跡が起きていた。貫吾は右手で雪の下から少しだけ露出していた崖の地面の縁の部分をつかんでいて崖からぶら下がっていた。なんとか助かり安堵していた貫吾だったが右手から伝わって来た激痛に顔を歪ませた。右手から急激に力が抜けて行き貫吾は落下死するという恐怖に慄き始めた。恐怖に慄いていた時間はほんの僅かだった。貫吾の右手は己の意志とは無関係に崖の地面の縁を放してしまった。落下して行くはずの貫吾の体は落下しなかった。貫吾の右手の手首が誰かの半透明な手によってつかまれていた。顔を上げると、見覚えのある顔が苦悶の表情を浮かべていた。

「アサ」

「貫吾」

 苦しそうな声が返って来る。貫吾は左腕を動かし崖の壁面をつかもうとした。

「アサ。放せ。無理だ」

 崖の壁面につかめそうな場所はなかった。右手をつかんでくれているアサの手をつかもうかと考えたが、一度つかんでしまったら放す事ができなくなるような気がしたのでつかまなかった。

「私の手をつかんで」

「アサ。いいから放せ。お前まで落ちる」

「嫌。貫吾を死なせたくない」

 アサの両目から涙がこぼれ落ち、貫吾の頬に当たって弾けた。

「来てくれてありがとな。それだけで俺は幸せだ」

「そんな事言わないで。早くつかんで」

「駄目だ。いいから早く放せ。お前を巻き込みたくない」

「嫌。それなら一緒に落ちる」

「何言ってんだ」

「ごめん。ずっと騙してた。私、本当は、英子なんだ」

 貫吾は、笑顔を作った。

「やっぱそうだったか。あの家の中でお前が英子になった時、そうかも知れないって思ってた。やっと会えたな。英子。酷い言い方するけどさ、お前は死んでんだ。俺が死んだって良いじゃないか。そうすればお前とずっと一緒にいられる」

「駄目。貫吾はまだ生きる事ができる。こんな所で死なないで。私の分まで生きて欲しいの」

「早く放すんだ。お前の手、凄い震えてる。俺は生きたよ。もうじゅぶんだ。死なせてくれ」

「馬鹿。私は死にたくなんてなかった。やりたい事がたくさんあった。もっと生きて君と一緒にいたかった。けど、私は死んだの。君はまだ生きられる。死なないで貫吾。生きて。お願い。もっともっと生きて」

 英子が叫ぶように声を張り上げた。英子の手の震えが止まっていた。

「英子」 

 貫吾は左手を英子の自分の手をつかむ手に向かって伸ばした。

「そうよ貫吾。後少し」

「うん」

 貫吾の左手の人差し指の先が英子の手の甲に微かに触れる。英子の体が滑った。

「英子!」

 貫吾は叫びながら、左手を崖に向かって伸ばす。貫吾のその手は崖に届く事なく虚しく空をつかんだだけだった。二人の体が落下して行く。

「もう。おじさん何やってんの」

「手を貸すよ」

「きっと会えるのはこれが最後だと思う」

 カン、シカ、ノイの声が聞こえたと思うと貫吾と英子の体が空中で停止し、浮き上がり始めた。

「お前ら」

「皆」 

 いつの間にか現れた三人が貫吾と英子の体を囲むようにして宙に浮いていた。

「どうなってんだ?」

「分かんない。けど、おじさんを助けたいって思ったらこうなってた」

「俺達はもう消えてしまってて、君の心の中に戻ってたんだ。ずっと見てたんだよ」

「きっと死にたくない、英子さんを守りたいって貫吾さんが強く思ったからだよ。だから私達が出て来られたんじゃないかな」

 貫吾達は崖の上に戻った。

「ふう。良かった良かった。じゃあ、おじさん。またいつかね」

 カンの姿が消える。

「おい。カン」

「自分らしく、素直に生きろ」

 シカの姿が消える。

「シカ」

「たまには私達の事も思い出して」

 ノイの姿も消えた。

「ノイ」

 英子が貫吾の頬に手を当てて来た。

「悲しまないで。皆は君の心の中に帰っただけよ」

 貫吾は自分の頬に触れている英子の手を右手で握る。

「そう言われてもな。あいつらといた時間は本当に楽しかったんだ」

 英子が自分の手を握る貫吾の手をもう一方の手で握って来た。

「そうね。あんな風に楽しそうな君を見たのは久し振りだった」

 貫吾は空いていた左手を動かし、英子の頬に触れる。

「アサのままか? 英子の姿になる事はできないのか?」

 英子がクスッと笑った。

「本当の私の姿にはなれないんだ。ちょっと失敗しちゃった」

「笑うとこかそこ。失敗って何したんだよ」

「貫吾に正体をバラしちゃったでしょ。それが失敗。何があっても貫吾に私が英子だって知られちゃいけなかったの。そういう約束だったんだ」

「約束? 誰としたんだ」

「たぶん、神様? それか、仏様? 良く分からない。とにかく全知全能の存在だよ」

「急に胡散臭くなったぞ」

「まあね。けど、私は今こうして君と一緒にいる。胡散臭い全知全能の存在が言ってた事は全部本当だった。私がアサの姿のままでいる事も含めて」

 貫吾は英子の頬に当てている手を動かし、優しく撫でた。

「くすぐったいよ」

「俺の事ずっと見てたのか?」

「うん。見てた。電車の中で前の座席に座ってる凄い短いスカートを履いてる女子高生の事をチラチラチラチラ見てたのも見てた」

 貫吾は思わず咳き込んだ。

「ちょっと、おま、それは、違う。あれは、あれだよ。えっと、あ、そうそう。親戚の子に似てたんだ。だからだよ」

 英子が目を細めて睨んで来る。

「ふーん。親戚の子。誰? 私が知る限りじゃあの年頃の子なんていなかったよね? それにこの事覚えてるんだ。びっくりだよ」

「だから、親戚の子に似てたから覚えてるんだよ」

「で、誰なの? その親戚の子」

「そりゃ、あれだ。英子の知らない子だよ。凄く遠い親戚なんだ。俺も二回くらいしかあった事ない」

「ふーん。そういう事にしておくわ。折角会えたの痴話喧嘩してもしょうがないもんね」

 貫吾は英子の頬から手を放すと、英子に真剣な眼差しを向けた。

「急に何? 重大な事でも言い出すの?」

 貫吾は頷いた。

「そうだよ。なあ英子。一緒にいよう。俺はもう離れたくない。お前とずっと一緒にいたい」

「嫌よ」

 英子が笑顔でやんわりと拒否した。

「嫌よってなんだよ。お前は俺と一緒にいたくないのか?」

「いたくない」

 英子がバッサリと斬るように告げる。貫吾はその口調と言葉に衝撃を受けて茫然自失となった。

「嘘。そんな顔しないで。一緒にいたいよ。でも、今の私はこの姿だよ。君は私がアサのままで良いの?」

 英子に優しく言われ我に返った貫吾はしばし考えてから口を開いた。

「そうだけど、それでも構わない。今度会えるのは俺が死んだ時になるんだろ? それまで会えないんだぞ。そんなの辛過ぎる」

 英子が何かできるようになった事を見せようとして失敗してしまった子供を見るような表情をした。

「しょうがないな。私だってできる事ならそうしたい。けど、この姿のままは嫌。それと君はあの三人の気持ちを裏切る事になる。私はそんなの望まない」

 貫吾はカン、シカ、ノイの事を思い出した。

「君、忘れてたでしょ?」

 貫吾は小さく頷く。

「忘れてた。酷いな俺」

 英子が大げさに大きく頷いた。

「酷いよ君は。だからね。君は生きなきゃ駄目。君の中にいる三人と私の為にもね」

 貫吾は顔を俯ける。

「諦められない。一緒にいたいんだ」

「結構しつこい性格してるもんね。顔を上げて」

 貫吾は顔を上げた。

「本当は熱々のキスをしたいところだけど、今はこの姿だからね。やめとく。君が生き返ったら、何か不思議な事を起こすようにしてあげる」

「不思議な事?」

「うん。そうね。例えば、君が部屋に一人でいる時に、何か物音がするとか」

「どういう事だよ」

「私は傍にいるよって知らせてあげるって事」

「怖くないか、それ?」

「失礼ね。私がやるのよ。それを怖いだなんて」

 貫吾は英子の言葉を聞いて、思わず微笑んだ。

「だって、それって、幽霊の仕業って事だろ?」

「そうよ。当たり前でしょ。私、死んでるんだから」

「あのなあ。……。お前らしいな本当に」

「なんか馬鹿にされてる気がする。たまにしかできないから、ちゃんと気付いてよね。今までも何回かやった事はあったんだぞ。君は気付かなかったからな」

 英子がわざと怒ったような顔をする。

「知ってたよ。気付かない振りをしてただけだ」

「そうなの?」

「嘘だけどな」

「嘘? 信じらんない。こんな時にそんな嘘つくなんて」

「今のも嘘だ。本当はお前の仕業だったら良いなって思ってた」

「もう。からかないでよね」

 英子が嬉しそうな声を出す。貫吾は笑顔を消すと、足元に視線を落とした。

「やっぱ、生きなきゃ駄目か」

「そうだよ。頑張れ。貫吾」

「なにが頑張れだよ。たくっ。本当に辛いんだぞ」

「情けないな。私の愛した、今でも愛してる人はそんな人じゃないはずなんだけどな」

 貫吾は英子の顔を見る。英子がにこりと微笑んだ。

「強いな。相変わらず」

 英子が口を開こうとして何かに気付いたような表情になり途中でやめると、坂の終わる場所に顔を向けた。

「なんだ? なんかあんのか?」

 貫吾も顔を英子の見ている方に向けた。

「時間みたい」

 坂の終わる場所にあった球形の光の塊がゆっくりとした動きで坂を下って来ていた。

「動いてる」

「うん。あれがここに来たら強制終了。お別れ」

 貫吾は英子の顔を見た。英子はまだ顔を坂の終わる場所の方に向けていた。

「逃げたり……は、できないなよ」

「まだそんな事言う?」

 貫吾は悪びれずに言葉を出す。

「言うさ。英子と一緒にいたいんだ」

 英子が手を握って来た。

「たまらないね。本当にさ。私も一緒にいたい。離れたくなんてない。君と一緒に生き返って」 

 英子が口を閉ざす。

「どうした?」

 英子が顔を貫吾の方に向けて来た。

「ごめんね。私がこんな事言ったら君が行けなくなっちゃう。行こう。あの光がこっちに来る前に。無理やり別れさせられるなんてもう嫌なんだ。歩いて行こう。前に向かわなくちゃ」

「英子」

 貫吾は英子の手を握り返す。

「くっそう。行きたくねえ行きたくねえ行きたくねえ行きたくねえ。俺は英子と離れたくねえんだ」

 貫吾は顔を空に向けると己のすべてをさらけ出すように絶叫した。

「貫吾」 

 英子が、貫吾の手を握る手に力を込めて来る。

「叫ばなきゃやってらんねえ。英子。俺は行くぞ。精一杯生きて、生きて生きて、生き抜いて、それから、お前に会いに来る。だから、元気で待ってろ」

 貫吾は顔を空に向けたまま再び叫ぶ。

「私も叫ぶ。私は死んでるから、ずっと元気だから。君こそ、私みたいな死に方はしないで。好きな事、やりたい事を全部やって、後悔なんて全然しないような生き方をして、満足して、たくさん笑って、泣いて、喜んで、それで、それで、新しい恋をして、子供を作って」

 途中から涙声に変わっていた英子の声が途切れた。

「英子」

 貫吾は英子の顔を見た。英子は空を見上げながら泣いていた。

「まだ言いたい事があるの。でも、言葉にできない。貫吾。ごめん。私は駄目だ。君を束縛する鎖になりたくないのに。君の事、諦めなきゃいけないのに。……。できないんだ。私は君の事がまだ大好きなんだ」

 貫吾は英子の事をお姫様抱っこした。

「貫吾?」

「俺が連れて行ってやる。どこまでもどこまでも。ずっと一緒だ。お前は俺を束縛なんてしてない。俺がこうやって勝手に持って行くんだ。俺が、俺がもしも新しい恋をしたとしても、お前の事は忘れない。こうやって、ずっと持って行く。だから、泣くな。笑え。笑ってくれ」

「貫吾」

 英子が泣きながら笑顔を作る。

「なんだよその顔。変な顔だ」

「貫吾だって変な顔してるよ。もう。女の子の顔見て変な顔だなんて言うな」

「冗談だ。お前はどんな時もかわいい顔してる」

「貫吾の馬鹿」

 貫吾は前を向き歩き出す。

「前に進むからな。俺はしっかり生きる」

「うん。生きて。見てるから」

「見てろよ。けど、変なとこは見なくていいからな」

「一言多いよ。最期なんだからもっと格好付けてよ」

「しょうがないだろ」

「うん。君だもんね」

 二人は笑顔で見つめ合う。

「光が」

「うん。着いちゃった」

 二人は球形の光の中に入った。

「眩しくて顔が見ない」

「私も貫吾の顔が見えないよ」

 貫吾はその場に座り込むと英子の体を強く抱き締める。英子も貫吾の体を強く抱き締め返して来る。光で真っ白になっている視界の中に英子の顔が浮かんで来た。

「英子」

 英子はアサではなく英子自身の姿になっていた。

「貫吾。さよなら」

 英子は微笑んでいた。

「英子」 

 英子の体の感触が消えて行く。

「えいこおおぉぉぉ」

 叫んでいる途中で視界が暗転した。気が付けば貫吾は空にいた。青い空と白い雲が貫吾の周囲にある。ゴウゴウと風が鳴り、風が貫吾の体を圧迫して来る。悲鳴を上げながら落下して行く途中で貫吾は意識を失った。


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