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 浅い眠りを途中で妨げられた時のような何とも気怠い感じを覚えつつ、貫吾は閉じていた目を開けた。

「おお!? ここは? くっそう。あいつ」

 貫吾は立ち上がりつつ怒鳴った。貫吾の声が巨木が生い茂る森の中に木霊する。

「おい。アサ。どこだ? 勝手に俺を連れて来やがって」

 貫吾は目を怒らせてアサの姿を探す。

「どこだ? 隠れてるのか?」

 周囲を見回すが、どこにもアサの姿はない。

「アサ。どこだ? カン。どこにいる?」

 カンの姿もどこにもない。

「なんだってんだ。人を連れて来といて放置かよ」 

 貫吾はブツブツと愚痴をこぼしながら、どこへともなく歩き始める。しばらく歩いてから思い出したように足を止めて周囲を確認する。

「おい。アサ。カン。どこだ」

 二人の名を大きな声で怒鳴るが誰の声も返って来ない。

「本当に、なんだってんだ」

 貫吾は歩き出さずにその場に腰を下ろした。背後にあった巨木の幹に背中を押し当てるようにして寄り掛かる。生い茂る巨木の上方から無数の鳥の鳴き声が降って来た。目の前の巨木の幹には何やら見た事のない派手な色の芋虫が這っている。貫吾はこの森に生命が満ち溢れているの感じた。

「面白くねえ」

 貫吾は吐き捨てるように言うと、立ち上がった。

「おい。アサにカン。どこにいる? いい加減にしろよ」

 ありったけの声を上げて怒鳴る。鳥の鳴き声がやみ、森の中に静寂が訪れた。

「だーれーかー。たーすーけーてー」

 静寂を破る大声が聞こえ、続いて、大勢の人間が駆ける足音が鳴り響く。

「なんだ?」

 何事かと目を見張る貫吾の目前を一人の青年が駆け抜けて行く。青年が貫吾の方を向き、目と目が合った。青年が嬉しそうに微笑む。青年は男である貫吾ですら唸りそうになるほどに格好の良い顔をしていた。貫吾の前を通り過ぎてすぐに青年が足を止める。

「君。すまないが助けてくれないか?」

「はあ?」

 青年が貫吾の背後にある巨木に向かって飛ぶ。

「おい。何してんだ」

 振り返ると、青年が器用にヒョイヒョイと巨木の幹をよじ登って行く姿が見える。

「すぐに女の子の一団が来る。その子達が来たら、ここには誰も来てないと言ってくれ」

「勝手な事言ってんじゃねえ」

「頼む。助けてくれ」

「ふざけんな。俺は忙しいんだ」

 大勢の人間の走る足音が貫吾の背後に迫って来て止まった。

「あ、あの。おじさん」

 女の子の声がする。貫吾が振り返ると、七、八人の十代半ばくらいの女の子達が貫吾の方を一斉に見つめる姿が目に入って来た。

「ああ?」

 貫吾は威嚇するような口調で言い放つ。

「あう。えっと」

「あの。この辺に、凄く格好良い男の人が来ませんでしたか?」

 一番最初に声を掛けて来た女の子が口ごもったので代わりに別の子が聞いて来た。

「知らねえよ」

 貫吾はぶっきら棒に返事する。

「本当ですか?」

 また別の女の子が真剣な瞳を向けて聞いて来た。

「知らねえって言ってんだろ」

 貫吾は女の子達に背を向けた。

「すいまんでした」

「ありがとうございました」

「行こ」

 女の子達の足音が遠ざかって行く。

「使えないオヤジ」

 ボソッと囁くような声でそんな言葉が飛んで来た。貫吾は咄嗟に振り向く。

「早く、早く」

「逃げろ」

「きゃあああ」

「きゃははは」

 女の子達が一斉に駆け出して行く。

「ありがとう。助かった」

 女の子達の姿が見えなくなると、青年が音もなく巨木から降りて来た。

「お前も早くどっか行け」

「ところで君はここで何をしているんだい?」

「ほっとけ」

「見た事のない人だ。どこから来た?」

「ほっとけって言ってるだろ」

 貫吾は適当に方角を決めると歩き出す。青年が後ろからついて来る。

「そっちには何もない。ずっと森が続くだけだ」

「俺に構うな」

「俺はお節介でね。君、道に迷ってるんじゃないか?」

 貫吾は足を止める。

「おっと。すまない。君が急に止まるから」

 青年が貫吾の背中にぶつかりそうになり、貫吾の背中に手をついて来た。

「お前、この場所の事知ってるのか?」

貫吾は詰問するような口調で聞いた。青年が貫吾の正面に回って来る。

「もちろん。ここに住んでるからね。なんでも聞いてくれ。俺の名はシカだ」

 貫吾は束の間考えてから言葉を作った。

「俺は貫吾だ。人を探してる。これくらいの銀髪の子供とこれくらいの黒髪の女だ」

 貫吾は手で二人の大体の身長を示す。

「君の子供と奥さんかい?」

「馬鹿言え。ただの知り合いだ」

「ふーん。見てないな。けど、俺は今まで逃げ回ってて必死だったからね。見てたとしても気が付いてない可能性がある。もう逃げる必要もなくなったし、一緒に探してあげるよ」

「知らないなら良い。一人で探す」

「そう言うなって。この森は広い。というかここら辺はずっと森だ。何も知らない君が一人で行ってもすぐに迷って終わりだ」

貫吾は何も言わずに目の前にいたシカを避け、歩き出した。

「君は捻くれてるね。そんなんだと女の子に嫌われるぜ」

 シカが貫吾の横に並んで来た。

「ついて来んな」

「ちょうど俺もこっちに行こうと思ってたんだ。こっちには俺の家がある。近くには水場もあるし、人が集まるんだ。そこに行けば情報が手に入るかも知れないよ」

 貫吾はシカから顔をそらすと、歩く速度を上げた。シカも歩く速度を上げ、すぐにまた横に並んで来る。

「君、何があったんだい? そんな風になって。俺で良ければ話を聞くよ。人に話せば楽になる事もある。どうだい?」

 貫吾はちらりとシカの顔を横目で見た。

「俺は人を殺したくて旅をしてるんだ。俺には関わらない方が良い」

 静かな口調で告げた。シカが驚いた顔をする。

「それは、なんというか、大変だね」

「そう思うなら、ついて来んな」

「そうはいかないな。俺は関わった人を放っておけない性質でね。その人が笑顔になるまでは付きまとう。運が悪かったと思って、心を開いてくれよ」

 シカが爽やかに微笑んだ。

「鬱陶しい」

「そうか? そんな風に言われた事はないな。けど、それでも良い。君に何があったのか聞かせてくれよ。俺にできる事があるのなら力になる」

 貫吾は歩く速度を普段の速度に落とした。

「お前に聞かせる話なんてない。とっとと水場とやらまで案内しろ」

「君は本当は良い奴だ。俺には分かる。そのままじゃ損ばかりする。けれど、まあ俺達は出会ったばかりだし、今はしょうがないか。しょうがないついでに、俺の話を道すがらするとしよう」

「黙って歩け」

「俺は、黙ってるのが苦手でね。相手構わずしゃべり倒す」

 貫吾は何も言葉を返さなかった。

「沈黙は肯定の意と判断しよう。俺には、好きな子がいてね。凄くかわいくて明るくて優しくて、俺の事をとっても大切にしてくれてる。たぶん、両想いなんだ。けれど、どうしても、恥ずかしくって自分の気持ちが伝えられない。その子もどうしてか俺に気持ちを伝えてはくれない。その子からの告白を待ってるなんて事はないんだ。俺から想いを告げたいんだけどさ。どうしてもできないんだ。君はどうすれば良いと思う?」

「何か問題があるとかそういう事はないのか?」

「問題?」

「親が厳しいとか、友達が邪魔をするとかそういうのだよ」

「いや。そういう事はない」

「それなら、簡単だろ。恥ずかしいとか言ってねえでとっとと告白しろ」

「君は、告白とした事はあるのか?」

 貫吾は空を見上げ、舌打ちを一つした。

「はあ。ついついお前の言葉に答えちゃったよ。あーあ。だらしねえな。俺の事じゃねえ。お前の事だぞ。そんなに良い顔してんだ。もっと自信持てよ。性格だって今のところは悪そうには思えない。あの女の子の一団の事は良く分からないけど、モテてるって事だろ? お前が気持ちを伝えりゃ相手の子は喜ぶんじゃねえか」

「そうかな?」

「まあ、あれだな。お前の話が全部本当ならな」

「こんな事で嘘なんてつかない。でも、……。どうしても信じられないのなら、その子に会ってみる?」

「はあ?」

「分からなかった? じゃあ、もう一度言うよ。その子に会ってみる?」

「はい?」

「おかしいな? 俺、発音とか悪くないよな」

「そうじゃねえ。ちゃんと聞こえてるよ。どうしてそうなるんだって事だ。分かるか? どうして、俺がお前の好きな子に会わなきゃならないんだ?」

「それは、俺が会って欲しいからだ。君が傍にいてくれたらなんだか告白できそうな気もして来た」

 貫吾は足を止めた。

「お前、どさくさまぎれに何言ってんだ」

「君は、頼りがいがある」

 貫吾は歩き出す。貫吾に合わせて足を止めていたシカも歩き出す。

「俺は忙しいって言ったよな?」

「聞いたよ。けど、俺も必死だ。ここまで聞いて君は断れるのかい? そうだ。さっきの質問。告白をした事はあるのか?」

 貫吾は何も言わずにいた。

「偉そうな事言っておいて、だんまりか? まさか、告白した事がないとか?」

「ある。けど、その事は話したくない」

「良いじゃないか。減るもんじゃなし。あっ。フラれたとか?」

「フラれてない。ちゃんと付き合った。結婚する事も決めてた」

「凄いな。けど……。聞いて良いか?」

「どうした急に? 今までだったらそんな事聞かずに何でも言ってただろ」

「意地悪だな。いや。君なりの優しさかな。じゃあ、聞くよ。どうして、過去形なんだ?」

「殺されたからだ。付き合ってたのも、結婚を約束していたのも過去の事だからだよ」

 シカが足を止める。貫吾も足を止めた。シカが真剣な表情になり、貫吾の顔を見つめて来る。

「君は殺された子の仇を討つつもりなのか?」

 貫吾はなんの感情も込めずになんでもない事のように言葉を出した。

「勘が良いな。そういう事だ」 

「くだらない。やめなよ」

 シカが間髪入れずに言葉を出した。

「おい。今なんて言った?」

「くだらないって言ったんだよ」

「おい」

 貫吾はシカの胸倉をつかんだ。

「お前も説教かよ」

 貫吾は目を細めてシカを睨んでから、突き飛ばすようにしてシカの胸倉から手を放した。

「早く水場まで行け」

 シカが貫吾につかまれて皺の寄った胸元を直しながら口を開いた。

「行くよ。けど、復讐はやめた方が良い。不毛だ」

 シカが歩き始める。貫吾も歩き出す。

「どいつもこいつもやめろやめろだ。次にこう言うんだろ? 悲しい思いをしたのは君だけじゃないとかよ」

「その通り。肉親とか、友達とか、さ。俺はまだ恋人とかできた事ないから、君の気持ちが完全に分かるとは言わないよ。けど、俺の仲の良かった友達が、事故で死んでね。その事故ってのが、伐った森の木を輸送する時に起きた事故なんだ。滑車を操る人が確認不足でさ。轢かれてしまったんだ」

 貫吾はシカがどんな顔をしているのかと視線を向けた。シカは普通の顔をしていたが、どことも分からない所を見ているような目をしていた。

「いつの話だ?」

「もう、三年かな。昨日事のようにその日の事は思い出せるけどね」

 貫吾は前を向く。

「憎しみはないのか?」

「あったよ。しばらくの間はね。けど、持って生まれた物なのか、そういう風に育ったのか。人を憎んだり恨んだりするのが面倒になった。相手の人の事も自然と知ってしまうしさ。その人に家族がいて、友達がいて。そんな事を知ってしまったら、もうね」

「人それぞれだな。俺はそんな風に思えない」

「まあ、そうだよね。好きな人だもんな。ちょっと待って。あの子が死んだら……。うう。悲しくなって来た。悲しいな。辛いな。あ。駄目だ。涙、出て来た」 

「お前、馬鹿か? 本当に泣く奴があるか」

 顔を向けると、シカが涙を流し、それを懸命に両手で拭いていた。

「ごめん。大丈夫だから。ちょっと、ツボに入ったっていうか」 

 貫吾は自分の右手を見る。

「殺されたと思ってみろ」

「そういう理由で想像していたよ。俺は、殺した相手の事よりも死んだあの子の事を思った。君の事を言えなくなったな。俺だったら自らの死を選ぶかも知れない」

「自殺か」

 貫吾は声のトーンを落として呟いた。

「君は死を選ばなかったんだな」

「死ねなかっただけだ。怖いんだよ。自分で自分を殺す事が」

 貫吾はふっとアサの言葉を思い出した。

「人を殺すのは怖くないのにかい?」

「そうだ」

 貫吾は足を止めた。

「なあ。ここは生と死の狭間の世界なんだよな?」

 シカも足を止めた。

「なんだいそれ?」

 貫吾はシカの顔をまじまじと見る。

「何も知らないのか?」

「知ってるよ。ここは巨木の森の世界だ。俺が生まれて俺が育って来て今生きてる世界だ」

「この世界で生まれたのか?」

「そうだ」

「俺はこの世界で生まれたんじゃない。この世界に迷い込んで来たみたいなもんなんだ。他に世界がある事は知ってるか?」

「知ってるよ。水の中の世界とか、鏡だらけの世界とか」

「行った事は?」

「ない。行くには強い意志が必要だと言われてる。何かを変えたいとかしたいとかっていう意志だよ。執念と言った方が良いかもね。それくらいの強い気持ちがないと世界から世界には移れないんだってさ」

「案内ってのは知ってるか?」

「案内?」

 シカが小首を傾げる。

「探してる女の方が言っててな。自分は俺を案内する為にいるんだと。なんでも、ここは生と死の狭間の世界で俺は実際には今死にかけてて試練を乗り越えると生き返れるらしい」

 シカがじっと見つめて来る。

「他の人に言われたら信じられないけど、君が言うと、信じたくなる。それが全部本当だとして。君はどうしたいんだい?」

「生き返って復讐したいと思ってた」 

 シカが笑顔になった。

「思ってたという事は、今は復讐をやめる気になったのかい?」

 貫吾は神妙な顔になりつつ、言葉を出した。

「もしも、ここで失敗して俺が死んだらどうなるんだろうな。こんな世界があるのなら、あの世ってのもあるんじゃないか? だとしたら、そこで、英子に会えるかも知れない」

 シカがこれは駄目だというように頭を小さく左右に振る。

「自殺は怖いと言ってたはずだ」

「ああ。けど、あの女は、アサっていうんだが、アサは試練に失敗すれば終わりだと言ってたんだ。それなら直接自殺しなくても良いって事だろ? それならできるかも知れない」

「何ができるかも知れないだよ。嬉しそうに。大体死んだって君の彼女に会えるかどうかなんてまだ分からないじゃないか」

 貫吾は頷きつつ口を開いた。

「そうだな。じゃあ、その辺の事をアサに聞いた方が良いな」

「けど、何者なんだろうね。そのアサって子」

「そういえば、詳しくは聞いてないな」

「騙されてたりしないだろうね?」

「騙される?」

「うん。試練を乗り越えるって、君がやるんだろう?」

「そうだろうと思う。もう一つは乗り越えたしな。あれは俺がやったからな」

「すべての試練を乗り越えたら、その子にも何かあったりして。その為に君を利用してたりしてさ」

「そういえば、俺を生き返らせないといけないって言ってたな」

「普通の子が相手なら俺だってこんな風には疑わないんだけどね。君の話を聞いてると、そのアサって子は普通じゃなさそうだ。相手の事を知らないから悪くは言いたくないけど、少し気を付けた方が良いかも知れないよ」

 貫吾は顔を前に向ける。

「気を付ける、か。そんな事全然考えなかったな。なんて言うか、そういう事をするようには見えなかった。表裏がなさそうって言うか、なんだろう。なんとなくだけどな」

「なんとしても見付けよう。君の為に俺もその子を見てみないとね」

「おい。何言ってる?」

「俺の告白に付き合ってもらうお返しだよ。これで貸し借りなしだ」

「はあ? お前。いい加減にしろ」

「そう言いつつ、一緒に行ってくれるんだろ? 君の事が段々分かって来たよ」

「鬱陶しい奴だな」

「おっと。もうすぐだ」

 シカが右腕を自分の肩の高さまで上げると、人差し指を伸ばして前方を差した。

「何も見えないぞ」

「あそこに一際大きな木があるだろう。その後ろに池がある。あの木が目印なんだ」

「あの大きな木を指差したのか」

「そういう事」

 貫吾の歩く速度が自然と速くなる。

「そう焦るなって。木の根で転ぶよ」

「黙ってろ」

 シカが横に並んで来る。

「すぐに見付かると良いね」

「ああ。早く英子の事を聞きたいからな」

「それが終わったら分かってるよね?」

「ああ。分かってる。お前の告白に付き合えば良いんだろ?」

 シカがこれでもかというくらいに嬉しそうに微笑んだ。

「やっぱり君は良い奴だよ。……。だから、君が怒るのを承知で言う。自殺も復讐もやめるべきだ。君は死んでしまった子の分も生きねばならないよ。きっと、死んでしまった子だって君にはちゃんと生きてもらいたいって思ってる」

 貫吾は前を向いたまま口だけを動かした。

「どいつもこいつも。この世界の奴は余計な事ばかり言う」

「君のいた元の世界の人達は違うのかい? こういう事は言わなかったのかい?」

 貫吾は出そうとした言葉を出さずに飲み込んだ。ほんの少しだけ間を空けてから飲み込んだのとは別の言葉を出した。

「殺すとか自殺とかそういう事は誰にも言ってなかったからな」

「そっか。けど、そうだよね。君と俺は出会ったばかりだからいろいろ話せてるって事もあるんだろうな。お互いを良く知ってるからこそ話せない事だってあるだろうから」

「そうだな。本当にそんな感じだった。周りは皆俺の事を心配してくれたからな。窮屈だった」

「窮屈。君は酷いな」

「うるせえ」

「これ以上怒らせるのも嫌だから、とりあえず話題を変えようか。ほら。ここが水場の池だ」

 一際大きな木を回り込み終わると、眼前にそれほど大きくはないが、とても透き通った水を湛えた池が現れた。

「おお。これは綺麗だな」

「凄いでしょ。湧水なんだ。この巨木の森が作ってるんだよ」

 貫吾は池の水面に近付くと、しゃがんで水の中に手を入れた。

「おおっ。冷たいな、これ」

「そうなんだ。いつ来ても冷たいんだよ。飲んでごらん。とってもおいしいよ」

「そうだな。歩いてたから喉が渇いてる」

 貫吾は手で水をすくって飲んだ。

「かあー。しみる」

「俺も飲も」

 貫吾の横でシカも水を手ですくって飲む。

「ああー。いた。アサ。アサ。おじさんがいた。おじさんがいたよー」

 貫吾の耳にカンの声が飛び込んで来た。

「本当? カン。本当にいたの?」

「うん。あっち。向こう側の岸。おじさーん。おじさーん」

 貫吾はカンとアサの声を聞きつつ、ゆっくり立ち上がると二人の姿を探した。

「おじさーん」

「本当にいた。やっと見付けたわ」

 二人が池の畔に沿って走って来る。

「あの二人が探してた人達かい?」

 シカも立ち上がった。

「ああ。こんなにあっさりと見付かるとはな。拍子抜けだ」

「向こうも探してたみたいだね。感動の再会かな」

「感動なんてするか」

「おーい。彼は君達の事を随分と心配してたんだよー」 

 シカが右手で貫吾を指差し、大声を出した。

「おい。馬鹿。何してんだ」

「何って、君が何も言わないから」

「おじさーん」

「貫吾―」

「アサ。お前、貫吾だあ? いつからそんな気安く呼ぶようになったんだよ」

 思わず貫吾は怒鳴った。

「何を怒ってるんだよ。良いじゃないか。君だってアサって呼んでるんだ」

「お前は黙ってろ」

「おじさーん」

 間近まで来たカンが不意に飛び付いて来た。

「お、おい。危ないって」

 貫吾は抱き止めたが、支え切れずに尻餅をついてしまう。

「見つかって良かったわ。無事なようだしね。本当に良かった」

 カンから少し遅れて傍に来たアサが心底嬉しそうな笑顔を見せる。

「いってーな。カン。下りろ」

「えー。嫌だよ。折角会えたんじゃないか」

 カンがギュッと貫吾の腕をつかんで来た。貫吾はカンを抱いたまま立ち上がった。

「貫吾。どこに行ってたのよ。ずっと探してたんだから」

「お前、どうした? なんで貫吾呼ばわりなんだよ」

「良いじゃない。じゃあ、なんて呼べば良いのよ?」

「なんて呼べばって、ああーっと、貫吾さん、とか?」

「嫌よ。じゃあ、私の事、アサさんて呼ぶ?」

「分かったよ。なんでも良い」 

「なんだか、俺が想像してたのと違うね。もっと他人っぽいのかと思ってたけど、君達は仲が良いんだね」

 貫吾達三人は一斉にシカの方に目を向けた。

「どこがだよ」

「どこがなのよ」

「まあね。僕らは一緒に旅する仲間だもん」

 カンが貫吾の体から下りながら言う。貫吾とアサはカンの顔を見る。

「二人とも何?」 

 カンが唇を尖らせた。

「面倒くせえ。もういい」

 貫吾は頭をかく。

「私達の事より、あなたは?」

 アサがさらっとカンの言葉を無視してシカの方に顔を戻す。

「あー。アサが無視した。ねえ、アサが無視した。ねえねえ、おじさんってば。アサが無視したんだけど」

「ああ。そうだな。大変だな」

 貫吾もシカの方を見る。

「なんだよ、おじさんの馬鹿」

 カンがまた貫吾に飛び付いて来た。

「おお。お前、何度も危ないって」 

 今度は尻餅はつかなかった。

「だって。寂しかったんだもん。おじさんどっか行っちゃってたから」

 貫吾はカンの顔をじっと見る。カンがにっこりと微笑んだ。

「馬鹿野郎」

 貫吾はカンの頭をワシワシとつかむようにして乱暴に撫でた。

「おじさん。痛いよー」

 カンが嬉しそうに声を上げる。

「もう。二人だけで仲良くして」

 アサが冗談めかしてこぼした。

「良い光景だな。俺といる時は、ずっと怒っていて不機嫌だったからね」

 シカが優しい声音で言う。

「私達といる時だって不機嫌そうにしていますよ」

「そう。でも、今は違う。俺はシカ。この森の住人だ」

「私はアサといいます」

 アサとシカが少し硬い感じの顔付きになって向き合う。

「君は、彼を案内すると言ってるという人だよね?」

「はい。貫吾から何か聞いたのですか?」

「畏まらないでよ。さっき俺の方を三人で見た時みたいに普通にして。俺だけ仲間外れみたいで寂しくなる」

「あれは勢い余ってというか、なんというか。けれど、そうおっしゃるのなら変えましょうか?」

「うん。そうして」

「では」

「うん」

「じゃあ、もう一度。貫吾から何か聞いたの?」

「うん。良い感じ。聞いたよ。試練の事や、君が彼を生き返らせないといけないって言ってる事とかね」

「それであなたはどう思ったのかしら?」

 シカが笑顔になる。

「君を見てみたいと思った。どんな人かなって。悪そうな奴だったら、彼の為になんとかしてあげないといけないからね」

 アサが不機嫌そうな顔になり、貫吾の方に目を向ける。

「あいつ。どんな言い方したのよ。私が悪そうな奴だなんて」

「彼の言い方が悪かったんじゃない。俺が勝手にそう思ったんだ。彼にはちょっとした恩があってね。そのお返しができるかも知れないと思ったんだよ」

「何があったの?」

 アサが目を見開きつつ、シカの顔に目を戻す。

「試練の事かい?」

「ええ。まだ試練を乗り越えた事にはなってないわ」

「簡単過ぎたんじゃない? だって、俺を追って来た女の子達に嘘を教えてくれって頼んだだけだから」

「何やら怪しいワードが出たわね」

 ジーッとアサが目を細めてシカを見つめる。

「そんなに見つめないでよ」

「あなた、こう見ると結構良い男よね。女の子達に酷い事とかしてるんじゃないでしょうね?」

「そんな事はしてないよ。ただ、モテるからね。いろいろあって大変なんだ」

「何かしら。何かイラッとしたわ」

 シカが苦笑する。

「はっきり言うね、君」

 アサがまったく悪びれずに言葉を出す。

「自分で自分をモテるなんて言うのよ。しょうがないと思うけど」

「けど、事実だからね。こっちもしょうがない。なんてね。まあ、僕の事はともかく。君は悪い人には見えないな」

「当たり前だわ。私は悪い人ではないもの」

「自分で言う?」

「事実なんだからしょうがないでしょ」

「あー。なんか二人が仲が良い。エッチだ。スケベだ」

 カンが二人に駆け寄る。

「そんなに仲良く見えたかい?」

 シカがしゃがんでカンの頭を撫でる。

「ただ話をしていただけよ。他意はないわ」

 アサがちらりと貫吾の方を見た。

「シカ。お前の方をやらなくて良いのか?」

 貫吾はアサの視線に気付かない振りをしつつシカに声を掛ける。

「そうだった。じゃあ、まずは、そうだね。あの子を見に行こうか。けど、皆疲れてないかい?」

「平気だ。そんな事より面倒事を早く済ませたい」

「何をするの?」

「何々?」

「お前らは黙ってろ」

「なによ。偉そうに」

 アサが唇を尖らせる。

「出た。おじさんの意地悪」

 カンが笑う。シカがカンを肩車しながら立ち上がった。

「うわっわっわ。凄い。高―い」

 不意打ちだったので最初は戸惑っていたカンだったが、すぐに喜び始める。

「何をするのよ? 私はカンみたいにごまかされないわよ」

 アサがシカと貫吾の顔を交互に見て来る。貫吾は舌打ちを一つした。

「シカ。お前が話せ」

「うん。歩きながら話すよ。こっちだ」

 シカが歩き出し、貫吾は後に続いた。

「どこ行くのよ、もうー」

 アサが不満たらたらな声を上げつつ、歩き出す。

「着いたよ。あの木の上にある家があの子の家だ」

 池の畔から時間にして十分くらいの距離を行った所でシカが足を止めた。貫吾達は、シカが指差す巨木を見る。その巨木の幹には幹を彫って作られた巻き付くような形の螺旋階段があった。階段に沿うようにして視線を上げて行くと、地上から十メートルくらいの所に平屋の家が幹から生えるようにして建てられているのが見える。

「おっと。隠れて。早く隠れて」

 平屋の家の玄関らしき場所の扉が開いたのを見て、シカが慌てた声を出す。カンを肩車したままのシカが近くにあった巨木の幹の裏にさっと隠れる。貫吾も素早くシカが隠れた木の幹の裏に入った。

「なんでよ。どうして隠れるのよ」

 アサが不満そうに言いながら、三人の方に向かって歩き出す。

「アサ。早く来いって」

 貫吾は少し声を小さくして言った。

「もうー。意味が分からないわ」

 駆け足になったアサが幹の裏に入って来た。

「ごめんね。なんか恥ずかしくって」

 シカの顔は朱に染まっていた。

「何してるのよ。告白するんでしょ? 情けない」

 アサがシカをなじり始める。

「いや、だって、さっき話したじゃないか。凄く恥ずかしいんだよ」

「それだけじゃない。両想いなら平気よ。どーんと行きなさい。どーんと」

「おじさん。どーんとってどういう事なの?」

 カンが貫吾の顔を見つめて来る。

「どーんとってのは、あれだろ。当たって砕けろみたいな感じの事じゃないか」

「そうなんだ。でも、砕けたら駄目だと思うよ」

「ちょっと。砕けるとか言わないで」

 シカが情けない声を上げる。貫吾は木の幹の裏から少しだけ顔を出し、家の方に目を向けた。赤い長い髪をした人物が扉の前にある踊り場のような所に出て周囲を見回している姿が見える。

「赤い髪をした奴が出て来てる。行かなくて良いのか?」

 貫吾は顔を戻し、シカの方を見る。シカが頭をブルブルと大きく左右に振った。

「ごめん。無理だ。やっぱり無理だよ」

「なんか、人が変わったみたいだわ。それで告白なんて本当にできるの?」

 アサが冷めた目を向ける。

「ねえ。僕、良い事を考え付いちゃったよ」

「急にどうした?」

「何を考え付いたの?」

「なんでも良い。何か考えたのなら言ってくれ」

 カンが得意げな顔になる。

「ここから下ろして」

「うん。分かった」

 シカがしゃがみカンを肩から下ろす。

「僕はね。作戦を考え付いたんだよ」

「作戦?」

「作戦って何よ?」

「それで僕は告白できるのかい?」

 三人の視線を受け、カンが大きく頷く。

「できると思う」

「どんな作戦なんだい?」

 シカが息を荒くする。

「大丈夫か? こんなガキの作戦なんて」

 貫吾は一抜けたとばかりに言い放つと、その場に腰を下ろした。

「おじさん。ノリが悪いよ」

「そうだよ。協力してくれよ」

「貫吾。これが試練だという気がして来てたわ。協力しましょう」

「お前らなあ。たかだか告白するだけなのにどんだけ労力を使う気なんだよ。ちゃちゃっと今行って来れば良いだけだろ」

 アサが貫吾の傍に来ると、目を怒らせて睨み付けて来る。

「そういう態度は良くないわ。目の前に困っている人がいるのよ」

 貫吾はアサの視線から逃れるように横を向く。

「お前よ。情けないだのそれで告白なんてできるのだのって言ってたくせに急に変わるなよな」

「文句があるならこっちを見て言いなさいよ」

 アサが貫吾の頭に手をのせるとグイッと捻って顔を自分の方に向けようとする。

「お、おい。お前。何してんだよ」

「協力するわね?」

 貫吾は頭の上にのっているアサの手を手で払おうとしたが途中でやめると舌打ちを一つした。

「鬱陶しい。分かったよ」

「さあ、カン。どんな作戦か話して」

「良いよ。じゃあ話すね。……」

 カンが話し終えると、シカが唸るように言った。

「良い作戦だ。それなら告白できるかも知れない」

「そうね。カンが子供だからこその発想ね。大人の私達だと思い付いてもやろうとは思わないわ」

「アサ。それって、僕の作戦が駄目って事?」

「そうじゃないわ。カンは純粋な心をまだ持ってるって事よ」

「本当にやるのか? 絶対失敗すると思うぞ」

 三人の非難がましい視線が貫吾に突き刺さる。

「おじさん。協力するんでしょ」

「君がいないとできないんだ。頼む」

「いい加減にやる気出しなさいよね」

 貫吾は渋々立ち上がった。

「分かったよ。やるよ。やりますよ」

 カンが木の幹の裏から顔を出し家の方を見る。

「じゃあ、早速行くよ」

「もうやるのか? だいたい家にいるのかよ? さっき出掛けたかも知れないだろ」

「この期に及んでまだそういう事言うの?」

「うるせえな」

「わーん。助けて。誰かー。助けてー」

 カンが叫びながら幹の裏から出て、家のある巨木の方へと駆けて行く。

「わーん。怖いよー。誰かー」

 ちらちらと貫吾達のいる方を見つつ、カンがまた叫ぶ。

「早く行きなさいよ」

「お前が行けよ」

「信じられない。まだそんな事言うの?」

「君、頼む」

「シカさん。頭なんてさげないで良いわ。ほら。早く行く」 

「お、おい。押すなっ」

 ドンッと突き飛ばされ、貫吾は幹の裏から弾き出された。

「助けてー。誰かー」

 貫吾の姿を見てカンがまたまた叫ぶ。

「ほら。演技」

「待てー。このガキー」 

「なによその棒読み口調。しっかりやりなさい」

「怖いよー。誰かー」

「待てー。このガキー」

「追い駆けなさいよ。いつまでそこにいるのよ」

 アサが威嚇するように睨んで来る。仕方なしに貫吾は数歩だけ進む。

「誰かー。早く来てー」

「待てー。このガキー」

「もっと行きなさいよ」

 アサが幹の裏から出て来て貫吾をまた突き飛ばす。

「ま、また。押すな」

貫吾はよろけながら、また数歩だけ進んだ。

「なに? なんなの?」

 木の上の家の扉が勢い良く開くと、声を上げながら赤い長い髪の人物が出て来た。

「助けてー。そこの人―。お願いー」

 カンが足を止めると露骨にアピールする。

「あの馬鹿」

 貫吾はあきれつつ小声で呟く。

「え? 私? 私なの?」

 赤い髪の人物が戸惑いながら、誰もいない周りに助けを求めるように顔を巡らせる。

「怖いよー。捕まっちゃう。ああ」

 カンがその場で至極わざとらしく転んだ。

「おいおい」

 貫吾はカンの三文芝居に辟易しながらも、カンの元へ向かって走り出す。

「嘘? 平気なの?」

 赤い髪の人物があろう事か、その場からジャンプした。ザザッと音を立てて、カンの目前に着地すると、しゃがみ込む。

「君、大丈夫?」

 カンが大きな声を出す。

「うわわっ。飛び下りるなんて凄い。ええっと、うん。平気。でも、あのおじさんに追われてるんだ。助けてー」

 カンが素早く立ち上がると、貫吾を指差す。

「あ、君、全然平気だった、のね」

 赤い髪の人物も立ち上がり、貫吾の方に体の正面を向けて来る。

「待てー。ガキー」

 貫吾は言ってから足を止めて振り向き、アサとシカが隠れている巨木の方に目を向けた。

「ほら。行きなさい」

「もう? まだ早くない? もう少し、場が盛り上がってからの方が」

 幹の裏から体半分はみ出したシカが幹の裏に戻ろうとし、それをアサが押し出そうとしている姿が見える。

「そこのおじさん。この子が何をしたの?」

 貫吾は赤い髪の人物とカンがいる方に顔の向きを戻した。

「そこのガキに用がある。関係ない奴はすっこんでろ」

 貫吾が適当にそれらしい台詞を作ると、赤い髪の人物が大きな目を細めて睨むような目付きをする。貫吾はその顔を二度見してしまった。凛とした太めの眉にすっと通った高い鼻。薄めの唇はほんのりピンク色で、とてもかわいい顔をしていた。

「うわーん。怖いよー」

 カンが赤い髪の人物に抱き付く。

「大丈夫。私が守るからね」

 優しくカンに向かって言うと、赤い髪の人物が拳を握って肘を曲げた右手を胸の前に、同じように拳を握り肘を曲げた左手を右手よりも数十センチ前に出す。

「お前、格闘技とかやってんのか?」

 そのファイテイングポーズがあまりにも様になっていたので貫吾は思わず聞いてしまった。

「やってるよ。巨木流空手八段だ」

「は、八段?」

「そう。ちなみに八段ってもう達人クラスだから」

「聞いてねえぞ」

 貫吾は慌てて振り向き、アサとシカの方に顔を向ける。

「早く行きなさい」

「もう少し。もう少しだけえぇ」

 アサとシカは相変わらず押し問答をしている。

「何を見てるの?」

「気にしないでくれ」

 声を掛けられ貫吾はゆっくりと顔の向きを戻す。

「怖いよー。怖いよー」

 カンが笑顔になりつつ、声を上げた。

「おい。カ、いや、ガキ。黙ってろ」

「そんな子供を脅かすような事を言って。早くどっか行かないと殴るよ。君は、少し離れててね」

 赤い髪の人物が抱き付いていたカンの手をそっと解くと、間合いを詰めるようにジリジリと貫吾の方に向かって進み始める。

「待て待て待て待て。落ち着け。な。とりあえずその物騒な構えをやめろ」

 貫吾はジリジリと後ろにさがる。

「おじさんがこの子を追うのを諦めて、どっか行ったら構えを解くよ」

 赤い髪の人物が向かって来るので貫吾はさがり続けたが、巨木の幹が背中に当たりさがれなくなった。

「うお。後がない……だと?」

 貫吾は背後の巨木の幹と正面にいる赤い髪の人物とを交互に見る。

「本当に殴るよ?」

 拳や蹴りが十分に届く距離に来た赤い髪の人物が足を止め、右腕を後ろに引く。

「だから、待てって。な?」

「分かった。もういい。セイヤアアァァ」

 気合のこもった声が上がり、赤い髪の人物の正拳突きが引き絞られた弓から放たれた矢のように貫吾に向かって繰り出された。

「おおおーい」

 貫吾は頭を抱えてしゃがみ込む。ガシッと音がして、貫吾の体の上にパラパラと何かが降って来た。

「次は当てるからね。早く逃げた方が良いと思うよ」

 貫吾は恐る恐る顔を上げて立ち上がる。手を動かすと手の上にのっていた巨木の樹皮の破片がパラパラと落ちて来た。

「どんな威力だよ」

 振り返って巨木の幹を見た貫吾は驚きの声を上げた。拳の当たった部分が見事にへこんでいた。

「当たったら相当痛いと思う」

「だろうな。死ぬかも知れないな。とりあえず……、そこで待ってろ」

 貫吾は逃げ出した。アサとシカの隠れている巨木の幹の裏側に行く。

「ちょっと、貫吾?」

「どうして? なんで戻ったんだい?」

「ちょっともなんでもねえよ。なんだよあいつ。滅茶苦茶強いぞ。お前がもたもたしてるうちに殺されちまうよ」

「どういう事なの?」

「なんだか流空手八段らしいぞ。もう俺は行かねえからな」

 貫吾はその場にドカッと座った。

「そんな事言わないで、頼むよ。大体あの子は本当に殴ったりはしないって。大丈夫だよ」

 シカが貫吾の正面に来る。

「見てなかったのか? 俺を殴ろうとしたんだぞ。なんとか避けたから平気だったけどよ。あいつの拳が当たった木の幹がへこんだんだぞ」

「幹がへこんだの?」

「ああ。この辺に生えてる木の幹をへこますなんてどんだけだよって感じだろ?」

「危険ね。カンは大丈夫かしら」

 アサが幹の裏側から顔を少し出すとカンのいる方を見る。

「大丈夫だよ。人に暴力を振るうような子じゃないんだ。きっと君の演技が良かったんだ。良過ぎて本当の悪漢だと思ってしまったんだ」

「あっ。カンがこっちに来るわ。シカ。隠れて。相手の子も一緒よ」

「なんだって? どうしよう。俺が君と一緒にいたら、大変だ。嫌われちゃう」

 シカが突然走り出す。

「はがぐぅっ。きゅう」

 あろう事か走り出したシカが地面から隆起していた巨木の根に躓いて派手に転んだ。

「シカ」

「嘘でしょ。何やってるのよもうー」

 声を掛けるがシカは気を失ってしまっているのか、ピクリともしない。

「おーい。おじさーん。どこー?」

「君、どうしてあのおじさんを探すの? 追われてたんでしょ?」

「それは、えっと、なんでだったかなー?」

 貫吾達とは対照的に緊張感の欠片もない会話がすぐ間近から聞こえて来た。

「やばいぞ。すぐ近くまで来てる」

「しょうがないわ。あの二人がこっちに来ないようにするのよ」

「どうやるんだよ?」

「私に聞かないでよ。何か良い考えはないの?」

「お前が言い出したんだろ? なんとかしろよ」

「何よ。役立たずね」

「なんだと」

「おじさん、いた。何々? 痴話喧嘩?」

 カンが不意に木の幹の裏側に入って来た。

「ちょっと、カン」

「おお。びっくりした。おい。カン。お前、何してんだ」

「あれ? 今、この子の名前言った? もしかして、おじさんは本当はお父さんとかなの? それでそっちの人はお母さん?」

 カンの背後からすっと赤い髪の人物が現れた。

「言ってない。俺は知らないぞ、こんなガキ。つーか、お前ら何しに来たんだ?」

「貫吾ナイス。ナイス演技」

 アサが小声で褒めて来る。貫吾はまだ倒れたままのシカの方に目を向け、今のうちになんとかしろとアサに目で訴えてみる。だが、アサはまったく貫吾の目での訴えに気付かない。

「うん? 何?」

 赤い髪の人物が貫吾の目での訴えに目敏く気付くと、顔の向きを変えようとした。

「そいりゃあー」

 貫吾はガシッと赤い髪の人物の顔を両手で挟むようにつかんで動かないようにした。

「ええ?! 何? 急につかまないで!」

 赤い髪の人物が叩くようにして貫吾の手を払い除ける。

「す、すまん。つい、なんでか、つかみたくなってな」

 貫吾は払われた両手を交互にさすりながら言いつつ、再度シカの方に目を向ける。シカは相変わらず倒れたままで起き上がる気配もない。

「そんな事より、お前、あれだな。かなりかわいい顔してるよな」

 貫吾は視線を彷徨わせながら相手の気をひこうとそんな言葉を作ってみた。

「な、な、なんだよ、急に」

 赤い髪の人物がボッという音が聞こえて来そうなほどに瞬時に顔を真っ赤にする。

「いや。ついついな。思った事を口にしてしまう性格なんだな、これが」

 貫吾は適当に言い繕いながら、アサの方に目を向ける。

「は? お前、なんで睨んでんだよ」

「睨むに決まってるでしょ。何言い出すのよ。あなた、自分が今何をしなければいけないのか分かってないんじゃないの?」

「分かってるよ。分かってるから相手の気をひこうと変な事言ったんだろ」

「え? 変な事? 変な事って何? 誰が誰に何を言ったの?」

 小首を傾げる赤い髪の人物と貫吾の目が合う。

「そんなに見つめないで!」

 赤い髪の人物が恥ずかしそうに顔を横に向ける。

「あれあれ? なんかおかしくない? ねえねえ。おじさんの事好きになっちゃった?」

 カンが嬉しそうに微笑みつつ、とんでもない事を言い出した。

「どういう事よ?」 

 アサが声を荒げる。

「お前らなー。状況を考えろよ」

 貫吾は怒鳴ると、カンの傍に行き、カンの体を抱きかかえた。

「おじさん? どうしたんだよ?」

「黙ってろ。このガキはもらって行くぞ。あーはっはっはっは」

 貫吾はカンを抱きかかえたまま走り出した。

「え? 何? さらわれたの?」

「貫吾? どうなってんのよ、これ」

「返して欲しければ追って来い。アサ。ボケてんじゃねえ。早くあれを起こしてどっか連れてけ」

「なんだって。待ちなよ。その子を返せ」

 赤い髪の人物が追って来る。

「あれ? ああ~。あれね。分かったわ。後は任せて」

 貫吾は懸命に走ったが、そこはやはり日頃から運動などしていない三十路の体力。あっという間に追い詰められ巨木の幹に背中を預ける格好になってしまった。

「さあ。その子を放して」

「分かった分かった。ほら。ガキ。行け」 

 大してシカからは離れてはいなかったが、シカの姿は見えなくなっていたので貫吾は何かを成し遂げた気分に浸りつつ、カンを立たせると背中を押した。

「おじさーん。僕行きたくない」

 カンがくるりと振り返って飛び付いて来る。

「お、おい。お前、何やってんだ」

「どういう事? 逃げてたんだよね? それで、今はさらわれてるんだよね?」

「あっ。そうだった。間違えた」

 カンがパッと貫吾から離れると、赤い髪の人物の背後に隠れる。

「怖いよー。怖いよー」

 カンが泣く振りをし始める。

「くっそう。憶えてろよー」

 貫吾は捨て台詞を適当に作って逃げだした。

「おじさーん。行っちゃ駄目―」

 カンが慌てて叫ぶ。

「え? どうして?」

「あっと。また間違えちゃった」

 貫吾はしばらく走ってから背後を気にしつつ、巨木の幹の裏に隠れ腰を下ろした。

「もう走れねえ。たくっ。どうすんだこれから」

 貫吾は木の幹に寄り掛かる。

「貫吾? どこ? 貫吾?」

 その場で休んでいると、どこからかアサの声が聞こえて来た。貫吾は立ち上がり、どの方向から声が聞こえて来ているのかを確かめようと耳を澄ませた。

「貫吾。貫吾。どこなのよ?」

 声のする大体の方向が分かったので貫吾はその方向に目を向けた。巨木の陰からちょうと良いタイミングでアサとシカの姿が現れる。

「あいつらが探してたらどうすんだ」

 貫吾が小さな声で独りごちているとアサと目が合った。

「貫吾。いた。やっと見付けた」

 アサが小走りになって大声を出す。

「馬鹿。大声出すな。居場所がばれたら面倒だろ」

 貫吾もつい大きな声を出してしまった。

「何よ。そっちだって大きな声出してるじゃない。けど、それなら平気よ。カンとあの子なら、あの子の家に行ったわ」

「家に?」

「うん。カンは家にあがり込んでるわよ」

 アサが傍まで来て足を止めた。

「さっきはごめん」

 アサの後ろからついて来ていたシカが止まってすぐに頭をさげる。

「本当にごめんだよ。お前、何やってんだよ」

 貫吾はその場に座った。アサとシカが地面から隆起している巨木の根の上に腰を下ろす。

「そんな事よりこれからどうするのよ」

「俺はもう知らねえからな。殴られそうになったり走ったりで最悪だ」

「もう一度。もう一度だけ、お願い」

 シカが頭を深々とさげた。

「何か作戦を考えましょ」

「冗談じゃねえ。俺はやらねえぞ」

 貫吾とアサはほとんど同時に言葉を出してから顔を見合わせる。

「やりなさいよ」

「はあ? じゃあお前がやれよ。そういう作戦にすりゃ良いだろ」

「良いわよ。どんな作戦よ。早く考えなさいよ」

 アサが睨み付けて来たので貫吾はシカの方に顔を向ける。

「シカ。お前が考えろ」

「うん。うん。今、考えるから。ちょっと待って」

「貫吾も考えなさいよ」

「ほっとけ」

「さっきから怒ってばっかりじゃない。なんなのよ。もう」

 アサがプイッと顔を横に向ける。

「おーい。おじさーん。アサー」

 不意にカンの声が聞こえて来た。

「カン?」

「カンだな。まさか、あいつを連れて来たのか?」 

 貫吾は立ち上がり、カンの姿を探す。アサとシカも立ち上がると同じようにカンを探し始める。

「アサ。おじさーん」

「いたわ。あそこ。一人みたい」

「どうしたのかな?」

「傍に行ったら後ろからあいつが出て来るなんて事ないだろうな」

「なに怖がってるのよ。カン。ここよ。ここに皆いるわ」

「おい。アサ。ちゃんと確認してからにしろ」

「カンがかわいそうでしょ。カン。ここよ」 

「アサ。おじさん」

 カンがこちらを見付けて走り出す。貫吾はカンの背後に目を向け赤い髪の人物がいないかどうか確認する。

「やっと見付けた。結構探したんだよ」

 カンが傍まで来た。

「あの子はどうしたのよ?」

「その辺に隠れてたりしないだろうな?」

「ノイなら家にいるよ」

「ノイ?」

「あの子ノイっていうの?」

「うん」

「そういえば皆に名前教えてなかったね」

「あ。そうそう。僕、また作戦考えたよ」

「本当に? カン。ナイスタイミングだわ」

「俺はやらないからな」

 カンが得意気な顔になり話し出す。

「今度はね……」

 カンが話し終えると、シカが頭をさげる。

「皆。頼むよ。今度こそ、頑張るから」

「また俺かよ」

「私も行くんだから良いでしょ」

「僕も一緒に行くからさ」

「皆。ありがとう。この恩は一生忘れない。必ずお返しはするから」

「じゃあ、出発だね」

「うん。行こう」

 カンとシカが歩き始める。

「そうね。善は急げと言うわ」

 アサも歩き出す。貫吾はその場に腰を下ろした。

「なんで座るの? 子供みたいな事しないでよね。立ちなさいよ」

 アサが横に来ると貫吾の腕をつかみ引っ張り上げようとする。貫吾は舌打ちを一つするとアサの顔を睨むようにして見上げる。

「おじさん。早く」

「すまないが、頼む」 

 カンとシカが足を止めて振り向いた。

「貫吾。行くわよ」

 アサがギロリという効果音が聞こえて来そうなほどの勢いで睨み返して来る。

「分かったよ」

 貫吾は至極面倒くさそうに立ち上がると歩き出した。

「とうちゃーく。じゃあ、僕がノイを呼んで来るね。アサとおじさんは作戦通りにやってよ」

「大丈夫よ。悪役になりきってやるわ」

「面倒くせえ」

「皆。頼む」

 ノイの家の近所に来た一行はシカを少し離れた場所にある巨木の陰に残し作戦の為に行動を始める。

「ノイー。ねえ。ノイってばー」

 カンがノイの家に近付きながらノイを呼ぶ。

「カン? どうしたの?」

 ノイがすぐに玄関の扉を開けて顔を出した。歩くのをやめたカンが手招きをする。

「ちょっとこっちに来て欲しいんだ」

「良いけど、うちに上がったら? お茶とお菓子まだあるし」

「まだお菓子あるの?」

「あるよ。さっきので全部じゃないから」

 カンがキョロキョロと顔を動かし、周囲を確認し始める。

「あのガキ。お菓子につられそうになってないか?」

「そんな事ないわよ。大丈夫よ」

 ノイの家のある巨木の手前にある巨木の裏に回り込み様子をうかがっていた貫吾が口を開くと、隣にいるアサがカンを庇った。

「お前、あのガキに少し甘くないか?」

「貫吾に言われたくないわね。貫吾の方が甘いわ」

「嘘こけ」

「分かってないのね。貫吾、あなた、カンの言う事ほとんど聞いてるわよ」

「適当言うなよな」

「適当じゃないわよ」

「はいはい」

「何よ、その態度」

「ノイ。お菓子は後でじゃ駄目? 今はこっちに来て欲しいんだ」

「お菓子が後で良いなんてよっぽどの事なんだね。今行く」

「ほら、カン、ちゃんとやったじゃない」

「やらなきゃ困るっつの」

 ノイが階段を下り終え巨木の下に来ると、カンが至極嬉しそうな声を出す。

「ノイ。来てくれてありがとね」

「お礼なんていいよ」

 ノイがカンに向かって歩き出す。

「カン? どうして、離れるの?」 

 ノイが近くまで来るとカンが後ろにさがり始めた。

「今よ」

「分かってる」

 貫吾とアサは巨木の裏から飛び出すと、カンを真ん中にして左右に並ぶように立った。

「ふっふっふっふ。ノイ。実は僕こそが一番の悪者だったんだよ。この二人は僕の手下だったんだ」

 カンが悪ぶりながら言い放つ。

「ええ?! どういう事?」

 ノイが驚愕の表情を顔に浮かべた。

「ええとね。僕が悪者で一番偉かったって事。ノイはこれから僕達に捕まるんだよ」

 カンがいつもの口調に戻り説明する。

「そうなの? 私は捕まるの?」

「うん。大人しくしてよ。じゃないと僕がこの部下二人にいじめられちゃうからね」

「ええ?! そんな脅しなの?」

 貫吾は黙っていられなくなりカンの前に出た。

「そこに座れ。抵抗しようとしたら容赦しないからな」

「そうよ。痛い目にあいたくなかったら抵抗はしない方が良いわよ」

 アサが貫吾の前に出る。

「お前、なんで俺の前に出るんだよ」

「私の番なんだから良いでしょ」

「何かもめてるけど、大丈夫なの?」

 ノイが心配そうに言う。

「この二人はすぐに喧嘩しちゃうんだ。けど、本当は仲が良いんだよ」

「誰と誰が仲良いって?」

「そうよ。失礼しちゃうわ」

「私が大人しくすれば良いんでしょ。カンがかわいそうだから喧嘩はしないで」

 ノイがその場にゆっくりと正座した。

「ノイ。ありがとう」

 カンがノイの傍に行く。貫吾とアサもノイの傍に行った。

「ノイさん。立って。服が汚れちゃうわ」

 アサが声を掛ける。

「うん。ありがと」

 ノイが立ち上がる。貫吾はアサを睨みつつ、口を開いた。

「さっきはよくもやってくれたな。今度はこっちの番だ」

 アサがはっとした顔をしてから、小さく頷く。

「どうやって痛め付けてやろうかしら。うふふふふ」

「カンをいじめないで。やるなら私にして」

 ノイが貫吾とアサの顔を交互に見た。

「あのなあ。最初からそのつもりだ。カンはこっちの仲間だぞ」

「そうよ。うふふふふ」

「二人とも悪そうで良いよ。凄い凄い」

 カンが笑顔で言う。

「おい。カン」

 貫吾はカンに近付いた。

「駄目だよ。私にしてって」

「大丈夫よ。私がいる限りカンはいじめさせないわ」

「頼むね」

「任せてよ」

 貫吾はアサの方に顔を向ける。

「アサ。お前もだ。ちょっとこっち来い」

「何よ」

 アサが傍に来ると、貫吾は小声を出す。

「お前ら、もう黙ってろ。そんなんじゃあいつは全然怖がらないし、シカも出て来ない」 

「何それ。おじさんならできるの?」

「そうよ」

「アサ。カンと一緒に向こう向いてろ。後、耳もふさいどけ」

 貫吾は二人の返事を待たずにノイの元へと行った。

「そっちが手出しできなきゃこっちのもんだからな。とりあえず、もう一度座れ」

 貫吾は静かに怒りを内包した凄みのある声を出し、ノイの肩に手を置いた。

「分かった」

 ノイの表情に不安の影が過ぎる。ノイが正座する。貫吾はシカの隠れている巨木の方をちらりと見た。シカが少し顔を出しているの見える。

「綺麗な髪してんな」

 貫吾はノイの髪をいやらしい手付きで撫でた。

「な、なんだよ。そんな風に触らないでよ」

 ノイが頬を朱に染めて俯く。

「おい。こっち見ろ。下向くんじゃねえ」

 貫吾はノイの顎の下に手を入れると、上を向かせるように手を動かす。

「あっ。やめて」

 ノイがビクッと体を震わせてから、貫吾の手の動きに合わせて顔を上げる。貫吾はまたちらりとシカの方を見た。シカは体を半分ほど出していたが、まだ巨木の裏にいた。

「イライラすんな。やっぱ一発くらい殴っとくか」

 貫吾は一際大きな声で怒鳴ると、右手で拳を作り、振り上げた。

「本当に殴るの?」

 ノイが真意を探るように貫吾の目をじっと見つめて来る。

「目閉じろ」

 貫吾はノイを睨む。

「貫吾。嘘でしょ? 殴ったりしないわよね?」

 アサの声がした。

「黙ってろと言ったろ」

「でも、やり過ぎだわ。ノイさんがかわいそうよ」

 貫吾はアサの方に顔を向ける。

「また余計な事言いやがって。あれが動かないんだからやるしかねえんだよ。体が勝手に動くくらいの事しねえとよ」

 貫吾は顔の向きを戻す時に、シカの姿を確認する。シカは巨木の裏から完全に出て来ていたが、こちらに近付いて来てはいなかった。貫吾は舌打ちすると、振り上げていた拳を勢い良く振り下ろした。

「やめて」

 アサの悲鳴のような声が上がる。

「やめろー」

「おおおう?!」

 シカの必死な声が響き渡り、貫吾の体がシカに突き飛ばされて横に吹き飛んでから地面の上に転がった。

「何? 誰?」

 ノイが立ち上がる。

「ノイ」

 シカが顔を俯ける。

「シカ?」

「うん。ちょうど、ええと、通り掛かって」

 シカが少し顔を上げる。

「貫吾」

「おじさん」

 アサとカンが倒れている貫吾の元へ駆け寄って来る。

「平気だ。それより、俺達は退散しよう」

 貫吾は立ち上がった。

「どうなるか見て行こうよ」

「何言ってんだ。邪魔だろ」

「私も気になるわ。そこの木の裏で聞いて行きましょ」

「そうしよそうしよ」

 カンが貫吾の手を引っ張る。

「後でどうなったか聞けば良いだろ。悪趣味な真似はやめろ」

 貫吾はカンの手を握るとそっと引っ張り返す。

「行くぞ」

「おじさーん」

 貫吾が不満そうな声を上げる。

「もう。折角ここまでやったのに」

 アサも不満気な声を出す。

「それじゃ。ノイ。また」

「う、うん。シカ、ありがとね」

 シカとノイの声が聞こえて来る。貫吾達三人は同時にシカとノイの方へ顔を向けた。シカが手を振りながら、ノイから離れて行く。

「えー! シカさん肝心な事何も話してないわよね?」

「うん。何も話してないよ」

 貫吾は何も言わずに舌打ちを一つする。

「僕、行って来る」

 カンがシカに向かって走り出す。

「おい。カン」

「カン行っちゃったけど、どうするの?」

「どうするのって。もうほっとけば良いんじゃねえの。俺達はじゅうぶんやったろ。もうどうしようもねえよ」

 カンがシカに追いついた。

「何やってんだよ。駄目じゃないか」

「ごめん。でも、恥ずかしくって」

「じゃあもういいよ。僕が代わりに言う」

 カンがノイに向かって行く。

「ああ。ちょっと待って。それはやめて」  

 シカがカンを捕まえる。

「わっ。なんだよ。放してよ」

「頼むよ。やめて」

「シカ? その子と知り合いなの?」

 ノイがシカとカンに近付いて行く。

「貫吾。シカさんがかわいそうよ。このままだと作戦の事がバレて嫌われちゃうかも知れないわ」

「早く告白すれば良かったんだ。そうすりゃカンが行く事もなかったのに」

「なんとかしてあげなさいよ」

「なんとかするってどうしろってんだ」

「二人に何か言ってあげなさいよ」

「何かってなんだよ」

「恋愛のアドバイス的な事とか?」

「お前が言えば良いだろ」

「私は……。嫌よ。とにかく。早くして」

 アサが貫吾の背後に回ると背中をグイグイと押し始める。

「おい。やめろ」

「シカさん。ノイさん。貫吾が言いたい事があるって」

 アサが大声を出す。

「おじさん」

 カンが嬉しそうな声を出した。

「さっきはごめん。ノイが殴られると思ったんだ」

 シカが謝って来る。

「この人達も、シカの知り合いなの?」

 ノイが不思議そうな顔をする。

「アサ。もう押すな」

 貫吾は背中に手を回すとアサの手をつかんだ。

「何よ? 怒ったの?」

 貫吾は小さく頭を左右に振ってから、シカに近付いて行く。

「シカ。こっち来い」

 シカの傍に行き、シカの腕を引っ張る。

「何? どこへ行くんだい?」

「こっちだ」

 貫吾はシカをノイの目の前まで連れて行った。

「え? なんなの? どういう事?」

「こいつが言いたい事があるそうだ」

 貫吾はシカの腕から手を放す。

「君。困るよ。あの、ノイ。ごめん。なんでもないんだ」

「馬鹿野郎。しっかりしろ」

 貫吾は怒鳴った。

「何? なんで怒鳴るの?」

 ノイが心配そうな顔になる。シカが勇気を振り絞ったような顔になりつつ、ノイの顔を見る。

「うわあ。駄目だ。やっぱり無理」

 シカが頭を抱えた。

「本当にだらしないなー。僕が言うよ」

 カンが傍に来た。

「お前は黙ってろ」

「でも、このままじゃきっと失敗だよ」

 貫吾はシカの顔を見た。シカが貫吾の視線に気付くと頭を抱えるのをやめて何かを懇願するように見つめて来る。貫吾はノイの方に顔を向け、じっと見つめた。

「本来は、こういう事は自分で伝えるのが筋だと思う。けど、こいつは、恥ずかしくてそれができないんだ。ノイ。俺がこいつの代わりに言うから聞いてくれ」

「やめてくれ。いいんだ。言わないで」

「おじさん。良いぞ。言っちゃえ」

「何を言う気なの?」

 ノイが言葉を返して来る。

「こいつは、お前の事が好きなんだ」

「あわわわあ。本当に、言ってしまった」

 シカがその場に崩れ落ちる。

「おじさん。やったね」

 カンが興奮して叫ぶ。

「好きって、どういう事?」 

 ノイがシカの方に顔を向ける。シカは放心していて、ノイの言葉に気付かない。

「お前と付き合いたいと思ってるという事だ」

 貫吾が言うと、ノイが貫吾の方に顔を向けて来る。

「そんな……。急にそんな事言われても」

 ノイが顔を真っ赤にして俯いた。

「そうだな。だが、そういう素振りはあったんじゃないか? シカと接していて何も感じてなかったのか?」

 ノイが顔を上げて、シカを見る。

「何も、感じなかった。シカが私を好きだなんて」

 ノイがまた顔を俯ける。

「そうか。けど、今は、もう気持ちを知ったんだ。シカの事を考えてやってくれ。それから必ず返事をしてやってくれ」

「すぐには、無理だと思う」

「早くしてやって欲しいが、そうだな。すぐに答えられるような事じゃないかも知れないな」

「どうしよう。シカとどう接して行けば良いのか不安になって来た」

 ノイが顔を上げると、キョロキョロと周囲を見回した。

「どうした?」

「ごめんなさい」

 ノイが走り出す。

「待て」

 貫吾は咄嗟にノイの前に出て道を塞いだ。

「どいて」

 ノイが貫吾の横を通り抜けて行こうとする。貫吾はノイの腕をつかんだ。

「逃げるな。行くならシカに帰るとちゃんと告げて行け」

「勝手な事しといて何を偉そうに」

 ノイが貫吾の手を振り解こうとする。貫吾は腕を放さない。

「勝手な事をしたから言ってるんだ」 

「もう。なんなんだよ」

 ノイがシカの方に顔を向けた。

「シカ。ごめん。今日は帰るから」

 言い終えるとノイが貫吾の顔を見て来る。

「すまなかった」

 貫吾はノイの腕から手を放した。

「しばらくは、シカとは、会えないと思う」

 ノイが貫吾に向かって小さな声で告げる。

「そうか」

 貫吾は目を伏せた。

「シカの事嫌いなの?」

 カンがストレートな物言いをする。

「あ、え、そ、そんな事はないよ。けど、好きとかそういうの、考えた事なかったから」

「貫吾。あなたが告白した時はどうだったのよ? こういう時どうするか分からないの?」

 アサが未だに放心しているシカの傍に向かいながら言葉を出した。

「私も聞きたい。どうすれば良いのか」

 ノイが呟くように言う。貫吾は久しく振り返っていなかった英子との過去の事を考えた。

「おじさん?」

「貫吾?」

 沈黙し思い出の中を彷徨っているとカンとアサが声を掛けて来る。

「告白か。思い出さないようにしてたんだけどな。思い出しちまった」

 貫吾はカン、アサ、シカと順に顔を見てから最後にノイの顔を見て顔の動きを止めた。

「俺は、自分で言った。恥ずかしかったけど、なんとか言葉として口から出す事ができた」

「なんて言ったの?」

 アサが言う。

「お前の事が……。おい。アサ。そんな細かい事はいいんだよ」

「何よ。そこまで言ったんだから言いなさいよ」

「お前は黙ってろ」

「ケチ」

「ケチってなんだ」

「おじさん。アサ。今は喧嘩してる時じゃないでしょ」

「おお。そうだった」

「ごめんなさい」

「まあ。とにかくだ。告白すると、お互いに顔すら見れなくなってな。その日は、それからなんの会話もなく別々に家に帰った。クラスの奴に見られてて、翌日は大変だったんだけどな」

「クラス?」

 ノイが小首を傾げる。

「高校の時だったんだ。放課後、屋上で言ったからな」

「高校って何?」

「高校を知らないのか?」

「学校の形態が場所によって違うのよ。ここはいろいろな世界があるでしょ。ちなみにこの世界には学校という物自体が存在してないみたいよ」

 アサが説明してくれる。

「そうか。なら、そうだな。同い年の人間がたくさんいて一緒に過ごすところだとでも思っとけ。十六歳の頃だったんだ。皆そういう話が好きな頃だ。俺もあいつもひやかされてからかわれた。俺は告白した事を心底後悔した。あいつがからかわれたりひやかされたりするのを見てるのが辛くてな」

「おじさんの事だから、皆の事怒鳴ったんでしょ?」

 カンが言う。

「俺より先にあいつの方が、怒鳴りはしなかったが大声を上げたよ。皆をたしなめてから、俺の方をじっと見つめて来た」

 貫吾は懐かしさのあまりに言葉の続きが出て来なくなった。

「貫吾?」

「おじさん?」

 アサとカンが心配そうな声を出す。

「すまん。懐かしくってな。思い出に浸っちまった。ありがとうって言ったな。それから、私もあなたの事が好きと言ってくれた」

 貫吾は急に鼻の奥がツンとして目頭が熱くなるのを感じた。顔を上に向け、目を細める。

「凄いね。私は、そんな風には言えないな」

 ノイが呟く。

「あいつはいろいろ凄かったからな。他にも……」

 貫吾は口を噤んだ。

「どうして黙るの?」

 ノイの言葉を受けて貫吾は小さく頭を左右に振った。

「参考にならないな。俺もシカと大して変わらなかった。あいつが受け入れてくれただけだったんだ」

「良い人だったんだね」

 カンが優しい声を出す。

「貫吾を受け入れたんだもんね」

「おい。アサ。なんだよそれ」

 貫吾はノイの顔を見つめる。

「すまないな。こんな感じにしか言えない。あいつがいれば、もっとうまく何かを伝えられたのかも知れないけどな」

「その人は一緒に来てないの?」

 貫吾は小さく頷いた。

「ああ。こっちには来てないんだ」

 ノイが貫吾の表情を見て、何かに気付いたような顔をする。

「シカさん、まだこんなだけど、どうする?」

 アサの声を聞いて、貫吾は顔をシカの方に向けた。

「完全に抜け殻状態だな」

「おじさんが背負って行けば」

「冗談じゃねえ。大体、どこに連れて行くんだ」

 ノイがシカの傍に行く。

「シカ。シカ」

 ノイが呼び掛けると、シカの体に精気が戻って来た。

「ノイ? どうしてここに?」

「記憶が飛んでるみたいだわ」

「ああ。思い出したら、またさっきみたいになるんじゃないか」

「でも、忘れたままなんてそれはそれでかわいそうだと思う」

 ノイがしゃがみ込むと正面からシカを見つめる。

「シカ。さっきの事なんだけど」

「さっきの事?」

 シカが不思議そうな顔になる。

「おじさんがシカの代わりにノイに気持ちを言ったでしょ」

 カンが大きな声を出す。

「あああ~。そうだった。うわあ。恥ずかしいよ~」

 シカがオロオロし始める。

「シカ。落ち着いて」

 ノイがシカの肩に手を置いた。

「ノイ~。ごめん~」

「なんだあいつは」

「ここに来て新しいキャラになってるわね」

「変だけど、面白いね」

「シカ。私はまだ自分の気持ちが分からない。だから返事は待って欲しい」

「うんうん。良いよ。待つ。ずっとずっと待つ」

 シカが何度も頷いた。

「でも、一つだけ」

 ノイが顔を俯ける。

「何? 何? 言って。なんでも聞くよ」

 ノイがゆっくりと顔を上げる。

「私、男なんだよ。それでも良いの?」

「もちろんだよ。そんな事関係ないんだ」

 シカが肩にのっているノイの手の上に手をのせた。

「おおおお!?」

「ねえ? ねえ? 私、耳がおかしくなってるのかしら?」

「うへえ。全然気付かなかったよ」

 貫吾とアサとカンは円陣を組むようにして顔を見合わせる。

「まあ、まあ、良いと思うわよ。愛は愛なんだから」

「そ、そうだな。悪い事じゃない。やべえ。俺、シカと二人きりで結構歩いて来たんだよな」

「おじさんの事も好きだなんて言ったりして」

 貫吾は悪寒を感じつつ、カンを睨み付ける。

「馬鹿言うんじゃね」

「三角関係とか? BL好きにはたまらないかも」

「BLって何?」

「お前らなあ……」

 貫吾はノイとシカの方に顔を向けた。二人は先ほどの格好のまま見つめ合っていた。

「こっちはもう良いだろ。アサ。試練ってのはどうなってんだ?」

「そうそう。それね。ビビッと来たのよ。試練は乗り越えたわ。シカの告白の手伝いがそれだったみたい」

「凄い凄い。おじさんやったね」

 貫吾は頭をかいた。

「こんなだぞ。これで良いのか、本当に」

「知らないわよ。私が決めてる訳じゃないもの」

「良いじゃないか。次行くんでしょ? 次はどんな世界なのかな」

 シカが貫吾達の方に顔を向けて来る。

「皆、ありがとう。本当にありがとう。それで、もう次の世界に行くのかい?」

「ああ。お前達の事が試練だったらしい。乗り越えたんだとよ」

「そうか。それは何より」

 シカがノイを見る。

「ノイ。俺はこの恩に報いる為に彼らと一緒に行こうと思う」

「シカ。それなら私も行く」

「駄目だ。何があるか分からない。俺は必ず帰って来る。今よりも強くなって帰るから。それで、今度は俺の口から君の事を、えっと、君の事を、ええっと、だから」

「あちゃ。シカは駄目だね」

「一緒に来るだと? 冗談じゃねえ」

「良いじゃない。旅は道ずれよ。仲間が増えるのは大歓迎だわ」

 アサが貫吾の顔を見つめて来る。

「準備は良いかしら?」

「もう行くのかよ?」

「楽しみー」

「ノイ。またね」

「シカ。私も行く」

「それじゃ出発!」

 アサが大きな声を上げると、貫吾の意識は遠退いて行った。


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