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何かが耳元を流れる音がする。水のような物だとなんとなく分かる。体中がその水のような物に包まれている感触がして来る。

「はっ!?」

 悪夢を見ていてうなされている最中に急に目が覚めた時のような感覚を得ながら、貫吾は閉じていた目を開けた。

「な、何じゃこりゃー?!」

 貫吾は我五感と我精神と我脳髄、手っ取り早く言うと己のすべてを疑った。

「息。空気。酸素。くくく、苦しい……。ん? んん? 苦しくない?」

 喉を両手で押さえ、口をパクパクしたが、すぐにまったく苦しくないという事実に気が付いた。

「どうなってんだこれ?!」

 貫吾は周囲に目を向ける。貫吾は海か湖かどこかは分からないが、果ての見えない水の中にいた。

「おおおお」

唸り声が出た。シーラカンスやらリュウグウノツカイやらラブカやらダイオウイカやら。どれもこれもが異常なほどに巨大で体をくねらせながら眼下を悠然と泳いでいる。

「なんか、凄い大きいし、偏った種類の魚、ばっかりだ」

 こっちに来るなよと思いつつ、貫吾は呟いた。ふっと目の端に何かが映り込む。

「うわっ」

 情けない声を上げ慌ててその何かから遠ざかるように手足をバタつかせながら、その何かに目を向けた。

「吊り、革?」

 電車やバスの中にあるアレが、なぜか貫吾の視線の先にある。

「これにおつかまり下さい」

 吊り革の輪の上の部分、ストラップの所にメモが貼られていてそんな言葉が書いてある。

「つかまれば良いのか?」

 貫吾は手を伸ばし、吊り革につかまろうとしたが寸前で手を止めた。顔を上に向け、吊り革のストラップの先を見る。

「釣り糸、だよな?」

 船釣りで使う一メートルごとに印の付けられているPEラインがストラップの端に結び付けられていて、そこからずっと上に向かって伸びていた。

「俺は魚になったのか?」

 貫吾は念の為に自分の体を確認するように見る。手も足もちゃんとあり、鰭や鱗はどこにもない。

「だよな」

 貫吾は吊り革を指で突いてみた。途端に吊り革が凄い速度で上に向かって行く。

「はやっ。まさか俺を釣る気だったのか?」

 貫吾はまた周囲に目を向けた。不気味な巨大魚達が、心なしか最初見た時よりも近くを泳いでいるように見える。

「目の錯覚だよな?」

 ふっと視界の端に何かが下りて来る。

「うわっ」 

 最初に吊り革を見た時とまったく同じ挙動をしつつ、貫吾はその何かに目を向けた。吊り革だった。吊り革がまたそこにあった。

「食われますよ」

 メモが同じ位置に貼られていて、さっきとは違うそんな言葉だけが書かれていた。

「嘘だろ。まさか、そんな」

 ゴウッと水の流れる大きな音がしたと思うと、ラブカが大きな口を開けて迫って来る。

「☆▽×◎○△」

 貫吾は言葉にならない悲鳴を上げ、吊り革を両手でつかんだ。途端に体が上に向かって凄まじい勢いで引っ張られる。貫吾は絶対に放すまいと、吊り革をつかむ手に必死に力を込めた。ラブカが遠ざかって行く。追い駆けて来てはいたが、貫吾の方が圧倒的に速かった。ラブカの姿が小さな点になった頃、ピタッと吊り革が動きを止めた。貫吾は顔を上げた。古めかしい感じの木製の船底が視界に入って来る。

「つかまって下さい」

 女性の声が聞こえた。貫吾の顔の前に人の手が伸びて来る。貫吾はその手をつかんで引いた。かわいい悲鳴が聞こえ、貫吾の上に人が降って来た。もちっとした感触のお尻が貫吾の顔に当たる。

「お、おおお?」

「エッチスケッチワンタッチ」

 バシバシバシバシと、貫吾は蹴られ殴られる。

「古いな、おい」

 貫吾は思わずツッコミを入れつつも必死に両手を動かして相手の腕と足をつかんで止めた。

「放して下さい。この変態」

「放したらまた殴る気だろ?」

「当たり前じゃないですか。いきなり人のお尻に顔を埋めるなんて最低です」

「何言ってんだ。そっちが落ちて来て勝手に尻を俺の顔に押し付けたんだろ。最低なのはそっちだ」

「なんですって? もうあったまきた」

 相手が長い黒髪を振り乱して頭を動かした。ゴンっという鈍い音がし、貫吾の目の前に無数の小さな星が飛んだ。

「いってえぇー。ヘッドバッドかよ」

 貫吾は女性の手足から手を放し自分の額を押える。

「まいったか。この変態」

「なんなんだよお前。何がしたいんだ?」 

 貫吾は額をさすりながら、相手の方に顔を向けた。

「何がしたい? 何って」

 相手が黒い大きな瞳を向けて、じっと貫吾の顔を見つめて来る。貫吾も相手の顔を見つめ返した。

「じっと見るなこの変態」

 プイッと女性が横を向く。

「見てねえよ。変態変態ってうっせえな」

 貫吾は船の方に手を伸ばした。船べりにつかまって体を持ち上げる。

「ああっ。ちょっと、なに勝手に人の船に乗ってるのよ」

「これ、お前の船だったの? 誰も乗ってないから良いかと思ったよ」

 貫吾は船の上に立ち女性を見下ろしながらすっとぼける。

「感じわる」

 女性が船べりにつかまり船に上がろうとする。

「えい。えいっ。あれ? あれ? 上がれない」

「結構力がいるからな。明後日あたりに筋肉痛になりそうだ」

 貫吾は左手を自分の首筋に当てると軽く揉んだ。

「ねえ。それだけ? 普通はそう言いながら手を差し伸べるものだと思うのだけど」

 貫吾は女性の言葉を無視して、顔を巡らせて周りを見た。

「なんなんだここ。船の上なのに、まだ水の中みたいだ」

 船の上に立つ貫吾の周囲を魚が泳ぎ回っている。ただ、船の遥か下で見た魚とは魚の種類が違っていた。

「こっちはイワシにタイにカツオにサワラか。大きさも普通だな」 

「ねえ。ねえってば。手を貸して」

「自分で上がれ。お前の事なんて知ったこっちゃないんだよ」

「そんな事言って良いの? ここがどこで、自分がどうしてここに来たか知らなくて良いの?」

 女性が不敵な笑みを顔に浮かべる。

「どういう事だ? お前、何か知ってんのか?」

「船に乗せてくれたら教える」

 女性が手を伸ばして来る。貫吾はその手を握る。

「お前が教えたら乗せてやるよ」

「何よ。性格わるっ。乗せなきゃ教えないわ」

 貫吾は女性の手から手を放す。

「じゃあいい。ずっとそうしてろ。俺はこの船でとりあえずどっか行ってみる」

 貫吾は人が二人乗ればいっぱいになってしまうくらいの小さな船の中に視線を彷徨わせた。

「オールがないな」

「オールなんてないわ。進めって念じるだけで進むのよ」

「へえー。じゃあ進め」

 船が進み出す。

「おお。軽快だな。これならどこまででも行けそうだ」

「止めなさいよ。どこ行く気よ」

 女性が大声を上げる。

「お前、いたの?」

「いたわよ。本気でおいて行こうとしたの?」

 貫吾は船を止めると、船べりにしがみ付いている女性に目を向けた。

「ああ。お前、この変な場所の事知ってんだろ? だったらおいて行っても平気だろ?」

「何それ。人の船盗んでおいてどんな理屈よ。それに、どこまで行ってもずっとここはこんななのよ。あなたが一人で行っても永遠に彷徨う事になるだけだわ」

「永遠に彷徨う?」

「そうよ。ここはそういう世界なの。水の中の世界。果てはないわ。ずっとずっとずーっと水の中。そういう所よ」

「ふーん。そうなんだ。まあ良いよ。じゃあ永遠に彷徨うわ」

 貫吾は船を進める。

「待ちなさいよ」

 船が急に止まった。貫吾はバランスを崩し倒れそうになったがなんとか踏ん張って堪えた。

「いきなりどうしたんだ?」

「うふふふふ。操縦できるのはあなただけじゃないのよ」

「なんだと。進め、進め」

「止まれ、止まれ」

 船が進んでは止まって止まっては進んでを繰り返す。

「邪魔すんな」

「そっちこそよ。私にはやらなければならない事があるの。その為にはあなたが必要なのよ」

 貫吾はしばしの間何も言葉を出さずに女性の顔を見つめた。

「うるせんだよ。俺を巻き込むな。俺にだってやらなきゃいけない事があるんだ」

 貫吾は言葉を出してから、すぐに首を傾げしまった。

「うん? やらなきゃいけない事って何だっけ?」

「忘れてしまっているのよ。すぐに思い出せるかも知れないし、ずっと思い出せないかも知れない。私は知っているわよ。乗せてくれたら教えてあげるわ」

「だあー。思い出せねえ。凄く気になる。けど、お前の言いなりになるのは癪だ。自分で思い出して」

女性が突然短く悲鳴を上げたと思うと船べりから姿を消した。

「なんだ? どうした?」

 貫吾は船べりから顔を出し、下を見る。

「いない?」

 船の下に隠れていた女性が顔を出す。

「驚いた? 心配した? だったら早く船に乗せて。そうしないとそのうちに本当に食われてしまうわ。この船の下の水中は危険なのよ」

 貫吾は船の上に座り舌打ちした。

「やっといなくなったと思ったのにいたのかよ」

「本当に危険なのよ。ここで食われたらもう終わりなの。お願い。早く乗せて」

 女性が今までにない真面目な声を出す。

「知らねえよ。自分で上がれ」

 貫吾はあくまでも拒否する。

「どうしてそんなに、嘘。これ。駄目。助けて。お願い。早く」

 ゴンっと船底に何かが当たった音がした。

「またどうせ芝居だろ?」

 貫吾は座ったまま言葉を投げる。女性からの言葉は返って来ない。

「俺が見ると、また船の下から出て来る気だろ?」

 船の下から何か巨大な物が蠢く音が聞こえて来る。

「まさか」

 貫吾は立ち上がると船べりに飛び付いた。

「嘘だろ」

 ダイオウイカの触碗に巻かれた女性が下に向かって引かれて行く姿が見えた。

「何やってんだ」

 貫吾は船の上から飛び下りる。女性に向かって泳いで行く。

「おい。大丈夫か? 生きてるか?」

 貫吾は泳ぎなら声を張り上げる。女性からの声は返って来ない。

「ああ。もう。なんだよこの状況」

 ダイオウイカが貫吾に気付いたのか、もう片方の触碗が貫吾に向かって伸びて来る。

「捕まってたまるかよ」 

 貫吾は向かって来た触碗を間一髪で避ける。

「いたた。頭ぶつけたわ。いたたた。えええー!? 何これー! そうだわ。ダイオウイカが来て、私、捕まってしまっていたんだわ。あっ。何やっているのよ。あなたの所為よ」

 女性の声が聞こえて来る。

「大丈夫なのか?」

「大丈夫じゃないわ。このままじゃ食われる。なんとかしないと」

「なんとかってどうすりゃ良いんだ」

「ねえ、ひょっとして助けに来てくれたの?」

「何言ってやがる。そんな事言ってる場合じゃないだろ」

「言ってる場合なの。重要な事だわ」

「そうだよ。助けに来たんだ。これで良いだろ。とにかくこいつから逃げないと」

「どうしてもっと早く素直にならないのよ。そうすればこんな事にならなかったのに」

「知るかそんな事。お前、逃げる気あんのか? 何かしろよ」

「無理よ。こんなの相手に何かしても無駄だわ」

「諦めてるのか?」

「諦めてないわ。けど、どうしようもないでしょ」

「しまった」 

 貫吾も背後から襲って来た触碗に捕まってしまう。

「何やっているのよ」

「しょうがねえだろ。大体水中でこんなにでかいダイオウイカに人が勝てるはずがないんだ」

「諦めているのはあなたじゃない」

「諦めてねえよ。見てろ」

 貫吾は背中に吸い付いてる触碗を殴ったり蹴ったりした。

「駄目だ。びくともしない。それに動けなくなって来た。吸盤がくっ付いて来て……」

「吸盤がくっ付いて来て何よ?」

「この吸盤変だな」

「何が変なのよ」

「普通は棘があってこんな風に捕まったら傷だらけになるはずだ」

「ここは普通じゃないのよ。見れば分かるでしょ」

「そうだったな。くっそう」

 貫吾の手足は吸盤に吸い付かれまったく動かす事ができなくなった。

「どんどんイカの体に近付いて行くわ。あの大きさだと一口で食べられてしまうのでしょうね」

「そうだな。けど一口なら痛みは感じないんじゃないか。イカの口はカラストンビなんていって、鋭い嘴みたいになってるからな。噛まれたら相当痛いはずだ」

「嫌な事言うわね」

「悪かったな」

 女性が押し黙る。貫吾は手足を動かそうともがく。だが、吸盤に吸い付かれた手足はびくともしない。

「おい。黙ってないで何かしろ。そうだ。何か持ってないのかよ? ナイフとか包丁とか刀とか」

 女性があきれたという顔をした。

「あるわけないでしょ。あったらとっくにこのイカの足を切っているわ」

「そうだよな。ええとじゃあ他の物だ。おおっ」

女性と貫吾の間の貫吾よりをシーラカンスが貫吾の体をかすめるようにして泳いで行った。

「あれも私達の事狙っているみたいだわ」

「イカに襲い掛かってくれれば良いんだけどな。それか、あいつに何か」

 貫吾は吊り革の事を思い出した。

「おい。吊り革はどうした?」

「吊り革? ああ。あれならあるわよ。服のポケットの中」

「ラインも付いてるのか? というか、ロッドとかリールとかもあるのか?」

「ライン? ロッド? リール?」

「ラインは糸だ。それと、ロッドは釣竿で、リールは、えっと、釣竿と一緒に使う糸を巻く機械みたいなもんだ」

「あなた釣り好きなの?」

「昔好きだった。ていうか、そんな事はどうでもいいだろ。ポケットの中にある吊り革には糸は付いてるのか?」

「付いているわ。棒の先に付いている小さな糸巻に巻いてあるのだけど、どこまででも伸びるのよ。巻くのも簡単なの。糸巻部分を一度くるっと回せば後は勝手に巻いてくれるわ」

「あれだけの速度を俺を引いて出したんだぞ。それはあれか? 魔法のアイテムとかそういう物なのか?」

「そんな物だと思うわ」

「変な言い方だな。お前の物じゃないのか?」

「そんな事よりどうするのよ? 早くしないと食われるわ」

「そうだった。吊り革出せるか?」

「出せるわよ。ほら」

 女性が服のポケットから吊り革と小さな糸巻が先端に付いた棒を取り出した。

「その吊り革で、あのシーラカンスを釣るんだ。釣るって言ってもどっかに引っ掛けるだけで良い。あいつの力で引っ張られればこの吸盤から脱出できるはずだ」

「何よそれ。そんな事できると思うの?」

「やるしかないだろ」

 女性が不承不承といった体で糸を伸ばし吊り革を水中に漂わせ始める。シーラカンスがまた貫吾と女性の間を通って行った。だが、吊り革はどこに引っ掛からずに水中を彷徨っているだけだった。

「……。無理よ」

「こっちに向かって投げろ」

「何する気?」

「いいから投げろ」

「分かったわ」

 女性が糸車を一回転させると、吊り革がシュルシュルと女性の手元に戻って行った。

「投げるわよ」

「おう」

 女性が吊り革を貫吾に向かって投げる。

「意外とうまいな」

 吊り革がゆっくりと水中を漂い貫吾の顔の前に来た。

「はぐっ」

 貫吾は吊り革に噛み付いた。

「何しているのよ」

「にゃにって、手がつかへないふぁろ。ふぁからにゃ」

「それでどうする気よ?」

「こうふれふぁ引っ掛けられうはふ」

「危ないわ」

「やるしかないふぁろ」

「それはそうだけど」

 シーラカンスが向かって来た。貫吾と女性の間を通って行く。糸がシーラカンスの体に当たって引っ張られる。貫吾はすかさず噛んでいた吊り革を口から放した。吊り革の輪っかの部分がシーラカンスの鰓の一部に引っ掛かった。

「よし。その棒を放すなよ」

「きゃあああああ。いやああああ」

 バリバリバリと音がして女性の服が破けた。

「脱げた」

 吸盤に吸い付かれていた服だけを残して下着姿になった女性がシーラカンスに引っ張られどんどん遠ざかって行く。

「とりあえず放すなよー」

 貫吾は言ってからはっとした。

「しまった。自分の事、忘れてた」

 貫吾が捕まっている触腕の先端がダイオウイカの口に向かって曲がった。貫吾が近付くのをカラストンビがバクバクと動きながら待ち構える。

「ここで死ぬのか? 俺にはやらなきゃいけない事があるんだ」

 貫吾は言葉を出してから、また首を傾げてしまう。

「何をやらなきゃいけないんだったかな」

 カラストンビが迫る。

「死にたくない。なんとかならないのかよ」 

 貫吾は手足を動かそうとするが相変わらず吸盤が吸い付いていてびくともしない。

「本当に死ぬのかよ俺。こんなわけの分からない所でダイオウイカに食われるってどんな最期だよ」

 貫吾は自棄になって叫んだ。不意に視界が暗転する。激しい水流が起こり貫吾の体を翻弄する。

「おおおお!?」

 貫吾は暗闇の中を水流に激しく揉まれながら流されて行く。

「おおおお。おっ?」 

 ポンッと、シャンパンの栓を抜いた時のような景気の良い音がしたと思うと、貫吾は水の中から飛び出してヌメッとして柔らかく温かい何かにぶつかった。ぶつかってその表面をヌルヌルと滑るようにして落下して行き、またヌメッとして柔らかく温かい何かにぶつかる。

「うん?」

 しばらく待っても何も起こらないので閉じていた目をゆっくり開けて周囲を見ると、何やら赤色のヌメッとして柔らかく温かい何かの中に作られている空間の中いるようだった。

「うわー。これってあれか? ダイオウイカの腹の中とか、そういう事なのか?」

 貫吾は仰向けに倒れていたので立ち上がろうと思い腕を動かそうとした。

「あれ? なんだ?」

 腕が動かない。何かに吸い付かれ引っ張れているようだった。顔を腕の方に向ける。

「おお。触腕」 

 貫吾の腕と背中にはダイオウイカの触腕の先端部分だけが吸い付いていた。

「どういう事だ? 自分の腕ごと食うなんて事あるのか?」

 貫吾は首を傾げた。

「助けてー。誰か。助けて」

 首を傾げている貫吾の耳に幼い子供の声が聞こえて来る。

「今度はなんだ?」

「誰か。助けてー」

 声の聞こえて来る方向に貫吾は顔を向けた。赤色のヌメッとして柔らかく温かい何かの間に今いる所よりも細くて狭い通路のような物があるのを見付けた。

「あの女みたいなのがまた出て来るのか?」

 貫吾はとにかく立ち上がらなければと、また腕を動かそうとした。力を入れると今度はあっさりと腕が吸盤からはずれた。

「死んでから少し経ったからか」

もう片方の腕も吸盤からはずして立ち上がると背中にまだくっ付いている吸盤も取りはずす。ドサッと音がして、触腕の先端部分がヌメッとして柔らかく温かい何かの上に落下した。

「助けて。誰かー」

 声がまた聞こえて来た。

「なんだ? 良く聞けば随分と投げやりな感じだな。本当に助けて欲しいのか?」

 貫吾はそう言いながらも声のする方に向かって歩き出した。通路のようになっているヌメッとして柔らかく温かい何かの間をゆっくりと進んで行く。クネクネと曲がりくねっていたが、分岐などはなく一本道になっているようだった。

「助けて。誰かー」

 また声がする。

「近くなってるな。けど、本当は人なんて助けてる状況じゃないんだよな」

 足を止めずに進みつつ、ぶつぶつ呟いていると貫吾がこの通路のような所に入る前にいた場所のような広い空間に出た。

「人だ! 人がいる!!」

 先ほどから聞こえていた声が投げやりな感じから一変して驚きと喜びとが入り混じった大きな声になった。

「こんな所で、何やってんだ?」

 貫吾は声のした方に顔を向けて驚いた。

「捕まってるんだよ。もう、ずっと」

幼い子供がヌメッとして柔らかく温かい何かで作られた格子の中にいた。

「これ、牢屋、なのか?」

貫吾は幼い子供のいる所に近付く。

「僕はカン。おじさんは?」

「俺は、貫吾だ。そんな事より、どうして、こんな場所にこんな物があって、お前は捕まってるんだ?」

「そんな事より、おじさんはどうしてここに来たの?」

「お前、俺が聞いてんだろ」

 カンが瞳を潤ませて何かを訴えかけるように見つめて来る。

「まあ良い。ダイオウイカに襲われて、気が付いたらここにいた。何がどうしてこの良く分からない場所に来たのかはまったく分からない」

「そっか。それなら分かるよ。そのダイオウイカがこれに食べられたんだ。僕らは今、マッコウクジラのお腹の中にいるんだよ」

「なんだって?」

「マッコウクジラのお腹の中にいるんだってば」

「それは分かってる。そうじゃなくって、そんな事あんのかよ」

 言ってから貫吾はここが何が起きても不思議ではない所である事を思い出した。

「そんな事あるんだよ」

 貫吾は何も言葉を返さずにカンをまじまじと見る。肩に掛かるくらいの銀色の髪。貫吾の事を見つめている瞳の色は赤い。背の高さは百七十三センチある貫吾の腰に頭が届くくらい。服装はどこにでもいる子供が着るようなありふれた物を着ていた。

「お前、何者だ?」

「おじさん、何か、警戒してない?」

「捕まってるって言ってたよな? 何をしたんだ?」

 カンが拗ねたように唇を尖らせる。

「何って、何もしてないよ。ただ遊んでただけ」

「遊んでただけ?」

「うん。ここは水の中の世界だけど、他にも世界がたくさんあるんだ。僕はいろいろな世界に行って遊んでただけなんだ。それで怒られてこうなっちゃったんだ」

 カンが顔を俯ける。

「いろいろな世界? どうやって行ったんだ?」

「飛んで。雲に乗ったり、飛行機に乗ったり。トンボとか鳥に乗った事もあるよ」

「なんだそりゃ。無茶苦茶だな」

「おじさん。話は後でもできるよ。ここから出して」

 カンが上目使いで見つめて来る。

「駄目だ。まだ、お前の素性が分からない。出したら凶悪犯だったなんて事になったらたまらない」

「ええー? おじさんは僕を出してくれるはずでしょ。意地悪しないで」

「何言ってんだお前?」

「僕を捕まえた人が言ってたんだ。いつか、ここに男の人が来るって。それで、その人が僕を出してくれるって」

 貫吾はカンの顔をじっと見つめた。カンは真剣な表情をしている。嘘をついていたり、適当に話を作ったりしているとは思えなかった。

「その人って誰だよ?」

「神様?」

「神様?」

「たぶん。だって、僕より強いし」

「あきれて物が言えねえな。ここはなんなんだ? 何もかもがおかしい」

「おじさん。早く出してよ」

 貫吾はその場に座り込んだ。

「勝手な事言うな。俺はお前なんて知らない。自分で出ろ」

「ケチ。意地悪。ウンコ。オシッコ」

「はあ?」

「だって酷いんだもん。僕、ずっとずっと、一人で待ってたのに」

 カンがしゃがんで泣き始める。

「おいおい。なんだよ急に。泣く事はないだろ?」

「だって、ヒック。おじさん、ヒック。意地悪、ヒック。なんだもん」

 嗚咽交じりにカンが言葉を出す。

「俺だっていろいろあんだよ。いきなりこんな場所に来させられて、変な目にあわされて。記憶も何かおかしくなってるみたいだし。ここからだって出られるか分からないんだ。クジラのお腹の中ってどういう事だよ」

 貫吾も泣きたくなって来た。

「出したげる。僕をここから出してくれたらこのクジラのお腹の中から出してあげる」

 カンが顔を上げる。

「そんな事できんのか?」

「できる。この牢屋は特別製だから無理だけど、こんなクジラなんてすぐに殺せる。僕は強いんだよ」

 泣いていたのが嘘のように活き活きした口調でカンが言った。

「殺すのか?」

「うん。ズバッとお腹を切るんだ」

「殺す以外に方法はないのか?」

「じゃあ、口かお尻から出る」

「どっちもどっちだな。けど」

 貫吾は立ち上がった。

「楽しみだな~。出たら何をしよっかな~」

 カンが嬉しそうに歌うように言う。

「悪いな、カン。俺は一人で行く。また誰かが来るまで待っててくれ」

「えっ? おじさん?」

 カンが鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。

「元気でな」

 貫吾はとりあえず口の方を目指す事にし、道を戻ろうと歩き出そうとした。

「駄目。おじさん。ちょっと待って。見捨てられたら、僕死ぬ。自殺する」

 貫吾は踏み出した足を止めて、格子の方に顔を向ける。

「おかしな事を考えないで、今まで通り待ってろ。お前はいきなりクジラを殺すとか言う奴だぞ。悪いが信用できない」

「信用できないって、僕がおじさんに何かすると思ってるの?」

「そうだ」

 カンがあきれたという顔になる。

「おじさん。僕みたいな子供が怖いの?」

「怖い?」

「うん。だって、それって怖いって事でしょ?」

「馬鹿言え。怖いなんて事があるか」

「だったら出してよ」

「……」

貫吾は格子の前まで行った。

「駄目だ。出し方が分からない」

「なにその投げやりな態度。 おじさんが出してくれる人なんでしょ? しっかりしてよ」

「ひょっとして、俺じゃなかったんじゃないか? 別の人が来るとか?」

「こんな所に人なんて来ると思う?」

「俺が来ただろ。きっと来るはずだ」

 貫吾は踵を返す。

「タイム。おじさん。ちょっとタイム」

「タイム?」

「うん。そこでストップ。動いちゃ駄目」

 貫吾はカンの方に体の正面を向ける。

「なんだよ?」

「おじさんはさ。どうして、そんなに冷たいの? 普通だったら絶対に助けるでしょ? おいてなんて行けないよ」 

「そうか? 皆こんなだと思うぞ。じゃあな」

「待って待って。本当に行っちゃって良いの? 何か、おじさんの心の中にあるんじゃない? 記憶がどうとか言ってたよね? その事に関係あるとか?」

「関係? お前を見捨てる事と俺の記憶がか?」

「例えば、子供の頃に何かあったとか? 僕くらいの頃とかさ」

「お前くらいの頃?」

「うん。何か思い出してみてよ」

 貫吾は束の間黙考してから口を開く。

「馬鹿か。なんでそんな事しなきゃいけないんだ。お前に冷たいのは、お前の事がどうでもいいからだ。おいて行くのは出し方が分からないからだし、お前の命が今すぐに危ういってわけでもないからだろ。それだけだ」

 カンが格子の隙間から手を伸ばして来る。

「なんのつもりだ?」

「怖くないなら僕の手を握ってみてよ」

「どうして?」

「度胸試しかな」

「知るか」

 貫吾はまた踵を返そうとする。

「待って。最後のお願いだから。手を握ってくれたそれで諦める。ね?」

「何が最後のお願いだ」

 そう言いつつ貫吾は格子の隙間から出ているカンの手に近付いて行った。

「握れば良いんだな?」

「うん。おじさんって、優しいのか冷たいのか分からないね。変なの」

「余計な事言うと、何もしないぞ」

「うわっ。冗談だよ。冗談だから」

 貫吾はカンの手を握る。カンが貫吾の手をギュッと握り返して来た。

「結構力が、ある……」

 視界が不意に歪んだと思うと、瞬時に暗転した。

「ここは? どこだ? また、世界が変わったのか?」

 パッと視界が戻ると、貫吾は夕焼けに染まるどこにでもあるような児童公園の中にいた。

「わああああ。すーなーばー」

目の前にあった砂場に向かって一人の幼児が駆けて行く。

「なんだ、今度は」

 幼児は貫吾の存在にまったく気付かずに砂場で遊び始める。

「うん? あれは」 

 貫吾は幼児の顔を凝視する。

「急に駆け出して。転ばないでよ」

 貫吾の背後から女性の声がした。貫吾はその声を聞いて反射的に振り向いた。

「母、さん? 母さんなのか?」

 若い頃の貫吾の母親が砂場で遊ぶ幼児の頃の貫吾に向かって歩いて行く。

「だって、砂場なんだもん」

「貫吾。気を付けるのよ。暗くなって来てるんだから」

 母親が幼児の頃の貫吾の傍に行き、砂場で一緒に遊び始める。

「そうだ。そうだったな。母さんはいつも仕事で昼間いなかったから、仕事が終わると俺と遊ぶ為にこうやって夕方の公園に連れて来てくれてたんだ」

 貫吾の胸の中に母親への様々な想いが去来する。母親の事を思い出すのはいつ以来だろうか。そんな事も思いつつ、貫吾は吸い寄せられるように砂場に近付いて行く。

「夕焼け~小焼けの~赤トンボ~」

 母親が歌い始める。

「夕焼け~小焼けの~赤トンボ~」

 幼い貫吾も歌い始める。貫吾の目から涙がこぼれ落ちた。

「なんだよこれ。懐かしいな。母さん」

 涙で視界が歪み、何も見えなくなる。貫吾は手で両目を擦った。視界が戻ると、目の前にあった光景が変化していた。

「ごめんない。ごめんなさい」

 先ほどよりも大きくなった貫吾が母親に泣きながら謝っている。場所は母一人子一人で暮らしていた六畳半の広さのぼろアパートの玄関だった。

「ママは怒ってないわ。謝らなくて良いの。どうしていじめられた事ママに言わなかったの?」

「分かんない。ママがかわいそうだと思ったの。僕がいじめられてるとママが泣いちゃうって」

「貫吾」

 母親がしゃがみ子供の頃の貫吾を抱き締めた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

「謝らなくて良いの。相手の子に怪我をさせちゃったのは悪かったけど、貫吾はやり返しただけなんだから。先生もそう言ってたのよ。先にやったのは相手の子なんだから、貫吾は悪くない。悪くないのよ」

 母親が静かに泣き始める。

「くっそう。なんだよこれ。涙が止まらねえ。うちは母子家庭だったからな。図工の時間に両親の絵を描けって言われた時の事か」

 貫吾が目を擦ると、また光景が変化した。詰襟の制服を着た貫吾が、走って学校の正門から飛び出して行く。

「これ? あの時か? もうなのか? 母さん。母さん」

 貫吾は駆け出していた。中学生の頃の自分の背中を追い駆ける。必死の思いで駆けているうちに周囲の光景が変化した。貫吾は気が付けば病室の入り口の前に来ていた。

「貫、吾……?」

 貫吾が病室の中に入ると、ベッドの上に寝ている母が目を閉じたまま弱々しい声を出す。

「母さん?」

「ごめんね」

「母さん? あの時は間に合わなかったはずのに」

「母さん! 嘘だろ!? 母さん。母さん」 

 病室に駆けこんで来た中学生の貫吾が母の寝ているベッドに飛び付き、叫びつつ母の手を握る。貫吾はその光景を見つつ、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。

「母さん。俺に気付いてくれたのか? 最期なのに、死ぬ間際なのに謝るなよ。母さん」

 貫吾は床に頭を付けるように塞ぎ込み、慟哭した。

「おじさん。おじさん」 

 頭の上からカンの声が降って来る。

「おじさん。おじさんってば」

貫吾はその声に気付くと涙を慌てて拭いた。

「なんだ? どうした?」

 顔を上げると、目の前にカンがいた。貫吾とカンを隔てていた格子がなくなっていて、カンが心配そうな顔で見下ろしている。

「出られちゃった」

「お前、騙したのか?」

 貫吾は立ち上がる。

「騙してないよ。勝手にそうなったんだ」

「変な物見せやがって。俺に何をした?」

「何もしてないよ。けど、僕も見た。あれはおじさんの過去なんだよね?」

「だったらなんだ?」

「何か、寂しい事ばっかりだったね」

 貫吾はカンに背を向ける。

「馬鹿か。何が寂しい事ばかりだ。母さんは俺の事を本当に愛してくれてた。だから俺は、しっかり生きなきゃって思えたんだ。母さんの優しさがあったから、母さんが死んだ後も生きて来られたんだ」

「でも、おじさんは優しくないよね。冷たいし、意地悪だし、僕をおいて行こうとしたし」

 貫吾は振り向いた。

「なんだと?」

 カンがえへへへと笑う。

「嘘だよ。本当は優しいんだよね。でも、捻くれてる。どうしてそんなに捻くれてるの?

それってお母さんの事裏切ってない? いっぱい泣いてたし、お母さんに悪いと思ってるんでしょ?」

 貫吾は舌打ちをすると、再びカンに背を向ける。

「勝手に言ってろ」

 貫吾は歩き出す。

「待ってよ。僕も一緒に行く」

 カンが駆け寄って来て、貫吾の前に出る。

「こっちだよ。僕が出してあげる」

「そんな事頼んでねえ。ついてくんな」

 貫吾は早足になるとカンを追い越す。

「何してんの。僕より子供みたい」

「うるせえ」

「でも僕のが速いもん」

 カンが猛ダッシュする。あっという間にカンが貫吾の前に出て、更に先に行ってしまう。

「あのガキ」

 貫吾は足を止めると、くるりと回れ右をして、元来た道を戻り始めた。

「これであの鬱陶しいガキともおさらばだ」

 貫吾は呟きつつ、歩き続ける。

「あれ? あれ? おじさん? おじさんどこ?」

 はるか後方からカンの声が聞こえて来た。

「馬鹿め。今頃気付いたか」

 貫吾はほくそ笑みながら、更に進んで行く。

「おじさーん。おじさーん。迷子になったのかな。おじさーん」

 カンの声が追い駆けて来る。貫吾は無視して歩き続ける。

「おじさーん。ねえってば。おじさーん。どこなのー?」

不意に貫吾の脳裏にカンの手を握った時になぜか見えた過去の母親の面影が過ぎった。

「うわわわ。いったーい。転んじゃった。もう。はっ。でも、おじさんもどこかで転んじゃったりしたのかな? おじさーん。だいじょーぶ?」

 貫吾は足を止めた。

「おじさーん。どこー? おじさーん」

 貫吾は舌打ちをすると、大きな声を出した。

「こっちだ。口はやめだ。尻から出るぞ」

「なんでだよー。急に変えないでよ。探しちゃったじゃないか」

 カンの声が応じて来る。

「早く来い。おいてくぞ」

「待ってよ。すぐ行くから」

 しばらくすると、カンの姿が細てくねくねと曲がりくねっている通路のような所の陰から現れた。

「もう。おじさんの意地悪」

 カンが頬を膨らませながら貫吾の傍に来る。

「行くぞ」 

 貫吾は短く言葉を返すと歩き出した。

「ねえ。どうして、一人で行かなかったの?」

「何がだ?」

「本当は一人で行っちゃおうとしたでしょ?」

「そんな事聞いてどうする?」

「どうもしないよ。ただ、聞いただけ」

「だったら黙ってろ」

「ちぇー。やっぱりおじさんは意地悪だ」

 貫吾が何も言葉を返さないでいるとカンも何も言わなくなった。二人して黙々と柔らかく温かい何か、今はもうクジラの内臓の中だと分かっている、の中を進んで行く。

「おじさん。タイムタイム」

 貫吾の先を歩いていたカンが大声を上げながら足を止めた。

「どうした?」

 カンが足元を指差す。

「これ」

 貫吾はカンが指を差す先に顔を向ける。

「穴、なのか?」 

「せーかい。ここがお尻の穴だよ」

「本当か? こんな場所にか?」

 貫吾は顔を上げると、前方を見た。

「まだ先があるぞ。普通は腸の終わりにあるもんだろ」

「おじさん。僕と来て良かったね。このクジラは特殊なんだよ」

「特殊。確かに、お前みたいなのが内臓の中にあった牢屋にいたんだもんな。特殊だな」

「そうそう。ここはおかしな世界。なんでも受け入れないとやっていけないからね~」

 カンがいきなり穴の中に飛び込んだ。

「お、おい。大丈夫なのか?」

「おじさんも早く来なよ。滑り台みたいになってて面白いよー」

「意味が分からねえ。本当にここはなんなんだ」 

 貫吾はそう愚痴をこぼすと、目を閉じて、カンがやったように足から穴の中に飛び込んだ。

「おおおお」 

 思ったよりもかなりの速度で滑り降りて行ったので思わず上ずった叫び声が出てしまう。

「出口だ。やっほー」

 カンが嬉しそうに叫び、その声に続いて、ポンッと前に聞いたあの景気の良い音がした。

「おおおおお。おっ?」

 足先が何か柔らかい物に触れたと思うと、ポンッという音とともに、貫吾は水中に放り出された。

「おじさーん。おじさーん」

 カンが泳いで近付いて来る。

「出られたんだよな?」 

 貫吾は振り向く。

「うん。クジラが潜ってく」

 貫吾とカンの視線の先にはダイオウイカやラブカなどよりもはるかに巨大なマッコウクジラが悠々と泳ぎ去って行く姿があった。

「ははは。あいつ、お尻が痛いんだ。ちょっと泳ぎ方が変だもん」

 確かに、クジラの尾鰭の動きがどこかおかしかった。

「かわいそうな事したな。痔とかになってないと良いけど」

「痔って。けど、クジラの心配? 優しいね」

「うるせえ」

 貫吾は顔を上げると、上に向かって泳ぎ始める。

「待ってよ。僕も行く」

「お前、どこまでついて来る気だ。出られたんだから帰れ」

「帰る? どこへ?」

「家とかあるだろ」

「家なんてない」

「家族は?」

「家族なんていない」

「なんだそりゃ」

「おじさんについてく。どうせやる事もないし、行くとこもないから」

「来んな。俺はお前みたいなガキは嫌いなんだ」

「うわわ。いったーい。おじさん。足、足が」

 貫吾は咄嗟に泳ぐのをやめて振り向いた。カンが左足の足首の辺りを押えながら苦痛に顔を歪めている。

「知るか」

 貫吾は顔の向きを戻すと、泳ぎ出そうとした。

「おじさん。行っちゃうの?」

 カンが泣きそうな声を出す。貫吾は舌打ちを一つすると、カンの所まで泳いで行った。

「つかまれ」

「おじさん。ありがとう」

 カンが背中に抱き付いて来る。

「行くぞ」

「うん」

 貫吾は泳ぎ始めた。

「お前、この世界の事知ってんだよな?」

「どうして?」

「どこまで泳げば良いのかと思ってな」

「おじさんはどこに行きたいの?」

「どこに行きたい? 俺は」

 貫吾は一度言葉を切った。

「俺には、やらなきゃいけない事があったんだ。けど、それが何か、分からない」

「記憶が変だって言ってもんね。忘れちゃってるのかも。じゃあ、僕がいろいろな所に連れてってあげるよ。いろいろ見れば何か思い出すかも知れない」

 貫吾は小さく頭を左右に振った。

「足が治ったらどっかへ行け。お前みたいなガキのお守はごめんだ」

「えー。おじさん酷いよー」

 カンが大きな声を出した。

「うるせえ。とにかく」

「やっと見付けた。凄い探したのよ」

 カンの声よりも更に大きな声が貫吾の言葉を遮った。貫吾とカンは声のした方に顔を向けた。

「シーラカンス?」

 カンが巨大なシーラカンスを見て小首を傾げる。

「違う。背中だ」

 シーラカンスの背中に、女性がちょこんと乗っている。

「人が乗ってる。おじさんの彼女?」

「はあ? どうしてそうなる」

 シーラカンスがカンと貫吾の傍まで来て動きを止めた。

「何の話ですか?」

 女性がシーラカンスの背中から降りて二人に近付いて来た。

「服着てるじゃないか」

 女性があきれたという顔になる。

「危機を乗り越えて再会したのに最初の言葉がそれですか?」

「何々? 服脱いでたの?」

 女性がカンを睨むように見る。

「誰ですか? まさか、隠し子?」

「あのなあ。お前こそどういう事だよ。シーラカンスの背中になんて乗ってて」

「あの子良い子だったんですよ。私達を助けようとしてくれたんです」

 シーラカンスは女性に懐いているようで、女性の事を待つようにじっとしていた。

「俺も乗れんのかな」

 貫吾はシーラカンスに呼び掛けるように言った。シーラカンスがコクコクと頷く。

「おい。あいつ今頷いたぞ」

「そうなんですよ。人の言葉が分かるんです。賢いですよね」

 貫吾はシーラカンスの傍に行った。

「じゃあ、俺はこいつと行くわ。お前らは二人でどっか行け」

「おじさん何言ってんだよ」

「駄目ですよ」

 カンと女性が貫吾の傍まで来た。

「お前らといると面倒なんだよ」

「おじさんそういうのもういいよ。結局、優しくするんだからさ。わがまま言わないでよ」

「なっ。なんだと」

 貫吾が睨み付けると、女性が庇うようにカンの前に出る。

「まあまあ。相手は子供です。そんなに怒らなくても良いじゃないですか」

「お前は黙ってろ」

「お前お前って私はお前って言う名前じゃありません。アサというちゃんとした名前があるんですからそう呼んで下さい」

 アサがぴしゃりと言い放った。

「お、おう。けど、名前は今知ったんだぞ。しょうがないだろ」

 アサの迫力に気圧されつつ貫吾は言葉を出した。

「そうでしたっけ? 私、何も話をしてなかったですか?」

「俺に聞くな。自分で考えろ」

「もう。冷たい人ね」

 アサがプイッと横を向き沈黙する。

「おじさん。おじさん。あれに乗って良い?」

 カンがキラキラと瞳を輝かせてシーラカンスを見る。

「良いんじゃないか。気を付けて乗れよ」

「うん。ちゃーんと気を付けて乗るよ」

 カンが嬉しそうに微笑んだ。貫吾は舌打ちをして苦々しい顔になりつつ、視線を横にそらした。

「思い出しました。あなたが意地悪をして、私に話をさせなかったのでした。今から話しますから、ちゃんと聞いて下さい」 

 アサが急に大きな声を出す。

「お前、いや、アサ、大きい声を急に出すなよ。驚いたじゃないか」

「良いから黙って聞く」

「あ、ああ」

 アサの迫力に貫吾は思わず頷いてしまう。アサが咳払いを一つした。

「私はあなたを案内する為にここにいるのです。あなたは四つの世界を巡り、四つの試練を乗り越えなくてはなりません。一つでも失敗したり、途中で死んだりしたらそこでお終いです。すべてを乗り越える事に成功すればあなたは元の世界に帰れるのです」

「僕もその世界巡りに一緒に行って良い?」

 カンがシーラカンスに乗ったまま傍に来る。

「もちろん。というか、あなたの救出が第一の試練だったみたい。あなたが無事で良かったわ」

「そうなんだ。やった。おじさん。聞いた? 僕も一緒に行くからね」

「どうしてそんな事になってんだ? 何があった? 俺の記憶の事知ってるって言ってたよな?」

 無視されたカンが唇を尖らせる。アサが頷いた。

「あなたは階段から落ちて、現在意識不明の重体です。ここは生と死の狭間にある世界。生か死か、どちらに転ぶかはあなた次第なのです」

「階段から落ちて重体? 意識不明?」

「はい」

 アサの言葉が切欠となり失われていた記憶が間欠泉が噴き上がるように一気に脳内に広がった。

「そうだ。そうだった。俺は階段から落ちたんだ。思い出した。全部思い出したぞ。俺は殺そうとしたんだ。そうだ。やらなきゃいけない事だ。俺はあの女を殺さないといけないんだ」

 貫吾は記憶が蘇った嬉しさから興奮し、大きな声を出していた。アサがつまらなそうな顔をする。

「生き返ったらやりたい事がそれ?」

「お前、知ってたんだろ?」

「ええ。まあね。けど、本当にそれで良いの?」

「人を殺すのは良くないとか言う気か? やめてくれ。英子が殺されてから俺はずっと悩んでたんだ。復讐についてな。やっと覚悟ができて実行できたんだ」

「前にあなたの事が必要だって私が言ったのを覚えているかしら?」

「そんな事言ってたか?」

「言ってたのよ。私はあなたに生き返ってもらわなければ困るの。だから、もっと、ちゃんとした目標を持って欲しい」

「なんだそりゃ。くだらねえ」

「くだらなくない。あなたの方がくだらないわ。生き返ってやりたい事が人殺しだなんて。もっとちゃんと、しっかりしなさいよ」

「なんだと。大きなお世話なんだよ。お前に何が分かる? 俺が今までどんな気持ちで生きて来たか。大切な人を奪われた人間の気持ちがお前に分かるのかよ」

「自分だけが不幸だなんて思わないで。誰だって、悲しい事や辛い事の一つや二つ経験してるわ。だいたい、復讐って何? そんなのただの自己満足じゃない。事故で死んだ彼女がそんな事を望んでると思ってるの?」

「うるせえ。黙ってろ」

「何よ。何も言い返せないんじゃない。情けない男。最低だわ」

「お前から先に殺してやろうか?」

 貫吾はアサに近付く。

「やってみなさいよ。どうせまた失敗するわ」

「失敗なんかしねえよ。ここには階段なんてねえ。直接首を絞めるだけだからな」

 貫吾は両手を前に出す。

「どうぞ。締めなさい」

 アサが顎を上げて首を前に出した。

「良いんだな? 本当にやるぞ」

 貫吾は喉を鳴らして唾を飲み込む。

「早くしなさい。ビビってんじゃないわよ」

「この野郎」

 貫吾の手がアサの喉に迫る。

「おじさん。やめて」

 カンが貫吾の両手に飛び付いて来た。

「邪魔すんな。お前には関係ないだろ」

「関係ある。これから皆で旅するんでしょ。僕は行きたい。ずっとあのクジラのお腹の中に閉じ込められてたんだ。いろんな世界をまた見たいんだよ。お願い。喧嘩はやめて」

「うるさい。どけ」 

 貫吾はほんの一瞬躊躇ってから両手を動かしてカンを振り解く。

カンが弾かれるようにして、貫吾の手から離れた。カンの体をアサが抱き止める。

「子供に手を上げるなんて最低の屑ね」

「屑で悪かったな」

「二人ともやめて。喧嘩しないで」

 カンが泣き始める。

「カン。泣かないで。ごめんね。もう喧嘩なんてしないから」

 アサがカンの頭をそっと撫でる。貫吾はシーラカンスの方に顔を向けた。

「どこ行く気?」

 アサが尖った声で言う。

「付き合ってられるか」

 貫吾はシーラカンスに向かって進み始める。

「本当に駄目な男ね。失望しちゃいそうだわ」

 アサが溜息まじりに言う。貫吾はシーラカンスの背中に乗ろうとする。

「おおっ? あれ? なんだ? 何も、見えなくなった。どうした? 何が起きたんだ?」

 不意に視界が暗転し、貫吾は動揺する。

「しょうがないでしょ。言う事聞かないんだから」

 薄らいで行く貫吾の意識の端にアサのそんな声が引っ掛かって来た。


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