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最愛の人が住んでいた家だったとはいえ、そう毎日来るものではない。ましてや、三年前にその人は亡くなっているのである。二か月ぶりに訪れたその家は以前とはまったく変わってはいないように見えていた。門の前で足を止め呼び鈴の前に立ち、そっと呼び鈴の黒いボタンを押す。

「はーい。ちょっと待って」

 今はもういない最愛の人、英子の母親の声がすぐに聞こえて来る。

「お母さん。誰か来たんですか?」

 どこかで聞いた事のある女性の声が英子の母親の声のすぐ後に続く。玄関の引き戸が開かれる音がして、家の中から英子の母親が姿を現す。

「貫吾君。いらっしゃい。どうぞ入って」

「どうも。ご無沙汰してます」

 貫吾は母親の笑顔に恐縮しつつ頭を下げた。

「挨拶は良いから早く入って。うちの人も待っているわ」

「はい。じゃあ」

 貫吾は顔を上げた。貫吾の視界に一人の女性の顔が入って来る。

「えっと、あの、お邪魔してます」

 その女性が頭を下げる。

「お母さん。これは? どうして、この女がいるんですか!」

 貫吾は声を荒げた。

「今日はあの子の命日でしょう。それで来てくれて。折角だから一緒に食事でもって誘ったのよ」

 貫吾は女性を睨め付けながら口を開いた。

「許したんですか?」

「あの子と歳も近いでしょう。あれから三年になるけれど、毎日のように謝りに来てくれているわ。許すとか許さないとか……。どう言えば良いのかは分からないのだけれど、あの頃のような感情はもう持つ事はできないわ」

 貫吾は英子の母親の方に目を向けた。英子の母親は悲しそうな、寂しそうな、それでいてどこか安堵しているような何とも言えない表情をしていた。

「今日は帰ります。すいません。また連絡するんで」

 貫吾は体の向きを変えると、英子の母親に背を向けた。

「貫吾君」

「すいません。私、すぐに帰りますから」

 母親と女性の声が背中越しに聞こえて来る。貫吾はその声を無視して歩き出した。

「貫吾君。待って」

 英子の母親が大きな声を出す。

「お母さん。私が行きます。貫吾さんに謝ってそれで戻ってもらいます。お母さんは待っていて下さい」

 貫吾は舌打ちすると駆け出した。

「貫吾君」

「じゃあ。お母さん。また。お父さんによろしく言っておいて下さい。また来ますから」

「恭子さん」

「すいません。じゃあ」

 背後で恭子が駆け出したと思われる足音がし始める。貫吾は追い付かれまいと加速する。だが、悲しいかな、普段運動などはしていない三十路の社会人の駆け足の航続距離は驚くほどに短かった。

「すいません。走らせてすいません」

 息を切らせ足を止めた途端に、背後からそんな声がする。

「うるせえ。俺に話し掛けんな」

 貫吾は怒鳴る。

「すいません。すいません。けど、お母さんとお父さんが待ってます。行ってあげて下さい」

「話し掛けんなって言ってんだろ。この人殺しが」

「私はもう帰りますから。貫吾さんが戻ったのを見たらすぐに帰りますから」

「お前のいう事なんか聞けるか。ついて来んな」

 貫吾は歩き出す。目の前に駅通りまで続く長い下りの階段が現れる。

「お願いします。お父さん、楽しみにしてました。貫吾さん。行ってあげて下さい」

「馴れ馴れしいんだよ。何が、お父さんだ。自分が何をしたか忘れたのか?」

 貫吾は階段の直前で振り向く。

「忘れる事なんてできません。私は一生をかけて償っていくつもりです」

 恭子の目からは涙が流れ出ていた。貫吾は恭子の肩を掴んだ。

「俺はお前を殺したいと思ってる。お前が憎くて憎くてしょうがないんだ。……。決めた。今、ここからお前を落としてやる」

階段の方へ近付けるように恭子の肩を引っ張ろうとした。

「あっ」

 勢い余って足を踏みはずしたのか。それとも、滑ってしまったのか。貫吾はなぜか階段から足を踏みはずしていた。貫吾の体は階段の上を激しく転がりながら落下して行く。

「どうして? どうしてですか? 貫吾さん!」

 薄れて行く意識の中でそんな恭子の叫び声を聞いた気がした。


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