乱戦
「おい直枝、大丈夫か? 動けるか?」
明は直枝の方を向き、声をかける。
すると直枝は顔を上げて、こちらを向いた。その口の周りは、吐瀉物にまみれている。さらに顔色は青ざめており、生気が感じられない。
まるで死人のようだ。
「いいか直枝、お前はここに隠れていろ。俺たちは、奴らの情報を集めてくる。俺たちが戻ってくるまで、動くんじゃないぞ。万が一の時は、下手に抵抗せず俺たちの助けを待つんだ。俺たちが必ず助けるから。いいな?」
明の言葉に対し、直枝は弱々しく頷いた。こちらを見る目は虚ろで、ホラー映画のゾンビのようだ……。
彼女を一人残していくのは不安だが、かと言って連れて行くわけにもいかない。僕は、後ろ髪を引かれるような思いを感じながらも、その場を離れた。
明と僕は、姿勢を低くして慎重に出て行く。
外には人影がなかった。しんと静まり返っている。奴らはどこにいるのだろうか、と僕は思った。あれだけの騒ぎを起こしているのだ。いくらなんでも、気づかないはずはない。
なのに、なぜ誰も出てこないのだろう?
「明、どこに行くの?」
尋ねる僕。明は周りを見回しながら囁いた。
「さっき見たんだが、役場というか、集会所みたいな建物があったんだよ。そこには八人いたんだ。だが、そっちは後回しにする。今は、先に寄っておきたい場所があるんだ。お前に見てもらいたいものがあるんだよ」
そう言うと、明は慎重に動き出す。僕も、その後に続いた。
明は不意に、一軒の家の前で立ち止まった。さっきまで僕たちがいた物置小屋から、かなり近い位置にある家だ。恐らくは、二十メートルも離れていないだろう。家と言っても、人の住んでいる気配は全くない。家というより、廃屋と言った方が近いだろうか。あちこちに穴が空き、壁は腐りかけている。プロレスラーのドロップキックで崩れてしまいそうだ。
しかし、そんな建物であるにもかかわらず、人の出入りしているような雰囲気がある。他の場所と比べると、入口付近は小綺麗だ。
明は、その家に慎重に近づいて行く。
そっと扉を開け、僕を手招きする。僕は頷き、明の後から家に入って行った。
僕たちは暗い中を、慎重にゆっくり進む。壁や床は僅かにきしむような音を立てているが、まだまだ使えそうだ。外からの見た目とは違い、中は頑丈そうである。
低い姿勢で、僕の前を進んでいた明。だが、すぐに立ち止まった。
「やっぱりここだったか。翔、これ見ろよ」
明はそう言うと、部屋の隅に移動する。そして、床の上を指差した。
明の指差した位置には、布に包まれた大きな物が置かれている。よく見ると、それは人間だった。三人の人間が、床で仰向けになって寝ている。
その顔には、見覚えがある。上條、大場、芳賀の三人だったのだ。僕は一瞬、訳がわからなくなった。
こいつらは?
こんな所で、のんきに寝ているのか?
だが次の瞬間、僕は間違っていた事を悟る。三人とも、既に死体となっていたのだ。
全員、喉を切り裂かれていた。切り裂かれた部分は線のようになっており、傷口の周りは大量の血が固まっている。まるで、喉にもう一つの口ができ、さらに固まった血が口ひげの役割を果たしているかのようだった。
大場や芳賀は、苦悶の表情を浮かべたまま死んでいる。彼女らが死の間際に感じた恐怖は、未だに続いているのだろうか。
そして上條の死体は、大場や芳賀よりもさらに酷い状態だ。顔はあちこちがへこみ、ほとんど原型をとどめていない。鼻は切り裂かれた挙げ句にへし折られ、潰れた肉片がくっついているようにしか見えない。両方の耳たぶは消え失せ、ただ穴だけがそこにあった。
死ぬ前に凄まじい暴行を受けたのが、はっきりと見てとれる。その姿を見て、僕は思わず拳を握りしめていた。ただ殺すだけで、充分ではないのだろうか。何故、ここまでやる必要がある?
やはり、奴らは悪だ。
殺さなくてはならないんだ。
「おい翔、この状況を見るに……上條が、俺たちの事を奴らに吐きやがったんだよ。死んでからも使えない奴だ。だが、これではっきりした。ただ逃げるだけじゃ駄目だ。ここを上手くしのいでも、後で面倒な事になる」
いかにも不快そうな表情でそう言うと、明はその場に座った。僕も、その隣に腰かける。
その時、胸の内に不思議な思いが湧き上がってきていた。
僕は、上條も大場も芳賀も嫌いだった。そもそも学校のクラスメートだった時から、本当にうっとおしい存在だと感じていたし、バスの中でも非常にうるさかったのを覚えている。三人がどうなろうが知ったことではない、と思っていた……少なくとも、今までは。
だが、ここに横たわる三人の姿はあまりにも無惨であった。
三人を殺した奴らの目的が何であるかは知らないし、知りたくもない。だが、このやり口は酷い。
あまりにも、酷すぎる話だ。
その三人の死体を見ているうちに、ふつふつと暗い思いが湧き上がってきた。
そう、暗い怨念のような何かが……。
三人の死体を見つめながら、僕は心の中で彼らに誓った。
お前ら三人のことは、何も知らない。
はっきり言って、学校でのお前らは大嫌いだった。
でも、奴らはやり過ぎだよ。
僕は、お前らの事を忘れない。必ず、奴らを皆殺しにする。
奴らの仲間がいたら、探し出して殺す。
その家族も、僕が一人残らず殺してやる。
約束するよ……。
「翔、お前に二つ言っておく事がある。一つは、さっきお前を殺しかけた時のことだ」
不意にそう言いながら、明は僕の目をまっすぐ見つめる。今までと違い、その瞳には、感情らしきものの動きが見えた。
戸惑いながらも、僕は黙ていた。明の次の言葉を待つ。
すると、明は顔を歪めながら口を開いた。
「お前には、怖い思いをさせてしまった。本当にすまないと思っている。だが聞いてくれ。俺はな、お前にも戦いに協力してほしかったんだ。俺一人では、お前ら二人を守りきる自信はない。だから、俺はお前に恐怖を抱かせた。戦わなければ俺に殺されるかもしれかない、という恐怖をな。その結果、お前は実によく戦ってくれた。凄いよ、お前は」
「い、いや……」
僕の顔は熱くなっていた。明の口から、そんな言葉が出てくるとは想像もしていなかったのだ。僕は、嬉しさと照れ臭さとを同時に感じていた。
しかし、驚くのはまだ早かったのだ。続いての明の言葉を聞いた瞬間、僕は唖然となっていた……。
「だがな、俺にはお前を殺す気はなかった。信じられないかもしれないが、これが本音だよ」
えっ……。
殺す気はなかった?
そうだったのか。
驚く僕の前で、明は話を続ける。
「お前は、俺と親父とは関係ないと言ってくれた。明は明だ、とも。俺にそんなことを言ってくれたのは、お前が二人目だ。それを聞いた時、お前だけは死なせたくないと思った。お前と、生きてここを出ようと決めたんだ。だがな、さっきも言ったように俺一人では難しい。ああでもしなかったら、お前は戦ってくれなかっただろう」
確かに、その通りだ。僕は明への恐怖心があったからこそ、奴らと戦えた。
そして、二人の人間を殺した。
正直に言えば、あの時の明の仕打ちに対し、何とも思っていない訳ではない。わだかまりがないと言えば嘘になる。明の言葉と行動に対し、僕は心の底から恐怖した。失禁までするくらいに……。
しかし、あの時の恐怖がなかったら、僕は奴らと闘うことは出来なかっただろう。そう、闘うことへの恐怖を上回るものが明にはあった。だからこそ、僕は闘い生き延びられた。
客観的に見て、明の行動は正しかったのだ。
もっとも……それ以前に、僕には明を憎むことなど出来ないが。
明は話を続ける。
「言わなければならないことが、もう一つある。直枝の事だ」
「直枝の?」
僕が聞き返すと、明は頷いた。
「ああ。このままさっきの場所に置いておいたら、直枝は確実に奴らに見つかり殺されるだろう。どうするんだ?」
「どうする、って?」
「俺は、出来ることなら直枝を助けてやりたい。しかしな、今のあいつは完全に足手まといだ。直枝を見捨てる選択をすれば、俺たちはだいぶ楽になる。最悪の場合でも、俺たち二人だけは生きてここを出られる……後々、面倒になるのは間違いないが。それはともかく、お前の意見を聞きたいんだ」
直枝を助けたい?
それに、僕の意見って?
さっきまでの明からは、想像もつかない言葉だ。僕はとっさに返事ができなかった。
「親父は常々、情は己を殺し、非情は己を生かすって言っていた。俺は今までずっと、それを守ってやってきた。だから、俺は生き延びられた」
話し続ける明の表情に、変化が生じていた。先ほどまでの、怪物じみた雰囲気が消え失せている。下を向き、淡々とした口調で語る明の顔には、悩んでいるような表情が浮かんでいた。
「だがな、俺が日本に来て読んだ本の中に、こんなことを言ったキャラがいたんだ。甘さや優しさは強者だけの特権だ、ってな。今、俺はそのキャラみたいに行動してみたくなったんだよ。そうすれば、俺は親父とは違う生き方が出来るんじゃないか、ってな。俺は、キチガイ親父みたいにはなりたくないんだよ。だから俺は、直枝を助けてやりたい」
そこまで言うと、明は顔を上げた。そして、僕を真っ直ぐ見つめる。
「だが、そのためにはお前の協力が必要だ。翔、お前はどうだよ? 直枝を助けたいか? 足手まといの直枝を?」
ほんの僅かな間ではあったが、僕は考えた。
足手まといの直枝を助ける、それは言葉で言うほど簡単ではない。奴らは殺人鬼の集団だ。一方、こちらは二人である。厳しい闘いになるのは間違いない。
だが、僕は直枝に助けてもらったのだ。
それに、さっきの直枝との会話……あんな風に他の生徒と話したのは、初めてではないだろうか。僕はあの時、直枝に何かを感じたのだ。それは恋愛感情ともまた違う。
やっと出来た、友だちになれるかもしれない人を失いたくない。
僕も、直枝を助けてやりたい。
「明、直枝を助けよう。そして、三人でここから帰るんだ。奴らを片付けて、さっさと家に帰ろう」
そう、僕は家に帰りたかった。
一万円の小遣いにつられて修学旅行に参加してみたが、気がついたら修羅場にいた。まるで、知らないうちに異世界に迷いこんでしまったかのように。
しかし、これは現実なのだ。バスの事故で、大勢の人間が死んでしまった。皆それぞれ、自分の人生を生きていたはずなのに。
そんな大事故を何とか生き残った六人のうち、三人が奴らに殺されてしまった……いとも簡単に、理由も分からぬまま死んでしまったのだ。これ以上、誰にも死んで欲しくない。
あのクズ共に、直枝を殺させたくない。
「いいだろう。だが覚悟しておけ。楽な闘いにはならないぞ。俺も出来る限りのことはする。しかし、お前も闘うんだ。闘って直枝を守るんだ。いいな?」
明の言葉に、僕は頷いた。
明は慎重に、入ってきた扉を開ける。扉を開けたまま、しばらく外の様子を窺った。
しかし、誰もいない。僕と明は、さらに念入りに周囲を確認する。暗闇に目を凝らし、耳をすませた。
その時、僕の目は歩いてくる何者かの姿を捉えた。革ジャンを着ている中肉中背の男だ。たった一人で、直枝の潜んでいる小屋に近づいている。
暗くてよく見えないが、武器は持っていないようだった。
僕は思わず首を捻っていた。おかしい。さっきは、ボクサーと力士という強者のコンビが僕たちを探しに来たのだ。
なのに、あの男はたった一人でやって来ている。しかも、何の緊張感もない。表情までは分からないが、その動きはスムーズだ。周囲を警戒する様子がまるでない。あの力士とボクサーでさえ、少しは警戒しているような素振りがあったのに。
あいつは、いったい何者なんだろうか。ひょっとしたら、本物の軍人なのかもしれない。
その時、明が小声で囁いてきた。
「翔、あれは恐らく囮だ……俺たちを罠に掛けるためのな。うかつに近寄ったらヤバいぞ」
「じゃあ、どうする?」
「だがな、あいつを放っておいたら直枝が危ない。仕方ねえ、俺が行くよ」
「えっ、行くってどういう事?」
僕の問いに対し、明は不敵な笑みを浮かべた。そして、僕の肩を軽く叩く。
「あえて、奴らの罠に乗ってみる。俺が行くから、お前はここで様子を見てろ」
明の声は、自信に満ちていた。この得体の知れない状況にも、怯んでいる素振りがない。
やはり明は最強だ。
だからこそ、ここは僕が行かなくてはならない。
「いや、僕が行くよ」
「何だと!?」
驚愕の表情を浮かべる明……だが、僕は立ち上がった。
「明に万が一の事があったら、僕たち三人は終わりだよ。だから、僕が行くのが一番いい。何かあったら、君が直枝を助けてくれ。そして、僕の代わりに奴らを潰してくれ」
「おい! ちょっと待てよ! お前、何を考えているんだ――」
返事も聞かず、僕は歩き出した。
外に出ると鉈を構え、静かに近づいて行く。
僕はこの時、妙に冷静だった。明の言葉を聞きながら、素早く考えたのだ。もし明が罠にかかったとしたら、僕に助けられる自信はない。その場合、僕も直枝もおしまいだ。
しかし、僕が罠にかかったとしても……明なら、僕を助けられる。直枝を連れ、逃げることも出来る。
もっとも、理由は他にもあった。僕の中に生まれつつある、ドス黒い凶暴な何か。その何かが、僕を急き立てたのだ。
早く奴らを殺せ、と。
僕の足音に気付き、男は振り向いた。
そして、ニヤリと笑う。
「引っ掛かったな、クソガキが」
男が言うと同時に――
周辺に隠れていた、別の男たちが姿を現した。
だが、僕はそんなものは見ていなかった。目の前の男に、鉈ごと体当たりを喰らわし――
そのまま、直枝の隠れている物置小屋へと突っ込んで行ったのだ。
予想通り、男は防刃ベストを着ていた。そのため、鉈の刃は刺さらない。
だが僕の体当たりで男は吹っ飛び、小屋の中で倒れる。
おそらく、僕が切りかかってくるものと思っていたのだろう。男は驚愕の表情を浮かべながら吹っ飛び、そして倒れる。
僕を体の上に乗せたまま――
だが、僕は止まらなかった。考えるより先に、体が動く。馬乗りになった体勢で、男の喉に鉈を振り下ろした。
と同時に辺りを見回し、他の男たちからの攻撃に備える。
だが、その必要はなかった。他の男たちは四人いたが、その全員の注意が明ひとりに集中していた。僕の事など、誰も注意していない。無論、向かって来るような素振りすらない。
その状況を確認した僕は、下でもがき苦しんでいる男の喉に、もう一度鉈を降り下ろした。
大量の血が流れ、肉を切り裂いた感触が伝わってくる……。
男の命が抜けていく瞬間が、はっきり分かった。
だが、余韻にひたっている暇などない。明はたった一人で、四人を相手にして闘っているのだ。すぐに助けなくてはならない。
僕は、鉈を手に立ち上がる。外にいる男たちの一人に斬りかかって行った――
・・・
「引っ掛かったな、クソガキが」
接近していく翔に気づいた男が、ニヤリと笑う。
と同時に、物陰や周囲の建物の陰に隠れていた男たちが姿を見せた。そして一斉に行動を開始する。全員、翔に襲いかかって行こうとするが――
その時、明は表に駆け出して行った。
相手は四人だ。全員、何かキラキラ光る物を持っている。間違いなく武器であろう。ただし、誰も銃器の類いは持っていない。うち一人が、ボウガンを持っているだけだ。
それならば、何も怖くない。今までやってきた通りに、仕留めればいいだけの話だ。
明は、まずボウガンの男に突進する。
ボウガンの男は、不意の明の登場に対し完全に意表を突かれていた。慌ててボウガンを構える。だが、矢を込めていないことに気づいた。慌ててセットしようとする。あまりにも、お粗末な動き……間違いなく素人だ。
しかし、明は容赦しなかった。弾丸のような速さで、足元に滑り込む。全体重をかけたスライディングキックを、男の膝に見舞う――
明の足刀が、矢を込めようと四苦八苦していた男の左膝に炸裂する。
次の瞬間、鈍い音とともに、あり得ない角度に足が曲がっていた。明の蹴りにより膝を砕かれたのだ。男は激痛に耐えきれず、悲鳴をあげながら倒れる。
だか、明の動きは止まらなかった。男の手からボウガンを蹴り飛ばすと、その場から前転して素早く立ち上がる。
立ち上がった明に、今度は警棒のような物を持った男が突進してきた。何やら喚きながら、凄まじい形相で殴りかかる。
しかし、明は怯まない。先ほど膝を砕かれ倒れていた男を、無理やり引き上げて立たせる――
自身への警棒の一撃を、その男の体で受け止めた。敵の体を盾代わりにしたのだ。直後に、凄まじい悲鳴があがった。
だが、明は動き続ける。盾代わりにした男の体を、警棒の男に叩きつけた。
と同時に、男の警棒を握っている右腕を自らの両手で掴み押さえ込む。無駄がなく、かつ自然な動きだ。時間にして僅か二〜三秒であろうか。
その直後、男の手首に下方向の力を加え、同時に肘関節に上方向への力を加え、一瞬のうちに肘関節を破壊する。アームバーと呼ばれている関節技だ。
男は悲鳴をあげ、警棒を落とした。明は肘を極めた体勢のまま、その男の体を振り回す。
その瞬間――
長いチェーンのような物を持った男が、明に突進して行った。明めがけ、チェーンが振り下ろされる――
だがチェーンが当たったのは、先ほどまで警棒を振り回していた男の体であった。明はまたしても、敵の体を盾代わりにして攻撃を受け止めたのだ。父から教わった戦法の一つに、複数の敵と闘う時には、敵の体を上手く盾代わりにする……というものがある。明は今も、それをきっちり実践していたのだ。
明は男の肘を極めていた両手を離し、右手で警棒を持っていた男の喉を掴む。その直後、一瞬で握り潰す――
と同時に、新手の男に左手で払うような目突きを見舞う。
確かな手応えを感じた。眼球に指先が当たり、男は苦痛に顔を歪める。目を押さえ、よろよろと後ずさった。
その時、別の悲鳴が明の耳に飛び込んで来た。明は顔をしかめ、そちらに視線を移す。
すると翔が、最後に残った男に斬りつけているのが見えた。相手の返り血を全身に浴びて、地獄の悪魔のような容貌になっている。
そんな姿で、男に斬りつけていた――
それを横目で見ながら、明は目の前にいる男の髪を掴んで引き寄せる。強靭な腕で首をねじり、脊髄を破壊した。
明は死体となった男の体を、その場に放り出す。
そして、翔のそばに近づいて行った。
翔の闘いを手助けするためではない。彼の暴走を止めるためだ。
・・・
僕は鉈を振り上げ、目の前にいた男に向かって行った。
すると、男の顔が恐怖に歪む。だが、僕は首めがけて斬りつけた。
鉈は、男の首に深くめり込む。
しかし、僕はすぐに鉈を引き抜いた。いざとなると、人間は簡単には死なないのだ。だから、動かなくなるまで攻撃を続けなくてはならない――
僕が鉈を引き抜いた瞬間、男の首からは大量の血が迸った。すると男は、言葉にならない悲鳴をあげながら傷口を押さえる。
そして、許しを乞うように片手を前に差し出した。
だが、僕は攻撃を止めない。男を斬った。斬って斬って斬りまくった――
そう、こいつは極悪人なのだ……上條と大場と芳賀を、無惨な死体に変えた集団の一員なのである。放っておけば、また何人もの罪もない人間を殺すだろう。
今の僕は正義であり、目の前の男は紛れもない悪である。だからこそ、殺すのだ。
いや、僕が殺さなければならないんだ。
死んでしまった三人のためにも。
明を助け、直枝を守るためにも――
「おい翔! そいつは死んでる! もう止めろ!」
どこからか、明の声が聞こえてきた。その声のお陰で、僕はようやく我に返る。そして手を止めた。
ふと気がつくと、顔も手も血まみれだ。一方、男は足元で死体と化している。さらに周囲には、他の死体も転がっている。
僕は男の着ていた服をはぎ取った。それで、自分の顔についた血を拭く。さらに、鉈の刃にこびりついた血と脂を拭う。
その時、何者かの射るような視線を感じた。
その視線の方向に顔を向けると、そこには明が立っていた。厳しい目付きで、僕の行動をじっと見つめている。
「おい翔……お前、本当に大丈夫なのか?」
明はポツリと、呟くかのような口調で言った。その表情は険しいが、僕を案じているようにも感じられる……僕は笑みを浮かべて、頷いて見せた。
「うん、僕は大丈夫だよ。それよりも、直枝の様子を見てくる。ここにいたら危ないかもしれないし」
そう言って、僕は小屋の中に入って行った。
直枝は、さらに痛々しい顔になっていた。表情は青白く虚ろで、目には力がない。
だが僕たちの顔を見て、安堵の表情を浮かべる。
「無事だったんだね、二人とも……良かった……本当に良かった……心配してたんだよ……」
その言葉を聞いた時、僕の胸に不思議な感情が湧き上がった。先ほどまで、僕の心を支配していたものとは真逆の何かだ。
その時……僕は生まれて初めて、他人の存在をいとおしいと感じたような気がする。
「二人とも、帰って来てくれないかと思ったんだよ……本当にありがとう」
直枝はそう言った直後、下を向き、肩を震わせた。
その瞳からは、大粒の涙が零れ落ちる。口からは、すすり泣きの声が洩れた。
「なんで……なんで……こうなっちゃったのかな……なんで……こんな事に……あたしたち、なんか悪いことしたのかな……」
言いながら、直枝は泣き続ける。その嗚咽は、しばらく続いていた。
だが、僕には何も出来ない。明も同じだった。こんな時に、どのような言葉をかければいいのか分からない。直枝の心からの問いかけに対し、僕たち二人では答えを出せなかった。
その本当の答えを知っているのは、奴らだけなのかもしれない。
だからこそ、ケリを付けなくてはならないのだ。
僕はそっと、自分の血まみれの手を拭いた。
だが、いくら拭いても綺麗にはならなかった。
相手の流した血で、真っ赤に染まってしまったままだった……。